彼はそれから、今までの騒がしさが嘘のように口を閉ざし、僕に背を向けたまま、このゲームのスタート地点である中央広場まで戻ると、突然右手の指を振って、メニューを操作してからこちらに向き直り、僕の頭上を、たぶん彼から見える僕のカーソルをビシリと指差し、そのウィンドウを開いたのだ。
【Diavel から 1vs1デュエルを申し込まれました。受諾しますか?】
そして言う。
「なあ、デュエルしようや」
心臓の鼓動が高鳴っている。足元に現実感がない。
「デュエル、ですか」
「レクチャーしてやる、つったろ。実戦で覚えンのが一番早ェ。それにオマエ……」
彼は挑発的に笑った。
「ホントはもう、オレとヤリたくてヤリたくてしょうがねえんじゃねえのか」
ウィンドウの表示が、点滅して僕を挑発している。デュエルを申し込まれました。受諾しますか? 勝負を挑まれました。受けるんですか? 受けないんですか? どうなんです、背を向けて逃げ出すんですか? 貴方は戦うためにここに来たんじゃあないんですか?
足に震えがくる。震えはすぐに全身に伝わる。武者震いだ。
彼は強い。そう直感する。
強い彼と戦えば、強くなれるんじゃないのか、なにか掴めるんじゃないのか。
現実で見つからなかった答えがここにあるんじゃないのか。
「わかりました。お願いします」
僕は敬意を払って一礼してから、点滅するアイコンに指を伸ばした。
YESの承諾ボタンには、三つのオプションがついている。
記憶の中のマニュアルと照らし合わせて確認する。
まず、【初撃決着モード】。強攻撃が一撃入れば、決着する。たぶん伝統空手のルールに近い。クリーンヒットが一撃入れば一本。
次に、【半減決着モード】。どちらかのヒットポイントが半分を下回るか、制限時間を越えれば決着する。相手の攻撃を捌きながら、より多くの攻撃を相手にヒットさせてゆく。ポイント制のアマボクシングのルールに近いかもしれない。
最後に、【全損決着モード】。どちらかのHPがゼロになれば、決着。これは恐らく、現実の格闘技にない、未知の領域だ。とことんまでやる。最後までやる。肉体的な怪我や疲労の心配がない以上、ペース配分も技の制限もなく、最初から最後まで全力で、死ぬまでやる。
このいずれかの形式を、戦いを受ける側の僕が選択できるようだ。
どうする。どれで受ければいい?
僕が躊躇している気配を感じ取ったのか、彼が声をかけてきた。
「ゲームオーバーが怖ぇなら、別に初撃でもいいんだぜ?」
もうきっとバレているのだ。
こういうとき、退くことができない男だと。
「いえ、やらせていただけるなら、最後までお願いします」
言って、【全損決着モード】の欄にチェックを入れて、真っ赤に光るYESのボタンをタップした。画面が大きく変わる。
【DUEL Mode Accepted!!】
カウントダウンが表示される。あと60秒。彼の笑みが深くなる。
「吐いたツバは飲めねえぞ、新人……」
早くもギャラリーが集まってくる。おい、デュエルだってよ。こんないきなりか。あのアバター怖すぎ超ウケる。頑張れちっこいのー。なあアレ、負けると確率で武器落とすんじゃなかったか? などと騒がしい。うるさいな、ちっこいっていうなよ! あと死亡時に一定確率でアイテムや装備品やお金をドロップしてしまうという話は今思い出した。電子マニュアルは隅から隅まで読み込んだはずなのに、うかつすぎる。
「どぉだ新人……、ギャラリーが多いと興奮すっだろ」
「……狙いは僕の武器ですか?」
「ナンだ、今更気づいたか。どぉする、負け宣言すっか?」
「いいえ」
勝負を受ける前からそれに気がついたところで、僕は逃げなかったろう。戦うことが、戦い続けることが、僕の誇り。絶対逃げない。僕は戦えるんだから。
ネットで読んだ、このゲームの売り文句を思い出す。
――これは、ゲームであっても遊びではない。
「やります。やらせてください」
「筋金入りだなテメェ……」
