英雄よりも騎士になりたいと思うのは間違っているだろうか 作:琉千茉
今回、後書きにて『閲覧用垢』様より頂いた挿絵を導入しています。
真っ赤な炎の海の中、二つの影が揺れ動く。
一つは小さな体を宙に浮かせ、もう一つはその小さな首を黒い手で掴んで締めていた。
小さな影が苦しそうに踠くが、その黒い手を振り解くことは出来ない。
そこにもう一つの黒い影が現れる。
銀が煌き、一瞬で二つの影の間を斬り裂いた。
黒い手の影は斬られた片腕を押さえながらその場から離れる。
残されたのは、解放された小さな影と後から現れた黒い影。
黒い影の手から銀が落ちる。
横たわる小さな影に慌てて駆け寄り、抱き上げた。
必死に声を掛けるが小さな影が首を横に振った。
――俺様を殺せ、チヒロ。
黒い影から幾つもの雫が零れ落ちる。首を横に振れば、その雫が不規則に散らばる。
だが、小さな影はその反論を許さない。
暫くして、黒い影は小さな影をそっとその場に寝かせて、先程落とした銀を拾う。
そして、幾つもの大粒の雫を地に落としながら、小さな影へと銀を振り下ろした。
◆◆◆
「――ッ!!」
ガバッと勢い良く起き上がったチヒロは、肩を上下に動かしながら荒い息を繰り返す。
嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、見開いた空色の瞳が右往左往する。
そこがいつもの隠し部屋だと分かり、徐々に落ち着いてきた呼吸に、強ばっていた肩から力が抜けていく。
「……また、あの
先日の
自分の罪を忘れるなと、何度もあの悪夢がチヒロに囁いてくるようで。
嘆息して、壁に備え付けてある時計を確認する。現在の時刻、深夜の三時。
眠っていたソファーから体を起こせば、ドサッと何かが床に落ちた。
それはチヒロが眠る前に呼んでいた本。それを拾い上げて、本棚へと戻す。
昨日、買い出し帰りのリューを豊饒の女主人に送り届けたチヒロは、その後隠れ部屋へと帰り、ヘスティアとベルが眠っている事を確認して、ヘスティアのバイト先へと出向いた。
あの駄神と呼ばれたヘスティアがあんなに頑張っているのに、一日無断欠勤してクビにさせられましたなんてなれば、ヘスティアが落ち込むのも目に見えている。バイトを探してくれたヘファイストスにも失礼である。何よりもヘスティアがジャガ丸くんを持って帰って来なくなる事がチヒロにとっては一番あってはならない事だ。
だから、ヘスティアの代わりにチヒロがバイトに出て、何とか主神の名誉とジャガ丸くんを守り抜いた。
その後はチヒロのおかげで売上がいつもの三倍――主に女性客が殺到したせい――という事で、バイト先のおばさんにご飯をご馳走してもらい――お土産にお目当てのジャガ丸くん小豆クリーム味も沢山もらった――帰ってきたのは夜の十一時になっていた。
それからシャワーを浴びて、ゆっくりソファーで本を読んでいたらいつの間にか眠りに落ちていたようで、現在に至る。
「……よく寝るな」
一つのベッドで仲良く眠っているヘスティアとベルを見て、チヒロは小さな笑みを浮かべる。
少しだけズレている毛布を二人にかけ直して、黒いローブを纏い壁に立てかけていた阿修羅を手に外へと出て行く。
外へと出れば、辺りは真っ暗で、空には神々しい光を放つ月と幾千もの星が煌めいていた。
暗い道を躊躇する事なく、チヒロは歩いて行く。時間が時間だけに誰とも擦れ違う事なく、目的の市壁――迷宮都市を囲う巨大壁の上に辿り着いた。
巨大市壁から広大なオラリオの街並みを見下ろす。もう少し早く来ていれば地上にも沢山の星が煌めいていただろうなと思いながら。
この時間でも明かりが絶えないのは南のメインストリート――
歓楽街に関しては、人に言えないような思い出がある為、そこが目に入った瞬間頬を微かに赤くしながらサッと逸らした。ニヤニヤしたクロノスの顔が浮かんだが、それも振り払う。
本来市壁内部は封鎖されているはずだったのだが、チヒロは出入り口がある事を冒険者であった父親から昔聞いていた。
初めてオラリオに訪れた際に、試しに探してみれば本当にあった。
市壁内部には何者かが住んでいた形跡があり、驚くことにシャワー等の生活空間、石部屋まで存在していたのだ。作ったのは全てチヒロの父親らしいのだが。
何故そんな事をしたのか聞けばいい笑顔で返事は返ってきた。
――『秘密基地』は男のロマンだろ。
クロノスの「女がどう」とか「ハーレムは~」というのはあまり理解出来ないチヒロだが、これに関しては共感を持てた。
現に、見つけた当初は空色の瞳をキラキラさせながら中を見て回ったし、誰にもバレないように隠れながら何度も訪れた。隠れながらという事に尚更秘密基地感があって、ワクワクしたのを覚えている。
但し、秘密基地と言ってもチヒロだけの秘密基地ではない。
アイズがロキ・ファミリアに入団したての頃、幼かったアイズが主にリヴェリアとの一方的な喧嘩でホームを飛び出してくる事が何度かあった。
