余は如何にして森近霖之助となりし乎 作:野獣先輩肥溜め説
ある晩夏の暮れの話だ。俺は翌日提出予定のレポートの仕上げをし、無事完成したので景気付けにと安い酒を飲んで床につくという、誰も気にも留めない、いわゆるどこにでもあるような眠り方をした。
そんな、何の変哲もない所から話が始まる。
◇
静かに虫の音が響き、冷たい夜風が頬を撫でるのに従い俺は目を覚ました。
寒い、今は夏といえど終わり頃、夜間は普通に寒いようだ。布団はどこかと手で辺りを探っているとザラザラと土の感触がする。はてな、確かに布団で寝たはずだが。
体を起こし、寝ぼけ眼で辺りを見渡す。そこに広がるのは見慣れた文机や愛読本が積まれた本棚がある大学の下宿などではなく、ただ薄暗い林と、月を映す湖があった。
一体ここはどこなのだ、もしや知らないうちに外で寝てしまったのだろうか。しかし下宿の近所には森こそあるが湖はない。酔った勢いで未知の土地にたどり着いてしまったのかと自身の酒癖の悪さとまだ見ぬ活動力に驚嘆しつつ心配しつつ、今ひとつ頭がボヤボヤしているので湖で顔を洗うことにした。
冷たく湛えられた水を手酌で掬う、とてもひんやりとしていて気持ちがいい。そのままパシャパシャと顔にかけ、擦り、濡れ犬の如く顔を払った。
顔に残る冷たい余韻を楽しみながら何気なく視線を水面へ移す。ポタポタと雫が落ち、小さな波紋が幾重にも重なり、ゆらゆらと。そこには、藍色の縮緬着物を着た、見慣れない、髪の白い少年が呆けた顔を浮かべていた。
まばたきを数度、見間違いかと目を擦ってみる。しかし湖には見慣れた姿は映らない。ぺたぺたと顔を探ってみる、憎らしいことに水面の少年も寸分たがわない動きをした。
いやあ、まさか。そんな馬鹿な話があるわけない、しかしついに耐え切れなくなり、静かな夜に小さく、声が響いた。
「なんだ、こりゃ」
◇
理解が追いついてくれない。それほど今の状況は特異であった。
ここはどこなのか、この水面に映る少年は誰なのか――――
――――恐らくどうにかなってしまったであろう思考を無理やり動かし、一つ一つ情報と状況を照らしあわせる。
実に突拍子もない考えだが、どうやら考えるに俺は下宿で眠たと思ったら知らない土地にいて、さらに白髪の少年になっていた、と。
どうにも胡散臭い話だ。そこらの大衆娯楽作品によくありそうな展開である。きっとこれは夢か、狐か何かに摘まれたに違いないぞ。
確認のために頬を思い切りつねる――――痛い。どうやら夢ではないらしい。
ならば狐か、はたまた狸か、考えていても何も始まらないので兎にも角にも、優先すべきは落ち着いて今の状況を考えるべきだと判断した。
禅を組み、ふう、と深呼吸。パシンと頬を叩き気合を入れる。
そう……例えば、だ。
例えば、よくあるお伽話の先例に鑑みるにこの地は異世界なのかもしれない。
仮定として俺は、何か世界を統括する偉い神サマか何かに見初められ、とても重大な使命を背負わされてこの地に降り立ったのやもしれぬ。
そうして今に神サマが案外その辺の藪からひょっこり出てきて「やあ、待たせちゃったね。実は~」と今の状況の解説をするために現れる。事はそこからトントン拍子に進んでいくのだ。
やあ、参っちゃうな! そういう訳なら神サマよ、隠れてないで出ておいで!
