リリルカとベルの初冒険は――特に何事もなく終わった。土台、適正レベルを大きく下回るエリアで警戒心満点の冒険者が日帰りで行うようなクエストで危険があるはずもない。リリルカが行ったことと言えばベルが倒したモンスターからドロップアイテムをきっちり回収することと、その他雑事の遂行だけという実に簡単なものだけだった。
リリルカにすればいつも通りの、それこそ誰でもできるようなことをしているだけだったのだが、ベルはしきりに感謝してくれ、むしろ居心地が悪くなってしまったくらいである。
ありがとー助かったよと繰り返すベルと共にダンジョンを出たのは正午を大きく回って午後四時程のこと。もう少しで日が沈むことを考えると『日帰り』という言葉から連想するにしては少々遅い時間かもしれない。
普段はもう少し早く帰ってくるそうなのだが、今日は午後鍛錬の日程がないために遅めにしたということだ。
これから夕食を取った後に身繕いをしてから、リヴェリアによる座学が待っているという。これにはベルの他に『千の妖精』も参加する企画ということで、彼らの日課であるらしい。そんな中に今日からリリルカも参加することになる。
タダで学べる絶好の機会だ。今や向上心の塊となったリリルカにとっては願ったり叶ったりの提案であるのだが、『千の妖精』が『白兎』にお熱だというのはオラリオの冒険者ならば誰でも知っているくらいに有名な話である。教師役のリヴェリアがいるとは言え意中の相手と二人でいる機会に自分以外の同性が増えることに、良い顔をする女はいないだろう。エルフだろうと人間だろうと小人であろうと、これは全種族共通のことである。
そもそもベルと二人だけの固定パーティだったところに、荷物持ちとして割り込んだばかりなのだ。嫌みの一つや二つは言いたくなるのがエルフ情というものである。元より針の筵にしばらく座るつもりでいたリリルカは大体のことは受け入れるつもりでいるが、片方だけが覚悟完了しているだけでは回らないのが世の中というものだ。
リヴェリアとは何となく上手くやっていけるんじゃないかと思っていた矢先のこと。これから毎日顔を合わせることになるかもしれない『千の妖精』とは、例えあちらからの一方的なものであっても喧嘩をしたくはない。
ベルと世間話をしながら歩いていても、考えるのは『千の妖精』のことだった。後はロキ・ファミリア内では彼女に続いてお熱という噂の『大切断』。
確かにベル様のことは憎からず思っていますし、求められれば伽でも何でもするつもりではおりますが、荷物持ちをやめるつもりはありませんし、貴女たちに敵対するような意思は全くこれっぽっちも持っていません!
と彼女らに力強く主張した所で、次の瞬間に飛んでくるのは魔法か拳だろう。言葉を尽くせば尽くすほど泥沼に嵌っていくのが予想の段階でも理解できる。時間をかけて行動で示すしかありませんねと『現状打つ手なし』という結論に脳内で達する頃には、二人は目的地についていた。
ダンジョンに潜って無事に帰還してきた、特に低位の冒険者が基本的に最初に向かうことになる施設――ギルドである。
主な目的なドロップアイテムの換金だ。買い取りをしてくれる場所は他にもあるが、物を選ばず相応に良心的な値段を付けてくれるのはオラリオでもギルドだけだ。ギルドは冒険者から持ち込まれる小口の買い取りを一度集積し、オラリオの内外に相応の値段で販売している。
当然、業者が冒険者から直接買い取るよりも安くなってしまう訳であるが、業者の方もよほど腕と中身に信頼の置ける冒険者を確保してでもいない限り、安定した供給を受けることはできないでいる。
また低位の冒険者たちはそういった業者にコネなどあるはずもなく、かといって商人相手の足元を見られながらの交渉を切り抜けることもできない。消去法故の選択と言えばそれまでであるが、それに嫌気がさして一度他に持って行った冒険者も結局ギルドに戻ってくることがほとんどであるから、冒険者相手の『商売』としてはやはり良心的であるのだろうとリリルカは思っている。
鑑定をしやすいように細かく分類しておいたドロップアイテムを全てベルに渡す。パーティにおいてドロップアイテムの換金役は、その中で一番信頼の置ける冒険者が行うのが慣例であり、特に取り決めのない場合は固定のパーティの場合はリーダーがこれを行い、臨時のパーティの場合は結成の発起人が行うのが慣例である。
