風が吹く。吹いた風が頬を、髪を、服を、撫でていく。ただ広い草原が青く燃えるように蠢動した。身に纏ったコートがはためく。白地の衣装に、ところどころの紅い十字の意匠は、ギルドのシンボルマークで、知る人ぞ知る裁縫職人アシュレイさんのお仕事だ。これをギルドの正式な制服としようという意見もあるが、まだまだ割高で、それに現在のメンバーは皆、規律、とか、統一、とかいう言葉には縁のないクセ者ばかりなので、実現は当分先だろう。
10メートルほど前方に、クセ者の筆頭、その男は立っている。
芯の徹った立ち姿。そして、大きい。実際の身長は180には届かないはずだが、剥き出しの闘気のせいで余計に大きく見えてしまう。
鮮やかな紅白の袴の上から羽織った革のジャケットは、暴力を想起させる血の色。逆立った短髪は、やはり同じダーククリムゾンに染め抜かれている。
彫りの深い、凄味のある顔立ち。角張った頬の輪郭。膨らみがちな団子鼻。太めの眉の根には、それこそ刃物で彫り込んだような皺が刻まれている。引き結ばれた唇は肉厚。そして、その、目。
角張り吊り上がった眼窩に収まる三白眼。視線は、殺意を錬成し、丹念に研ぎ澄ました、刃そのもの。見るだけで斬り殺す、凄絶な気迫。それこそ刺し貫き徹されたように、その、地獄の深淵のように黒い瞳から視線を離せない。向き合うだけで、頸椎をやすりでザリザリと擦られるような悪寒が走る。
落ち着きなさい、と自分に言い聞かせる。なにを熱くなっているの。
熱くなりすぎて、膝に笑われてるじゃない。
お互いに、礼。と、横合い、対峙するわたし達の中心から聞こえた美声は副団長だ。ただ、尊顔を拝する余裕はない。正面の男で手一杯だ。
互いに腰を折り、頭を下げ、礼。視線が外れる。
お願いします、と、挨拶。
わたしの上ずった声音と、彼の重く低いそれが重なって、奇怪な不協和音を奏でた。声を合わせただけで明白だ。彼とは一生相容れない。
まだ視線は下ろしたまま。自分のブーツの爪先を見ながら、つ、つ、つ、と息を吐き、気分をリセットした気になる。次に呼吸を再開するのは、この死闘の後だ。この世界に自発呼吸は必要ない。余計な情報を相手に与えるだけでしかない。
一挙手一投足、唯の一つでも過てば、命はない。
顔を上げる。
再び視線が合う。逆に刺し殺すつもりで、睨み返した。震えはひとまず止まってくれた。
構え! と再び副団長の声。
右足を一歩前に。相手に対して体を真横に向ける。
左腰の鞘に手を添えて、右手で柄に手をかけ、抜き放った。
シャイン、と、流麗なサウンドエフェクト。
陽光を受けて輝く細身の真っ直ぐな刀身は、天空を思わせる薄青色。
固有名、【セレスチアル ティアー】。作成者、リズベット。業物だ。
白磁のような質感の、細いけれど力強い柄から、手の平に冷気が伝わる。頭の芯まで冷えてゆく。
ざり、と草地を踏みしめて、足首を捻る。前足の膝と爪先を、敵に向ける。両膝を柔らかく遣い、後ろ足の踵をわずかに浮かせ、爪先に力を込めて踏み込み用意。
脇を締め、柄を胸元に引き付け、手をやや内に捻り、刃の切っ先で敵の喉笛を照準。
この剣、この身体、この戦意、すべて彼を刺し通すために。
カチリ、と意識のスイッチを切り替える。
戦闘用意。これよりこの総身は、彼の者を貫き通すが為の剣である。
わたしの構えを受けて、彼もまた鞘から、己の得物を抜き放った。
緩く反った刃は白銀。この距離でも確認できる、直刃が冷え冷えと冴えていた。銘は、知らない。そんな言葉を交わす間柄ではない。
