その咆吼は、フロアにいる全存在へと響き渡った。
否、声は届いていない。声を轟かせるには、このフロアはあまりにも広すぎる。
けれど、かの存在感は、声は届かずとも濃密な死の気配を理解させるには十分で、だからこそ、あまりに呆気なく踏み越えられた。
――自分達はここで死ぬのだ、という恐怖を。
誰もが薄々と感じていたそれを、必死に抑え込んでいた理性を……階層主が現れただけで、焼き払ってしまった。
ああ、届いてくる。感じてしまう。あちこちで発生するパニックを、しかし止める術などありはしない。
恐らく【アストレア・ファミリア】が守護する階段付近は希望を保てるだろう。だが、そこにいない冒険者達の末路は、想像したくもなかった。
それら全てを予期できた、違う、できてしまったシオンは、しかし動けなかった。動かなきゃいけない、という心に反して、体は欠片も動いてくれない。
何とか目だけを動かしてリドを見る。
「無理、だ」
シオンの期待の込められた視線を、その意味を理解しながら、リドはそれを拒絶した。その真意を痛みで鈍った脳で何とか理解する。
――ああ、足手纏いなんだな、今のおれは。
リドが動けば、必然動けないシオンはここに放置される。そうなれば死ぬだろう。例え1階層に出現するモンスターであっても、今のシオンなら抵抗もできずに殺される。それほど今のシオンは弱っているのだ。
「ふむ、コイツは予想外だな」
今尚咆吼をあげ、己の存在を知らしめているそれを見上げる男。その男の目線の先を追うと、階層主の左頭を見ていた。
その左頭は、右頭とは異なり巨大化している。というより、大きすぎて体のバランスが傾いて、常に左頭を地面に着けている程だ。
――『双頭竜』アンフィス・バエナ。
外見としては蛇が近い。ただ蛇と違うのは、アンフィス・バエナには尾が存在せず、代わりにもう一つの頭がある事だろう。
その頭――恐らく後ろの方――の一つが巨大化しすぎて、まともに動けていない。前の頭が必死に引っ張ろうにも、自重のせいでビタンビタンと鞭のようにしなるだけで終わっている。
「27層の理由は、これ、か……」
階層主は強い。というか、強すぎる。一パーティで相手取るのは余程のレベルと経験を備えていなければ不可能。そのため例え異なる【ファミリア】に所属していても一時的に協力してレイドを組んで相手にするほどだ。
だが、その階層主は基本的に
だが、このアンフィス・バエナだけは違う。
この階層主だけは――ギルドで確認した中で唯一の
つまり、
26層に逃げれば追ってくる可能性は低いが……今、その階段は塞がれている。逃げようとしたところで逃げられるような状況ではない。
だからこそ、今の奴の状態に助けられている。恐らく後ろ頭を動かせれば、奴は瞬時に移動を開始していただろう。というか、今も動こうと必死なのだし。
「残念、だったな。おれの左腕は、ただの重石にしか、なってないみたい、だぞ?」
途切れ途切れで事実を告げる。擬似魔石として利用されはしたが、あの階層主をこの場に繋ぎ留める要石に使われたのなら本望だ。
それと朦朧とした意識の中でも観察し続けて気付いたが、奴の胴体がおかしい。二つの頭の丁度中間点が、異様に膨れているのだ。
そして膨らんでいる部分、皮と肉から透けて見える『黒』。後ろ頭はシオンの左腕を取り込んだ結果なのだとしたら、誰かの心臓を取り込んだあそこは恐らく……。
「ふ、くく……ハハハハハ、ハハハハハハハハッ!!」
「……? 何笑ってんだお前? 自分の計画がご破産になって気でも狂ったか?」
そこでシオンの思考は中断された。唐突に笑いだした男は、何がおかしいのか、腹を抱えて爆笑している。
そんな男を警戒するように、シオンを抱き抱えて一歩下がるリド。それを気にすることなく、男は両腕を広げて振り返った。
「いやいや、本当におかしいのさ。まさかシオン――『強化種』に常識を求めているんじゃあないだろうな?」
「な、にが」
「見ていればわかる。いいや、もう直
そう、宣言した瞬間だった。
ドンッ! という音を、全身で感じた。それに対応するようにリドが足を踏みしめつつ、その発生源に目を向けた。
「おい……マジかよ」
向けて、口を開く事しかできなかった。
ドンッ! という音が、もう一度響く。前の頭が、黒い瘤がある部分までを持ち上げ、更に追加で振り下ろす。
それは、人間で言えばうつ伏せの状態から上半身だけを持ち上げ、頭を地面に叩きつけるような行為。やっている人間を見れば正気を疑うような行動だ。
