英雄になりたいと少年は思った   作:DICEK

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『戦争遊戯』①

 

 

 

 

 この世界において最も活気のある街であるオラリオにあっても、『戦争遊戯』は特に人気のある娯楽である。最強のファミリアはどこかというのは冒険者の街ならではの議論の種であるが、ギルドの規則によってファミリア間の私闘は禁じられているため、明確に雌雄が決する機会というのは少ない。『戦争遊戯』はその数少ない機会である。

 

 しかもその片方のファミリアが、最大手の一角であるロキ・ファミリアとなればこれを見逃す手はない。難点があるとすれば、ロキ・ファミリアから参加するのがレベル2である『白兎』ベル・クラネルのみということであるが、既にヘファイストス・ファミリアの団長である椿・コルブランドが彼に味方することを正式に表明していた。

 

 彼女はレベル5相当の鍛冶師である。オラリオ全体で見ても高位の実力者であり、中堅のアポロン・ファミリアが相手ならば、彼女一人でも戦況を左右するだけの実力を持っている。加えて、今回の『戦争遊戯』のルールはロキ・ファミリアの冒険者でさえなければ、誰でもベル・クラネルを援護できるようになっている。

 

 フレイヤ・ファミリアがアポロン・ファミリアの後援となっている都合上、大半のファミリアはおいそれと援護を出すことはできないが、それは後先さえ考えなければ援護はできるということである。アポロン・ファミリアの言い分にはオラリオ住民の間でも怒りが溜っており、あのファミリアならばという憶測も飛び交っている始末である。民衆の感情としては大分ロキ・ファミリア――正確にはベル・クラネル寄りだったが、それでも賭けの倍率はロキファミリアとアポロン・ファミリアで拮抗していた。

 

 如何に椿・コルブランドが加勢すると言っても、それだけではまだ心許ないというのが民衆の結論である。

 

 だが事情を知っている者からすると、見方は少々異なっている。勝ちが決まっている戦いというのも面白いものではなく、まして当事者として関われず見ていることしかできないというのなら猶更だった。

 

 通常、神以外の子供たちはオラリオ各地に設置された大型モニタで『戦争遊戯』を観戦する。個人でこれを所有している者はほとんどいないため、神以外は実質的に外に出て観戦しなければならない。

 

 ファミリアでもこれを所有しているのは限られており、最大手であるロキ・ファミリアとフレイヤ・ファミリア、後は興業を主体とするガネーシャ・ファミリアが主な所有団体であるのだが、彼らとて伊達と酔狂を愛する冒険者の集団だ。ほとんどの者が外で見るのであればそれに倣うというのが風情であると理解している。

 

 常であれば全員が街に繰り出しお祭り騒ぎに便乗していたのだが、ロキ・ファミリアの冒険者はアテナ・ファミリアに研修に出ていた者も含めて全員が本拠地である『黄昏の館』に集っていた。ベルに加勢してはいけないというルールを守っていますというアピールのためでもあるが、ネタバラシの前に感づかれては興ざめだと、バベルに集ったアポロン以外の神々から引きこもっていろと言われたためでもあった。

 

 そのため、腹芸が得意なロキ以外は全員がここにいる訳だ。後少しで『戦争遊戯』が始まるという段階になっても、彼らの半分を支配していたのはどうしようもないお通夜ムードだった。壮絶な茶番に付き合わされたやるせなさや、それを知らされていなかった怒りもある。

 

 何も考えずに行動しても良いなら、どうしてこうなったと怒鳴り散らしたい者がほとんどだったが、それを決めたのは主神であるロキを含めた神々であるから公然と異を唱えることはできず、また周知させないことを決めたのは団長フィン以下、大幹部の二人であるためにこれもまた、異論を挟むことはできなかった。

 

 元よりアポロンに逃げられないためにやったのだ、と言われてしまっては反論のしようもない。同じ立場に立たされたとしたら同じ行動をしただろうことも理解できるがそれでも、何も知らずに本気で行動していた自分に後悔はなくても、それを振り返ってみるとやはり恥ずかしい。

 

 その症状が最も深刻なのがティオナだった。彼女が頭に血が登って本拠地を破壊した挙句、前後不覚の状態のまま突っ走っては、アポロン・ファミリア本拠地を守る形で現れたフレイヤ・ファミリアのレベル6を相手に、何も良い所がないまま一方的に敗北。そうこうしている内に時間切れを迎え、引きずられて戻った本拠地でロキからネタバラシをされたのである。