わたしと彼が交えるのは、今も昔も剣だけだ。
彼は右足を一歩踏み出すと、どんな素人目にも明らかな業物の日本刀を、柄を腹の前に据え、切っ先を上げて中段に構えた。腰を落とし、背筋を伸ばし、刃が身体を斜めに通って、腰から肩口を覆う構えを、受けの姿勢と見るのは間違いだ。その証拠に、切っ先の延長線は、わたしの喉笛を寸分の狂いなく指している。
互いの戦闘態勢が完成した。
イメージ。戦略は立ててある。
開始の合図、始めのハの字を聞いたらすかさずステップイン。システムアシストは使わない。遠間からの突進系は一切通用しない。わたしの移動スピードと彼の剣速、及び攻撃範囲を計算に入れると、わたしの突進系重単発突き【シューティングスター】を彼に届かせるには、少なくとも彼の絶対制空圏、彼の握る柄を中心とした直径3メートルのドームに鼻先をくっつけるようにこれを発動しなければならない。近くても遠くてもいけない。近ければ斬られる。遠ければ踏み込んで斬られる。死ぬ。殺される。決死圏の中心に、わずか一点の活路に突きを捻じ込み、殺される前に殺さなければ命はない。
迅速、確実に刺し殺す。
副団長が、わたしたちを確認する気配がする。
ふと、風が凪いだ。
「始めッ!!」
もう始めている。システムアシストなしで実現できる最速の踏み込み。ほとんど膝蹴りを放つように前足を突きだし、蹴り足のバネを開放する。本来これだけで、わたしの敏捷パラメータならば10メートルの間合いを3秒と待たずに詰める。けれどそれではあまりに遅い。速さに加えて早さが必要だ。
極限の集中力で、コンマ1秒単位に時間を切り刻む。
開始0・4秒。
踏み込みの勢いで宙を滑空しているわたしと彼の距離は8メートル。彼は全く動いていない。まるでそういうオブジェクトみたいに微動だにしない。
0・6秒。
距離、6メートル。
まだ遠い。未だに彼は動かない。否、わたしの極端な前傾姿勢に合わせて刃の切っ先が数ミリ下がった。依然、この喉笛を狙っている。
0・8秒。
5メートル。
彼の刃が横に寝た。それだけだ。振りかぶる動きはない。そして彼は、あの姿勢から一切の予備動作なく斜めに踏み込み袈裟懸け一閃、斬り下ろしを放ち、私の額から首元までを輪切りにするだろう。だが臆さない。まず自分の命を捧げなければ、彼の命にわたしの突きは届かない。まだ遠い。まだ遠い。まだ……!
0・9秒。
4メーター30センチ、20センチ、10センチ、5センチ――――
ジャスト1秒。
わたしの鼻先からこめかみまでが彼の刃圏に入った。
来い……、斬ってきなさいっ!
彼の動き出しはわからない。タイミングは勘で計るしかない。
今だ。急制動。
大地を踏み抜かんばかりに振り降ろした右足を軸に、体の左右を入れ替えて、深い伸脚の姿勢で左足を突き出し、落とし切った腰を限界まで背後に仰け反らせ、手の甲を自分の額に添えるように細剣を垂直に立てた。
彼は斬りかかってこなかった。斬撃を目先で空振らせる作戦は失敗だ。けれどフェイントは通じている。打ち合いを想定していた彼の体の動き出しが潰れて重心が揺らぎ、カウンターのタイミングを逸した剣先が数ドット泳いだ。虚を突かれた意識の間隙。このまま刺し通す!
今ッ!!
肘と手首を折る。細剣の切っ先が彼の下腹を狙う。発動判定ギリギリまで低くした姿勢に、敵を刺し貫くイメージを叩き込みスキルモーションが起動して刀身がライトエフェクトを帯びたときにはもう刺さって刺さってすでに刺さって刺突刺突刺突カラダ全体で突き上げる軌跡で刃の下を通り抜けて流星と化し突進、刺殺!!
