最高の恐怖を抱くものは、狂った化け物などではない。狂ってなお理性を保った化け物だ。
◆◆◆◆◆
初めて着る綺麗なドレスに身を包まれてあたしはマスターに手を引かれ舞台裏からホールの中央まで歩いて行った。
「続いての商品は喰種です!!」
目を劈くような光と共にそんな声を耳にした。大きなコンサートホールに仮面を被った大勢の人々が此方に視線を向けている。
「先ずは五千万から!」
五千五百万、六千万と次々に札を上げる中、あたしはただ淡々と佇んでいた。
ーー
新しいマスターは額に汗を滲ませて笑う丸い体型の男性だった。
目を三日月に歪めてあたしを見たマスターは手を引き前を歩く。
ああ、今度もだめだな。
本当にこの世界はあたしに厳しい。
ーー
この世界であたし以上に不幸な少女は何処にもいないんじゃないかな。
未だ疼く、眼球に残る注射痕をそっと手で押さえながらあたしは一人、考えていた。
最近人間の上流階級の間で喰種を飼育するという気の狂った流行があるらしく前のマスターはあっさりと何のためらいもなくあたしを売り払った。
そして今回のマスターはまた毛色の違う性癖の持ち主だった。
さっきマスターが排出していった白い液体をそばにあったボロボロの雑巾でふき取る。
どうやらマスターは喰種を犯し汚すことにこの上ない快楽を催すらしく、あたしは毎晩マスターの慰み者となっている。
ご丁寧に抵抗できないよう眼球から薬物をぶち込んで行為を行うその姿は余りにも滑稽に見えた。初めから抵抗なんて言葉は存在しないのに。ああ、でも二つ前のマスターよりマシかな、あの人はあたしの腕を切断して再生する様子が興味深いと言い、毎晩抉られていたし。
まあそんなあたしでも今回のマスターから一つだけ与えられたものがある。
小さな絵本。
ボロボロで表紙と最後の方が掠れてて読みにくいけどあたしはこの本が大好きだった。
ジャックのきぼうとせいぎの物語。
辛うじて読めたその本の題名はそんなだった。
ーー
ある昔、小さな村の外れに一件の家がありました。そこにはとても誠実で正義感の強いジャックという少年が住んでいました。
村が盗賊に襲われれば一目散に駆けつけその頑丈な剛腕を振るいました。
町娘が攫われると聞けば風のように飛んでいき颯爽と危機から救います。
ジャックは村の人々のために尽くしました。
見返りなんて求めていない、ただただ自身が他の誰かのために何かをしている。それだけで満足でした。たとえ村の誰もがジャックを見ていなくても、嫌われていたとしても。
ある日の晩、今日も今日とて村人たちのために尽くし、満足顔で床につきました。
でも、ふと何を思ったのか突然目が覚めてしまいました。するとそこは、何故かジャックの家ではなく、村の家々が建ち並ぶ一本道でした。
あれ? おかしいな。僕は家で寝ていたはずなのに。
おかしなこともあるものだ。ジャックは不思議に思いながらいくら考えても仕様がなかったので、その日は家に帰り、また眠りにつきました。
そしてその次の日ジャックの家に、初めての客人が来ました。それは村の村長でした。
ジャックは嬉しくなって、上機嫌で村長を迎えました。
村長は言いました。
ジャック。貴方は勇敢で誠実な者だ。私達の村は存分に助けてもらった。どうか今度はその勇姿を他の村でも示してほしい。
ジャックはその申し出を二つ返事で了承しました。村を出て行くのは寂しい。でもそれ以上に自分の行いを弔ってくれる人がいたことの喜びが勝ってしまったからです。
ジャックはその日の内に仕度を済ませ、家を出ました。村を見ると寂しくなるので見には行きませんでした。
そして次の村でも同様にジャックは村人のために尽くしました。尽くして尽くして尽くしました。
そうして新しい村にも慣れてきた頃、ジャックの家に村長が来ました。
すると、その村の村長は前の村の村長と同じことを言うのです。
ジャック。あなたはとても素晴らしい者だ。あなたのおかげで私達は十分に救われた。どうか他の村も同じように救ってほしい。