 

 直情径行のティオナは一つのことにぐだぐだ悩んだりはしないのだが、今回のことは相当堪えたらしくレフィーヤが連れ出すまで部屋で不貞寝をしていた程だ。

 

 ちなみにガレス班の面々は特に何も考えることもなく『戦争遊戯』の行く末を楽しんでいた。何も損失がないのであれば特に言うこともなく、また彼らは都市最強の冒険者であるところの『猛者』オッタルとの戦いを全力で楽しんだ。気性が荒いベートでさえ、今はご機嫌で乾きものをつつきながらモニタに見入っている。今この場で最も機嫌が良いのはおそらく彼だろう。

 

「勝ちが決まってるなら別に見なくても良いんじゃないかな」

 

 不貞腐れた様子のティオナに、レフィーヤは苦笑を浮かべながら飲み物を差し出す。それが彼女の本心でないことが理解できていたからだ。例え勝利が約束されていたとしても、ベルが苦境に立たされていることに変わりはない。飲み物をちびちびやりながらも、既に視線は画面にくぎ付けにされている。言葉では何といっても、やはりベルのことが気になるのは隠しようもない。

 

 視線の端にモニタを捉えながら、レフィーヤが広場を見渡す。そこにはロキ・ファミリアの団員が全て集まっていた。テーブルの上には料理が所狭しと並び、ガレス班の連中などは既に酒盛りを初めてバカ騒ぎをしているが、それ以外の二つの班は、思い思いの場所に陣取って『戦争遊戯』の行く末を見守っていた。

 

 ちなみにレフィーヤとティオナの席は最前列の一等地である。ベルとパーティを組んでいるということでロキが優先的に席とテーブルを割り振ってくれたのだ。近くにはリヴェリアたちエルフが集まった席もある。本来であればレフィーヤもそこに座るべきであるのだが、リヴェリアの配慮で別の席となった。リヴェリアの隣ではアイズが暇そうに黙々とじゃがまるくんをかじっている。

 

「それにしてもさ」

 

 モニタから視線を逸らさないまま、ティオナが言う。グラスが空になっていることに気付いたレフィーヤは、それに御代わりを注ぎながら、相槌を打った。

 

「事情を知らなくてもベルを助けてくれる人がいるんだね」

 

 映像は現在二画面中継になっており、片方はアポロン・ファミリアの待つ古城を。もう片方はベルたち『三人』を映している。『戦争遊戯』の種目は抽選の結果『攻城戦』となり、ベルたちが攻め手となっていた。多勢に無勢である。普通であれば無勢側であるベルたちをアポロン・ファミリアも侮っていたのだろうが、古城で準備を進めるアポロン・ファミリア団員の顔には、はっきりと緊張の色が見て取れた。

 

 相手はたかが三人であるが、その内一人が問題なのだ。

 

 椿・コルブランド。レベル5相当の鍛冶師であり、ヘファイストス・ファミリアの団長である。『単眼の巨師』の二つ名を持ち、自ら打った武器を自ら振るって試すという鍛冶師の中でも指折りの武闘派として知られている。

 

 アポロン・ファミリアでレベルが最も高いのは、団長であるヒュアキントス・クリオのレベル3。単騎で彼女に勝てる者はアポロン・ファミリアの中に存在しないと言っても良い。加えて椿が恐れられる最大の理由は、彼女の打った魔剣の存在である。

 

 事前情報として、オラリオ全域に『魔剣のストックの全てを放出する』という椿の方針は伝えられていた。魔剣貴族たるクロッゾの魔剣には及ばないものの、現状、オラリオの子供の中で最高の腕を持つ椿の打った魔剣の威力は、中堅であるアポロン・ファミリアの面々でさえ伝え聞いている。

 

 それを相手にすると考えるだけでも相当に憂鬱なのだが、同じくヘファイストス・ファミリアが流した情報によれば、クロッゾの魔剣の一本が既にベルたちに流れているという。

 

 その真偽は分からないものの、まさかそんな……と一笑に付すこともできない。かの貴族は魔剣を打てなくなって久しいが、その唯一の例外が神ヘファイストスの眷属となったことは、知る人ぞ知ることである。魔剣の威力は一度目にした者ならば、それを侮ることはない。まして海さえ燃やすと言われたクロッゾの魔剣だ。用心してし過ぎることはないだろうと、ヒュアキントスを始め全ての団員が緊張を持って準備に臨んでいる訳である。

