英雄になりたいと少年は思った   作:DICEK

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『戦争遊戯』 その後①

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠ざかっていく馬車の音を、アポロンは遠くに聞いていた。意気揚々と出立した本拠地に戻ってきた彼はただの一柱だ。自らの眷属と共に戻ってくることを夢想していた、それが数日前のことのはずなのに随分遠い昔のことのように思える。

 

 前代未聞の大恥をかかされた。数日前の彼であれば怒りと屈辱に震えていたことだろう。今もそれがないとは言わないが、アポロンの心はとても穏やかだった。

 

 足早に本拠地に足を踏み入れたアポロンが最初に見たのは、地に額をこすりつけるようにして伏せているヒュアキントスだった。彼に追随するように幹部の数名も同じようにしている。残りの眷属たちも全員揃っているはずだが、彼ら彼女らは皆、事の成り行きを遠くから見守っているだけだった。

 

 数億年の時を過ごしてきたアポロンをしても、ヒュアキントスたちの背には悲壮な決意が感じられた。穏やかな気持ちであるアポロンとは反対に、彼の心中では後悔やら恥辱やら怒りやら激しい感情が渦巻いていたのだ。

 

 その気持ちもアポロンにはよく理解できた。同時に愛する彼らをそういう気持ちにしてしまったのは、他ならぬ自分の浅慮であることも良く理解していた。言い訳をすることもない。黙しているヒュアキントスの近くに、アポロンは膝をついた。務めて、穏やかになるように声をかける。

 

「顔をあげなさい、ヒュアキントス」

「尊顔を拝するには無様を重ねすぎました。我が神に合わせる顔などございませぬ」

「君がそうなっていることには、私にも重大な責任がある。もっと君たちの言葉に耳を傾け、真剣に考えるべきだったと後悔してもしきれないが……まぁ、今は他ならぬ君たちのことだ。私のために戦った君たちに、これ以上無理を強いるのは耐えられるものではない。言ってもきかないようだからここで神命を下そう。顔を見せておくれ」

 

 恥辱に打ち震えるヒュアキントスはその精神状態で主神の顔など見れるはずもない。だが、彼にとって主命は絶対である。ゆっくりとあげられたヒュアキントスの顔を見た時、アポロンは息を飲んだ。ヒュアキントスは冒険者だ。その職業柄危険な場所に飛び込むこともある。荒事など日常茶飯事でケガをすることももちろんある。

 

 しかし同時に、ヒュアキントスは頭の良い男でもあった。大怪我をして戻ってきたことなどアポロンの記憶にはない。まして衆人環視の中でぼこぼこにされるなど、二週間前の時点、誰に予想することができただろうか、と考えてアポロンは心中で自嘲した。おそらく自分以外の神は皆解っていたのだろう。この惨状は自分の愚かさが招いた結果だ。

 

 それを重々理解した上で傷だらけになったヒュアキントスの顔を見たアポロンに沸き上がったのは、

 

「傷ついた君の顔を見てそそると思ってしまった私を許しておくれ……」

「いや、許すなど恐れ多い……」

 

 普通に返答をしてしまったが、ヒュアキントスは困惑していた。予定外のことがあったとは言え、自分は主命に背いたのだ。主神の性格を考えれば厳しい叱責を受けるだろうことも覚悟していた。首を差し出せと言われれば喜んで差し出しただろうし、共に跪いた者たちも同じ覚悟だった。

 

 彼らにとって主命とは絶対で、これに背くというのはこういうことなのだ。居並ぶ他の眷属たちもこれから繰り広げられるであろう凄惨な場面を想像していたのだが、彼らの前に現れた主神は驚く程に穏やかで、あろうことか跪いたヒュアキントスの前に膝をついている。

 

 自分たちは一体何を見ているのだろう。困惑する眷属たちの中、唯一、こうなることが解っていたように振る舞うカサンドラが満面の笑みで眷属の中から進み出ている。基本的に非戦論者である彼女だが、どういう訳かこの『戦争遊戯』には最初から乗り気だった。