それを、アンフィス・バエナは一度、二度、三度と繰り返し続ける。振動は27層を揺らし、揺らし、そして――それが起こった。
もちろん、前頭のように大きく持ち上がることはない。だが確かに上へ持ち上がり――そして即座に、地面へ落ちた。
轟音が響き、一瞬男とリドの体が地面から浮き上がる。
あまりの音量に耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、リドは確かに見た。
少しずつ、少しずつ――アンフィス・バエナが、動き出しているのを。前頭を地面に叩きつけ、その反動で後頭を引きずるように動いている。
「テメェ、まさかこうなるって知ってやがったのか!?」
「んなわけないだろ、俺にも予想外だぜコイツは! まさかこんな移動をするなんてなぁ! 強いのか弱いのかもわかんねぇし!」
あまりにもバカバカしいのか、未だに笑っている。確かに従来と異なる動きでは、本来の強さを発揮するのは難しい。
だが、わかっているのだ。男も、リドも、シオンも。
あの後頭が鉄球そのものだという事を。あの頭が大地を薙ぐだけで、その威力は絶大な物となる事を。
今はまだ、アンフィス・バエナが満足に後頭を振るう術を持ち合わせていないだけ。すぐにでもアレは今の己の戦い方を編み出すだろう。
「だが、面白い。変な方向に行きはしたが、だからこそ突飛な戦い方が生まれたんだから」
それを『面白い』と言い捨てる男の歪さに、シオンは知らず顔を顰めた。そんなシオンを嘲笑うように、いいや実際嘲笑っているのだろう。
男は、言った。
「お前のお陰だ、シオン」
「お、れの?」
男の瞳にはシオンしか映っていない。
「ああそうだ。お前は最初からわかっていたはずだぜ、自分の左腕は完治なんてしちゃいないことくらい。それを隠してここに来るかどうかは賭けだったが、俺はそれに勝ってあの『強化個体』を生み出した」
確かに、そうだ。
『心臓』を元にしたからあの瘤が生まれ、『左腕』を元にしたからあの黒い後頭となった。つまりそれはシオンの左腕があったからこそで。
「お前がいたから――今ここにいる人間全員、殺し尽くすことも夢じゃない」
「ッ……!」
シオンの瞳には、男しか映っていない。
「
その言葉の意味が、決して感謝のそれじゃない事はどんなバカにもわかる。
「お前は困った人を見捨てられない」
――ああ、だから27層にまで来た。
「お前は【
――わかっていた、『何か』が起こることに。
「そんなお前の
――だから、これはおれの……。
「ふざけてんじゃねぇぞ! 頭に蛆湧いてんのかテメェ!?」
「リド……?」
徐々に俯いていたシオンの顔が上がる。その眼を見て、リドは男を罵倒した自分を、決して間違っていなかったと確信する。
死にかけていたシオンの眼を見れば、確信を得る以外に無い。
冷静な頭なら、シオンはきっとコイツの言葉を無視しただろう。だが、今のシオンに冷静さは期待できない。ただでさえ血を失った上に痛みを堪えているのだ。
だからこそ、教えてやらねばならない。
悪いのは全て、コイツなのだという事を!
「シオっちの腕を擬似魔石に変えたのもッ、それ以外の擬似魔石も! 全部テメェが用意してアレに食わせただけだ! 全部テメェのせいだろうが!?」
その言葉に、シオンの冷静な部分が納得を覚え、同時に感情が反発する。だが、それでも先程までの死んだ眼はどこにも無い。
「チッ、余計な事を」
「悪いがどこに余計な事があるのかオレっちにはわからないね」
それを見た途端、急速に興味が失せていく。絶望し、泣き叫ぶ様が見たかったというのにこれでは意味がない。
「ああ、そうだ。
だから、最後に言ってやった。
「今この一帯には、さっきまで階層主を隠していたのと同じ魔法を展開している。この騒動が終わるまでは消えないから――ま、後はわかんだろ?」
こう言えばどうなるのか、それを理解していながら、男は去っていった。
それを止めることはできない。止めるだけの余裕がない。歯ぎしりして、今すぐ奴の首を捩じ切りたいのを堪えて、シオンを抱えなおす。
「アイツの言葉が真実かどうかはわからねぇけど、体を休めなきゃいけないってのは本当だ。しばらくここでジッと……おい、シオっち!? 何してんだ!??」
リドの言葉を無視して、壁にもたれた体を動かしてポーチから万能薬を取り出す。それはシオンが持っている分の最後の一つで――虎の子のそれを、躊躇なく飲み干した。
「ッ……ァッ!?」
瓶が手からこぼれ落ち、痛みに堪えるように体を抱きしめる。そんなシオンを慌てて抱えるも、何が起こっているのかわからないリドには手が打てない。