 

 ベルに対するもう一人の援軍である者は、名前も所属も明らかになっていない。神ヘルメスの紹介で身元を保証されている謎の冒険者という建前になっているが、新緑のマントにフード、覆面を纏ったそのエルフが、かの『疾風』であることはもはや公然の秘密だった。

 

 やったことの大きさからギルドのブラックリストに載ってはいるものの、事情を知る神々からの評価はそれ程厳しいものではない。ヘルメス一柱の紹介で参加が認められる辺り、風当たりの弱さが伺える。

 

 無論のこと、あのエルフがどこの誰ということはアポロンも知っていた。自分に不利な状況はできる限り避けなければならない。本来であればレベル4の冒険者の介入など事前に防いでしかるべきであるのだが、ベルへの救済措置として設けた付帯条項に、ヘルメスが身元を保証している『疾風』は何一つ違反していないのだった。

 

 身分の後ろ暗さを突くこともできるが、それを大っぴらに行うことはフレイヤの援助を受けているアポロンには難しい。複雑な事情を持った団体が数多く存在するオラリオでも、フレイヤ・ファミリアと懇ろな仲である『豊穣の女主人亭』はとびっきりだった。

 

 後ろ盾の筆頭がフレイヤというだけで、他にもあの店に噛んでいる神は何柱もいるのである。

 

 今回の『戦争遊戯』の勝ち馬がアポロンであるとしても、そこまで手を貸してくれる神がいるかと言えばそれはまた別の話だ。他の神々と喧嘩になってまでアポロンに義理立てをしてくれるような奇矯な神は、現状オラリオには存在しないのである。

 

 モニタの中央に映っているベルはと言えば、椿手ずから防具の調整をされていた。これを用意したのは椿ではなく、ベルに魔剣を贈ったヴェルフ・クロッゾである。流石の椿でも防具までは手が回っていないだろうと、彼が独自に用意していたのだ。オーダーメイドで作成した訳ではないためベルの身体に合わせた調整が必要だったが、それを椿が代わりに行っていた。

 

 ベル個人のために誂えたのでないにしては、小柄なベルの身体にしっくりきている。椿の目から見れば至らない所は多々あるが、ヴェルフなりに丁寧な仕事をしていることは見て取れた。これならばベルの身体を守るに十分だろう。ならば先輩の鍛冶師としてすることは、時間の許す限り調整をすることだと椿にしては真剣な表情で調整を続けているのだが、その間、自分の近くでサラシで巻かれただけの巨乳が揺れているのを見続けていたベルは気が気ではない。

 

 できればもう少し離れて、というのが男性として正直な所ではあるものの、一週間一緒に過ごして椿の人となりは理解したつもりである。そういうことを言うと彼女は必ず悪ノリするのだ。黙って耐え忍ぶのが無難に過ごすコツであると、ベルも何となく理解している。別に良い思いをしない訳ではないし……と羞恥心と煩悩と闘いながらされるがままになっていると、

 

「こんなものか」

 

 満足のいく調整を終えた椿は、ベルの肩をばしばしと叩いて立ち上がる。

 

 完成されたベルの装いは、いかにも冒険者というものだった。レフィーヤから贈られた若草色の服の上に、ヴェルフから贈られた軽装鎧を着こんでいる。その鎧は椿による調整で、ベルの身体に驚く程馴染んでいた。首からはリヴェリアから贈られたお守り。服の下に隠れているために人目に触れる機会は少ないが、ベルがリヴェリアの寵愛を受けているという情報と、その組紐が綺麗な翡翠色をしていることから何か凄いものなのだろうということは余人にも察せられる。

 

 武器は三つ。椿に贈られた『紅椿』に、リューから借りたままになっている無銘の小太刀はそれぞれ剣帯の左と右に下げられている。

 

 まずは紅椿を主に使い、無銘の小太刀はその補助という具合だ。ベルにとって虎の子である『不滅ノ炎』は背中側に下げられている。都合三本。修行を始める前に比べると防具を含めて中々の重量が加わることになったが全身の骨を一通り折られ冒険者として一回り大きくなったベルは、多少の重量の増加など物ともしていなかった。

 

「本来であれば打ち合わせをすべきなのだろうが、今更特に話すことはないな。手前とそこなエルフで露払いをしベル坊がヒュアキントスを討つ。二段階で済む楽勝の仕事であるな」

「簡単に言ってくれますね……」

 

