多々良小傘は西陽の差す人里の通りを歩いていた。
畳んだ傘をふりふりと手に振って歩いていた。
その脇を、はしゃぐ子供たちが追い抜き、畑から帰る農家の家族がすれ違った。
里の人間は彼女の姿を見ても、なんとも思わない。誰もが小傘の正体が妖怪だと知っていたが、人を驚かすことしかできず、その能力すらうまく発揮できない彼女は、ほとんど人畜無害な妖怪として広く認められていた。それどころか子供たちは愉快な遊び相手として彼女をつけ回し、老人たちは孫でもみるかのように彼女を見守るのだった。
もちろん小傘はそんな扱いに不満を抱いている。人間たちに恐怖を与えられないで何が妖怪なのかと悩むときもある。しかし、人里を自由に闊歩できるおかげで、たまに手に入れるわずかな銭から食い歩きが出来ることを楽しみにしているのも、また事実だった。
彼女は人間とそこそこの交流ができる現状に満足していたのだ。
しかし、人間との違いを突きつけられることもある。
幾つかの出店が並ぶ街路で、小傘は狭い路地裏に和傘が打ち捨てられているのを見つけた。道行く人は誰もその傘に気づかずに通りすぎていく。彼女は傘を無言で拾うと、それを注意深く観察した。
たいした損傷は見られなかった。まだまだ働き盛りといった具合にシミのついた紙が数ヶ所破れているのみである。おそらく主に置き去りにされて、今日まで放っておかれたのだろう。
小傘は周囲を見渡したが、手元の傘に目をやる人間はいない。待てども待てども、彼女に私が持ち主だと言って近寄る人間は現れなかった。
小傘はその傘を持ち帰ることにした。
二つに増えた傘の長い影をゆらゆらと揺らして彼女は家路についた。
ふと西空を見上げると、山の向こうに茜色の光を放って太陽が落ちていくのが見えた。しかし、それは厚い雲に覆われて途切れ途切れに見えるのだった。
その日に見た雲は雨を連れてきた。
翌日、藁を敷いた布の上で目を覚ました小傘は、小屋がさらさらと雨音に包まれていることに気づいた。年期の入った壁の隙間から外を窺うと、木々が朝の雨にしょぼくれた枝を風に揺らしていた。
小傘が根城としているのは、人里から離れた場所に立つオンボロ小屋である。元は農具入れにでも使われていたのだろうか、木床もないそこは他の妖怪の気配もなかったので、小傘は数年前から勝手に所有している。別に誰も文句を言いに来ることもなかったし、帰る場所があるということはなんとなく彼女を落ち着かせた。たまに他の妖怪を泊めさせてやることもあった。
小傘は傘を差して小屋の前のあぜ道に出た。雨はそれほど強くない。空は灰色に覆われており、それが山の向こうまで続いている。
小傘が里の方向に目を凝らしたが、雨でけむっていて建物の影も見えない。里から延びてくる小道を見ることはできたが、この時間帯ならいつもは田畑仕事に出かける人間の姿がポツポツ見えるものを、今日は一人も見かけなかった。
「これは今日はだめかあ」
小傘は肩を落とすと、すごすごと小屋に帰った。人間たちが雨で外出しないとなると、彼女のエネルギー源となる人間の「驚き」も手に入らない。
若干小腹が空いているのを小傘が感じながら、ふと彼女は小屋のすみに目を止めた。
暗がりのなかで傘が数本半開きで置かれている。その中には昨日拾った和傘も含まれていた。傘たちのなかにはボロがきて修理を要するようなものもあれば、ほとんど使用に支障のないようなものもあった。彼らの和紙にはいくぶんか掠れているものの、朱い小鳥や緑の葉っぱ模様が描かれており、小屋の殺風景な景色を唯一彩っていた。
