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平日の夕方の病院はとても静かで、沈みかけた太陽が差し込んでくるオレンジ色の光線がひどく物悲しい印象を与える。人の姿がまばらなのもそんな雰囲気を助長しているのかもしれない。私はたまたま空いた時間を見つけたので、こうして知り合いが入院している病院へとやってきた。先の大規模侵攻で戦功を受けるほどの活躍をしたそうで、途中で戦線から離脱をせざるを得なくなった私は、彼に対する評価を少しは改めなければならないみたいだ。もちろん考えは甘いし実力はそれ以上に伴っていないけれど、それで救われた人がいるのならそのこと自体は評価されなければならない。何よりそんな彼が未だ目を覚まさないほどの重体だというなら、一度くらい見舞いに来なければならないと思う。あくまで礼儀の問題として。
こつこつと響く乾いた音が、廊下の天井付近で留まっているような気がした。私は彼とそれほど親しいというわけではないから、彼の好みのものなんてよくわからない。だからとりあえず花だけ買ってここへ来た。どうやら彼のために多くのボーダー隊員がお見舞いに来ていると風の噂に聞いたので、別に気の利いたものを持って行く必要もないのだろう。そういった意味では不思議な人物だ。特段なにが優れているというわけでもないのに彼の周りには人が集まる。それがA級までも巻き込むというのだから大したものだ。不思議な人物。ため息をつきたくなる。
ドアを開けると、そこは色んな花の香りが混ざり合ってむせ返るような空気で満たされていた。集中治療室のガラスの向こうの彼は色んな管に繋がれていて、それはさながらパペットのようだった。どれかひとつの管を引っ張れば体のどこかが動くかもしれない。目は閉じられていて、やけに印象に残る眼鏡がベッドの脇のテーブルに乗せられていた。私に医療の知識はほとんどないから、彼の状態のことはわからない。じっと見ていても仕方がないから視線を外してお見舞いの品を置く場所へと目を向けると、なんだかたくさんの品々が並んでいた。私と同じように花はもちろん、文庫本やら犬のぬいぐるみやら実にバリエーション豊かだ。まだ彼がここに入れられてからそんなに時間は経っていないというのに。ずいぶん偉くなったものね、三雲くん。
お見舞いの花束を置いて、もう一度ガラスの向こうの彼を見る。きちんと仕切られたあちら側とこちら側はほとんど別の世界のように見えた。向こうは清浄な空気で満たされていて、こっちはそうではないかのように。実際に集中治療室の中の空気は本当に綺麗だけれど。向こう側では様々な計器が安定して動いていた。
「ねえ三雲くん、聞こえるかしら? こっちは大変なことになっているわよ」
「C級隊員がけっこう攫われたし、ボーダー内に死者も出たわ」
「あなたにできることがあるわけじゃないけど、早く起きなさい」
言葉が空中でいったん固まって、変な飛び散り方をしたような気がした。きっともっと相応しい言葉があるはずだけど、私にはそう表現することしかできなかった。決して三雲くんに対して嘘をついているからとかそういうわけじゃなくて、最近知り合った変態が頭を悩ませているのが原因なのだ。でも入院していて意識さえない彼にそんな相談をするのはお門違いもいいところで、もしも三雲くんに意識が戻ったところでうまく説明できる自信はない。肩に黄色い輪っかをつけている、なんてひとつの特徴ですら冗談にしか思えないくらいだ。
とりあえず用事は済んだし、本部に戻ろうか家に帰ろうか。街を守るという大きな役目もあるけど、学生でもあるから勉強なりなんなりとやらなきゃいけないことはたくさんある。時間は有効に使わないといけない。まずはここを出てちょっと休憩しながら考えよう。ガラスの向こうに視線をやりながら出口の方へと歩き出すと、ほどなくして誰かにぶつかった。看護士の方だろうか、いやおかしい、私がこの部屋に入って以降は扉の開く音なんてしていないはず。それ以前にこの距離で気付かないなんてことがあり得るだろうか。おそるおそる顔をぶつかった方へ向けてみた。
「おっ、キコじゃないか! ラバーメン!」
「おおおおおわあああああ!!????」
「どうしたんだい? 驚くこと烈火のごとしじゃないか」
おかしい。何がおかしいって全部おかしい。言いたいことだらけだけれど、さしあたって最大の疑問点は、どうしてこの人がここにいるのかということだ。誰もいなかった。誰もいなかったはずなの。もうラバーメンがゴム人間だとかどうでもいいの。誰か助けて。