甘いんだよ、と。
そんな声が聞こえた気がした。
衝撃。
全力の突進突きを空振って、そのまま本物の流れ星よろしく宙にすっ飛んでしまったのか、それとも彼の視認を許さない斬り上げは、わたしをこんなにも高く吹き飛ばすほど強かったのだろうか。
飛んでいる。宙に浮いて天も地もなく回転している。なんだろうこれ、びっくりハウス? 父も母も遊園地になんか連れていってくれたことは一度もなかったけれど、前にテレビで見たのが確かこんな感じで、空を覆う岩石質な天蓋も、地平の彼方、天と地の隙間から覗く朝焼けも、ぐるぐるグルグル、あれ? わたしの体、どこいったんだろう? 視界だけが空に打ち上げられて、手に握った細剣も、腕も、胴も、ない。ああ、なんだ。ずっと下の草地、渾身の突きを振り抜いた形でゆっくりと膝を着いて倒れる紅白の人影は、わたしだ。ああよかった、わたしの体だ。見つかってよかった。首から上がなくて、ゴボッと血を噴き出しているけれど、まあちゃんと見つかったならいいや。じゃあ、あれか。今飛んでいるのは、わたしの頭か。すごい、こんなの初めてだ。わたしの視界の回りを尾を引いて漂う紅い飛沫、これも、血か。きらきらして綺麗ね。遥か下、草地の上できらきら銀色に光っているのは、副団長の頭だ。わたしの体に駆け寄るのが見える。ああ、そんなに慌てないで副団長。ご尊顔が乱れてしまいます。でも心配してくれてちょっと嬉しい。茶色い三角屋根のロフトハウスの前には、ベンチに腰掛けた、他のメンバーも見える。みんな居たんだ。フードで顔を隠した小柄な子が口元を覆って息を呑んでいる。リュカだ。作務衣を着た恰幅のいいおじさんが自分の顎ひげを触りながら前に大きくのめっている。あれはミツルギ。ホームの二階の窓から頭を出している長く垂れた金髪は、アヴローラさん。草地に直接体育座りしているグラマラスな女性はレイラさん。その隣で正座している小柄な男の子がティジクン。三角屋根の上に座っている、青髪の長身痩躯は、ああ、この、ランチア。もう、貴方が戦ってくれないから、わたし死んじゃったじゃない。どうしてくれるのよ。
妙にゆっくり回転する視界の中心に、真っ赤な彼の姿を捉える。わたしの遺体を背に、刀を右上に振り抜いた状態から、勢いを殺さずくるりと旋転し、わたしの死体に向き直り、刃を向けて再び構える。右上に振り抜いていた。じゃああれはやっぱり斬り上げだったのだ。彼の刀の切っ先は、わたしがスキルモーションを起こしたとき、確かに上を向いていたと思うのだけど、ええ、じゃあ、どうやったのよ。やっぱりあの人、ずるい。強すぎる。
くるり。くるくる。視界は回る。ホームの陰に隠れた陽炎みたいなのは、ハイディングしたハサンだろうか。やった、見つけた。死角に隠れた彼がどうして見えたのか不思議だったけど、とにかく見つけた、ざまぁみろ。くるくるくるり。わたしの体を挟んでホームの反対側、二人並んで立っている重装備と、紅いサーコートは、フォートさんと、ああ団長、こんな高いところから失礼します。試合、見ていてくださったんですか。ごめんなさい、死んじゃいました。
くるり。わたしの頭部は放物線の頂点を過ぎて、どうやら緩やかに落下を始めた。空が見える。天空を覆い尽くす岩石質な天蓋は、下層のそれよりほんの若干色の深みを増して、金属質になった気がする。くる。真っ赤な彼は、すでに刀を収めている。くる。歩いている。わたしの死体の脇を素通り。くる。振り向いて、直立。試合が始まったときの、もとの位置だ。ああそうか、試合が終わったんだから、お互いに、礼をしなきゃ。くる。視界が降りてゆく。ここまで降りるとわたしの死体の切断面がよく見える。血の勢いも収まって、骨と神経と筋肉の断面を綺麗に晒している。白い衣装に、垂れた血が鮮やか。ていうか、すっかり忘れていたけど、わたしミニスカートじゃない。やだ、ふとももが際どい。わたしの死体、なんだかいやらしい。くる。顔を伏せた紅い彼。くる。横顔。ガラは悪いが、美男子の類いだと思う。目つき悪いけど。くるり。その、眉根の皺を、いっそう不機嫌そうに深めている。なによ。
わたしに勝ったんだから、もっと嬉しそうにしなさいよ。
そう思ったのを最後に、ドン、とわたしの生首は草地に落ちて、意識が終わった。
対【鮮血】のアスラ。
これで、84戦84敗。