同じくこれも特に取り決めがない場合、ドロップアイテムを換金した時の取り分は共通の必要経費を差し引いた上で、メンバー全員で等分だ。
これは後で揉めないための所謂暗黙の了解であるのだが、特に臨時で組んだパーティの場合はこれに納得しない者が多く、換金した後はその割合をどうするかを話し合うために酒場に行き――そしてそこでより多くを消費して下宿に帰るのが冒険者の定番である。
その定番からつまはじきにされるのがリリルカのような荷物持ちなのだが、これまでのやり取りと世間での評判から察するに、流石にベルが荷物持ちへの報酬をゴネるような人間でないことは理解できる。今回のパーティは二人のみ。ひょっとして三割くらいはもらえるんでしょうか、とウキウキしながら待っていると袋を二つ抱えたベルが戻ってきた。
ソロのパーティでもない限りは換金の後に配分の手続きがあるため、ギルドはそのためのサービスも行っている。パーティメンバーで予めの配分が決まっているのであればそのように配分もしてくれる。
計算ができない冒険者も多いため、このサービスを利用する冒険者は多い。報酬を誤魔化して刃傷沙汰という事例が後を断たないためだ。ギルドが分けたという簡単な証明も出してくれる。ギルドの信頼あってこそのサービスと言えるだろう。
ベルが抱えている袋は十個あった。ちなみにこれがギルドの等分サービスの最大数である。報酬の配分は大雑把でも良いパーティが良く行う配分だ。ベルが右手に七つの袋を、左手に三つの袋を持っているのを見たリリルカは興奮を抑えることができなかった。
(まさか……本当に三割もっ!?)
ギルドの規定に反するために報酬がゼロということは流石にないが、事前の取り決めを反故にされたり、そもそも取り決めをしないで報酬が雀の涙ということも度々あった。等分なんて夢のまた夢で小銭をつかまされておしまいということもある。
それが三割ももらえるのだ。ベルの探索としては小規模で報酬が少ないとしても、二人で行った時に三割ももらえるのであれば、固定のパーティメンバーである『千の妖精』が加わっても、等分に入れてもらえる可能性が高い。
まさか『千の妖精』や他の冒険者と同じ割合ということはあるまいが、所謂パーティの最大数とされる五人になっても、自分の取り分が一割を切ることはないだろうとぼんやりとしたものではあるが、確信が持てた。
それだけで涙が出るくらいに嬉しい。借金があるためにマイナスからのスタートであるが、これなら生活に問題がない程度に借金を返した上でもまだ、装備を整えたり、勉強する時間を取ったりすることもできる。貯蓄の額も大きく増すだろう。生活を切り詰めなくても良いかもしれない。興奮冷めやらぬといった様子のリリルカに、
「換金してきたよ。はいどうぞ」
にこにこ笑顔でベルは報酬を渡してくれる――七割の方をだ。あまりのことにリリルカは言葉を失うが何もおかしなことはないと思っているのか、ベルはあくまで自分の取り分として『三割』の方をカバンに入れると、
「外でご飯を食べて戻ることになってるんだけど、特に行きたい所がなければ『豊穣の女主人』亭ってお店に行きたいんだけど大丈夫かな?」
「お店はそれで問題ないですが……ベル様、ちょっと待ってください。報酬に関してちょっと申し上げたいことがですね」
「あぁ、ごめんね。気づかなくて」
言ってベルはカバンから報酬の一つを取り出し、リリルカに差し出してきた。落ち着いて説得しようという気持ちを、リリルカはあっさりと放棄した。
「どこまでリリは欲張りなんですか! 増やしてどうするんです今のままでもおかしいのに! 荷物持ちの方が取り分多いなんてありえませんよ!」
「え? でも今日こんなに稼げたのはリリのおかげだし、その分はリリに渡してもおかしくはないかなって……」
「ベル様あってのことでしょう? リリ一人ではこんなに稼げません」
「僕一人だってここまで稼げなかったよ。今日こんなに稼げたのはリリがアドバイスをくれたおかげだし、ドロップアイテムを沢山持ってきてくれたからじゃないか。増えた分全部持っていくのはそんなにおかしなことじゃないと思うけど」