彼が剣を抜いた。分厚い刀身が薄青く光る両刃の直剣だ。人を殺すための凶器。
「筋金入りのバカ野郎だ」
彼が構える。軽く右足を出してやや半身になり、片手で中段に剣を据えた。
「バカなんです、昔から。性分で」
言って、僕も右手で鞘から、ダガーを引き抜く。二度、三度、軽く素振ってみる。思った通り、短い短剣は、手刀や正拳にかなり近い感覚で取り回せた。左手の鞘は、とりあえずプレイヤーに備えつけのウエストポーチにでもしまっておく。
早くも集まってきたギャラリーが大きくざわめいている。おい、なんだあの武器。表の武器屋にはなかったぞ。すげえ光ってる。かっけえ。クエスト報酬か?まさか、このゲーム始まったばっかなのに。
カウントダウンが進んでいる。あと35秒。このカウントがゼロになれば、デュエルを行うふたりの間で、街中のシステム障壁が解除される。ダメージが通るのだ。
左足を踏み出して半身になり、踵を地につけたベタ足で腰を落とす。右手のダガーを顎の前で構え、左手は開いたまま前に突き出して相手に向けた。
「オイオイ、なんだその手は? 斬って欲しいのか?」
「これも、ちゃんと意味のある構えなんですよ」
「へぇ」
答えつつ、彼が一歩、二歩と歩み足で間合いを詰めてくる。そうか、もう戦いは始まっているのだ。残り20秒。このカウントが進行している間、より有利な位置取りを探り、敵の構えから戦い方の情報を引き出す。彼が近づいてくる。どうする? 退くべきか、出るべきか。
決まっている。格上の相手から逃げても、追い込まれてジリ貧になるだけだ。
後ろ足の踵を浮かせる。重心を前へ。これで、敵の突進に合わせて前に出ると腹を括る。
集中を高める。心乱されたら負ける。
彼我の距離がおよそ5メートルになったところで彼は足を止めた。カウント、残り10秒。
彼の構えを改めて観察する。両足のスタンスが狭い。重心が高い。あの構えなら、前後左右に動ける。長物を持っていれば、相手に対して斜めに突進しながら左右に斬り払える。どっちから来る? 右か、左か。僕は彼の前足の膝と爪先を見た。真っ直ぐこちらを向いている。
直感した。来る。なんの衒いもなく真っ直ぐに突進が来る。
斬撃の軌道は? どこからだ。よく動きを見ろ。切っ先をこちらへ真っ直ぐに向けた中段の構えは、これからどう変化する。突き出した僕の左手の、開いた指の隙間から、刃と、彼の重心の傾きを注視する。
残り5秒。
切っ先は僕を指し示したまま、指し示してそのまま、腕と剣を残して、その身体がこちらに傾いだ。来る。
4秒。
彼が前に倒れ込む。ほとんど身体を真っ直ぐ保ったまま、それこそ棒みたいにこちらに倒れようとしている。剣の切っ先が素早く、斜めに下がった。右手の柄を、左の脇腹に引きつけている。下段、超低空、横薙ぎ、だろうか。あの極端な姿勢ではそれしかない。
僕は左掌で、倒れ込む彼の角度と距離を追いかけている。
3秒。
理性が僕に語って聞かせる。まだ早い。カウントはまだ残っている。この距離、あの姿勢からこちらに届くにはあと二歩から三歩必要だ。急制動のフェイントを交えてくるかもしれない。よく見ていろ。まだ見ていろ。間合いとタイミングを最後まで計れ。敵は低い。剣の振り始めを狙って踏み込み、カウンターの前蹴りで顎を打ち抜けばいい。万全を期するなら、初撃は退いて躱してもいいだろう。
……いや、違う。前に出ると決めた。迷いは敵だ。
見ろ、彼が身体を引き絞る気配がする。大振りだ。振り終わりを待たずに突っ込んで懐に入る。それができると信じる。
2秒。
彼が右腕を捻り、恐らく身体で覆い隠した刃筋を正した。キィン、という異音が響き、彼の全身が薄青い光を放った。マズい、と思った。でもなにがマズいのかわからない。
その時、圧倒的な声量で、リアルで積み上げた僕の戦闘勘が叫んだ。
待つな! もう来る! 一歩で来る! 斬り上げが来る! 前にも後ろにも間に合わない!