 かかか、と笑う椿に、リューはため息で応える。レベル5とレベル4の冒険者である。本来であれば有象無象など問題にならないのだが、相手は準備万端整えて陣地で待ち構えている中堅ファミリアだ。一対一であれば冒険者のレベル差というのは絶対だが、レベル4相当のゴライアスがそれ以下の冒険者の集団に倒されることがあるように、冒険者というのは本来連携してこそ、その真価を発揮するものだ。

 

 高レベルの冒険者を相手にすることを想定した冒険者を、100人から相手にするのである。負けるつもりはなくても、中々に骨の折れる仕事だ。

 

「洒落た装いで決めている割に随分に弱気なことだ。あれらが仮に200いるとして手前が100、お前に99任せようと思っていたのだが、手前がもう少し多く受け持ってやろうか?」

「等分に受け持つとしても、私が100で貴女が99です」

「こういう事情であっても、手前も鍛冶師として心が躍っていてな。何しろ魔剣の実験台にしても構わない、活きの良い冒険者がごろごろしているのだからな。武者働きしたいのは解るが、そう易々と獲物はくれてやらんぞ?」

「お好きなように。それから前言は撤回しましょう。目端についた者を片っ端から斬れば良いだけなのですから、貴女の言うように私たちにとっては楽勝な仕事だ」

 

 今更武者働きに拘るような立場でもないが、ベルに最初に目をつけたのは自分だという小さな自負がリューにはある。文字通り後から来た椿に美味しい所を持っていかれるのは、我慢のならないことだった。絶対にこいつよりも多くの敵を倒してやる。覆面の下で密かに決意を固めたリューの心情が手に取るように理解できた椿は、更に彼女を煽ることにした。

 

「では、出陣前の景気づけと行こうか。リュー・リオン。ベル坊に接吻の一つもしてやるが良い」

 

 椿は何でもないことのように言ったが、ベルとリューにとってはそうではなかった。言葉の意味すら理解できないとばかりに数瞬硬直した二人は、しばらくの後に行動を再開する。呆れた様子で溜息を漏らすリューの反応は静かなものだったが、ベルは顔を真っ赤にし、驚きと共に声をあげた。

 

 酒場で働いているリューは、そういう反応が酔客を調子に乗らせることを良く知っている。酒場であればその酔客を叩きだせば済むことだが、これから一緒に戦う椿に対してそれはできない。おまけに冒険者としての実力が上となれば、多少睨みをきかせたところで怯みはしないだろう。

 

 どうにも波長の合わない相手であるが、彼女がいるからこそ空気がほどよく弛緩していることも理解できる。堅物の自分だけではこうもベルはリラックスできなかっただろうと自覚していたからこそ、椿に敬意を払って反論をしなかった。

 

 悪のりを無視し続けることでその提案には同意しないという内心も伝えたつもりのリューだったが、椿もそれを正しく理解していた。彼女にとってこれは予定調和である。にやにや笑いを引っ込めないまま椿は、リューに絡み続けた。

 

「お前はこれから死地に赴く男に、心残りをさせるつもりか? 女の一つも知らずに死んだ男は化けて出ると言うぞ?」

「あの、椿さん?」

 

 故郷にいた女性は大分年上か大分年下ばかりで、年頃の女性とはほとんど会話をしたことがないベルであるから、女性とお付き合いした経験は当然ない。農村部であればベルの年齢でも家庭を持っていることはないではないのだが、ベル自身は椿の見立ての通り清い身体のままだった。

 

 とは言え、ベルも多感な年頃の少年である。事実であるからこそ、それを女性から指摘されるのは恥ずかしいことではあった。自分が中心にいるはずの話なのに自分以外の二人が勝手に話を進めていく様は、神がこの世に好き勝手に干渉する世界の縮図を思わせる。

 

 どうにもならないことというのがこの世にはあって、今まさにそれが目の前で展開されている。世の無常を内心で嘆くベルを他所に、リューは早速椿に敬意を払うことをやめた。

 

 だからと言って、私がそういう不埒なことに付き合う義理はありません。リューの答えは普段であればこの一言で済んだだろう。実際、寸での所までこの言葉は出かかっていたのだが、リューの口から突いて出ることはなかった。椿・コルブランドは姑息なことに、ベルを楯にしている。

 

