真横を通っていくモンスターの臭いに、ベートは息を潜めながらやり過ごした。一秒、二秒と身動ぎ一つせず、やがて足音さえ聞こえなくなると、ぷはぁと大きく息を吐き出して、吸う。
18層で休憩を終え、19層以降になってからは、とにかくモンスターをやりすごし続けることに注視した。別に一人でやり合っても問題はないが、ベートの目的はここから28層にある。無駄な体力は使えなかった。
特に睡眠する場合は奇襲を警戒する者などいない。疲れすぎて深く眠ってしまい、敵の接近に近づかず永眠してしまいました、なんて本当に笑えない。
まぁ、これはこれで集中力を使うのだが。それでも大量の敵と戦うよりは大分マシだ。必要に迫られれば否は無いが、無いならこのままでいいだろう。
視覚ではなく、気配や臭いに敏感なモンスターの名前と姿を脳裏に浮かべて、そいつらにだけは気を付けねぇと、と思いながら、ベートは歩き出す。
時には苔生した岩に身を伏せ、時には壁を蹴って天井付近まで行き、ナイフを突き刺してぶら下がり、時には子供がギリギリ入れる程度の割れた隙間に潜り込み、時には――……そうやって、どれほど経っただろう。
脳裏に浮かべたダンジョンマップ通りなら、既に26層は過ぎた、はず。何度か穴の中へ飛び込んでショートカットしたので、マップを間違えているかもしれない。そうなったら怖い。この広大なダンジョンで迷子になったら、出られる可能性はゼロに等しいのだから。
仕方がないと、モンスターや人目に付きにくい物陰へ隠れる。それから今まで通った道と、覚えたダンジョンマップを精査する。中々に難儀する作業だが、生き残るためだ、仕方ない。
そして思う。シオンはいつもこんな面倒なことをやっているのか、と。いいや、シオンだけではないだろう。フィンや、他のパーティの誰かもやっているのだ。
――素直にすげぇ、と思うしかねぇな。俺はできればやりたくないからな。
認めるのは癪だが、ベートはティオナと同じく脳筋だ。考えたりダラダラ話すよりは、ひたすら突っ込んで双剣振るう方が遥かに楽だ。パーティで行動中はそんな身勝手は全員の破滅を招くからしないだけで、ベートは直情的で感情的だった。
「……問題は、無さそうだな」
結構な時間をかけた結果、問題なしと判断する。帰る時の道筋も問題はない。行き止まりのルートは覚えているし、モンスターの群れをやり過ごすためにいくつかの道も覚えている。全部行けませんでした、というわけでも無い限り、無事に戻れるだろう。
――正直に言ってしまえば、28層に行っても無駄に終わる可能性は高い。
目的を果たしたのにその場で留まる理由が無いからだ。自分ならそうする。というか、普通に考えて留まる人間は馬鹿だろう。
それでも行こうとしているのは――単純な理由だ。
――アイツが死ぬなんて、ゼッテーごめんだ。
シオンだけではない。例え倒れたのがアイズでも、ティオナでも、ティオネでも、鈴でも――同じ【ファミリア】にいる誰であったとしても、きっと何かしていた。
普段関わりの薄い相手であっても、同じ相手を
「……ハッ、小っ恥ずかしい事考えてんじゃねぇよ」
ティオナかティオネに知られでもしたら、確実にからかわれる事請け合いだ。頭を振ってさっきまでの思考を打ち消し、後数十分のところにあるらしい階段へ向かう。
――手がかりくらいは、あると良いんだが。
そんな希望的観測を思わなければならない事に、不甲斐なさを感じるベートだった。
アルミラージが一足飛びに前から飛びかかってくる。その後ろから回り込むように動いているアルミラージを認識しつつ、シオンは自分から前に出た。そして剣を横に振るい、アルミラージの頭を切り裂こうとする。
目論見は上手くいった。だが、シオンの顔には渋面が浮かんでいる。何故ならアルミラージの死体、その頭は角ごと真っ二つになっていたからだ。
――狙いが、定まってない。
いつもなら角を避けて頭だけ狙えたはずだ。それを失敗するとは、やはり触覚が消えるのはかなり痛い。
そう思いつつ、シオンは顔の向きを忙しなく動かしながらバックステップ。残りのアルミラージの位置を把握する。
ぴょんぴょんと飛び跳ねるアルミラージの足音から大体の位置はわかる。だが、シオンにとって恐ろしいのはその距離から攻撃される事だ。
アルミラージの武器は数による連携、角による一撃、それと、その跳躍力。遠くにいたと思っていたところに奇襲されるのが、一番怖い。
――今のシオンには、その奇襲を察知できないのだから。
触覚によって察知していた風の流れ。それが消えたせいで、シオンには無音無味無臭の相手は視覚以外で――そもそも無味無臭はまず意味がないけれど――知覚できなくなった。