死ぬ気で叩き落とせ!!
――ギャアンッ!!
衝撃。閃光に眩む目を必死に見開く。
視界左上まで瞬時に振り抜かれた、青い光。
僕の反応は半ば反射の動きだった。腰を落としながら捻り、右手のナックルガードを下段の右方へと振り払うと同時に、青白い光が、走ったのだ。そして打ち負けた。右手が短剣ごと、大きく上に弾き飛ばされ、鳩尾に紫色の光が咲いた。凄まじい衝撃に、大きく仰け反る。
彼はカウント0まで待たなかったのだ。
デュエルモード発動前に、街中で相手を斬ってもダメージはない。だからこのフライングの目的は、意表を突いて、出鼻をくじき、気勢を削いで、いや違う、それどころじゃない、この姿勢、武器を持つ手を弾き飛ばされ、仰け反って体を開いている。僕はもう死に体じゃないか!?
彼が笑う。悪い笑いだった。
そしてブザーが鳴り響き、【DUEL!!】のウィンドウが閃くとまったく同時に、体を崩した僕に目がけて、大上段、真っ向からの斬り下ろしが襲い掛かる。マズい、避けなきゃ。無我夢中のバックステップはけれどギリギリ間に合わなかった。
僕の下腹部から股ぐらが一直線に裂けた。
瞬間、冷たい剣尖が体内に侵入して透り抜けてゆく。熱いのか冷たいのか、鋭い痛みが腹から股下までを撫ぜた。真っ赤な直線が体表に浮かび、同色の燐光を噴き出した。被ダメージエフェクトだ。攻撃を受けた。ダメージを喰らった!
「い、っつぅ……ッ!!」
痛い! 痛い……ッ?! 痛みは感じないって話じゃないのか!?
もう負けてしまったのか、という焦りを塗り潰して、斬撃を浅く受けながらもどうにか彼の間合いから跳び退いて構えを正す。彼は追ってはこなかった。右真半身の姿勢――僕に対して体を真横に倒し、剣を持った右半身をこちらに向けて、腕をほとんど真っ直ぐ伸ばして中段に構えている。僕を突き離すように。ダガーの間合いに入れてくれる気はないらしい。そりゃそうだ。戦うなら自分の距離で。常識だった。
痛みは引いた。傷口は塞がって赤い燐光も止まっている。僕はまだ生きて、自分の足で立っていた。今の程度、浅く撫ぜれたくらいじゃゲームオーバーにはならない。けれど視界左上に表示されているはずの自分の残りHPを確かめる気は起きなかった。視線を外せば、それが致命の隙となる。
「イイ動きだァ……」
と、彼が笑む。戦いの最中にあっても凄絶な笑顔が絶えない。
対し、僕はもう動揺を押し隠すのに必死だ。
狙い澄ましたフライングの初撃。あの斬り上げは、現実では絶対にありえない軌跡を描いた。あの極端な前傾姿勢から、どうやって起き上がりながらあんな高さまで剣を振り上げるというのか。不安定な体勢から、あの速度、あの重さに、金属が擦れるような異音と、放たれた残光。
つまり。
「今のが、ソードスキルですか……」
「見んの初めてか? 初めてで受けやがったのか。やっぱオマエ楽しすぎんだろ……」
この世界の必殺技。
武器の種類ごとに用意された、多種多様なシステム剣技だ。
マニュアルを必死に思い出す。
発動方法は確か、スキルを取得し、対応した武器を装備し、所定の姿勢をとること。システムが予備動作を感知して、刀身がライトエフェクトに包まれたなら、任意のタイミングで発動。システムの後押しを受けて、強力無比な攻撃が放てる。