 

 それを他の眷属は不思議に思ったものだが、非戦論者というだけで変わり者であるという認識に変わる所はなく、変わり者の主義主張が変わった所で誰も気に留めなかった。果たしてこの女はこうなることまで予見していたとでも言うのだろうか。彼女の対応を疑問に思い、カサンドラのファミリア内での地位に変化が起きるのは、これから少し先のことである。

 

「ともあれ、そんな泥だらけではかわいい顔が台無しだ」

 

 そこまで言ったアポロンが顔をあげた先に、笑みを浮かべたカサンドラがいた。自分の眷属。未来を見通す娘。その精度には疑いを持っていたアポロンであるが、このカサンドラが開戦初期から乗り気であったことは、アポロンも記憶している。こうなることまで予見していたのだ。眷属たちと異なり、神であるアポロンは『未来を見通す』力というものに長い神生の間で慣れ親しんでいた。予見、予言、予知というのはあらゆる神話につきものである。

 

 カサンドラは無理やりファミリアに引き込んだ一人だ。負けることまで予見できたのであれば、離れる決断をすることもできただろう。改宗できると喜んでいたのであれば納得もできるが、アポロンの目にはカサンドラは心底喜んでいるように見えた。自分の都合を考えているのではない。他人と、喜びを共有できることを喜んでいる風である。

 

 気が弱い娘だ。しかし、何と心根の綺麗なことだろうか。自分は良い眷属を持った。そのことに、大負けに負けてアポロンはようやく気付いたのだった。

 

「カサンドラ、湯殿の用意を」

「もうしてあります!」

「話が早くて結構なことだ。それならダフネと一緒に食事の用意をしてもらえるかな。どうせ私たちは素寒貧だ。ならばいっそのことここで使い切ってしまおう」

「その、債務は……」

 

 ダフネの疑問は当然のものだ。これだけ大掛かりになった『戦争遊戯』で敗北した。そこから発生する債務は莫大なものでファミリアの貯蓄だけで賄えるものではなく、眷属全ての財産を処分しても足りないだろう。ファミリアそのものがロキ・ファミリアか、あるいはギルドに対して莫大な債務を背負うことになる。

 

 数字に強くないダフネでもこれがヤバい事態だとはっきりと認識できる程だ。神々の信用の元に発生した債務は子々孫々未来永劫その眷属に付きまとう。神が天に還るまでの間、それが消えることは絶対にない。ここオラリオにおいて神の名において行われたことは絶対なのだ。それは神々であっても破ることは許されない。

 

 そんなことは子供でも知っている。神々ならば猶更、その取り立てが深刻であることを理解しているはずなのだが、神アポロンはダフネの方を見やって片目をつぶり、悪戯っぽく微笑んで見せた。

 

「無い袖は振れまい?」

 

 それが苦し紛れの冗談であることは解っていたが、ダフネはアポロンの眷属になって初めて心の底から笑った。

望んで眷属になった訳ではないとは言え、この主神のことを何も知らなったのだと改めて思い知る。この神はこんな風に冗談を言う方なのだと思うと今までのこともほんの少しだけ許せるような気がした。

 

 全てを許せる訳ではない。それでも、こんな風に己のために戦った眷属を労うこともできる神なのだと思うと、もう少しだけこの方の下にいても良いのではないかと思えた。

 

 そう考えたのはダフネだけではなかった。ヒュアキントスたちを遠巻きに見守っていた眷属たちにも暖かなものが広がっていく。ダフネと同じような経緯で眷属になった者は数知れない。これを機会に改宗を考えていた者も少なくはなかったが、ダフネと同様にもう少しここにいても良いのではと思い始めていた。

 