次の村も次の村も次の村も次の村も次の村も、決まって村長はジャックを褒め、旅立たせようとします。
ジャックはとうとう行く村がなくなってしまいました。
そんなある日の真夜中、珍しく起きていたジャックは一人の青年を見つけました。その青年は一番最初の村にいた青年でした。
ボロボロになって倒れている青年に駆け寄り助け起こします。その青年はジャックを見ると顔を皺くちゃに歪めてこう言いました。
近寄るな化け物。
と。
ジャックは訳が分からなくなりました。そうして不意に月明かりに照らされた湖に映る自身の顔を覗き込むとーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの後は破れていて読めない。
ーー
きぼう?せいぎ?あたしには全くの縁がない吐き気を催す言葉の数々。でも気になった。蛾が強い光に反応して街灯に纏わり付くように
はは。なんて哀れだろう。
空想の何かに想いを馳せるあたしを見てあたしも滑稽だなって思った。
ーー
ーーーー所詮、現実はこんなものだ。
小さなバケツ型のゴミ箱に無残に散らばる紙片を見ながら呟いた。
捨てられた、あっけなく、無残に、一瞬にして。目の端に映ったそれが目障りだったのだろう。マスターは傲慢な態度で小さく鼻を鳴らし、ビリビリになったそれを一瞥する。
絶望に咲いた一輪の花が散るかのごとく紙片は空を散る。あたしの唯一の拠り所、あたしのすべてが散っていく。精神が瓦解していくのがはっきりとわかった。
ああ、だめだ。もう何もかもが終わりを告げた。視界が歪んでいく。
ジャック。誠実で勇敢。でも、周りからは見放される可哀想なひと。
ーーーー死なせないよ。
心の中でそんな言葉が響いた。
そうだ。死なない。ジャックは死なないんだ。絵本は唯の自身を形成する媒介に過ぎない。依り代があればまたその意識が失われることはない。
依り代?何処にそんなものがある?
あるじゃない。このカラダが。
あたしは紙片を集めるとそっとそれを抱いた。後ろからマスターの怒鳴り声が響くがそんなもの気にしない。
今よりこの身はジャックだ。
そうなればジャックのために自由を勝ち取らなければ。手足は動く。打たれた投薬など、七年も同じものを服用し続ければ嫌でも抗体ができる。
あたしはそっと振り返り、怯えるマスターを視認して少し、笑った。
あたしはジャックでジャックはあたし。
ジャックが悲しまないように、寂しがらないようにはやく誰かを見つけなきゃ。
ジョーカーはだめだよ。ジャックじゃなきゃ。あたしが見つける、ジャックじゃなきゃ。
こうして、辻斬りジャックは誕生した。
◆◆◆◆◆
ピチャピチャ。チャプチャプ。
アカとアオが混じって何かわからなくなちゃった。
コレはもう要らない。ジョーカーだったから。アカもでなくなっちゃったし。だから、今度はあなただよ。
「あなたはジャック? それともジョーカー?」
目の前の少年に語りかける。
そして両者共に引きずっていた肉塊を交互に見て。「お揃いだね」と笑顔で付け足した。
「ぜんぜん嬉しくねー」
微笑むあたしに心底嫌そうに答える少年を見て笑みを深めた。
新しい反応だね。
興味が湧く反面、あたしの奥の方が全力で警報をならしていた。こいつは危険だ。関わっては行けない部類にはいる人間。その大きな黒い双眸で見つめられると、自身が只の凡人に成り下がってしまう。そんな気さえしていた。
でも、
「ジャックは可哀想な子なの。だからね。あなたもジャックになってくれる?」
聞いてしまった。いや聞かざるを得なかった。
あたしは狂人だ。ほんの少しの理性より欲望がついて出たのだ。後に聞かなければよかったと、聞かなければもう少しこの世に存在できたのにと後悔するなんて知らずに。
そんな脈絡もなにもなく、唐突にいきなり問いかけた可笑しな言葉に少年は黒い瞳をより一層澱ませて一言、呟いた。
「可哀想、ねぇ。…俺はあんたが」
ーーーー羨ましい。
は?
理解できなかった。羨ましい?誰が?誰を?