これらは全て小傘が拾ってきたものである。
また、傘の側には粗末な棚が置いてあり、そこには和紙や色糸、糊、油などの傘の修理に必要な道具が一通り揃えてある。
小傘は小屋を棲みかとしてだけではなく、同胞の傘の修理場にも使っていたのだった。
もちろん里の傘屋に頼み込んで教えてもらったその技術は未だ未熟だが、簡単な不具合くらいなら直せるようになっている。 傘屋の主人は報酬を欲さずに傘を助けたいと言う小傘をいたく気に入り、本来商売の邪魔になるその願いに対して修理方法を教えるばかりか、必要な道具をタダ同然で提供してくれている。
小傘はたまに里に出掛けると持ち主から小銭を貰って修理を請け負うこともあるが、野ざらしにされた傘を拾っては勝手に修理する事の方が多い。彼女自身の手に負えない修理が必要なときは素直に里の傘屋に渡すようにしていた。
天井から雨漏りの水滴がぽつりと降ってくるのを横になって見ながら、小傘は今日の修理作業を諦めた。こう雨で空気が湿っていると紙を張り替えてもうまく乾いてくれない。
それならば、と小傘は起き上がり、外出の準備をした。といっても相棒でもあり半身でもある茄子色傘と使い古した下駄というスタイルには変わりなく、よっこらせと背負った大きな竹籠と、修理済みの藍色の傘一本がそのなかに入っているのがいつもと違う点である。
「雨、雨、降れ、降れ、母さんが~」
小傘は籠に雨粒が入らないように開いた傘を傾けながら、雨のなかに踏み出していった。
小傘が目的地に向かうに連れて、雨足はだんだんとその勢いを増していった。小雨程度の雨もパラパラと傘に当たって音をたてるようになっていた。
それに連れて、小傘は気が沈んでいくのを感じた。雨が嫌いなわけではない。彼女が向かっている場所に問題があった。
人里から離れる小道を辿り、魔法の森に入ると、木々を伝い落ちる大きな雨粒が傘を軽快に叩いた。日が射さない森の中はなんとも薄気味悪く、小傘は足早に小道を抜けた。
軽くうつ向いて歩いていたものだから、小傘がその少女に気づいたのは彼女と目と鼻の先になってからのことだった。
「あ・・・」
森は深く、突然現れた少女はあたかも魔法使いである。実際そうだったことを後日小傘は知った。
大木の陰で雨を凌いでいるらしきブロンドの少女は手にした西洋人形を弄っていたが、唐傘妖怪が自分を認識したことに気づくと、軽く頭を下げた。小傘も慌てて頭を下げ、彼女の物静かな雰囲気に押されて道を急ごうとしたが、自身の目的を思い出すと、
「ねえあなた、雨宿り?」
と言って少女に近づいた。
少女は冷静に小傘を観察したが、やがて「そうよ」と言葉を返した。
それを聞いた小傘の表情がぱっと明るくなる。なぜ嬉しがるか分からないでいる少女を尻目に、小傘は精一杯腕を後ろに伸ばして、竹籠の中から先程の修理された傘を取り出した。
「じゃーん!どうぞ、これを使って」
そう言って藍色の傘を差し出す。
「私に?」
少女はいきなり現れ、さぁこれを使えと傘を取り出した小傘に戸惑っていたようだった。しかし小傘の屈託ない笑顔を見るとその戸惑いは消え去ったようで、彼女は微笑んで傘を受け取った。こういった見知らぬ人物との対面で、小傘本人の自覚していない特技はいかんなく発揮される。
「ありがとう、唐傘お化けさん」
「なんのなんの、お嬢さん」
小傘もにっこりとウインクを送った。
そして、少女に願いを託す。
「その子、大事に使ってあげてね。帰ったら乾かして、使わない日は丁寧に保管して、壊れる日が来たら感謝して弔ってあげて・・・」