だから、跳躍、からの空中滞空による突撃、は音がしないため、わからない。わからなければ避けられないため、そのまま喰らうだろう。
――そういう意味じゃ、一番の天敵はウォーシャドウかな。
シオンの知る限り彼等の上位互換にあたるモンスターはまだ出てこないので、問題ないが。既にLv.3へ至っていながらアルミラージを相手に苦戦するという歪さに歯噛みしながら、シオンは何とか敵を全滅させる。
――それを、サニアとリオンはいつでも介入できるようにしつつ見ていた。
「やっぱり、かなりやりにくそうだね。そっちはどう思う?」
「腕は、良いのでしょう。……本来ならば」
本来ならば。そう付けなくてはならないほど、今のシオンの動きは悪い。いや、年齢を考えれば年相応の技術になった、と言えるかもしれないが。
28層へ行くというのなら、やはり足手纏いと言う他ない。それなりにカバーすれば何とかなると考えていたが、それは些か甘すぎた。これではそれなり以上のフォローが必要だ。
一戦に必要な体力。シオンの様子を見る限り、かなり持ってかれているに違いない。……触覚が消えているせいで本人はわからないかもしれないが、二人にはよくわかった。これならいっそシオンを18層に置いて二人だけで行くほうが楽だろう。
しかしシオンしか敵の姿を知らないので、そんな選択肢は取れない。苦労を覚悟するしかない。
シオンが小走りに戻ってきた瞬間、サニアが肩を押さえ、リオンは回復薬を口に突っ込む。いきなりの奇襲にシオンは反射的に体を硬直させ、噎せかけながら飲ませられるという状況に陥った。それでも何とか飲みきったが、少し間違えれば吐いていただろう。
「な、何しやがる……」
抗議する声にも元気がない。
「あのまま進んでたらシオンが先に倒れてただろうから、体力回復のために?」
「無理に飲ませなければ、シオンは断っていたでしょうし」
「まぁシオンの状態は大体わかったから、もうあんな事はやんないよ」
……そう言われてしまえば、シオンには何も反論できない。シオン自身、自分がどこまでやれるのか把握しておきたかったのだから。そのためにかなりの体力を使ったのもわかっていた。
だから無理矢理飲ませていい、という訳ではないと思うのだが。こういう時、女は男よりも強いという事をシオンは知っている。涙を呑んで黙るしかなかった。
そして実際に三人で行動してみたが、思ったほど苦労はせず肩透かしされた。シオンは無理に前に出ず、短剣を投げて牽制に留意し、その牽制のお陰でサニアは自由に暴れまわる。リオンは後ろを警戒しつつ、近づいてきたモンスターを切り捨てた。
それでわかった。シオンにとって一番危険なのは接近戦による精密な戦い。遠くから大雑把に援護するだけなら、特に問題ないのだ。いや、普段から猪突猛進なティオナを援護しているだけあって、その援護は的確だった。
「サニア、ヘルハウンド、右から炎!」
加えて指示も正確。遠くから俯瞰して戦況を見ているシオンは、前に出ているせいで視野の狭いサニアにとってありがたい言葉を幾度も投げてくれる。
この言葉でより深く敵陣地へ潜り込み、モンスターを盾に炎をやり過ごせたのだから。
――凄い、今までよりもずっと安定してる。
一人の兵というより、一人の将。リオンは思わずシオンを二度見し、ほぅ、と感嘆させられた。足手纏いと思っていたさっきまでの自分を殴ってやりたいくらいに。
扱いが違うのだ、シオンは前に出すのではなく、後ろで指揮に従事させる。それこそが、今のシオンを十全に使える方法。
「……シオン、欲しいね」
「……確かに。欲しいですね」
体調が万全でなく、未だ身長の低い子供。それでこれだ。将来的にはもっと上手い指示を出せると想定すれば、正直、欲しい。
『戦える』人間は多くても、『戦わせられる』人間は多くない。フィン・ディムナはそこをわかっていて、そういう風にシオンを育てているのなら。
「……? 何だ、何か付いてるのか?」
――シオンはいずれ、フィンを超える指揮者になるだろう。
『
とはいえ、少しだけわからなくもない。
――『子供の立場は、捨てたから』
あの時のあの表情。アレを何とかしなければ、いずれシオンは。
しかしそこに関して首を突っ込むつもりはない。何故なら、それは彼等のやるべきこと。手を貸してくれと望まれれば貸す程度だろう。
「シオン、そろそろ18層に着きますが、まだ大丈夫でしょうか」
「多分、大丈夫。見たところ怪我も無いし。体力は……わからないけど」
「それじゃ、少し休んだほうがいいね。きちんと食料は持ってきたし、水はあそこの川を利用すればいいから、歩き回らなくても平気だよ」