それでいい。今のシオンは、万能薬によって血を増産しているだけ。その増産に伴い各種臓器や血管に負荷がかかっているだけなのだ。
特に――失ったばかりの左腕。その断面に。
痛みに悶えたのは五分か、十分か。貴重な時間だった。けれど必要な時間だった。通りがかったモンスターが無視したのもあって、二人は無傷だ。どうやらあの男の言葉は真実らしい、というのを再確認しつつ、リドは呻きを止めたシオンを見下ろす。
「シオっち、敢えて聞くぜ。……
「戦うつもりだ。アンフィス・バエナと。そして……アレを討伐する」
「……ッ、無理だ! わかっているはずだぞ、アレはそう簡単には倒せねぇって事くらい!」
「わかってるよ」
「ならどうしてだ!?」
問い続ける間にも、シオンは立ち上がろうとしている。苦痛に歪んだ顔を隠し、左腕が無くなってバランスの取れなくなった体を揺らし、それでも、と。
そんなシオンを見ていられなくて、リドは悲痛な声を出した。
そんなリドを、シオンは見つめた。
「アンフィス・バエナを倒さなきゃ、助けられない人がいるからだ」
「……!?」
――誰かを助けたい。
シオンの願いは、想いは、それだけだ。左腕を持ってかれたからでも、自分のせいだという筋違いな責任感からでもない。
ただそうしたいからという、ワガママから来る行動だ。
そして、わかってしまった。
こんな頑固な眼をした人間なぞ、止められないという理解。両目を片手で覆い、盛大な溜め息を吐き出した。
「ァ~あ……しゃあねぇ。それじゃ止めるなんてできるわけ無いっての」
これ以上無いくらいの苦笑いを浮かべつつ、リドは剣に触れた。
「それなら」
「ああ、ここでお別れだ、リド」
力になる――その言葉は先んじて封じられた。
「きっとアンフィス・バエナとの戦いは相当なモノになる。リドが近くにいれば注目を浴びるだろうし――それに、そのローブも保たない」
どうして、という疑問すらも制される。
「オレっちは……シオンの助けにゃ、なれねぇ、のか?」
リドの声が、拳が、微かに震える。それを聞いて、見ていながら、シオンは瞼を閉じて、静かに頷いた。
「リドには十分助けられたよ。左腕程度で済んだし、ここに来るまでにも色々カバーしてくれたしな」
「だ、だけどよ。これからが本当に辛いとこだろ? オレっちの力が本当に必要なのはここからじゃ――」
「リド」
言い募る彼を、一言名を呼んだだけで押さえてしまう。それはシオンの表情が不自然な程に穏やかだったからだ。
「ありがとう」
心の底から嬉しそうに。
「お前の言葉で目が覚めた。それで十分。……お前はお前の身を案じてくれ」
――彼は、リドを拒絶した。
シオンにそんなつもりは欠片もないだろう。だが、リドはそう感じた。さよなら、という言葉さえ今生の別れにしか聞こえなくて――リドは最後まで、彼の背中を見ている事だけしかできなかった。
そしてその小さな背中が見えなくなって……リドは、崩折れた。
「ち、くしょう」
知らず、そんな言葉が漏れる。
「畜生……畜生ッ!」
今初めて、己が身を呪う。
「オレっちが、人間ならッ! こんな体じゃ無けりゃ、力になれたのに!?」
異端であることを。人でもモンスターでもないこの身を、強く、強く。
「肝心なとこで友達の力になれねぇなんて……!」
シオンの想いを無碍にしないのであれば、今すぐ逃げるべきだ。異端児が存在を許されるのは、その存在を悟らせないから。
悟られれば、全員が狩られる。リドだけじゃない、力を持たない彼等全員だ。
それをわかっていても、リドは動けなかった。
ただ、思う。
「誰でも、いいんだ」
ただ、願う。
「オレっちの代わりに、シオっちの助けになってくれ――!」
コミケに行く前に予約投稿してたんですが、日にちズレてました。帰って早々寝落ちして確認もできず……という訳で今日投稿します、申し訳ない。
今回は短め。後今更気付いたんですが、27層やそれ以前の層の描写してないな、と。でも今更書き直すのもなぁという絶妙な気分の私です。
あ、あとそれっぽい感じで終わってますが、次回は少し時間軸が戻ります。そろそろベートを始め他のメンバーに焦点を当てないと、想定通りに終わらないので。
そして誤字報告ありがとうございます。誤字には気をつけたり軽く読み直して自前で修正したりしているので比較的少ない方だと思いますが、まだこんなにあったのかってくらい一気に報告が。
今まで報告してくれた方々含め、ありがたい限りです(それだけ注意して読んでくれてるって事なので)。
それでは次回もお楽しみに!