 それは彼らが初めて、神アポロンの眷属となってから感じた連帯感だった。自分たちは今、ようやく眷属という言葉の意味を知り、眷属となり始めた。同じ旗を仰ぎ見て、同じ主神に仕える。冒険者であれば当然のことを倦んでいた彼らは今ようやく思い出したのだった。

 

「あまり吉事、という訳でもないが派手に行こう。ヒュアキントス、こういう会合のことを巷では何というのだったかな」

「残念会。そんな所でよろしいのではないかと」

「残念会か。良いね、素晴らしい。まさに我々の再出発には相応しい名だ。それから私の眷属たちよ!」

 

 

「ひとしきり騒ぎ、喰い、泥のように眠ったら大事な話がある。だが、まずは乱痴気騒ぎだ。予算のことも明日のことも気にしなくて良い。好きなようにしなさい」

 

 傲岸不遜。自分がこの世で最も貴いのだと振る舞っていた神が、穏やかに微笑んでいる。これが自分たちの仕える神なのだ。ヒュアキントスが、カサンドラが、ダフネが、居並ぶ眷属たちは自然とその場に跪いていた。全てはここからだ。ここから始めるのだ。無様に敗北し、全てを失って初めて、アポロン・ファミリアは一つになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づけばベルは『黄昏の館』に戻っていた。その間、ロキと共に馬車で移動していたはずなのだが、道中に何があったのか全く覚えていない。意識を失っていた訳ではない……はずだ。目は開けていた。耳も塞がっていなかったことは記憶にあるのだが、例えばロキと何を話したのかを全く覚えていないのだ。

 

 興奮と疲労から来る混乱だろうと御者をしていたラウルが教えてくれた。ロキ・ファミリアの二級冒険者の中では筆頭と目されている人間の男性だ。二つ名は『超凡夫』。短く刈り込んだ茶色の髪。地味ではないが派手でもないという、冒険譚に慣れ親しんだベルの感性では冒険者というよりも街の兵士と言った風貌の青年であるが、ベルはラウルのことが気に入っていた。

 

 神ロキの眷属となって数か月。冒険者としての経験を積んだベルであるが、肝心の眷属たちとの交友関係は一向に広まっていない。主に話しているのはリヴェリアとレフィーヤ。後は途中から加わったティオナくらいのもので実は顔と名前が一致しない所か、顔も覚えてもいない眷属の方が多い有様である。

 

 そんな中、接点がないながらもラウルは何かにつけてベルに話しかけていた。レフィーヤもティオナもいない時間を見計らってこっそり団員の紹介をしてくれたり、自分なりにベルの面倒を見ようとしていた。眷属のことを『ほとんど知らない』ではなく『知らない顔の方が多い』という表現で済んでいるのは一重にラウルのおかげだった。

 

 そのラウルに促され、ベルは『黄昏の館』の通路を歩いていく。眷属たちのことがあまり頭に入っていないように、ロキ・ファミリアの『本拠地』であるこの場所の構造も実はよく理解できていない。

 

 基本、オラリオに来てからは勉強か訓練かダンジョンであるため、遊びに出ることもない。

 

 故にどこどこに行けと言われても地図でもないとたどり着くこともできない有様だ。ラウルによれば『本拠地』で宴会をやる時に使用する所謂『ホール』であるらしいのだが、ここで宴会をやることは稀であるという。

 

 神やその眷属にとって身内という言葉、その事実は特別な意味を持つものだが、それは常に最前面に出ているものでもない。実利が関わってくるのであれば猶更だ。料理を外から持ち込んでくるよりは作ってくれる所に押しかけた方が前後の処理をしなくても済む分、宴をやる側にとってはとても都合が良い。

 

 ロキの趣味で『豊穣の女主人亭』を贔屓にしているように、普段はロキも外で宴会をやることを好むのだが、今回は特例である。ベルの勝利――つまりはロキ・ファミリアの大勝利が確定してから、神ロキの眷属たちは上も下もなくその準備に一斉に奔走した。

 