強力無比って、でもまさか、こんなに強いだなんて聞いてない。
相手がよっぽど体勢を崩したときに使う、ゲームを盛り上げるためのお飾りとしての必殺技ぐらいにしか考えていなかったのだ。それが証拠に、レベル1の初期ステータスで、ふたつ用意されているはずの僕のスキルスロットは未だに空っぽだ。この手に持っている、短剣スキルすら取っていない。
けれど僕は認識を改めなければならないだろう。あの移動距離、あの隙のなさ、あの速さにあの重さ。冗談じゃない。さっき彼はこの術理を、次の一撃に繋ぐためにフライングで放ったが、もしシステム障壁がないときにアレの直撃をマトモに受けたら、どうなるか。
ゲームオーバーだ。
アレはこの世界で必須の技術なのだ。
どうする。どうすればアレに対応できる。けれど考える暇はない。見ろ、敵を見ろ。
構え直して、彼の動きに意識を集中し直す。僕が前に突き出した左腕の、掌から肘までは、もう一歩踏み出せば彼の剣が《入る》距離だけれど、彼は急には斬りかかってこない。腕をうねらせて、剣先で小さな円を描くように武器を揺らめかせながら、じりじりと距離を詰めてきた。青白くギラつく刃は、獲物を狙う金属の蛇だ。
僕は構えを変えた。両の踵を上げてステップ。前後左右に跳ばねばならない。間合いを見切って、寸で躱して、隙を見つけて跳び込まなければ僕の攻撃は当たらないのだ。リーチが違いすぎる。こんなことならアバターの体格を上積みしておくべきだった、という後悔を気合いで塗り潰して彼を注視する。左手、開いた指の谷間から、うねって回る剣先、ではなく、肩口と頭を注視する。小手先の動きに惑わされてはならない。剣より手首、手首より肘、肘より肩が、先に動く。
見えた。
彼が前傾する。刃がうねって迫る。
来た。左、右の歩み足で大きく踏み込んできて、僕が前に突き出した左腕の、手先から肩口までを裂き切る軌道で、内から外にコンパクトに横薙いでくる。
瞬間、僕は前の腕を下ろし、膝を遣って足をその場に置いたまま身体を退いた。彼が空振る。
打った。
「ォオ?」と、彼がわずかに驚く声。
顎の下で火花が散った。彼の剣先をナックルガードで殴りつけたのだ。正面から受けずに、斬撃の軌道に沿ってむしろ剣を斜めに後押し。振り抜いた彼の構えが崩れた。
今ッ!!
前に出る。
けれど短剣は届かない距離。僕が間合いに入るより、彼が身体を立て直す方が早い。
だから蹴る。
踏み込みと同時、地に突き立てた左の軸足を外に捻る。前進の勢いのまま体の左右を入れ替えながら上体を引き、内に振り抜かれた右腕を外に返して力を引き絞り―――ふと、違和感。
けれど技を止めるわけにはいかない。放った。
直線軌道で右の横蹴り。彼の右の脇腹に、僕の足先が突き刺さり―――再び、違和感。
彼が上体を後ろに反ってバランスを崩した。
僕も上体を後ろに反ってバランスを崩した。
「ハッ――――!」彼は笑い。
「なっ――――?!」僕が驚く。
距離が開く。打った駆け引きがゼロに還る。この攻防は仕切り直しだ。いや、おかしいぞ?!
