それからしばらく、単調な、もしかしたら彼女にとっては絶望的な日々が続いた。
朝起きると、ひたすら初級ソードスキルを交えて型稽古を行う。やがて彼女が部屋に迎えに来るので、彼らの部屋を訪ねて、一緒に外へ。NPCの店でできるだけ安い食事を見繕って、できるだけ他愛ない話をしながら、宿に帰って食べる。食事を済ませると僕は自室に帰って、再び型稽古。夕食時にはまた彼女に誘われるので、その日の買いだめ分を持ち込んで、一緒に食事。食事を終えると、また部屋に帰って、型稽古。夜遅くなると、たまに彼女が訪ねてきて、他愛のない話をして、帰ってゆく。その度に、僕は部屋の灯りの消し方を訊き忘れて、明るい部屋で眠る。彼女が来ない日は、深夜までひたすらに型稽古だ。
宿屋とパン屋。安物のパンと酸っぱい水。狭い自室と軋むベッド。当たり障りのない会話。食器のナイフと、ソードスキル。彼らの空元気。彼女の空元気。そういったものが、ひたすら繰り返された。
最初にそれが起こったのは、五日目、彼らと昼食をとっているときだ。
そのとき僕は、ダッカー君が学校のITの授業中に際どい女の子のイラストを彩色しているところを教育実習生のお姉さんに見つかったという話を、ケイタ君が面白おかしく喋っているのを聞きながら、一コルで買える硬い黒パンをもしゃもしゃ食べている途中だった。
香辛料が練り込まれているらしいピンク色のフランスパンもどきを片手に、当時のダッカー君が慌てふためいてお姉さんにいいわけする様子を、モノマネを交えながら説明していた彼が、突然、青い光に包まれて消えた。宙に取り残された食べかけのパンが軽いパサついた音を立てて足元に落ちても、それからたっぷり五秒間も誰も口をきけなかった。それまでそこにいて、食べ物を口にし、声を発して喋り、動いていた人物が突然消えるという現象が、その唐突さとあまりの素っ気なさが、肌にくる恐怖を掻き立てた。こういうことがあると事前に話し合われていたにも関わらず、僕らのなかの誰も、反応らしい反応を返せないでいた。
五秒後、彼女が高く長く大きな叫び声を上げて、おかっぱ頭を振り乱しながら、それまでケイタ君が座っていたあたりのシーツをガリガリと引っ掻き始めて、それでようやく止まっていた時間が動き出した。僕は必死に彼女の肩を抱いて、だいじょうぶ、だいじょうぶと、何度も繰り返しいって聞かせた。ダッカー君が彼女の正面に跪いてその手を握り、回線が切れただけだって、すぐ繋ぎ直すはずだって、と続けた。あー、あー、と叫びともえずきともつかない声を上げながら、僕の腕の中でガタガタ震えていた彼女が、五分くらいした後に続けて消えて、僕の腕が、ダッカー君の手が空を掻いた。ダッカー君は空っぽの自分の手の内を呆然と眺めて、尻からへたり込んで、それから僕を、太平洋で漂流三日目の遭難者が朝日を眺めるみたいに見ながら、だいじょうぶだよな、と訊いてきた。僕はだいじょうぶだよ、と答えた。それはもしかしたら自分にいい聞かせていたのかもしれないけれど。さっき自分でいってたじゃないか、今きっと病院に運んでるんだよ。介護態勢が整ったんだ……。テツオ君が、二人は家が近いからきっと一緒に運ばれたんだ、心配要らないよ、とつけ加えた。ササマル君が黙ってダッカー君に寄り添って肩を抱いた。
それから一時間くらいして、消えたのと同じ唐突さでひゅっとケイタ君が戻ってきた。少し遅れて、彼女の回線も繋ぎ直されたらしく、彼のすぐ傍に現れた。彼女は近くに戻ってきていたケイタ君を見て、少しだけ泣いて、ケイタのばか、と何度も繰り返して、彼は別になにも悪くはないけれど、何度もごめんと謝っていた。
みんなの食べかけのパンは、途中で耐久値がなくなってしまったとかで、消えてしまった。
僕はなんとなくその日は自分の部屋に帰りそびれて、ダッカー君が続けて消えてから戻ってくるまで一緒にいた。そのままみんなで夕食を食べてから、やっと自分の部屋へと帰って、型稽古を続けた。
その翌日に、やはりササマル君とテツオ君が消えた。彼女は誰かが消える度に落ち着かない様子だったけれど、今のところ、誰もなんともなく、きちんと戻ってきていた。
僕は六日目の真夜中にこっそり宿を抜け出した。回線切断は、初め心配していたほど危険なものではないとわかったし、どうしても確かめたいことがあったのだ。
街の中心、黒鉄宮。かつて死者蘇生の間だった、僕がディアベルと最後に別れた、あの場所。
チュートリアルの前、僕は死に、ここで生き返った。
今はどうだ。死んだプレイヤーは本当に生き返れないのか。
「なんだ、あれ……」
大理石に囲われた冷たい薄闇に浮かび上がる、巨大な長方形の影。近づく。一歩進む度に、寒気が増す。
鈍く冷たく妖しく光る、黒く巨大な鉄塊だった。近寄ると、視界を覆い尽つくしてしまうほど大きい。びっしりとなにかの英字が彫り込まれている。名前? 指先で触れると、不気味なシステムタグが浮かび上がった。
曰く、【Living Stone】。生命の石。いや、碑?