 食糧庫は空になり足りない酒は外に買いに走った。いつもは予算を気にするような面々も、何も気にすることはないという大盤振る舞いである。奇しくもこの時、別の場所でアポロンの眷属たちも同様の準備を始めていたのだがそれはまた別の話である。

 

 疲れたベルのことを察してか、饒舌だったロキも『黄昏の館』についてからは何も言わなくなった。にやにやと嬉しそうに笑いながら、ラウルに代わり手ずから眷属であるベルを先導して歩く。それに黙って付き従うベルの足元はどこか危うい。既に外に見えるケガは修行で余ったポーションで回復しているが、疲労までは抜け切るものではない。最後尾を歩くラウルはそのフォローのためにいるようなものだ。

 

 自分は主役を張る柄ではないと自覚しているラウルだからこそ、主役の大事さは理解している。ベルのママは実に過保護なのだ。修行の間は、可愛いベルがどれだけ瀕死になっても目を瞑った。スナック感覚で骨を砕かれていると知った時にはかの『九魔姫』も卒倒しかけたというが、『戦争遊戯』に勝利しベルが無事に戻ってきた今、かの『九魔姫』はベルが転んで膝を擦りむくことも許容しない。

 

 

 ラウルの行動には多分に保身も入っていたが、それを責める者はロキ・ファミリアにはいなかった。程度の差こそあれ、勝者は大切にされ、敬われるべきという認識は眷属たちの間に根付いている。神の代理戦争である『戦争遊戯』での勝利は、冒険者が受けるものの中でも最上に属するものであり、複雑な経緯を辿ったとは言えベルはロキ・ファミリアの全てを背負い、眷属の代表として戦い勝利した。

 

 神と眷属の名誉は、ベルの手によって守られたのだ。今日の主役はベル・クラネル。あのベート・ローガでさえ仏頂面で黙々と準備に協力しているのだから、その事実に揺らぎはない。

 

「到着!!!」

 

 着いたのは大広間。屋内訓練場を除けば『黄昏の館』で最も広い場所だけあって、扉も大きい。自分の背丈の倍以上もある扉を見上げるベルを他所に、ロキはそっと扉を開く合図をする。すると、

 

「ベルーっ!!!」

 

 大広間からティオナが飛び出してくる。まさか突撃されると思っていなかったベルは『戦争遊戯』の疲れも相まって吹っ飛ばされ、その勢いのまま後ろにいたラウルに追突した。想定外であったのはラウルも一緒だったがそこはレベル4の冒険者。ティオナごとベルを受け止めるが、抱き着いたベルの近くに別の男がいると見るや空気読めとばかりにぎろりと睨む。

 

 理不尽っす……とは思ったが口答えはしない。祝いの席に無粋な真似はするべきではないという思いがラウルにもあったからだ。すごすごとラウルが引き下がるのを見ると、ティオナは改めてベルを抱きしめた。そこに言葉はない。色々と言いたいことはあったが、それが口を突いて出ることはなかった。

 

 ただ、自分の思いの深さを示すように力強くベルを抱きしめる。レベル5の抱擁だ。レベル2のベルには息苦しさを感じるほどだったが、当のティオナがぐすぐすすすり泣いているのを見て身体の力を抜いた。それが男の役目と背中をさするようにすると、ティオナは声を上げて泣き始めた。

 

 おめでとー! とかありがとー!! と言うティオナの言葉に、ベルは一々頷き、お礼の言葉を返した。誰かが自分のために泣いてくれている。そのことがとても嬉しかったのだ。

 

「…………ごめんね。ありがとう」

「いえ。僕の方こそ、お祝いありがとうございます」

 

 えへへ、と照れ臭そうに笑ったティオナは小走りに仲間の元に戻った。主賓のベルはまだ会場に足を踏み入れてもいない。改めて、ロキの仕切り直しで大広間に入ったベルを、万雷の拍手が包んだ。

 