あくまで口答えをしやがるべルの言い分に、リリルカは一応、今回の配分に彼なりの配慮が見えることに気づいた。ベルもカバンを持ってはいるが、足の速さが売りの彼のカバンは冒険者の平均と比べても小さい。荷物持ちであるリリルカのザックと比較して容積にして四十倍くらいの差がある。リリルカのザックはオラリオに存在する荷物持ちの中でも文句なく一番大きいからだ。
その四十倍の大きさを誇るリリルカのザックにドロップアイテムをパンパンになるまで詰め込んだ。ベルのカバンにもドロップアイテムは入っているが、単純にリリルカのカバンの分だけいつもよりも多く稼げたことになる。
ならばその分だけと考えたのだろうが、それをそのまま実行したらベルの取り分は一割を切りかねない。流石にそれがまずいことは解っていたのか、その遠慮の結果が三対七の配分なのだろう。彼なりの配慮にリリルカの目がしらも思わず熱くなるが、彼は自分が前衛でリリルカがただの荷物持ちということをよく理解していない。
役割分担だ。それも良いだろう。でも、だからこそ譲ってはいけない一線もあるのだ。主役よりも脇役の取り分が多いなどあって良いはずがない。
「とにかく! どんなに譲っても半々です。荷物持ちの取り分が、パーティで一番多いなんて絶対にあってはいけません」
「そういうものなんだね……」
「そういうものです! ですが、これにはリリにも落ち度があります。報酬の配分なんて最初に話しておかなければならないことでした」
「僕もちゃんと相談しておかなきゃだったし……。おあいこってことにしない?」
「そうしましょう。それでは改めて取り分なんですが、今の逆ってことで八二でどうです?」
「なら最初の逆にしよう。七三ってことで」
「…………どうあってもリリの取り分を少しでも多くしたいようですねベル様」
「リリのおかげっていうのは変わらないしね」
にっこりほほ笑むベルに悪意はない。当たり前のことを当たり前のようにしている人間特有の頑固さが見える。ここだけは譲らないという意思の強さも見えた。
リリルカ本人が後悔した通り、金の話は本来最初にしておくべきことだ。荷物持ちの取り分が多いことは本来、リリルカにとっても喜ばしいことである。自分の取り分が一番多いという大問題も修正されたことだし、今回はこれで良しとすべきだろう。
「解りました。ベル様のお気持ちを受け取ります」
「嬉しいよ。これからもよろしくね、リリ」
手持ちの報酬袋をそっくり入れ替えてがっちりと握手を交わす。話はこれで終わり。双方これで納得したし、蒸し返さないという意思表示である。
さて、後はごはんを食べて本拠地に戻るだけである。今までの暮らしから比べると何とも優雅な行いに、リリルカの心も軽くなっていたのだが――
「良い気なもんだな、え?」
そこに水を差す者が現れる。リリルカが視線を上げると、ひげ面で人間で中年の冒険者がいた。見覚えはない。体格から冒険者歴が長いことは理解できるが、レベル3であるベルより強いということはないだろう。身なり、体臭、それからこの時間に酔ってギルドにいるという非常識さから、レベルは精々2であると当たりを付ける。
ベルにちらと視線を向けると彼も小さく首を横に振った。後ろ暗い冒険者道を歩んできたリリルカと異なり、彼は日の当たる道を喝采を浴びながら歩いている途中である。ロキ・ファミリアでは間違っても見ないような風体の男と接点があるとは思えない。
では自分の客かと、判断してリリルカが一歩前に出る。彼女を庇うようにベルが前に出ようとするが、それをリリルカは指で押しとどめた。既に大事になりかけているがここでベルが出てくると話が更にややこしくなってしまう。
既に自分一人で対処できるような話でなくなってることはリリルカも自覚してたが、今が不味い状況だということは周囲の冒険者たちも理解していた。周囲の反応に全く気付いていない眼前の冒険者を他所に、自分たちのするべきことを理解していた冒険者たちはギルドの内外にひっそりと散っていく。
後はそれらの結果が出るまで適当にやり過ごせば良い。冒険者になってからしばらく荷物持ちで過ごしてきたリリルカにとって、この手の冒険者の怒りやら苛立ちをやり過ごすのは日常茶飯事だった。時に拳なり蹴りなりが飛んでくることもあったが、命を取られるまでのことはなく現在に至っている。