あまりの事態に半泣きになっていると、さらなる追い討ちが私を、正確には私というわけではないのだろうけど、襲った。計器が故障したときを思い起こさせるわざとらしい警告音が鳴り、急いで振り返ると心電図を示す線がぐにょぐにょと動いて文字を形成した。
“べるバら”
「なんでよ!?」
「ああ、精密機械に近づくとね、表示がおかしくなるんだ」
ウフフ、と満足そうな笑みを浮かべて肩につけた謎の物質をこつこつと指で叩いてアピールする。原因はそれか。
「それどころじゃないわ! あそこにいるのは患者なのよ!? それが原因なら早く出なさい!」
「ん? 故障はしないよ?」
誰がそんな言葉を信じるか。心電図に文字を出しておいて問題なし、だなんて安心できる要素がひとつも見当たらない。とりあえずナースコールを連打する。さっきまでは容体は安定していたけど、今となってはもうそれは信頼できない。むしろこの場に私が居合わせたことが幸運だとさえ考えるべきね。私がここに来なければこの変態も来ることはなかったなんて考えちゃダメ。
あまりの連打によほどの事態が発生したと思ったのか、ナースの方がものすごい勢いで駆けつけてきて、そしてひぎゃあと悲鳴を上げた。それも当然だわ、心電図に文字とか考えもしないはずだもの。あとその言葉のチョイスはなんなの。
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手の空いてる看護士総出でなんとかします、と集中治療室を追い出されて、私は仕方なく廊下にあった長椅子に座って経過を待つことにした。さすがにこの状況で帰れるほど血が通っていないわけじゃない。正直言ってまだ落ち着いたとは思えないけど、さきほどよりは冷静になれたと思う。なぜそう思えるようになったかと言えば、この花中島マサルという人の格好に改めて違和感を覚えることができたからだ。
肩の輪っかについてはもういいわ、考えないことにする。でもいくら長袖とはいえ肌着一枚って寒くないのかしら。たしかにトリオン体ならそういうのは無視できるけど、見た目からしてそうじゃないのは明白だわ。ちらっと確認したら靴も奇妙なものだった。小さな子が履くような、紐靴でもマジックテープでもない上履きみたいにゴムで留める靴。しかも表面にはヨロシク仮面なるあやしい人物がプリントされている。顔が見えないように仮面をしてるのはまあいいとして、マントとパンツだけというのはどういう了見なのかしら。そして商品化されているということはそれなりに流行っているのかしら。というよりよくそのサイズ売ってたわね。
そんなことを考えていると、やけに早く集中治療室からナースの方たちが出てきた。不思議そうな表情を浮かべて不思議そうに言葉を交わしている。おかしい、どこにも異常が見当たらなくなったと言っているのが私の耳にも聞こえてきた。そのうちの一人が私の方へやってきて、異常がなかったこと、でも呼んでくれたのは間違いじゃなかったこと、そして感謝を伝えてくれた。三雲くんに何もなかったのはいいことだけれど、どうしてかしら、なんだか腑に落ちないわ。
私は気になったことをすぐに消化してしまいたいタイプの人間だから、この場で発生した状況について花中島先輩に聞くつもりだった。場合によっては肩の輪っかを奪ってやろうか、ぐらいには考えていた。そうして口を開こうとした瞬間に、花中島先輩は手の平をこちらに向けて私の言葉を遮った。
「フフ、わかっているさ、聞きたいんだろう? キコ」
S級の人たちはどこかつかみどころがなくて苦手だ。聞きたいことがあるのは事実だったので、私は黙って視線を先輩へと向けた。あとなんでこの人は微妙に芝居がかった喋り方をするのだろう。
「カックラキン大放送は、録画してあるよ」
眩しい笑顔を浮かべてそう言い放つ先輩を、私はどんな顔で見ていたかわからない。まず録画を頼んでいないし頼むにしてもあなたじゃないし、だいいちカックラキンはもう放送していない。私が生まれるだいぶ前の話だ。というかそれならあなた何歳なんですか。高校のズボンってことはいいとこ十八でしょう。頭のてっぺんから爪先までおかしいとはまさにこの人のことだ。地球上で、いえ近界含めておかしい人ランキングをやったってこの人がぶっちぎりでトップを獲るに決まってる。賭けてもいいわ。
そのあとやりきったかのような清々しい顔をして、タンゴのリズムに乗りながら帰っていく彼の姿を、私はただ茫然と眺めることしかできなかった。
この人ここに何しに来たんだろう。と体の内側から自然に疑問が湧いたけれど、それを聞くのがあまりにも怖くて聞けないままに。