 リューとて貞淑を重んずるエルフに連なる者だ。冒険者稼業をしているだけあって、他人のそういう行動にはエルフの中ではそれなりに理解のある方ではあるが、自分がそれに関わるとなるとそうもいかない。他人との接触を極端に避け、いざ了解を得ずにそうなれば拳が飛んでくるというのは冒険者の中にあっても聊か過剰な部類に入ると言える。

 

 当然、公衆の面前で異性に単純接触を図るというのはエルフの価値観で言えば相当破廉恥なことであるのだが、冒険者の理屈を持ち出されてしまうと口答えもし難い。心の中に忌避感しかないのであれば力強く反対することもできたはずだが、椿の提案を受けてリューの心に浮かんだのは、椿に対する怒りと羞恥心のみだった。

 

 ベルとの行為を忌避している自分はおらず、むしろ期待する向きすらあることにリュー自身戸惑っていた。ちらとベルに視線を向ける。これで彼が忌避しているようであれば……と見てみれば、満更でもない様子だった。

 

 とは言え、ならば仕方がないかとはならない。貞淑というのはやはり重んずるべきもので、エルフが公然とそういう行いをしたということは当然、他のエルフの評判にも関わる。既に日陰者の身である『疾風』もエルフであることはやめられるものではない。

 

 まして、ベルが所属するロキ・ファミリアにはアールヴの王族であるリヴェリアがいる。そのお気に入りである『白兎』に他のエルフが勝手に手を出したとなれば、彼女の不興を買ってしまうかもしれない。

 

 普通のエルフであればここまで考えたところで、大人しくすることを選んだだろう。リヴェリアの不興を買うということはそれだけ、エルフにとっては重いものなのだ。

 

 だが、『戦争遊戯』の直前。ベルに味方するのは自分ともう一人だけという特殊な状況が、リューの背中を後押しした。

 

 結局のところ何故かという事を一言で纏めるのならば、我欲に負けたというのが正直なところである。この時の『疾風』リュー・リオンには『白兎』ベル・クラネルのことが、とてもおいしそうに見えたのだ。

 

 普段の物腰こそ丁寧であるが、昔から行動力はあるということで有名なリューは今でも即断即決を旨としている。それは良くも悪くも彼女の特徴であり、今回はそれが彼女にとっては悪い方に働いた。

 

 椿の言葉を良く吟味していればそうはならなかったのだが……いずれにせよ、それを行動に移していた時のリューに否やはなかったし精神的に追い込まれていたとは言え彼女自身が決めたことである。

 

 

 後にリューの記憶に鮮烈に残ることになるこの行いは、全くもって自発的に行われた。

 

 

 ベルの肩をがっしりと掴んだリューは、ベルが反応する間もあればこそ、目を閉じ覆面を取り、行動の勢いそのままにベルと唇を重ねた。隣で見ていた椿はあまりの行動に呆然とし、彼らを遠巻きに見ていたバベルの神々はいきなりのキスシーンに大盛り上がりである。

 

 その場で唯一盛り下がっていたとすればフレイヤであるが、彼女は誰にも聞こえない程の歯ぎしりを少しした程度で、余所行きの笑顔を崩さなかった。お気に入りの『白兎』がああなっても、実に寛容なことである。一番嫌な顔をしそうだったフレイヤが普段と変わらないこともあり、色事大好きな神々は大騒ぎを続けたが、この場で最も付き合いの長いロキには、フレイヤが内心で怒り狂っていることが見て取れた。

 

 これは今晩、あっちの子供たちは大変やろなぁ……とは思いつつも、顔には出さないし勿論口にも出さない。元はと言えばフレイヤが蒔いた種であるからして、ロキはこれをフレイヤの自業自得であると思うことにした。これで少し留飲も下がったと、ロキが画面に視線を戻すと、椿が腹を抱えて大笑いをしているところだった。

 

「やるな! やるな! エルフは風情も理解しない堅物ばかりだと思っていたが、お前は話の解る者のようだ! 精々頬にすれば上出来と思っていたのだが、そこまでやるとは思いも寄らなんだ!」

 

 からから笑う椿と、硬直している二人が対照的な構図である。リューにとって接吻というのは唇にするものであったから、やると決意して唇にいったことはそう責められるものではない。決意したことそのものにも後悔はないが、頬で済んでいたのならばそっちが良かったと考えた所で後の祭である。

 

 覆面をしていて良かったと、リューはベルから視線を逸らした。まともに顔を見れるような精神状態ではない。少しばかりクールダウンする時間が必要だった。それでも、エルフ特有の尖った耳は先の方まで真っ赤になっていて、内心を少しも隠せてはいなかったのだが、今のリューにそこまで自分を顧みる余裕はなかった。