決して幸福な過去ではないものの、それが今の幸福な状況に繋がっているのであれば我慢もできた。その経験で今まさにベルの役に立とうとしているのだから、悪いものではなかったのではとさえ思えてくる。
眼前の男は苛立ちを発散させたいだけなのは見て取れる。適当に話を合わせて二三発も殴られてやれば気も晴れるだろう――というのが今までのやり方であるが、現在のリリルカは非常に微妙な立場にいる。その方法は使えないし、使ったとしても背後で黙らせているベルが爆発してしまう。
そうなったら先の『戦争遊戯』の二の舞だ。フレイヤ・ファミリアと共同で街中で私闘をでっちあげた廉でロキ・ファミリアはギルドから制裁を科されている。両ファミリアとも探索系では最大手であり決して貧乏ではないはずだが、それだけに科されるペナルティは重く、どちらのファミリアの財布にも打撃を与えた。
ここで再び『戦争遊戯』となれば、金のなる木がやってきたとロキは喜んで食いつくだろうが、短期間に二度もトラブルを起こしたとなれば、ギルドの目もきつくなるに違いなく、ともすればまたペナルティを科される可能性だってある。
それがまた自分発端となれば死んでも死にきれない。どうにかここは丸く収めると鋼の意思でのらりくらりしていたリリルカだったが、雰囲気から背後のベルがそろそろ限界なことを察していた。散っていった冒険者たちはまだ戻ってこない。
早くしてください……というリリルカの内心を他所に、眼前の男の暴言はさらに続き、
「――フレイヤ・ファミリアの手まで借りやがって面白くねえ。俺はあんな『戦争遊戯』の決着なんて認めねえからな」
「つまりなんだ。お前は俺の女神の決定に対して不満があると、そういうことか?」
背後に忍び寄っていた男の声に、一気に気勢をそがれた。恐る恐る振り返ってみると、そこには目つきの悪い猫人の姿があった。オラリオで一年も冒険者をしていれば、都市の最高クラスの冒険者の名前と容姿は自然と頭に入り、どの程度関わってはいけないのかまで頭に入る。
短気で喧嘩っ早い冒険者たちの中でも更にその傾向が強い冒険者として、この男はロキ・ファミリアのベート・ローガと共に冒険者たちの間では要注意人物として知られていた。
フレイヤ・ファミリア副団長。レベル6。『女神の戦車』アレン・フローメル。
売られた喧嘩は買うが他人の喧嘩にまで首を突っ込むことはない。良くも悪くも他人には淡泊であり、女神フレイヤが関わっていないのであれば、彼にとっては――女神フレイヤの眷属にはあまり珍しいことではないが――些事である。
実際、『知人』の関わるトラブルであるが、直前まで彼は見て見ぬふりをするつもりでいた。ただ、『知人』の関わるトラブルであるから事の推移を最後まで見るくらいはするつもりでいたのだが、無視できない単語が出てきたことで、首を突っ込むことにした。
奇しくも、このトラブルを何とかするために散っていった冒険者たちはまだ戻ってきていない。不意のアレンの助け舟はリリルカにとって、そしてそろそろ爆発寸前だったベルにとってはまさに天の助けとなっていた。
そしてリリルカたちにとって天の助けであるなら、眼前の男にとっては地獄への誘いである。ムカつくことがあった所にムカつく奴がいたから、適当に暴言でも吐いて溜飲を下げようという最低な理由でちょっかいだったのだが、引き時を誤ったせいで適当には引き下がれない状況に追い込まれてしまった。
ただ、問題こそ大きくなってしまったが、解決手段は誰の目にもはっきりとしていた。元々ただのウザがらみであり、まだどちらも手は出していないしどちらの主神もここにはいない。
男の方が平謝りをし、頭の二つ三つも下げればそれで話は終わりのはずだ。よりにもよって『女神の戦車』が首を突っ込んできたのだ。ベル・クラネルだけでも不味いのに、アレン・フローメルまで加わって話が大きくなってしまっては、先の『戦争遊戯』の二の舞だということは推移を見守っている冒険者やギルドの職員たちにも理解できた。
頭を下げるしかないということは男も解っていたのだが、高位の冒険者を前に完全に身がすくんでいた。悪酔いをしていたこともあり、頭も上手く働いていない。
「はっきり言えよ。俺はお前と違ってこんな場所でクダ巻くほど暇じゃねーんだ」