「ええ」
少女は小傘の願いに頷くと、片腕に人形を抱き、片腕で傘を持ち、道を外れてさらに森の奥へと去っていった。小傘は藍色の傘が揺れるのを暗がりに消えるまで見送った。
更に雨の勢いが増したかと思われた。ずっしりと重みすら感じる雲が空にのし掛かっている。
人気のない道には水溜まりがいくつもできており、雨水が跳ねて小傘の足元をずぶ濡れにした。しかし小傘はそのことになんの関心も示さなかった。すでに彼女の心は雨を吸って濡れそぼっていたのだ。
魔法の森を抜けた先に続く再思の道の脇は、真っ赤な絨毯で埋め尽くされていた。この季節、葉のない彼岸花が咲きに咲いているのである。物憂げに雨に打たれるそれを見ながら、小傘はさらに先へと進んだ。
この道の先に、彼女の目的地の無縁塚があるのだった。
小傘は墓場が大好きである。静かで涼やかで、驚かすのが下手な彼女でも驚かす成功率が高まる雰囲気を持つ墓場は、彼女にとって素敵な暮らし場所だった。
しかし、この無縁塚は違った。
手入れの入っていない草が生え放題伸び放題になっていて、そこらに転がっているのは無愛想にゴツゴツした岩ばかり。その下には弔う縁者もいない人間たちの死体が埋まっているのだ。そしてそこにも、死体の血を吸ったかのごとく真っ赤な彼岸花が咲き乱れている。
ここへ死者を弔おうとする人がやって来ることはない。
幻想郷、外界、冥界の三界が入り交じるここは人妖問わず危険な場所と見なされ、小傘が驚かすべき人間など寄ってこないのだ。
しかし小傘自身を筆頭に物好きがたまにここを訪れることもある。
「やや、小傘じゃないか」
無縁塚の隅に掘っ立て小屋を建てて、何が面白いのか、暇があればそこを訪れる妖怪もそのひとりだった。
「またあれを取りに来たのか」
「うん」
ナズーリンというその妖怪ネズミは、顔馴染みである小傘が雨中に立ち尽くしているのを発見すると、彼女を小屋に招いて温かいお茶を出してくれた。小屋は小傘のものとは違い、暖かみを感じる木製の机や椅子が完備してあり、壁には奇妙にねじくれた鉄棒や振り子が並んでいた。
「まったくキミも世話焼きだな。外の連中なぞ放っておけばよいものを」
ナズーリンはペンデュラムを持ち、ブツブツと何事か呟きながら振り子の揺れを見つめていた。
「放っておけないよ。誰もあの子達に気づかないんだから」
木製の椅子に座った小傘も所在なさげにナズーリンを見守っている。青く透き通った振り子の石がゆらゆらと円を描いた。
「キミがいくら彼らを拾っても無駄だ。数日後にはすぐ山ほど送られてくる」
「分かってるよ」
「ここに来るものだって、ほんの一部に過ぎないんだよ」
「分かってる」
「キミは彼らを変えることはできないんだぞ」
「でも、そのほんの一部を助けることはできるよ」
ナズーリンは押し黙った。
突如、バラバラと乱暴な音が小屋に響き渡った。
「…また雨が強くなったね」
ナズーリンが呟いた。確かに雨は本格的に土砂降りの構えを見せてきており、小傘でも外出をためらうほどの強さである。しかし、
「私は行くよ。これ以上雨に打たせていたら可哀想よ」
小傘の言葉にナズーリンはため息をついた。ペンデュラムをポケットにしまい、小傘に向き直る。
「小屋を出て右側、四本目の桜の下の茂みの奥だ。そこにかたまっている。風邪をひかないようにね」
「ありがとう、ナズちゃん。お茶美味しかったよ」
小傘は礼を言うと、再び傘を手にして籠を背負い、雨のなかに飛び出していった。
ナズーリンはもうひとつため息をつくと、雨に煙る窓の風景を眺めた。