僕が理解に苦しんでいると、突然、カアン、と高く澄んだ金属音が響いて、驚いて跳び退いてしまう。視線をやると、文字の一点が発光していた。正確には【Kitaro】という文字列の横腹を掻っ切るように引かれた打ち消し線が、焼けつくように紅く光っていた。下に、箇条書きの文章が浮かんでくる。
イトスギの月 12日 01時13分 高所落下
なんだこれ……、なんなんだこれ。
突然、「オワァ?!」という胴間声と共に、誰かが割り込んだ。
僕よりは背の高い、頭に真っ赤なバンダナを巻いた人影は、発光する二重線に慌てて指先を這わせると、急に安心したように息を吐いた。「人違ェか……」と、呟き。
やがて線の輝きは失われた。
「あの……」僕は恐るおそる声をかけた。
「お? あぁ、ワリィワリィ、脅かしちまったか」
ギョロついた金壺眼を細めて慌てたように笑う彼に、僕は慎重に問うた。
「あの、これ、なんですか……」
「ん? ああ……」
と、彼は闇の中で血の色に映えるバンダナの上から、片手で頭を掻いた。いい難そうに、
「お前さん、ここ来んの初めてか」
「はい」
「こりゃプレイヤーの名前だよ。死んだ奴の名前にゃ打ち消し線が入る仕様だ」
「……その人、たった今、死んだってことですか」
彼は唇の端を噛んで、「ああ」と唸って肯定した。
わかりやすいシステムだった。悪趣味と取るべきか、親切と取るべきか。
「高所落下っていうのは……」
「……死因だよ」
彼はそこで一呼吸入れて、なにかを迷う素振りを見せたので、僕は続けて問うた。確かめずにはいられなかった。
「どこから、落ちたんです……」
「街の、南の端っこの、テラスだ。……いや、見たわけじゃねえからわからねえけど」
その場所なら知っていた。初日のチュートリアル前、見た。
どこまでも広がる空と雲海が拝める、綺麗な場所だった。
間違って落っこちるような所じゃない。
「……自殺」
「たぶんな……」吐息混じりの声。
僕は改めて碑の名前を見渡した。打ち消し線の入った名前はそこかしこに散見された。全員で一万人だから、五百人は死んでいそうだった。様々な種類の死因が並んでいる。【牙属性ダメージ】【酸属性ダメージ】【打撃属性ダメージ】……戦闘で、死んだのか。
戦って死んだ奴がいる。そう思うと、心臓が落ち着きなく高鳴った。
こんなに死ぬのか。一週間で。
高所落下の記述も、ぽつぽつ。
僕が言葉を失っていると、男は解説を続けてくれた。
「最初の頃にな、ゲームオーバーになればシステムから切り離されて、現実に戻れるんじゃねえかっていいだした奴がいてよ。それから、ポツポツな……。たくよぉ、そんな簡単に脱出できんなら、今頃全員ログアウトできてるっつの」
「……堪えきれなかったのかな」
「あん?」
と、眉をひそめて彼。僕は我に返る。
「あ、いえ、どうもすみませんでした。答えづらいことを訊いてしまって……」
「いや、いいけどよ。お前だいじょうぶか……? 顔色ワリィぞ。もし行くあてがねえんなら、オレのパーティ、来るか……」
「いえ、それは結構です。ご親切に、ありがとうございました」
「ああ、気にすんな。ダチの無事がわかったんで、オレゃあもう出るが……、気ぃつけろよ。妙な気、起こすんじゃねえぞ」
「ええ、どうも。貴方もお気をつけて」
僕は彼にお辞儀してその姿を見送ると、ため息。碑にもたれて座り込んだ。
アルファベット順の名前、Dのあたりを仰ぐ。
【Diavel】の名が、生きて僕を見下ろしていた。
彼は今、どうしているんだろう。