アレンも苛立ちながらも言葉を続けて暗に『さっさと謝れ』というのを促してくるが、この時点で男の頭は真っ白になっていた。
男の顔色を見て、アレンは自分にとって事態が悪い方向に転がったのを理解した。謝ればそれで終わりではあるが、謝るという手段を取れないのであれば他の手段を取るしかない。トラブル上等の気質であっても、トラブルが好きな訳では勿論ないのだ。
先日トラブルに関わったばかりであるから、話が大きくなるのはアレンにとっても好ましいことではないのだが、それしかないのであればしょうがない。力技で解決する。その決意をアレンが固めたのとほぼ同時に、ギルドの出入り口からぞろぞろと男たちが入ってきた。
すっ飛んできた彼らは脇目も振らずに眼前の男に駆け寄り、問答無用で殴り飛ばした。男が文句を言う暇もあればこそ、続く面々が男を取り囲んでぼこぼこにする。夕暮れ時のギルドに聊か健全でない音がしばらく響くと、男は動かなくなった。
死んではいないが治療が必要な様子であるのは見て取れる。誰の目にも明らかな状態にしてから、先頭にいた冒険者の男がベルの前に手をつき、頭を下げた。続いてやってきた男たちも同様にする。
「オグマ・ファミリアのモルド・ラトローだ。うちのバカがすまねえことをした。『白兎』に『女神の戦車』。ついちゃあ改めてあのバカとうちの団長、主神が詫び入れに行くんで、今日のところはこれで勘弁しちゃあくれねえか」
「俺は別に構わねえよ。これは元々『白兎』に売られた喧嘩だ。俺の女神のお手を煩わせるまでもねえ」
「えーっと……別に困ってないからもう大丈夫ですよ」
「助かるぜ!」
話がまとまったと判断するが早いか、男たちは彼を担いで一目散に逃げていった。どうすればその場を乗り切ることができるのかを理解した、冒険者歴の長い者なりの早業である。できればアレンが出てくる前にこうなってほしかった所であるが、いずれにせよこれで最悪の事態は回避できた。
後はアレンに借りを返すだけ、とリリルカが話をまとめようとしていた矢先に、ベルが飛び出した。
「アレンさん、ありがとうございました」
「構わねえよ。それにしても、昨日の今日でめんどくせえことしてんだなお前も。ああいう時は適当に殴り倒して『今日はこれで勘弁してやる』とでも言えば良いんだよ」
「ギルドの職員としては、拳を繰り出す前に表に出やがれとでも言っていただけると大変助かります」
さりげなくアレンの近くに近寄っていたエイナがぽつりと付け足す。邪魔されたと感じたアレンは殺気さえ込めてエイナを睨むが、後は知らないとばかりにベルを盾にするようにしてエイナは走って逃げた。
これだから女は、とアレンの額に青筋が浮かぶが、あれの言うことももっともだと思い直したアレンは、ぼりぼり頭をかきながら言い分を修正した。
「まぁそうだな。さっきのハーフエルフの言う通りケンカをするなら外でやれ。同じことが『豊穣の女主人』亭で起こったらと考えると解りやすいだろ?」
「さっきの人は無事じゃ済みませんね……」
ギルド職員は基本的には一般人であるが『豊穣の女主人』亭の従業員はシルを除いて全員手練れである。明らかに店舗側に問題があるのであればまだしも、誰が見ても解るレベルの迷惑行為であれば即座に叩きだされて出禁になるだろう。
それに抗うことは冒険者の平均レベルを考えると自殺行為であるし、あの店の従業員のレベルに相当するような冒険者はそんなつまらない問題は起こさない。
ベルもようやくオラリオの雰囲気に馴染んできた所である。流石にあの店がただの店でないことくらいは理解して――どこかの偉い神様の持ち物なのだろうくらいのざっくりしたものであるが――いたから、アレンの軽口にもついて行けた。
僕も少しは事情通ですというひよこ特有の雰囲気にアレンなどは内心呆れていたが、自発的な情報の解禁は厳禁という通達を女神本神から言われている以上、余計なことも言えない。如何に神同士の話し合いで共同歩調を歩むことになったと言っても、『白兎』はあくまでロキ・ファミリアであって、アレンとは違う旗を仰いでいるのだ。
今日はたまたま目に入ったので口を出してしまったが、本来であればこれもする必要のないことなのだ。
「でも、僕も殴られて話が大事になったばっかりなんで、そこまでしても良いのかなぁと」