 人間がいる、エルフがいる、アマゾネスがいる、獣人がいる、ドワーフがいる。神ロキの眷属の全てが勢ぞろいし、一人の冒険者のために手を叩いていた。耳をふさぎたくなるような大音量に、ベルは呆然としている。仲間が自分のためにやってくれている。事実としてそれは理解していたのだが、いざ目の前にしても実感が沸かない。

 

 自分は場当たり的に行動をしていただけだ。確かにトドメを刺したのは自分であるが、そこに至るまでには多くの人の協力があった。一人だけでは絶対に達成することはできなかっただろう。これではまるで自分一人が英雄のようだ。称えるのであれば、共に戦ってくれたリューや椿も一緒でなければ。ベルの顔に浮かぶ僅かな不満と戸惑いを敏感に察知したロキが、そっと耳打ちをする。

 

「まずは、ベルっちゅーことや。内輪だけの会やかんな。他の神の眷属を呼ぶ訳にはいかんのや」

 

 それなら、とベルはゆっくりと気持ちを切り替えた。それを見計らったかのように、ベルにもグラスが渡される。それから先はとんとん拍子だ。荷物を担がれるように主賓席に移動させられ、ロキは全員を見回す。乾杯の音頭は主神である彼女の役目なのだ。

 

「ま、今更言葉はいらんやろ? 飲めや歌えや! うちらの勝利に!!」

『勝利に!!!』

「乾杯!!」

『乾杯!!!!』

 

 唱和と共に杯が掲げられると、やってきたのは喧噪である。代わる代わるやってくる眷属たちに飲み物を勧められ、勢いに任せて飲み干すのを繰り返す。そういう事態を見越してベルのグラスは小さなものになっていたのだがそれでも二十を超える頃にはベルに限界が訪れる。

 

 ベルの前にはお祝いのための行列ができていたが、主賓がげんなりしていては宴会も締まらない。気を回したロキが手を叩き、眷属たちの注目を集める。

 

「そんな訳でベルへのご褒美第一弾や! ぎゅーってしてほしい子を選んだってや!」

「選ぶ……というのは」

「今回一番頑張ったんはベルやかんな。まぁ、ええ目を見てもええやろって話や。誰指名してもかまへんで? 今日のこの日にまさか嫌や言う奴はおらんやろうしな!」

 

 ロキのド直球な同調圧力に一部の眷属からも苦笑が漏れるが、それでも反対意見は出なかった。基本冒険者というのは一般人に比べて気位が高いが奔放であり、功績に対しては報いるべしという感覚が染みついている。ベルは主神を同じくする眷属であり、今回の『戦争遊戯』で一番の功労者だ。交わって子を成せというのならばまだしも、ぎゅーっとするくらいならば目くじらを立てることもない。

 

 身持ちが堅いと思われがちで実際そうであることの多いエルフだが、種族的に信賞必罰はむしろ徹底している。気位が高いからこそそれに相応しい振る舞いが求められるのだ。その分排他的な感性に偏りがちであるが、ここにいるのはエルフであると同時に神ロキの眷属。種族は違えどもベル・クラネルは身内だ。

 

 異性である。未婚である。そこにエルフ的な問題は発生するものの、彼の功績と実質的に主神からの神命が飛んできたことを考えると、眷属としては拒否できるものでもない……というのが、エルフ的な理論武装だった。実際の所エルフだって溜まるものは溜まるし好きなものは好きなのだ。番う相手を選ぶのならばまだしも、一時の相手に求めるものは人間でもエルフでも獣人でも変わるものではない。

 

 はっきり言えば、最初に求めるものは容姿だ。

 

 そしてベル・クラネルは男性としては物足りなく見えるものの、少年としては十分に及第点を超える容姿をしていた。絶世のという枕詞をつけるには聊か難があるが、がんばったという事実さえあれば一時のやんちゃを受け入れさせる程度には、彼の容姿は神ロキの眷属たちに好意的に受け止められていた。

