そして翌日。僕の回線だけが切断されないまま、七日目の夜を迎えた。
この安宿のベッドには気の利いたバネなんか入っていないようで、背中から薄っぺらい敷布団越しに、ギシギシと軋む木枠の一つひとつの形まで感じ取れた。
ボロみたいなシーツに包まって、何度も寝返りを打つ度に、その木材の悲鳴が僕の意識まで軋ませて眠りを遠ざけた。
目を開く。
一瞬、真っ白い闇がどこまでも続いているような気がしてぞっとするが、数度の瞬きを繰り返すと、そこが、四隅にある素っ気ない照明に照らされた、立体的な直方体の内側であることがわかる。その辺や面が壁と天井で構成されていることを確かめて、息を吐く。なんの変哲もない、宿の個室だ。ああ、ほんとにどうやってあの灯り消すんだろう。昼間誰かに訊いておくべきだった。なんでいつも忘れるんだ。
体を起こしてベッドの上にあぐらをかいて座り、あたりを見回す。
自分の目で―――正確には自分の脳味噌で、くすんだクリーム色の壁と天井と、木目の荒い板張りの床と、それから、かざした両手を確かめる。握って、開いて、握って、開いて。
これは本当に僕の拳だろうか。
この架空の身体の実感の乏しさが僕をずっと悩ませている。
眠りから覚めて一晩越す度に違和感は増していた。食べても眠っても抜けない奇妙な怠気も、ここ二日ほどで限界に達していた。もう型稽古を繰り返す元気もなかった。
不安を少しでも抑えたくて、数度の深呼吸を試みる。
へその下に左手の指を二本、揃えて添えて、胸には右の掌を押し当てる。ゆっくりと鼻から吸い込んで、背筋に空気を流し込む想像を固める。それから腹の底と胸の奥を遣って、溜めた呼気を抑えながら慎重に吐き出し――信じがたい違和感に突き当たった。
腹も胸も、息を吸っても全く膨らまず、吐いてもへこまない。背骨の周りには底冷えのする虚無が広がるばかりで、現実で僕を支えた頼もしい抗重力筋の面影は欠片もない。
張り詰める筋肉が、脈動する血の流れが、頭を傾ける度に三半規管が伝えてくれる重力が、稼動する関節の軋みが、なによりも痛みが、この電子の身体には足りない。
ふと思い立って、左の二の腕を思いきりつねってみる。なんとなく圧迫されている感覚があるものの、神経を伝って背骨を抜け、頭蓋の内側を塗り潰すあの懐かしい感触は影も形もありはしなかった。痛くない。痛くないのだ。
ここで生きている僕は偽物で、現実に横たわっている僕こそが本物なのだという意識が、ずっと消えなかった。いや、実は本当の僕はとっくに脳味噌を焼き切られて死んでしまっていて、あのクソッタレなヘルメットに読み取られた意識だけがデータとして生きている振りをしているだけなんじゃないのか。だったらこの僕に意味なんてないんじゃないのか。
そんな想いが頭のなかをぐるぐる回って、胸の内を締めつけて、どうしようもなくなってくる。これだ。この感覚に堪え切れなくてきっとみんな飛び降りたのだ。街の南の端から、この世界の黄昏から、どれだけ目を凝らしても空と雲しかない作り物の最果てに、子供が体育で鉄棒を回るみたいな潔さと気安さで、悪意を感じる低さのフェンスを乗り越えて、もしかしたら現実に戻れるんじゃないかという幽かな希望を胸に、その身を投げたのだ。そうして金属の碑に記された仮初の名前に、横線と、【高所落下】の素っ気ない文字を刻みつけ、現実に脳を焼き切られて死に、家族や友人に本物の墓へと弔われて初めて、彼らは自分の本当の名と人生を取り戻したのだ。僕もそうするべきなんじゃないのか。
あの気のいい五人組に異邦人として混ざりながら、僕はその実、この一週間、ずっとずっと戦いと実感を欲していた。ディアベルと戦ったときの、我が身を切り刻み、最後にはこの首を斬り落とした刃の感触が恋しかった。あの戦いには確かに実感があった。命があった。あれはきっと、戦いの中でしか得られない感触だ。
僕はほとんど発狂しかけながら、何度も何度も左右の掌底打ちで両の自分のこめかみをガンガンガンガンガンガン揺さぶった。紫色の閃光越しに、切ないほど足りない衝撃が頭を揺らす。ああ、けれど本当には揺れていない。試合で、稽古で、何度も脳震盪を起こしてぶっ倒れた僕にはその不自然さがわかってしまう。これは遊戯用に抑えられた【頭を揺さぶる感覚】でしかない。どうしようもなく偽物だ。
ガリガリガリガリ両手の爪で自分の喉笛を掻きむしり、そこになんの実感もないことを確かめると、僕はしまいにアイテム欄からナイフを二本引っ張り出し、体中に突き立てて、必死に痛みを探した。自分を探した。どこにもなかった。二本のナイフはやがて耐久値を失って、光の欠片となって消えた。僕はベッドの上で小さく縮こまって自分の肩を抱いた。寄せては返す台風の唸りみたいな空恐ろしい音が自分の呼吸だと気づくのにだいぶかかった。わざとらしい質感の偽物の涙がボロボロ溢れてきて、シーツに落ちては染み込む間もなく消えていった。