「時と場合に寄りけりだな。さっきみてえな奴の場合は殴り飛ばして問題ねえ」
冒険者歴が短いベルとしてはどういう時が殴り飛ばしても良い時なのか具体的に聞きたいものであるが、話しあいの前に拳が飛ぶことの多い冒険者の中にあってはベルはまず話し合おうという大人し目の性格をしている。
一度『戦争遊戯』を経験したことでベルも少しは覚悟を固めた。殴らなければいけないというのであれば勿論やる。自分以外の名誉がかかっているのであれば猶更だ。起こらないことが望ましいのは解っているものの、ここはオラリオ。神の都合で回るこの世界でも特異な都市である。
何か起こった時に対処できるように、冒険者の流儀なり作法なりを身に着けるのはベルにとっても急務であるのだが、教育担当であるリヴェリアは『そんなことよりも覚えるべきことは沢山ある』とその辺の教育はしてくれない。
「まぁ何にせよ。貸し借りはさっさと清算しろってことだな」
「そうなんですね……教えてくれてありがとうございます!」
きらきらしたベルの瞳に見つめられ、アレンがバツの悪そうな顔をする。ここまでのやり取りが冒険者としては小さな貸しになるということに思い当たっていないらしい。それを指摘するのは簡単だが、聴衆の前でかっこつけてしまった手前、ここでそれをベルに説明するのは興が削がれる。
偉そうに講釈を垂れた手前、最後までベルが気づかないようならバツの悪さを飲み込んで自分で説明するしかないのだが、できることならベルが自分で気づくか、そうでなければ誰かが助け舟を出してくれるのが望ましい。
他人の助けなど死んでも御免と考えているアレンだが、時と場合によってはその主義主張を曲げることもある。見栄のためには大抵のことを飲み込むのが冒険者というものだ。
そして、そろそろ自分の手番が回ってくると理解していたリリルカはベルがアレンとの会話を乙女のように楽しんでいる最中に、そろりそろりとアレンの背後まで移動していた。
ここがその時だと解ると、ザックの中から黒板とチョークを取り出して文字を書き込むとベルにだけ見えるように掲げてみせた。
『今日のお礼! 食事に誘う! アレン様の都合が良い時!』
「あ! あの……今日のお礼! という、訳ではないのですがっ。今度食事でもどうですかっ!? アレンさんの都合の良い時で良いです!」
自然な物言いとは程遠い口調で、ベルがまくしたてる。視線はアレンとその背後を交互に彷徨っている。それに気づかないアレンではない。大方さっきの小人が文字で指示でも出しているのだろうと察していたが、ここで突っ込むような無粋な真似はしなかった。何より勢い任せで挙動不審な『白兎』は見ていて中々面白い。
「飯か」
「そうです! アレンさんの行きたい場所で構いませんので――」
『僕の奢りで!!』
「もちろん今日のお礼なので僕がおごります!」
どうでしょうか! と迫るベルには勢いだけはあった。数々の修羅場を潜り抜けてきたアレンも、思わずたじろいでしまう程である。
ぼんやりとアレンはベルの顔を眺めてみた。
年齢相応の童顔に収まりの悪い白い髪。人間には珍しい赤い瞳も相まってなるほど、女神が『兎さん』と呼ぶのも理解できる。ある意味兎人よりもよほど兎っぽいこの人間のことがアレンは別に嫌いではなかった。
元よりアレン・フローメルというのは他人とつるむタイプではなかったし、ベルのような暑苦しい夢見がちなタイプは本来であれば苦手を通り越して嫌いなタイプだ。他人の面倒を見るなどした記憶がない程なのだが……女神が目をかけているというのもあるのだろう。本来であればそれも嫉妬と憎悪の対象になるはずのことだ。
それらの感情が全くないと言えば嘘になるが、一言で言うのならばアレンはベルのことがそれほど嫌いではなかった。それこそ、食事の誘いを断るという選択肢が、全く脳裏に浮かばない程度には、彼のことが嫌いではなかった。
「まぁ構わねえよ。来週の今日でどうだ。店はお前が決めて良い」
「良かった! じゃあ、ギルドの前で待ち合わせにしましょう。楽しみにしてますね!」
「ほどほどにな」
じゃあな、と最後は軽い挨拶をして去って行くアレンに、ベルはにこにこ笑顔で背中が見えなくなるまで手を振り続けていた。