「小屋を出て右側、四本目の桜の…」
小傘はナズーリンに教えてもらった場所に向かった。無縁塚の風景は白く掠れている。雨は大粒で押し寄せ、彼女の足元どころか膝下まで濡らした。それでも小傘は傘を立て、重い足を運んで果敢に行軍した。
「ここね…」
桜の下の茂みにたどり着いた小傘は鼻をすすった。そして傘を持っていない手で両目を擦ると、彼女は意を決して茂みの向こうを覗き込んだ。
雨を大量に吸い込んだ小傘の心が限界をむかえ、ぽたぽたと雫を落とし出した。目の前の光景を見て、小傘は泣いていた。
茂みの奥で、誰にも見てもらえず、誰にも思い出されなかった数多の傘が打ち捨てられていた。
小傘はもはや豪雨を気にせずに傘を畳むと、無惨に捨てられた傘たちを拾っては背中の竹籠に入れた。彼女の体がじんわりと濡れていくが、その冷たさを小傘はむしろ心地よく感じた。
辺りに転がっている傘たちは小傘の知っている和傘ではない。骨は頑丈な金属で作られ、見知らぬ滑らかな布で作られた傘だった。ここには外の世界の傘が流れてくるのだ。
それらは幻想郷の傘よりも遥かに頑丈で、遥かに防水性に優れ、遥かに長持ちする代物だったが、彼女がここを訪れるたびに多くの傘が捨てられ流されている。修理しようにも、小傘はそれらの傘の扱いを知らなかったし、里の傘屋に持ち込んでもお手上げされた。
どうやら外の世界の人間たちは道具に感謝することを忘れてしまったらしい。
小傘は月に数回、それらの傘を集めにきては持ち帰り、まだ使えそうなものは貰い手を探し、そうでないものは自分で人間たちに代わってねぎらいの言葉を投げ掛け供養していた。
今回は誰も捨てられていませんように、という彼女の願いとは裏腹に、今日も無縁塚には忘れ傘の小山が作られていた。色鮮やかな傘たちがその身を泥水に浸して、自分を見つけてくれる人を待っていたのだ。
「よしっ」
傘を全て竹籠に回収し終えた小傘は、雨に濡れて顔に垂れ下がった前髪をかきあげた。すでに頭から肩にかけて雨水に浸されていたが、すぐに体全体までそれが広がるだろうことは間違いない。
重くなった竹籠を背負い、改めて自身の傘を開こうと小傘がしていると、ふと森の奥から何かしらの音が聞こえた。聞きなれない、重いものを入れた箱が揺すられているような音である。
小傘は顔の水滴を払って森の暗闇に目を凝らすと、その闇を切り裂いて二つの目玉が光っているのに気づいた。そしてすぐ、目玉が光っているだけでなく、こちらに近づいていることを確信した。目玉の持ち主が作り出す重厚なガタンゴトンという音や、その揺れも伝わってくる。慌てて小傘は道を開けた。
轟音と重い揺れを発し森からぬっとその巨体を突きだしたのは、幻想郷では見られない、灰色の鋼鉄の箱がいくつか連なった乗り物だった。すなわち電車である。電車がヘッドライトを光らせてレールもなしに走っている。
それは水を跳ね、車輪を軋ませて金属音を撒き散らし、先頭車両の腹を小傘の目の前にして停車した。そして先程の轟音は何処へやら、しんと大人しくなったが、あまりの重厚感に小傘は圧倒されていた。
高い車窓から内部の様子が少し見えたが、乗客は見当たらない。明るい光が車内を満たしているのだけが見えた。
しばらく電車は濡れた車体をぬらぬらと光らせて沈黙していたが、やがて最前方の窓がスッとスライドした。
雨に濡れないように車掌室から顔を覗かせたのは、またもや少女だった。金糸をあしらった赤い服を着て、明らかに彼女にあっていないサイズの頭の掌帽の端からは、猫の耳がはみ出ていた。