変だ。今の手応え、否、足応え。キレがない。蹴り足に重心がまったく乗らなかった。彼を見る。頭上のHPバーは1ドットも減っていない。攻撃判定をもらえなかったのだ。
「ハハッ」
彼が笑い、再び動く。僕の戸惑いを隙と見たのか、さっきよりも勢いよく深くまで間合いを詰めて、僕の頭をカチ割ろうと縦一文字の斬り下ろしを放ってきた。
「このッ――」ショートアッパーの要領で受ける。互いの得物が衝突。ナックルガードが彼の刃を噛んだのを感じた瞬間、腕を捻って斜めに振り抜く。同時に踏み込んで、横に逸れて僕の左の肩口を掠める刃の脇を通り抜ける。もう一度だ。さっきより間合いが近い。深い。今度こそは重心の真芯を確実に捉える。
軸足を捻る。刃を打って振り抜いた右腕を、払うように切り返し、引き絞った右足を跳ね上げて、前に出た彼の右脚を叩き上げるように刈る。右、インローキック!!
パン、という炸裂音と共に、僕の右足の甲が彼の内腿を捉えた。
彼は姿勢を崩さない。
打ち抜けなかった。
「――――ッ?!」
「おっ、とぉ!」
バランスを崩したのは僕の方だった。
ポン、と。
僕が蹴り足を引き戻す前に、彼は底冷えのする素っ気なさで、武器を持たない左の掌で鳩尾を押してきた。姿勢を崩し、たたらを踏んで後退する僕に、容赦のない追い打ちの斬り上げ。
左の太腿の半ばまで、直剣の刃が入って透り抜けた。今までで一番深い。痛ッ――てぇ!?
痛い上に一瞬、ガクン、と斬られた方のヒザから不自然に力が抜けた。システムに規定された隙。慌てて後ろ足に重心を移す。どうにか跳び退く。
休む間もなくさらに追い打ちがきた。コンパクトな×字の斬り払い二連を、僕は左足を引きつけて、右半身に構えを切り替えながら退きつつ、二度ともなんとか打ち払った。虚仮の一念でどうにか反撃を試みようと踏み込むと、彼は絶妙なタイミングで後ろに跳んで身を退いた。
距離をおいて、睨み合う。
「だから、慣れてねえんだろ」片頬で笑み、彼がいう。
「なんだって……」
「このへん」と。
彼は武器のない左手で、自分の後頭部、うなじの上あたりを指差して、トントンとつついた。
「うなじの上、延髄に被さってる脳幹に張っつくみたいにして、小脳ってのがある」
「小脳……?」
「ナーヴギアが主に繋がってて、脳の八割を占める大脳の神経細胞の数は百四十億個だが、比重でいえば脳全体の10%しかないこの小脳には一千億ある。小せぇクセに複雑なモンだから、解明が遅れてんだコレが」
話し終わるのを待たずに飛び込むべきか、という迷いがよぎるが、すぐに諦めた。ダメだ。彼は油断していない。剣の切っ先は注意深く僕を捉えている。重心にブレもない。
それに、今なにかとても重要なことを聞かされているという直感があった。
「で、この小脳がヒトの運動に深ぁく関わってる。大脳運動野からの運動命令は、必ずこの小脳を介して身体に伝わる。歩き方、走り方、パソコンのキーの打ち方、自転車の乗り方、楽器の演奏の仕方、剣の振り方も。いわゆる身体で覚える類いの動きは、全部この小脳任せだと思っていい。何度も繰り返した動きを覚え込んで、運動命令をより正しい形に補正してくれる。ヒトがなんも考えずにボケっと立ったり歩いたりしても転ばねえのは、この小脳様のおかげだ。ナーヴギアが延髄で回収してアバターに反映する信号にも、当然この小脳の補正がかかってる。それでだ……」
彼は声を落とし、笑みを深くした。