男同士の会話にしては何だか甘ったるい気もするが、とにかくこれで脅威は去った。降って湧いたようなトラブルもとりあえず解決したと言って良いだろう。他のファミリアが絡むことであるので報告の必要はあるだろうが、起こってしまった後のことについては最善を尽くせたと言って良いかもしれない。
「ありがとうリリ、助かったよ。僕一人だったらどうなってたか」
「お力になれて良かったです。アレン様が食事のお誘いに乗ってくるとは思いませんでしたが……」
軽い貸し借りの清算の定番ということでとりあえず食事の提案をしてみたリリルカだったが、てっきり断られると思っていたのだ。アレン・フローメルと言えば排他的でファミリア内でさえ協調性のないフレイヤ・ファミリアの冒険者の中でも、飛び切り孤高で俺様だと知られている。
ロキ・ファミリアで言えば同じく俺様のベート・ローガなどがタイプとしては近いだろうか。実力はあるが友達は少なそうで、頼りにされてはいるが近づく冒険者は良くも悪くも皆無に近い。良い悪いとは別の所で関わり合いになりたいと思う者の少ないタイプだ。
そんなアレンに歩み寄ることができ、あまつさえ食事の誘いに成功するベル・クラネルという少年は、ある種の天才と言えるのかもしれない。少なくともリリルカは彼の真似などできるとは思えないし、オラリオ中を探しても、同じ条件でアレンを誘うことのできる者は、女神フレイヤを除けば皆無と言っても良いだろう。
「奢りって最初に言っておいた方が良いんだね」
「アレン様とベル様のお立場だったら、お金に関して事前の取り決めなしに食事に行けば、確実にアレン様が奢ることになりますからね。普通はレベルの低い後輩に奢らせるなんてことはありませんけど、今日のお礼と念押しすれば折れることもあるかな……と」
「リリがいてくれて本当に良かったよ……」
「困ったことがありましたら何でもお聞きください」
リヴェリアなどはいずれと考えているのかもしれないが、今日のようにロキ・ファミリアの中だけでは関係が完結しないケースも出てくるだろう。べルの純朴な所はリリルカにとっても魅力的な所ではあるのだが、良くも悪くも物を知らないというのは冒険者としては損である。
個人的な見解を言えば、ファミリア外の冒険者ともパーティを組んでみるのが良いと思うのだが……その辺りはまだ改宗もしていない自分が口を出すことではないのだろう。囲っておきたいという気持ちも解らないではないのだ。リリルカもリヴェリアや『千の妖精』の立場だったら、外には出さずに自分たちだけで、ときっと考えていただろうから。
「それじゃあ、色々あったけどご飯にしようか」
昼食には大分遅く夕食には僅かに早い時間ではあったが、『豊穣の女主人』亭はほとんどの席が埋まっていた。装備やら荷物やらを持って歩く冒険者を想定しているのかテーブルの間隔はこの規模の食堂にしても聊か広く、別の冒険者の一行が隣あったテーブルに並んでもそこまで邪魔にならないように配慮されていた。
冒険に出る時には基本大荷物なリリルカにはありがたい配慮である。ドアベルを鳴らして店内に入ると、たまたま前を通りかかった茶髪の猫人の女性が足を止めた。忙しなく店内を動き回り仕事中ですという顔をしていた彼女の顔が、ベルを見た瞬間に喜色に染まる。
「ベル! いらっしゃいだにゃ!」
「こんにちは、アーニャさん。二人なんですけど大丈夫ですか?」
「もちろんだにゃ!」
にこにこ笑顔でテーブルに案内する猫人の、ふりふり機嫌良さそうに動く尻尾を見て、随分ウェルカムな接客だなとリリルカは思った。どんな客にもこの対応であればさぞかしこの猫人の少女はモテるのだろうと思うものの、周囲の冒険者たちの羨望の籠った険しい視線を見るに特別な対応であるらしい。モテているのは猫人ではなく兎さんという訳だ。
「ところでベル。おみゃー、今日うちの兄に会ったかにゃ?」
「さっきギルドで。こちらに見えたんですか?」
「うんにゃ。店の前を通っただけにゃ……けど、見たことないくらいに機嫌が良さそうだったから、ひょっとしてベルかにゃと」
「だったら嬉しいですけど、きっと違うと思いますよ」
そーかにゃー? とアーニャは首を傾げる。機嫌の良いアレン・フローメル。辛いお砂糖くらい矛盾している。世界で彼と一番付き合いが長いと自負しているアーニャでも、脳裏に浮かぶアレンの姿はしかめっ面をしていることの方が多い。