胡座から素早く正座に切り替え、藪に向かって拝むようにして手を擦り合わせてみる。
当然だが、何も出てこない。
多少なりとも気が紛れるかと思ったが、ただ虚しいだけだった、そして結構恥ずかしい。
大体なんだ神サマって、一体何だ使命って。
これでは落ち着いて何かを考えるどころか、心の奥底からは思い出したくもない中学時代がずんずんと湧き上がってくるだけだ、俺に襲い掛かってくる心的ダメージも相当なものだ。
だんだん心の収集がつかなくなってきたので、この妄想は早々に打ち切ることにした。何か別のことを考えなければ。
しかし、悲しいかな何もすることがない、今置かれている状況がどういったものなのか、見極めるための判断材料がいくらなんでも少なすぎる。ので、仕方ないので寝転がって空を見た。
飲み込まれそうな闇に、点々と穴を開けるようにして星々が輝いていた。
こうしてボーッと眺めていると心が洗われるようだ。そうサ、中学なんて無かったのサ。
しかしまあ、ここから見える星は、もしかしたら住んでいた田舎よりも多いのではないだろうか、満天の星空と評するに相応しく思えてくる。しかしここまで来ると綺麗というよりかはむしろ不気味と表現した方が正しいのかもしれない。綺麗な桜を見て気分が沈むのと同じ原理である。
やいのやいのとくだらないことを考えながらしばらく眺めた、結構眺めた。大分――――眺めた。
ヒュルルーと寂しく夜風が通る、俺はこれから何をすればいいんだろう、ここは、一体どこなんだ。
現状、俺は絶望的な事態に陥っているという今更すぎることを思い出してしまった俺は、言いようのない孤独と不安に包まれた。
気でも弱くなったのだろうか、さっきは何も抱かなかった音に、夜の静けさというものに恐怖を感じ始めた。虫や、得体のしれぬ鳥の鳴き声、揺れて擦れる木々の葉音。意識する度はっきり聞こえてくるソレらは少しずつだが確実に俺の心を蝕んでいった。
ガサッと横の茂みから音がした。思わずヒッと声を出して仰け反ってしまう。なんだ、神サマか? いやないだろう。しかし、なんだ、泣きそうだ。
自慢出来ることではないが、これでも大学に通うほどは生きている。そんな齢二十二にもならんとする大の男が、夜不安になっただけで泣いてたまるかと思いはした。思いはしたがこの体は少年のもの、どうやら涙腺は緩いらしく堪えようとしても呼吸に嗚咽が混じり始める。
ヒック、ヒックとしゃっくりが出る、じわりと目から汗がが滲みでて頬を伝ってポタポタと。こんな泣き方をするのは、はたして何時ぶりだろうか。
しかしいつまでも泣いていたって何も始まらないのでグスグス顔をこすり、涙を拭き取る。
どこかに人はいないか探してみよう、少なくとも朝になるまで寒くないところを探そう、このまま泣いてうずくまって何もしないよりは大分マシなはずなので、とりあえずはそうすることにした。
尻に付着した土埃を払って立ち上がる、だがそのまま探索開始――――とは、いかなかった。
◇
ボコボコと、大きめの水疱が弾ける音が聞こえる。どうやら後方の湖から発せられているようだった。
なんだ、魚か? と、他愛無い疑念を抱いて俺は愚かにも振り返ってしまった。
ザア、ビチャ、ビチャ。
先ほどの音を出した
――――得の知れぬその
混乱している俺を尻目に、その何かは――男とも女とも付かない濁った声でゲタゲタと体を震わせ笑い出した。
その
グウゥウルゥとなんとも言えない高い唸り声を発っしながら、舐めるようにしてこちらを見つめている。鳴き声の真意こそわからないものの、猫撫でするような声で鳴く辺り、こちらをおちょくっている事はまざまざと理解できたし、何よりそれが嫌悪感を際立てた。
なぜ、猿があそこまで大きくなるのか、どうして湖から這い出てきたのか―――――その一切は判らない。だがしかし、
いけない、一秒でも長くここに留まってはいけない。走れ、ここから逃げるのだ。しかし悲しいかな足が竦んで動かない。足音が近づく、すぐ後ろのようだ。恐怖で息が上がる。走れ、死にたくない、走れ、走れ、走れ!
瞬間、体の中で何かが弾け自分でも驚く勢いで森へとかけ出した。
なるべく全力で足を前に出せ、走らなければ、立ち止まれば俺に明日はない。
後ろから、メキメキと木々をなぎ倒す音が聞こえる。
体を醜く震わせ、よだれを撒き散らしながらこちらへ向かって来ているのだろう。
異形は吠える、待てと、喰わせろと。
そしてひらすら猛進する。獰猛に、凶暴に。
ただ、俺を喰らうために。
◇
走る、疾走る。音が聞こえなくなるまで逃げるのだ。しかし、どこまで逃げれば良い?
思考の渦に陥りながらも、いつの間にか開けた道に出た。
――――そこは、きっと人が整備した道だと思い、少々ホッとした。何の事はない、ようやく人気を感じたからである。
誰だっていい、誰だって。とにかく人に会いたかった。
そこからはもう、その道を、がむしゃらに走った。死なないために、生きるために。
しばらく経つと、遠く、遠く、光が見えた。誰かの懐中電灯だろうか。なんだって良い、ようやく人に出会える。しかしこのバケモノと合わす訳にはいかない。一体、どうしたら良い?