「運動命令を出力するのとは逆に、今、自分の身体がどういう姿勢でいて、どこに力が入っているのかを入力するのにも、小脳の補正がかかる。筋肉、皮膚感覚、三半規管を初めとした、平衡感覚器……。このフィードバックは必ず小脳を介して、わかりやすく補正を受けてから、大脳の体性感覚野に伝わる。ところがな」
平衡感覚器。
もうこのあたりで、彼のいいたいことが僕にも分かってきた。
「今、オレ達が受け取ってる五感情報は、ナーヴギアから大脳にダイレクトに送り込まれてる。小脳様のアシストは一切ナシだ。わかるか? 天才の茅場サンにも、この世界で現実の身体感覚を完全には再現できなかったのさ。具体的には、重力とか、バランスとか? いやあ、片脚立ちの不安定な蹴り技は厳しいんじゃねえかなあ? カカカッ」笑い。
これは、でーじヤバい。
「ここぁオレのホームなんだよ。リアルじゃチャンプか知らねえが、この世界で新人にデカいツラされてたまるか」
彼が再び前に出た。摺り足で前に踏み出して、突き出した僕の左腕に絡みつくように、8の字を描いて一息に二度三度と斬りつけてくる。僕は腕を上下に振って躱しつつ、後ろに跳んで下がり続けた。理解が追いつかない。間合いが欲しい。現状を把握する時間が欲しい。
彼は完全に自分の間合いをモノにしていた。僕に武器を打ち払われない距離。僕を休ませない距離。自分の攻撃が届く距離。繰り出されるのは、僕の構えを崩しにかかるコンパクトな斬撃。退く度、躱す度、彼の制空圏が僕のそれを侵してゆく。
違和感、違和感。
跳ぶ度、歩く度、この世界に来てから感じてきた違和感がいよいよ如実に表れてくる。
頼りなく揺れる足運び。蹴り足も送り足も上手くいかない。浮き足立って重心が保てない。両眼に映る視界が、まるで出来の悪いホームビデオみたいにガクガクとブレている。
目眩がする。
リアルで僕をずっと支えてきた、重力の向きを感じ取れない。
「く――――ッ!」
痛み。ダメージエフェクト。赤い燐光。
突き出した左の前腕と二の腕に、彼の剣先が掠り始めた。僕の腕に、幾筋もの真っ赤な直線が走る。このままでは追い込まれてジリ貧になるだけだ。いずれ決定的な一撃を喰らう。でも、どうすればいい? 勝てるイメージがまったく涌かない。やぶれかぶれで突っ込んで勝てる相手ではない。勝機を探すべく、斬撃の観察を続けながら回避に徹するしかない。
やや大振りの斬り上げをバックステップで躱す。
突然、距離が開いた。「―――え?」
大きく跳び退くステップの途中。後退する僕を、彼が追ってこない。
浮いた足元。思考に空白。僕の晒した度し難い隙だった。
上段に振り抜かれた彼の刃が下に返る。その刀身が光を帯びた。
瞬間、彼我の距離が消し飛ぶ。
着地の瞬間を撃ち抜かれた。
とっさに頭の上で構えた短剣のナックルガードを押し込んで、彼の刃が僕の額に喰い込んだ。
受け切れず、仰け反り、背中から地面に叩きつけられた。後頭部と背中を石畳にしこたま打ちつけ、小さくバウンドして、ずしゃあ、と思い切り後ろに滑った。
仰いだ天に空はない。
遥か上方、灰褐色の岩石質な天蓋が、僕の敗北を見下ろしていた。
ああ、一本だ、と思った。
僕の人生に沁み込んだ、空手家としての矜持が、背を地についたこの姿勢は、もう負けだと、これは死に体だと告げている。いいわけのしようがない。完敗だった。
負けたのか。
なにもできずに、負けたのか。
僕の戦いは、ここでは通用しなかったのか。
僕の空手は、これで本当に終わったのだろうか。
けれど。
倒れた僕の右脇へ、懐深く踏み込んで、片膝立ちで腰を落とし、下段斜めに振り抜かれんとしている彼の腕が、その手に光る刃が、僕を断頭しようと迫るのを見て―――
終わってない!