 

 この時点で、イモフライに夢中になっていたアイズ・ヴァレンシュタイン以外の全ての女性眷属が受け入れ態勢を整えていたが、同時に自分は指名されないだろうという確信を持つに至っていた。

 

 ベル自身も把握していたことだが、冒険者歴が浅いこともあって彼は非常に眷属との接点が少ない。訓練にしても勉強にしてもダンジョンにしてもパーティ内だけで完結してしまうことが大きな理由だ。つまる所、ベルと交流のある眷属は、リヴェリアとその弟子と目されているレフィーヤ、途中からパーティに加わったティオナくらいのものである。

 

 こういう時に指名できる相手というのは普段から交流のある相手に偏るものである。勿論、そうでない相手を選ぶことも考えられるが、ベルの性格でその対応は考えにくい。

 

 そんな訳で指名候補は三人に絞られる訳だが、この内リヴェリアだけが可能性がとても低い。

 

 女神も嫉妬するとされるほどの美貌である。その容姿に、内面にベルが惹かれている可能性も十分に考えられる。こと容姿という点では粒揃いのロキ・ファミリアであっても、リヴェリアの容姿は群を抜いているが、それ以前に立場が重い。エルフという種族全体を見てもリヴェリアよりも高貴な存在はほとんどおらず、オラリオでは間違いなく最も立場が高い。

 

 ロキ・ファミリアにおいては副団長という立場であり、ベルの母替わりでもある。十分すぎる程に頼りにしているのはベルの態度を見れば解るのだが、内心でどう思っていたとしてもここでリヴェリアを指名できる程、彼の肝は太くないだろう。

 

 ロキの提案をリヴェリアも予想していたようであるが、その顔には早くも諦めの雰囲気が漂っていた。自分が指名されることはないだろうと、彼女本人も悟っていたのだ。彼女を慕うエルフなどはその満更でもなさそうな態度に軽くショックを受けていたが、それは後でも考えることもできる。今はベルが誰を指名するかだ。

 

 リヴェリアが候補から外れると残りは二人である。エルフのレフィーヤか、アマゾネスのティオナだ。ラウルが密かに胴元になっている賭けにおいて、この二人のオッズは他の追随を許さない。ファミリア外まで目を向ければ『運命のエルフ』であるリュー・リオンが先の『戦争遊戯』のこともあって猛追してきているが、今はファミリア内のことである。

 

 推しの人数で言えば、レフィーヤの方に軍配が上がる。年齢が近いこともあり、最初にパーティを組んだことから一緒にいる時間も多い。ベルの勉強の面倒を見ているのはリヴェリアであることもあり、一緒に講義を受ける姿も度々目撃されている。

 

 ただ、エルフということもあって押しが弱いのも事実だ。その点、アマゾネスであるティオナは色々な意味で奔放だ。スキンシップに躊躇いがなく、顔を真っ赤にして照れるベルの姿も散見されている。こういう提案なら頼みやすい雰囲気というのも助けになっているだろう。

 

 事実、自分が指名されることを疑っていないらしいティオナはひっそりと柔軟体操を始めていたのだが、それにロキが待ったをかけた。

 

「あ、ティオナはなしや。さっき自分でぎゅーってしたもんな? 二回目は後にしてくれんか?」

「横暴だーっ!!!」

 

 となると、もう候補は一人しかいない。レフィーヤ・ウィリディスそのエルフだ。ベル以外の眷属は全て、彼女が指名されるものとして動き始め、他の眷属たちと同様、消去法で自分が指名される可能性が高いという想像に至りカチコチになっているレフィーヤを誘導する。

 

 ベルはうんうん悩んでいるが、ティオナが候補から外れた時点で彼の内心でもレフィーヤ一択になっていた。悩んでいるのは既に誰を指名するかではなく、どうやってなるべく穏便にレフィーヤという名前を切り出すかになっていた。

 