やっぱり彼らと別れるべきなんじゃないのか、という想いがふつふつと沸き上がってきて、やがて煮えたぎり始める。
出れば死ぬ。テツオ君はそう心配した。その表現は正しくない。もう死んでる。僕はここにいない。ちっとも生きていない。鈍い奴らにはこれがわからないのだ。
チクショウ、もうダメだ、と僕はついに音をあげた。僕の回線が切断して復旧したら、例えそうならなくとも明日になったら、彼女のことは彼らに任せて、そのまま迷宮に特攻しよう。それこそが僕の本来あるべき正しい姿だ。いったい今までなにを血迷っていたんだ。仲間? 度し難い間違いだ。僕は彼らといるべきじゃない。こんなにもどうにかなりそうなのに、他人に余計な気なんか遣っていられるか。僕は茅場のクソ野郎にケンカを売られたんだ。だから買わなきゃいけないんだ。戦わなきゃならないんだ。
けれど、ベッドで縮こまって震えていると、控えめなノックが響いた。彼女だ。
「……はい、今、開ける」
バカじゃないのか、と自分で返事してから思った。狸寝入りで誤魔化すべきだった。
僕は何度か鋭く息を吐いて、化粧台の鏡で涙が引っ込んだのを確認してから、そっとドアを開けた。
いつも通りに、やたらと軋むベッドに並んで腰かけて、話した。僕はそのとき、食べても眠っても消えない奇妙な怠気に圧迫されて、ちょっと上の空で彼女の話を聞いていた。
「だいじょうぶ?」
どんどん余裕をなくしてゆく僕に反して、その日の彼女はもうだいぶ落ち着いた様子だった。仲間がみんな何事もなく戻ってきて、安心したのかもしれない。けれどどういうわけかその晩はいつまで経っても自分の部屋に帰ろうとしなかった。
「ああ、うん、ちょっと眠たいだけ……。ごめん」
「そっか。今日はもう、寝ちゃった方がいいよ」
いや、君がいると眠れないんだけど?
「今日は私、ここにいるから」
「……え?」
ちょっとなにをいっているのかわからなかった。なんだって?
「だって君、まだ回線、繋ぎ直してないでしょ?」
「うん、そうだけど……」
「……あれ、すごく怖いもん。真っ暗で、もがこうとしたら自分の身体がなくなってて、目の前に真っ赤なフォントで、ディスコネクションっていう警告がずっとチカチカ光ってて、怖くて目を閉じようとしたらまぶたもないんだもん。助けてって叫ぼうとしても、喉も口もないんだもん。これで死んじゃうんだ、頭の中焼き切られて死んじゃうんだ、って、すごく怖かった」
「……それは怖いね」
もう怖くて眠れそうになかった。また泣きそうだった。なんてことを話してくれるんだ。
「でしょ?」
と、なぜか彼女は嬉しそうに笑った。いや、主に君のせいなんだけど。
「だから私、今日はここにいるから」
それを聞いて、なんだか胸が苦しくなって、僕は少しだけ泣いてしまった。どうして自分が泣いているのかはよくわからなかった。そのとき僕の頭は眠気と怠気でもうダメになっていたのだ。もういい、難しいことはなにも考えたくない。
僕は、じゃあ、お願い、とかなんとか口にして、薄っぺらいシーツにくるまった。
彼女は傍らに腰かけて僕を見下ろして微笑んでいた。
「灯りって、どうやって消すの……」
「知らなかったの?」と、ちょっと驚いた声。「壁、タップして」
寝転んだまま部屋の壁をつっつくと、小窓が浮き上がった。その中から【消灯】の文字に触れると、部屋の灯りはあっけなく消えた。
「今までどうしてたの?」
「明るいまま寝てた」
「訊いてくれればよかったのに」
「君が来ると、忘れちゃうんだ……」
暗闇の中、クスクスと笑い声が降ってくる。そうだよな、訊けばよかったんだよな。なんで意地張ってたんだっけ。
彼女はシーツの上から僕の肩に手を触れると、あろうことか優しいソプラノで子守唄を唄い出した。なんてこった。至れり尽くせりだ。
どこか外国の童謡で、僕の語学力では英語ではなさそうだということしかわからなかった。けれど、優しい響きだ。
僕はその晩、深く眠った。
眠りに落ちる直前、まどろみの中で、ひとりぼっちは寂しいもんね、という囁きが聞こえた気がした。
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当AAは【ソードアート・オンライン まとめwiki】様から拝借、編集いたしました。
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