 

 同じく、真っ赤になって硬直したままのベルに、今度は椿が近づいていく。

 

「二番煎じで申し訳ないが、これも景気づけだ。受け取るが良い」

 

 軽くベルに抱き着いて、頬に口付けでいく。これもベルにとっては驚天動地のことであるが、リューとのことがあった直後だけに、その反応は淡泊なものだった。それには椿も聊か自尊心を刺激されたものの、ここで声を挙げるのも面白くないと、場の勢いで押し切ることにした。

 

「緊張も解れたろう? 降ってわいたような幸運は、勝利の報酬が先払いされたと思えば良い。もっとも、勝利の暁にはここから先を支払ってやることも吝かではないようだが……まぁ、それは自分で交渉するのが良かろう」

 

 報酬を確約されてしまっては困ると、ベルの背後で復活したリューが小太刀に手をかけていた。これ以上となれば刃傷沙汰も辞さないという雰囲気に、椿はあっさりと白旗を挙げる。

 

 ばたばたしたが、良い意味で緊張も解れた。これ以上のアクシデントは早々起こるまいと遠目に視線を凝らした椿が、三人の中で最初にそれに気付いた。

 

 何者かが隊伍を組んでこちらに歩いてくる。間違いなく百人を超えるその集団は、明らかに訓練された足並みでまっすぐ椿たちの方を目指していた。椿に遅れてリューが気付き、その怪しさに目を細めた。更に遅れてベルも気付いたが、彼だけ前の二人と危機感を共有できないでいた。

 

 この一帯は既に『戦争遊戯』のために封鎖されている。その封鎖は『神会』の名前で行われているため、これを破ることは許されていない。封鎖された領域に入ったということは、冒険者であり、更に言えばどちらかの陣営に属しているということなのだが、境界線を挟んでこちら側はロキ・ファミリアの陣営である。

 

 アポロン・ファミリアの陣営が『戦争遊戯』開始前に境界線を越えることは明確なルール違反だ。違反者が退場させられるだけでなく、アポロン・ファミリアにも何かしらのペナルティが発生するため、事前にこちらに人員を送り込むことは考え難い。

 

 ロキ・ファミリア側がそれを承知で相手陣営を装って工作をするというのもないではないが、流石のロキも全ての神々の目を欺いて公然と工作を行うことは難しい。

 

 いずれにせよ、開始前にこちら側にいる時点で彼らはロキ・ファミリアの陣営で間違いはないはずなのだが、あれだけの数が救援に来てくれる当てがあるのであれば、そもそもこんな事態にはなっていない。椿は援軍が来るという話は全く聞いていなかったし、視線で問うてみればリューも首を横に振る。ベルには聞くまでもない。

 

 それでは奴らはどこの誰でどういう立場なのか。じれったい思いを抱えながら、彼らが近づいてくるのを待つ。

 

 そして先頭の大男の顔を見えるようになると、今度こそ椿の表情は驚愕に染まった。

 

 その男の名前をオラリオに住む者は皆が知っている。現在のオラリオ最強の冒険者。フレイヤ・ファミリア団長にしてレベル7。『猛者』オッタル。猪人である大男を先頭に、かのファミリアの団員たちは整然と行進をしていた。

 

 エルフがいる。ドワーフがいる。小人もいれば獣人もいる。種族としては何ら統一感のない彼らは、己が女神の刻んだ紋章を旗として掲げ、堂々とベルたちの前に整列した。これからダンジョンへ遠征でも行くのかという程の完全武装である。彼らが戦うためにここに来たのは明らかだった。立ち位置から、自分たちの味方であることも理解できる。

 

 しかし、ベルも、椿もリューも、彼らにかけるべき言葉が見当たらなかった。それ程までに、ベルたちにとって彼らは場違いであり、ありえないものだったのだ。

 

 先頭にいた『猛者』オッタルが、前に進み出る。都市最強。レベル7の猪人も、鎧を着こみ背に大剣を背負った完全武装だ。その威圧感は凄まじい。思わず後退ったベルの肩をリューが支える。そんなリューを見て、椿を見て、最後にベルをじっと見たオッタルは努めて平坦な口調で言った。

 

 

「女神フレイヤの全眷属。主命により馳せ参じた。これより我らが道を切り開く。大将首は残しておいてやろう。存分に戦うが良い」


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