彼女は橙という化け猫である。彼女もまた、小傘の顔馴染みだった。
橙は雨のなかずぶ濡れになる小傘を見つけると、雨音に負けんじと大声を張り上げた。
「なにやってんだい、びっしょびしょじゃないか!」
「あはは、ごめんね橙ちゃん」
小傘が今更に茄子色傘を開くと、橙は呆れ顔を引っ込めた。直後電車の全てのドアがプシューと間抜けな音を立ててひとりでに開き、漏れた光が小傘を照らし出した。
ドアの底辺は小傘の首ほどの高さに設けてあり、彼女は開いた向こうにスベスベした床や、乗客のいない座席を見た。すると、橙色の靴を履いた小さな車掌がぱたぱたと現れる。
橙は扉際の床にしゃがんだが、それでも小傘は橙を見上げる形になった。
「こんな雨の日にご苦労様だね、風邪を貰いに来たか」
「ごめんごめん、ちょっと落ち込んでたんだ」
ふむ、と橙は目を細めた。
「わざわざ今日来なくても。憂鬱な気分が増すだけなのに」
「雨は好きだよ。私たちが必要とされる日なんだから」
橙は腕を組むと、目を伏せて唸った。
「しかし悲しいかな、こんな雨の日にも必要とされなくなった子がいるなんて」
そう言い捨てため息をつき橙は立ち上がると、また奥に引っ込んで小傘の視界からぬけた。が、直ぐに戻ってくる。
その腕は大量のビニール傘を抱いていた。
「・・・またたくさん迷い込んだみたいね」
小傘が言うと、橙は苦笑いをしてトントンと片足を鳴らした。
「迷い込んだというより、こいつが引き寄せているみたいなんだよ」
「こいつって・・・この乗り物が?」
「そう、どうやら同じ境遇の連中に同情してるらしい」
小傘は改めて目の前の鉄の箱を眺めた。ところどころ塗装が剥がれかけ、表面が黒ずんで見える。
「別に小傘が供養しなくても私がするものを」
「ううん、私がしたいの。だから、任せて」
小傘は後ろを向くと、背中の竹籠を橙につきだした。橙はその中へ傘をどさりと入れた。
「今日もありがとう、橙ちゃん」
小傘は橙に向き直り、目を細めて笑った。雨が痛いほど叩きつけ、彼女を包み込んだ。
橙には髪から垂れた水滴に濡れた小傘の顔は、むしろ泣いているように見えた。
電車が重々しく去ったあと、小傘はトボトボと横殴りの雨のなか帰路をたどり始めた。人間に捨てられ、電車に置き去りにされた傘たちの姿が何度もその胸中をよぎった。
小傘は今日のような現実をみるたびに、もどかしさと悲しさに襲われる。しかし、小傘には同胞の恨み言を聞くことしかできなかった。所詮彼女たちは道具であり、人間のいいように扱われるしかないのだ。
ふと、小傘は赤い彼岸花の群れのなかに、黄色い物体を見つけた。手を伸ばしてそれを引きずり出すと、無惨にも骨がへし折られた黄色の傘だった。子供用なのか、小さく感じた。
小傘が傘を掻き抱くと、彼女の胸中を傘の無念がありありと貫いた。主人から忘れられた悲しさ、まだ使えるのにという悔しさ、ひたすらに人間を呪う怨みを感じた。その感情はその昔に小傘も抱いていたものである。
小傘が流れ着いた傘を回収し終えた瞬間にも、外の世界ではまたいいように使い倒された傘が人間に思い出されることもなく、幻想郷に流れ着いているのだ。
道に叩きつける雨のなか、舌打ちをする音が走った。
再思の道をたどり魔法の森を抜けた小傘は、小屋に帰らずに人里近くまでやってきていた。先程からこれまでにないほどの悲しい感情に背中を押されてきたのだ。しかし同時に小傘は悲しさとは別の感情に戸惑ってもいた。彼女が人間に初めて抱く感情だった。