ふと冷静になり耳を澄ますと、後ろから鳴っているはずの音がなくなっていることに気付いた。
立ち止まり、呼吸を整えながら振り向いて後ろを確認する――――道は暗いが、何もいない。
ああ、安心した。助かったんだ。あれは一体何だったんだと頭の片隅で考えながら振り返った瞬間、それは訪れた。
おそらく今までで生きてきた中で一番驚いたことだろう、意識するより先に声を上げた。
目の前の、ほんの数センチ先に奴はいた。目と鼻の先で壮絶な笑みを貼り付けていたのだ。驚愕のあまり数歩後ずさる。そこでようやく理解した。俺は始めから逃げていたのではない、ただ
大きな目玉がギョロリとこちらを睨む。俺はひい、と情けない声をあげた。
奴が右腕を振りかざす、かろうじて避けようと身を捩ったが、無駄に終わることを思い知らされた。
その大きい爪は、俺の右半顔にあたった。身を捩ったおかげで頭が吹っ飛ぶことはなかったが、頬と左目はちぎれ飛び、鼻は半端にえぐれ、左目を残して腕は去っていった。
その時生じた痛みは筆舌に尽くしがたい。
吹き飛ばされた頬と目に、破れた血管と涙腺から温かい血やら液やらが流れ込み、歪に寸断された神経へと染みわたる。
熱くて痛い、焼きごてを無理やり突っ込まれて引っかき回されたという表現なら感覚は近いだろうか。
あまりに痛くて過呼吸になりそうだが、鼻も半端にえぐれいるため息をするたびに穴に血が押し入ってくる。無論思い切り息を吸うのだから血は勢い良く気管支へと侵入し、咳が出る。その咳によってまた頭に力がかかり、目に尋常ならざる痛みが襲いかかってくる。
悪夢のような悪循環、しかし恐怖はこれだけではない。右が、まるで見えないのだ。何も見えない、何も感じない、目をつむった時とは少し違う。感じるのは喪失感と痛み、そして圧倒的な絶望だけだ。
無事の左目にも血が飛び散り、残された視界は赤く、紅く染まっていった。
あまりの痛みに呻き声しか出ない、しかし奴はやってくる、一歩、また一歩。嫐るように、反応を確かめているのか勿体つけたように一歩、また一歩と。
「来るな」と声にならない声を絞りだす。死が近づく、頼む、来ないでくれ、なんで俺がこんな目に。
奴の大きな口が開いた、むせ返るような生臭さが漂う、鋭利な歯には血や粕がこびりついているのが見えた。ああ、俺はあの中に入るのか。
異形は長舌を伸ばし、俺の顔を味見するように舐めたてる。ペチャペチャと音を立て舌が這いずり回ると顔中に血が広がる。どうすることもできない痛みと恐怖からくる体の震えは抑えようもなく、ただ小刻みに震えた。
ジワリ、股に暖かい液体が染みわたる。どうやら失禁したらしい。
明確な死がそこにあるのに、頭はどこまでも冷静だった。俺はここで喰われて死ぬのだろう。どうかこれが夢であってほしい、悪夢で、あってほしい。
そうだ目が覚めたら、まずは――まいった、何も思い浮かばない。
片方しかない目を瞑り、覚悟を決める。
――――しかし、いつまで待とうとも来るはずの終わりがこない。奴は、震える俺を見て楽しんでいるのだろうか。
目を開けた、相変わらず奴はの前にいる。しかし奴の動物的な動きは止まっていた。否や、ズウンと、地響きを残し横向きに倒れる。なんだ一体、立て続けに。
しばらく放心していると、異形の後ろから人影が出てきた。
「危ないところであった」とぶつぶつと小さく、されど空気が震えるようなしゃがれ声が響く。
何だ? もしかして新手か、そんなに俺を喰いたいのか。
人型の影が近づく、もうダメだ、殺される。途端、ぎゅっと、抱きとめられた。
「もう大丈夫だ、怖かったろう」頭を撫でられる、その声はひどく優しかった。
何が大丈夫なのか分からないが、その言葉を聞いてとても安堵した。
そしてどうやらそこが限界だったらしい。糸が切れるように力が抜ける中、歪んだ視界に写ったのは人の姿だった、ような気がした。