倒れたまま、右手のナイフを振り払う。彼の剣の切っ先がナックルガードに食い込む瞬間、僕は左の掌で、得物を握る自分の右手首を打って両腕の力と衝撃力を乗せた。
ギャイン! と。
今度こそ剣を真っ向から弾き飛ばされた彼は、腰を上げて身を退こうとする。逃がすわけない。彼は間違えた。功を焦って倒れた僕に踏み込んだ。寝技はできないと決めつけたのだ。
僕は両手を脇に引きつけ手を地について、身をしならせて跳ね上がり、彼の伸び切った両足を自身の両足で挟み込んだ。
「シャアラアッ!!」
両腕を翻し、上体を廻し、引き絞った全身の力を足先に伝える。
地に自分の身体がついておらずとも放てる技がある。もうバランスもクソもない。
中学でも高校でも大学でも必修だったのだ。
柔道、カニバサミ。
「があっ?!」
垂直に倒れて右半身を打ちつけた彼が、この戦闘で初めて上げる悲鳴を聞き届けず、僕は素早く両足の裏を地につけ直し、ほとんど片膝立ちの低姿勢で踏み込むと、立ち上がり様の彼の下腹部へ、ナックルガードッを捻じ込んだ。正拳、下段突き!
「ごッ?!」
身体をくの字に折り曲げて、たっぷり三メートル吹き飛んだ彼を、追わない。
どうやら自分で後ろに跳んで衝撃を逃がしたらしい。まだ浅い。
「フウ! ツ、ツ、ツ! コォ……………、ホッ!!」
両の足裏を地にべったりとつけ、深く、深く、腰を落とす。ナイフを左手に持ち替えて、逆手に前へと突き出した。ナックルガードを地に向ける形だ。素手の右手は、腰に引きつけて軽く握った。
ステップは踏まない。跳ばない。バランスを崩すだけだ。
蹴りは無理とわかった。ならば僕の持ち得る武器は、拳のみ。
両の脚を地につけて、足裏から吸い上げた力を廻して射放つ。
もう後ろには一切退かない。
「構えが変わったな。今まで手の指の隙間から、距離と、オレの動き出しを計ってたんだろ。もういいのかよ……」
「四の五のいわずにかかってこい」
「フカしやがって。テメエのHP、見えてねえのか……」
「知るかよ先輩。怖いの?」
もう、ただの一撃でも喰らう気はない。であれば、残りの数字がいくつだろうと、関係ない。今から彼はなにもできずに、僕に封殺されるのだ。
思考のギアが上がる。
二年のブランクを飛び越えて、戦闘勘が戻ってくる。
漲る戦意が、仮想の肉体を熱している。
「調子こくなよ!」
×字斬り払いがきた。もう見切った。彼は手の内を見せすぎた。捻りを効かせた左の順突き二連で弾き飛ばしながら前に出る。次いで素手の右、逆突き。捻じ込んだ。
「シィッ!!」
「があっ?!」
彼の右の脇腹を、深く、深く抉る。
彼が退く。僕が追う。
彼が退き際に放った斬り下ろしを、左のナックルガードにて、孤を描く軌跡で下から斜めに払い飛ばす。重さで勝る攻撃であっても、側面から弾けば抵抗なく逸らせる。空手、基礎の基礎。廻し受け。ナックルガードの局所で当てるのは難しいが、この間合いの彼の動きはもう見切った。
受けながら、右足を地に叩きつけるように踏み込んで、体を入れ替えた回転力を上体に伝える。地から吸い上げた力は腰を通って手先に伝わる。
抱きしめられそうな密着距離。彼の下腹部。僕の縦拳が真芯を捉えた。
刹那、右膝の力を抜く。全体重、前へ。
形意拳式、崩拳!!。
「セイヤァ!!」
「おっ……!? はぁ?!」
打ち抜いた。
吹っ飛ばした。
追う。
「テメ……!」
体勢を立て直した彼が、腕を自分の首に巻きつけるように剣を構えた。