頭のなかで少年の言葉が反射して聞こえた。わからない。わからない。わからない!
「あれ? 聞こえなかった? もう一度言おっか?」
ーーーーやめて。
心が叫んだ。
「あんたが羨ましい。その自分が一番不幸だって思ってるあんたが羨ましい。一度も幸福を知ってもいない癖に、ドン底から抜け出せないだけのくせに落とされる感覚も知らないくせにそうやって簡単に狂ってしまえるあんたが羨ましい。羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましいウラヤマシイウラヤマシイウラヤマシイウラヤマシイウラヤマシイ」
ーーーー簡単に死ねる全てが羨ましい。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
その声をこれ以上聴きたくなかった。全てが終わるまで叫ばずにはいられなかった。
あたしの人生は世界で一番不幸だ。その事実だけがあたしの小さな理性を支えていた柱だったのに。それをこいつは簡単にへし折った。
「ああ。そういや。その格好にジャックって、もしかして絵本のジャックのこと? 昔読んだよな、あれ。なんて題名だっけ。確か…」
ーーーージャックの
「ガキに読ませる絵本にしては些かヘビーだよなぁ。どんな話だっけ。ええっと。
人とけものの間に生まれたジャックは心はけものだったけど体は人間だった。けものになれるのは夜中のほんの少しの間だけ。これでは狩りもできない。そこで考えたジャックは心にもう一つの人格を作った。誠実で勇敢な人間のジャックを。昼間は仮の人格で人として村に潜み、夜になると狩りを開始する。そりゃ、誰も寄り付かないわけだ。だってジャックが来てから一人ずつ村人が消えていくんだからな。最後はどうなったんだっけ。確か恨みを持った人間たちに昼の間に殺されて終わりだったっけ。まあどうでも良いけどさ」
「ああ、あああ……あアアア、ア」
声がでない。完全に心が折れた瞬間だった。狂う心すら存在しなくなった。
あたしは光に憧れて、ジャックに恋したと思っていた。でも実際は類は友を呼ぶようにただ
なおも少年の声がする。優しく囁くように。
「辛い?苦しい?大丈夫だよ。だってあんたはこの世界から逃げ出せるじゃない。羨ましいことに。…ほらこれを貸してあげるよ。そおっと、ゆっくりでいいんだよ。ゆっくり押し込めば」
その言葉に抗う術などなかった。ゆっくり、ゆっくりあたしは喉にナイフを突きつけた。
ーーーーバイバイ。誰にも理解されない、寂しがり屋のジャック。
そんな声を耳にしながら。
◆◆◆◆◆
慟哭のごとく降り注いだ雨はその影を残すことなく消失していた。雨上がり特有のパサついた空気を漂わせながら、そこは地獄絵図と化していた。薄暗く点灯する蛍光灯が照らしていたものは、血、血、血。そして肉塊。数人で屯していた男達は跡形もなく肉塊へと変身していた。
そんな中、フードを目深に被った少女が一際大きな肉塊の上に腰を下ろしていた。
少女はその惨状を眺めながら、手に持つ何かを齧る。グシャグシャと肉がすり潰される音と共に飲み込んだ。
そしてちびちび喰べるのに飽きたのか少女は徐ろに立ち上がり、背後から薄黒い何かを出現させた。
それは、奇妙な形状だった。
よくホラー映画に出てくる不気味な館の近くに生えている枯れ木の様な形で複数箇所にポッカリと穴が空いていた。まるで総てを呑み込む大きな口の様に。
案の定、少女はその何かを振り回す様にしてそこら一帯に散乱していた肉塊を乱食した。
そして、
「ごちそうさま」
そう一言、零した。ただ無表情に…。
薄暗い一本道にこの季節特有の肌寒い風が吹いた。
「あれ、いたんだ。
無から個が出現する。初めからそこにいたかのようにローブを羽織った大男が自然に佇んでいた。
大きな口が描かれた仮面を被って黙止する。
そんな大男から返事が無いことに痺れを切らしたのか、少女は直ぐにそっぽを向き静かにある一点を凝視した。その先に自身が狙う何かがある、そう現に語っていた。
「しーしーじー」
そんな言葉と共に。
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