その度にアイズが訪れたのが、チヒロのいるクロノス・ファミリアのホーム。
仕方なくアイズを保護したチヒロだったが、その事をクロノスに話せば、何故か「お前も家出してこい」とアイズ共々ホームから追い出された。
何でそうなると反論したが、一向に中に入れてくれないクロノスに諦めて、アイズをこの市壁の『秘密基地』へと連れて行った。
目をキラキラさせていたアイズに、チヒロが『二人だけの秘密』と言えば、笑顔で頷いてくれたのを覚えている。
それからココは『二人の秘密基地』となっている。
そんな事もあったなと思い出しながら、先日の豊饒の女主人での事を思い出す。
自分の我儘でアイズを振り払い、傷つけた事を。
「……あれはやっぱり大人気なかったよな」
昔から一緒に居ることが多い分、他の女性を相手にする時とは違って、ついアイズにはカッとなって怒ってしまったり、思ってもいない事を言ってしまったり、泣かせてしまったりする事があった。あのアイズに泣かれた時は本気で焦ったが。
それは一年ぶりに再会した今でも変わっていない。全く成長していない自分に、溜息が出る。
「……今度会ったら謝ろう」
アイズに謝る事を決意したチヒロは、羽織っていたローブを脱ぎ市壁の石畳に置き、阿修羅は胸壁へと立てかける。
「昨日一昨日と出来なかったからな……」
腕を十文字に組んだりと体を軽く解してチヒロは動き出した。
軽く市壁を一周してから体を温め、腹筋千回、背筋千回、腕立て伏せ千回、指立て伏せ千回を行う。
指立て伏せに関しては、逆立ちしながら五本指で千回、次に四本の指で千回、三本の指で千回と指の本数を減らしていき、最後に人差し指のみで千回行う。
ポタポタッとチヒロの顎から幾つもの汗が流れ落ちる。
「九九九ッ……千ッ!」
最後の一回を終えると同時に、人差し指で強く体を持ち上げ、そのままシュタッと立ち上がる。一度深呼吸して顔から流れ落ちる汗を袖で拭う。
休む事なく、チヒロは次に阿修羅を手に取り素振りを始める。
これはチヒロが一三年前から行っている鍛錬。
今日のように悪夢を見てどうせ寝れないのならと始めたのが切欠だ。
始めたばかりの頃は、今よりもう少しメニューが軽く、回数も今より少なかったが、それでも一日中やらなければノルマをクリアする事は出来なかった。
ただ、遠征帰りや昨日のような何かしら理由が無い限りは鍛錬を怠ることはなかった。いや、怠ることが出来なかった。
そして、その歩みを止めてしまった今でも、チヒロは鍛錬を怠ることが出来なかった。
きっとまだどこかで思っているのだ。
――僕は強くなりたいんです!!
「……俺にそんな資格ないだろ」
素振りを終えたチヒロは、ベルの言葉を思い出して顔を俯かせる。
守る事の出来なかった大切な
守る事の出来なかった大切な
そして、それを奪っていった黒い人物。
「……っ」
その人物を思い出して、阿修羅を持つ手に力が入る。
真っ黒なローブを纏い、真っ黒なフードを顔を覆うほど深く被り、真っ黒な服装に腰に差していた黒と白の二本の刀。そして、一瞬だけ見えた目元を覆う真っ黒な仮面。
空色の瞳が憎しみに染まる。だが、それは一瞬だけで、すぐに自嘲の色へと変わった。
「……リューに合わせる顔がなくなる、な」
自分の我儘で彼女の復讐を阻止した時の事を思い出す。一瞬だけとはいえ、復讐心に染まった心に、今の自分はあの時の彼女と何ら変わらないと。
気持ちを切り替えるように、魔法で等間隔に五体の木人を作る。
そして、悪夢も復讐心も――全てを振り払うように阿修羅を構え直して駆け出した。
◆◆◆
「……まだ寝てるのか」
鍛錬を切り上げて隠れ部屋に戻ってきたチヒロは、未だに二人仲良くベッドで眠っているヘスティアとベルを見て、若干呆れる。一三年前から悪夢ばかりに魘されて、碌に眠る事が出来なくなった者としては、少しだけ羨ましくも感じる。
ヘスティアがベルの名前を呼びながらベルに擦り寄っていて、それにベルが苦しそうな顔をしているが、それでも起きる気配はない。
どうしたものかと悩むが、起こす気は無いようだ。
「確か『神の宴』は今日だったよな……」
前に招待状が届いた時、ヘスティアは行く気はないとチヒロに言っていた。
だが、今の彼女ならきっと行くはずだ。
眷属想いの主神なら眷属が強くなりたいと言えば、それに協力を惜しまないはずだ。
そして、そんな主神に協力するのも眷属の役目。
「ヘファイストスには手を打っといた。後は……『あれ』を取りに行くか」
少しだけ考えたチヒロは、準備を始める。
まずは鍛錬での汗を流す為、一度シャワーを浴びる。
その後は、丸一日何も食べていない――丸一日眠っているのだから当たり前ではあるが――二人が起きた時に腹を空かせているであろうと思い、昨日もらったジャガ丸くんを机の上に置いておく。それに書置きをした紙も乗せる。
そして、もう一度二人の寝顔を眺めてから、再び外へと出て行った。