他人ではそれこそ普段と大して変化がないように見えるだろうが、近しい人間なら感情の機微が見て取れ、それはアーニャからすれば驚天動地のことだった。原因はと考えたらどう考えてもベルかフレイヤしか思いつかず、さっき会ったというのだからこれはもうベルで間違いがない。
あの兄が、フレイヤ様以外の誰かに、良い方向に感情を動かされるなんてことがあるとは。世の中びっくりすることばっかりだにゃー、と驚きもそれなりに接客を再開する。
「会うのは初めてだにゃ?」
「はい。リリルカ・アーデと申します」
「……思う所がない訳じゃにゃーが。ベルが気にしないならにゃーも気にしないのにゃ。ただベルを裏切るような真似をしたらボコボコにしてやるからそのつもりでいるといいのにゃ」
アーニャはいー、と歯をむいて威嚇する。かわいらしい仕草からベルは冗談と解釈して笑っているが、リリルカはアーニャのその意図を正しく理解していた。彼女はきっと本気でやるのだろう。ぶっ殺すと言われないだけマシだと思うより他はない。
暗澹とした気持ちにならないでもないが、この手の威嚇もベルの人柄あればこそだ。リヴェリアも言っていたことだ。信頼はこれから、自らの手でつかみ取るより他はない。今は守ってくれる人もいる。以前の環境に比べたら天国なのだ。裏切りは元より、文句など言ってしまえばバチが当たってしまう。
アーニャに案内してもらった席でベルと差し向いでメニューを見る。リリルカが最初に感じたことは『お高い』ということだった。大衆食堂には違いないが一般的なそれと比べるといくらかお高めである。
無論のことそこらの高級店と比べればお安くはあるものの、冒険者向けとは言えその日暮らすのもやっと、というレベルからすると普段使いにするには抵抗がある価格帯である。
以前のリリルカであればこの店を使うことなど考えもしなかっただろうが、今日の収入からこれからを予測するに生活のグレードは大分向上するはず。普段使いも十分に視野に入るはずだが、一人でここに来ることはなかろうな、とリリルカは判断した。
真っ先に笑顔で駆け寄ってきたアーニャもそうだが、先ほどから何というか視線が刺さる。客のものではなく、かわいいお仕着せで店内を忙しそうに動く従業員のものだ。知り合いだから声をかける機会をうかがっている、というのではない。ベルに対する親しみと、ほんのりと自分に対する敵意を感じるリリルカである。道は険しい。
メニューについてはベルと同じものということでお茶を濁すと、飲み物だけがすぐに運ばれてきた。杯を掲げたベルと視線が合う。リリルカもそれに合わせて杯を持ち上げた。
「何に乾杯する?」
「僭越ながらリリに決めさせてもらって良いでしょうか」
「良いよ。どうぞどうぞ」
それでは、と断りを入れてからリリルカは
「私は! リリルカ・アーデ! 心優しき『白兎』様に助けられ、今日も冒険者を続けることができました。こんなリリを仲間として迎えてくれたベル様に、最大限の感謝と、精一杯の忠誠を捧げます! ベル・クラネルの未来に!」
『ベル・クラネルの未来に!』
「乾杯!」
『乾杯!!!』
リリルカの号令に、酒場に居並んだ冒険者たちが一斉に杯を掲げる。音頭を取る者の最後の言葉を繰り返すだけの、冒険者なら大抵の者は追従できる作法である。自分が気に入られていないことは知っているリリルカだが、眼前のベルはそうではない。
ベルをダシに使えば皆乗ってきてくれるだろうという勝算はあったし、何なら好感度の高そうな女給さんたちも乗ってきてくれるかと思ったら案の定、先のアーニャや他の配膳をしていた面々まで乗ってくれた。
女給さんたちはその後、女将さんに怒られているが些細な問題だろう。冒険者というのはノリと勢いで生きるものなのだ。
一仕事やり切った顔で席に着くと、ベルは何だか居心地が悪そうにしていた。オラリオきっての有名人なのに、まだまだ目立つことに慣れていないのだ。田舎から出てきたばかりの純朴な少年といった風のベルの杯に、自分のものを軽く打ち合わせる。
一気に飲み干したジュースは、今まで飲んだ何よりも美味しかった。
遅れた理由はアリスとイズンとアマノザコです。あとハーベスト。