システム剣技、水平斬り。そう直感した僕は、四股を踏むような姿勢で思い切り身を屈めながら滑り込んだ。同時、自分の頭上を、金属が擦れるような異音が走り抜ける。もしかすると数ミリ掠ったかもしれない。けどまだ生きてる。現実と同じ、小柄なアバターが功を成した。
身体を起こしながら左のナックルガードを、彼のアゴへと掬い上げる軌道で叩きつけ、時間差なしで右の正拳を胸倉に捻じ込む。「セラァ!」
打ち抜いて吹っ飛ばした。
後ろに仰け反りたたらを踏みつつ後退する彼へとさらに追い縋ろうとすると、彼は不安定な身体を捻って、それでも斜めの斬り上げを放ってきた。速い。だが軽い。払い飛ばした。もう一度、懐に入って突きを捻じ込もうと――「オラアッ!」と、彼の気勢。
アゴに衝撃。
蹴り飛ばされた。
彼は弾かれながらも振り上げた剣を下段に返し、その反動で、懐に入ろうと前傾した僕の顎に蹴りを見舞ったのだ。うかつ。そうだ、彼は【慣れている】のだ。僕に使えない蹴りを使えたとて、不思議はなかった。マズい、真芯を打ち抜かれた。体を崩された。
僕はとっさにナイフを構えた左手を突き出した。
愚策。
光が走り抜ける。
冷たい剣尖が透り抜けて、ダガーを握った左の手首が斬り飛ばされた。
自分の肉体の一部が切断され失われるという衝撃的な絵面に、背筋が凍りつく。これまでと違って、痛みはない。彼の斬撃があまりにも鮮やかだったからだろうか。反して、時間はゆっくりと流れている。武器を握ったまま、くるくる回転しながら斜め上方に飛んでゆく僕の左手。切断面から墳き出す真っ赤な燐光の1ドットごとの動きまで見て取れた。真っ赤な燐光の向こうで、彼の口の端が吊り上がるところまでスローモーションだった。
武器を失った。もう彼の斬撃は弾けない。次の一撃は防げない。
会心のソードスキル、上段からの斜め斬り下ろしで僕の手を切断した彼は―――
すぐには動けないようだった。
身体を立て直す。右足を踏み込む。
恐らくは最後の勝機、コンマ2秒の間隙に、持ち得るすべてを叩き込む。
「イェイッ!!」
逆手の右拳で彼の顎を打ち上げた。
裏突き。
打ち抜いた。
返しの左を放ちたいが、左の拳はもうなかった。
左足を踏み込んで再び体を入れ替えて、仰け反り後退する彼の胸倉に、左、垂直肘打ち。
「サア―――ッ!!」
ズシャ、と、彼のブーツが石畳を擦る音。打った肘と……、肩に衝撃。
彼は踏み止まった。肘に重さを乗せ切れなかったのだ。
密着距離で、目が合った。
腰を返す。右の掌底を打ち上げ、彼の顎を狙う。
同時、彼が左手を振り被った。けれども遅い。振り被る動きは素人のそれだ。無駄のない技撃に予備動作はない。僕の掌打が先に届いた。
打点を逸らされた。
彼は首を振って、顎ではなく左の眼窩で僕の打撃を受けた。衝撃力は彼を徹らず、外に捻じけて逃げてしまった。垂れた前髪越しに、ギラついた右目が依然として僕を狙っている。
彼の掌が僕の視界を覆うように迫る。首を左に振って避けた。彼の掌打は僕の右耳を掠って通り抜けた。
直後、僕の身体がなんの抵抗もなく右に傾いだ。
後ろ髪を握られて引き倒されたと気づいたときには、僕は彼の立て膝の上に背を預けるように最後の瞬間を待っていた。しかも右腕は彼の膝裏に挟み込まれて動かない。キスでも迫るような至近に、彼の顔があった。彼の長髪が僕の顔にかかって、天幕のように光を遮っている。
首に、刃をあてがわれる。
「よう、割と驚かされたぜ、新人」
見下ろす彼が囁くと同時に、直剣の刃が僕の首の内側を、冷たく焼きながら透り抜けた。
瞬間、僕の身体が膨らんで、ガラス瓶みたいに爆散した。
ああ、死んだ。
【You are dead】のシステムタグを見たのを最後に、僕の意識は闇に呑まれた。