雨は収まることを知らない。手の施しようもなく降り注ぐスコールで、地面は悲鳴をあげて弾けていた。川は勢いづき怒声を発していた。
台風のような風雨に揉まれながらも、先程から、小傘は前方に続く道をちぐはぐな色の両目で見つめていた。煙る雨のなかに人影が見えていた。
その男は里の人間の格好をしていて、傘を手にしていた。こんな天気の日にどんな用事があったか知らないが、里へ帰ろうとしているようだった。
しかし、横から叩きつけられる雨と風に大層難儀している。傘を吹き飛ばされそうになった男は必死に傘に取りついていたが、とうとう傘のほうが限界を迎え、あっけなくその骨が風にへし折れた。
小傘はその様子を瞬きもせずに見ていた。雨の音しか耳に入らなかったが、彼女は男のつく悪態と、折れた傘のボキリという断末魔を確かに聞いた。
男は少しの間雨宿りできる場所はないかと首を振った。その顔が小傘の方向に向かうこともあったが、彼が濃い雨のなかで、彼を凝視する傘妖怪に気づくことはなかった。
すると唐突に男は手にした傘を放り出し、小傘に背を向けて走り出した。彼は雨に濡れながらも、走って早く家に帰ることを決行したのだ。傘は風にあおられて空に舞い上がった。
小傘も走り出した。
彼女は雨のことなど忘れて傘を畳むと、男の後を凄まじい速さで追った。すぐに豪雨が彼女を襲うが、彼女はひたすらに男の背中を追いかけた。視界がぼやけ、幾度か転びかけたが、それでも小傘は歯をくいしばって駆けた。
一心不乱に手を伸ばした小傘の手が、男の背中を掴んだ。
止めどなく滝のように降る雨は、男と小傘を隠してしまった。彼らの姿も、声も、雨の幕を越えて誰かに気づかれることはなかった。
しかし、不思議なことに、雨はその後すぐに穏やかになった。夕刻にはさらさらと気持ちのよい小雨が、雲間から顔を出したオレンジ色の陽光にキラキラと光った。
しかしその時既に、男と小傘の姿は小道から消えてしまっていた。
翌日の早朝、小傘は茄子色傘をふりふり人里を闊歩していた。
その日の人里はどこか騒がしかった。
小傘が道行く人を捕まえて理由を聞いてみたところ、昨日の大雨のなか畑の様子を見に行った農家の男が、人里近くで死んでいるのを発見されたからだという。妖怪の仕業だということだ。
そこまで説明した人間は、ふと目の前のへっぽこ妖怪を上から下へジロジロと観察したが、すぐに首を振った。小傘が礼を言って去るとき、その人間が「まさかな」と苦笑するのを聞いた。
天気は昨日の鬱蒼とした雨から一転、清々しい青空が広がっていた。
小傘の気分も同様に晴れ模様である。満腹感が彼女を満たし、スッキリした心で絶えずニコニコと笑っていた。
いつにも増して陽気な小傘を見て、彼女を見知る人間たちも、暗いニュースを忘れて微笑んだ。
昼下がり、小傘は自分のオンボロ小屋にいた。小屋の中央に並べられているのは、昨日彼女が拾った傘たちである。骨が折れているもの、取っ手が捻れているもの、ビニールの部分が破けているもの。
それらを前に小傘は座り込み、両手を合わせ、外の人間たちに代わって彼らに感謝の言葉を投げ掛けるのだった。
「今までありがとうございました。もうお仕事はおしまいです。ゆっくりお休みください」
小傘ちゃんだって殺るときは殺るんだよ、というお話でした。
橙はああやって人知れず幻想入りした電車の車掌をやっているという独自設定です。
置き忘れられた傘が電車に集まって云々は、小傘のスペカ「忘れ傘の夜行列車」を見て思い付いたものです。本当に傘は電車に忘れやすいから困る。
ご指摘やアドバイス、感想などを頂けたら幸いです。