持ってきたのはパンと、それに挟む肉と野菜。それに一口で食べれる果実だけ。それを三人分なら二食分が限界の量持ってきた。普通ならここまでは減らさないが、今回は特別だ。
Lvが上がれば上がるほど、上層と中層で一戦闘にかかる時間は減る。だからこそできる、荷物を減らした強行軍。行って戻ってくるだけだからできることだ。
「さて、18層の様子は、と……ぉ、やった。今ちょうど光が出てる」
「あの様子なら数時間は明かりがつくはずです。三十分を休憩できる場所を探すのに使い、三十分を食事に。それから一刻ほど休憩にしましょう」
「わかった。モンスターに警戒しつつ、奇襲されないように行こうか」
と言ったものの、モンスターと遭遇することはなかった。しかしそれも当然といえば当然で、この階層では壁からモンスターは出現しない。その理由は未だわかっていない――神ならばわかるかもしれないが――が、この状況を甘受できるのならわからなくても問題はなかった。
「よし、準備できた。シオン、多少辛くてもいい?」
「食感も今はわかんないし、不味くなければ何でもいいや」
そういえば、とサニアはシオンの状況を再認識する。何に触れていて、何を口にして、どんな温度か、湿度か、そもそも正常に呼吸できているのか、怪我や病気にかかっているのか――シオンには一切合切わからないのだ、と。
痛みなんて無い方がいい、と人はよく口にする。しかし実際に触覚が無くなれば、人は容易く己を見失う。今のシオンを見れば、自分がもしそうなれば正気でいられないだろうな、と。そうわかってしまった。
「味は保証するよ? ダンジョン内にしてはって枕詞がついちゃうけど」
そう苦笑しつつ、サニアは気付いた事の全てを胸に閉まった。気遣われてもシオンは困るだけだろう。何食わぬ顔をして気軽に接する方がまだ嬉しいはず。
自分の直感を信じて、鼻歌をしながらサニアはいつも通りにお手軽パンを作った。それを三人分作り置きすると、川まで水を汲みに行ったリオンを待つ。
シオンはサニアが座った反対方向にいる。お互いの背中、死角を埋める形だ。
そのまま待とうかと思ったが、それは時間の無駄になる。何を聞こうか数秒悩み、ふと聞き忘れていた事に気づく。
「そういえば、今回の目的って何だっけ?」
「え? ……ああ、そういえば何も言ってなかったか」
よくよく思い返せば、シオンはサニアとリオンに何も言わないままここに来てもらっていた。手伝ってもらっているのにこれではあまりに不義理過ぎる。
「でも、リオンはいないまま話しても二度手間じゃ?」
「あ、大丈夫大丈夫。リオンは私が納得してれば何となく察してくれるから」
それはそれでどうなんだと思わなくもないが、シオンにも心当たりがある。主に自分のパーティメンバーに。彼等は自分がわかっていれば『シオンが理解してるなら大丈夫だろう』と思っている節があったから。
「まぁ、それならいいが。――今回の目的はとあるウォーウルフの個体を見つけることだ」
「その言い方からすると、特殊な個体? 長くダンジョンに生きて強くなった、とか」
「多分だけど。少なくともウォーウルフが単独でアイズとやり合って、間に入ったおれの腕を落としたくらいだから。下手すると『強化個た――!?」
そこで、シオンの声が途切れた。
シオン自身に問題があった訳ではない。ただ、サニアが突進してきて、押し倒されただけだ。背中を強打し、肺を圧迫されれば言葉が途切れるのは当たり前。
しかしシオンは文句を言う前に、まず押し倒された理由を探した。痛みで――痛みは無いが、体が反射的に動いた――閉じた目をこじ開ける。
理由は、それだけでわかった。
顔に落ちてくる赤色の雫だけで、想像できてしまったから。
「――サニア!?」
モンスターの影は無い。
つまり――同じ、人間からの襲撃。考えすらしていなかった状況。
咄嗟にサニアの体を抱えて物陰に隠れたが、シオンの顔は強ばったまま動かない。動けない。
――サニアは……息はしてるけど、意識がない。気絶してる。
サニアの肩に短剣が刺さった時のショックのせいだろうか。何にせよ、シオンはこの状況で、誰の助けもなく、逃げ延びなければならない。
――やばい。やばいやばいやばい! 対モンスター戦ならまだしも、対人戦はできない!
シオンの額から冷や汗が流れる。
リオンはまだ帰ってこない。シオンは川の位置とリオンの足を計算したが、まだ数分あると見ていいだろう。
剣を握り締めるも、シオンの脳裏に、自分が勝てる光景は浮かばなかった。
大学のテスト直前状況のため割と厳しめ。頭の中にストーリーあっても書き出すのが辛いのですよなー。
今回っていうか今章は幕間的な感じなのであんまり山も谷もありません。次章かな。
ではまた次回ノシノシ