 だが悩んでも答えは出ない。ここで優雅に女性を誘えるようなら、賭けが白熱したりもしない。下手な考え休むに似たり。結局、直球でレフィーヤに頼もうと心を固めて顔を上げたベルは、そこでようやく眷属だかりが二つに割れ、レフィーヤまではっきりと視線が通るようになっていることに気付いた。

 

 まさか僕の考えは見透かされていたのか! と衝撃を受けると同時に、固まっていた決意も微妙に萎びて行く。いざ現実を前にすると怖気づいてしまうのは誰にでもあること。まして十代半ばの初心な少年が年頃の少女を公衆の面前でお誘いするのだから、その緊張もかくやというものだ。

 

 しかし、ベル・クラネルも神ロキの眷属である。嘘と欺瞞を司る自分の主神が、ここで怖気づき後退ることを由とするはずもない。こと女性関係において『空気読め』と言われることは、この年代の少年にとってとてもキツいことなのだ。

 

 周囲からは期待の視線が注がれている。もう既に場は固まっていたが、あえて言葉を口にすることを期待されている。肌でそれを感じ取ったベルは、からっからになった口を何とか動かし、言った。

 

「レ、レフィにお願いしたい……です!」

「よう言った!! さ、レフィーヤご指名やで。ベルのことぎゅーってしたってや?」

「え!?」

「何がえ!? やねん。今回ベルが一番頑張ったんやから、こっちから色々したらんとな!」

 

 そうだそうだと、周りの眷属からも次々とロキ擁護の声があがるに至り、レフィーヤは周囲に味方がいないことを悟った。一縷の望みをかけてエルフが集まる一角を見るも、肝心のリヴェリアはレフィーヤの位置からでは姿が見えず、姿の見える面々は頑張れーと囃し立てている。もはや逃げ場はなかった。

 

 別に嫌な訳ではないのだ。ベルが頑張ったことはレフィーヤも良く解っているし、それを労うつもりではいた。でもそれは一人でこっそりと、できれば二人きりでと考えていたもので、ここまで人目につく場所で行うつもりなど毛頭なかった。

 

 恥ずかしさで卒倒しそうだが、ここで倒れてお流れになることなど、レフィーヤ自身を含めて誰も望んではいない。恥ずかしくても人目があってもやるしかないのだ。

 

 やると決めたら早い方が良い。何やら慌てているらしいベルを目指して猛ダッシュをしたレフィーヤは、まるでタックルという勢いでベルに飛びついた。

 

 ベルは溜まらず体勢を崩すが、ここで転んでは男が廃ると何とか踏みとどまった。その勢いでレフィーヤの背に手を回し、強く抱きしめてしまう。ハグというには強い抱擁。理想的なぎゅーに、眷属たちから歓声が上がった。下世話な内容で囃し立てる声も、しかし二人には聞こえていなかった。

 

 思春期真っ盛りのベルの耳に聞こえるのは、レフィーヤの荒い吐息である。目の前にはレフィーヤのとがった耳があった。ああ、この耳を触らせてもらったんだなと、茹った頭でぼんやりと考えていると年頃の少女の柔らかさやら良い匂いやらがやってきて、たまらずパニックになる。

 

 叫んで大暴れしなかったのは、単にレフィーヤに抱きしめられていたからだ。後衛職ではあるがレベルで一つ勝るレフィーヤの腕力は、まだまだベルを上回っている。逃げられないと悟ると、ようやくベルも落ち着きを取り戻した。身体から僅かに力を抜き、レフィーヤに身を預けた。

 

 時間が経って冷静さを取り戻したのは、レフィーヤも同様である。細いと思っていたのに意外と厚い胸板とか、冒険者特有の血と汗の混じり合った匂いに眩暈を覚えると、触った手の先に、目に見える首筋に無数の細かい傷が見え隠れしている。

 

 それは彼が自分の知らない所で研鑽を積み、自分以外の者と共に戦った証である。彼の成長を一番近くで見守り、共に戦うべきは自分であったはずだ。少なからず、その自負のあったレフィーヤはベルの傷を見て心を乱される。

 

 彼はまた偉業を達成した。ランクアップは間違いない。ベルが神ロキの眷属となったその日、二つあった差はこれでなくなってしまう。それはレフィーヤが導く立場でなくなることを意味していた。そうなった自分に居場所はあるのだろうか。考え始めると、嫌な想像は頭を離れない。暗く、自分勝手な想像を振り払うように、レフィーヤは努めて明るい声を出し、ベルに問うた。

 

「ところで…………どうですか?」

「どうって?」

「嫁入り前のエルフがここまでやったんです。一つ二つ、機嫌を取るような感想をくれても罰は当たらないと思いますよ?」

「感想って……あ」

「あるんですね? では正直に言ってください」

「いやあの、でも……」

「なんですか? 私には言えないようなことなんですか?」

「そんなことは、ない、です……はい」

「解りました。ならこうしましょう。ここでだんまりを決め込んだら、そのことで私は怒ります。でもここで正直に話せば、怒らないことを考えてあげます」

 

 どっちにしろ怒られる未来しかないことを、ベルはこの時はっきりと悟った。レフィーヤとのやり取りは周囲の眷属の耳にも届いている。場の雰囲気に舞い上がっているのだろう。自分の身体がどうであったのかと人目のある所で異性に問うなど、エルフにしては相当に攻撃的な問いかけである。

 

 眷属たちは大盛り上がりだが、その中でも特に盛り上がっているのがエルフ組だ。最も年若いレフィーヤに春が来ている事実には色々と思う所があるものの、同朋として応援したい気持ちがあるのも事実。今まさに彼女のエルフ生で初めてだろう異性の少年との戦いを、エルフの先達たちはかたずを飲んで見守っていた。

 

 眷属たちの視線を受けてベルはようやく観念した。じっとこちらを見つめるレフィーヤの視線を正面から受け止め、それでも、恥ずかしさは拭い切れずに小さく、しかしはっきりと呟いた。

 

「その……………………結構()()んだなって――」

 

 言葉が終わるよりも早く、ベルの顔に頭突きが叩き込まれた。鼻を押さえて後退するベルの足に、容赦のないローキックが叩き込まれる。溜まらず膝をついたベルの頭に、先ほどまでとは別の意味で顔を真っ赤にしたレフィーヤは内心で渦巻く羞恥を振り払うように声を張り上げ、力任せに拳を振り下ろす。

 

「貞淑な! エルフに向かって! なんてことを言うんですか!」

「でも正直に言えってレフィが――」

「言い訳しないこのスケベ! 変態! エロウサギ!」

 

 甘酸っぱい空間が広がったと思ったらもう修羅場である。このカップルは前途多難だなと爆笑に包まれる大広間の隅に、ひっそりと佇んでいるのはリヴェリアである。いつもの取り巻きも、この時ばかりは近くにいない。年若いレフィーヤの恋愛模様に興味を惹かれ、輪の最前線に行ってしまったからだ。

 

 グラスも持たず、腕組をしてじっとしている彼女の元に歩み寄ってきたのは団長、フィン・ディムナである。結団以来の付き合いである小人の『勇者』は、ハイエルフの同朋に向かって苦笑を浮かべた。

 

「慶事なんだ。あまり難しい顔をするものじゃないよ」

「普通にしていたつもりなんだが、修行が足りんな」

「君ほど勤勉に研鑽に励むエルフを僕は知らないけどね。さて、友人として質問するけど、何か悪いことを考えているね? 君がそういう難しい顔をするのは、波乱の前兆だと記憶しているんだけど」

「人聞きの悪い。私はただ、たまには本気を出して良いものかと考えていただけだ」

 

 こともなげに言う旧友に、自分の考えが間違っていなかったことを悟ったフィンはそっと溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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