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高校一年生の冬、寒さが身体を支配して、布団から抜け出せなくなってくる日のことに、どうしてか普段より早く眼を覚ました。
特に部活にも通っておらず、バイトもしていない自堕落な一帰宅部員系高校生の我が身ではありますが、早く起きてしまったから、暇にあかして早くウチをでてしまう、何て気まぐれを起こしてしまったのである。
別に朝に強いわけではないので、それでも実際は、いつもより二十分程度、なんていう微妙な時間ではあったのだけれど。
それでもまぁ――転機は、そんな小さな二十分で良かったのだ。
人生の転換期、ちょっとしたボタンの掛け違い。
私は、その時初めて、「それ」を知った。原因は、少しだけいつもより早くついた教室の一角に、気がついてしまったから。
急に普段より早く登校してきた私と、それに驚く友人たちの他愛無い会話のよそで、「それ」は行われていたのだ。
教室の一角に、机を向かい合わせて向き合う男子が一組。その周りには何気ない様子でそれを眺める、その男子たちと仲の良いグループ、何をしているのだろうと、少しだけきになって、耳を傾ける。
「――<牙王>で、攻撃」
……よくわからない言語だ。けれども、何をやっているのかは解った。
流石に知っている……昔流行ったゲームだ。<遊戯王>、小学生の頃、男子がよくカードを集めていたことを覚えている。
それが、今あそこで行われているのだろうか、確かなんと言ったっけ……? <ブルーアイズ>? が強かったのだったか。
「おっと残念<ミラフォ>だ。ご退場願おうか」
「ちょ、おま! <聖バリ>とか、そんなん考慮しとらんよ……」
「あ? <ミラフォ>だろJK」
何やら楽しげな様子で、随分とその周囲は賑やかだ。
普段は、こんなことほとんどやっていなかったのに、と、周囲の友達がそんな様子を見て、軽く細くしてくれた。
「あいつら、この時間だけあそこに集まってやってるんだよね、朝早くから来てさ、ご苦労なこったねー」
「そうそう、何で放課後やらないんだろね。アユが知らないのも当然だよ、遅刻魔だし」
遅刻魔ではない、ただ毎日毎日登校が授業開始の二、三分前になるだけだ。
と、憤慨してみるものの暖簾に腕押し、周りは全然とりあってくれない。
ともかく、普段からこの時間帯に来ている彼女たちには日常的な光景のようだ。
なんというか、よくある高校生男子の図というか、そういう様子で、周りは少し呆れ顔。まぁ、大分賑やかすぎるのは否めない。
そのせいか、教室に勢い良く入ってきた一人の男子生徒が彼らの前に立ち――
「おい、そろそろ上原が来るぞ、うるさくなる前にさっさと片付けろ」
彼らへ少し注意を入れる。
とはいえ、彼はそれなりに人徳のある人なので、すぐに周囲も、
「うーい」
と、気のない返事とともにそれに応えた。
しかしまぁ、それは私にとって、人生で初めて目に入る光景だった。
衝撃だとか、憧憬だとか、そんないかにもそれっぽい言葉は何一つなく、ただただそれを眺めているだけだ。
周りの友達たちは彼の登場とともに完全にそちらへの興味を失い、現在はぼんやりと携帯をいじっているだけ、話題を失った、一分にも満たないインターバルだ。
ただ、賑やかだった男子たちも今は粛々と片付けと授業の準備に移り、この教室は静かなものだ。
人が集まるほんの少し前の、そんな、間隙にも似た空白の中で、私はただ、彼らが手にしていたカード――未だ片付けられていない一枚のそれに、目を奪われていた。
そう、それは決して何か特別な感情であったわけではなく、また、特別になれるはずもなく。
本当に小さな、一粒の小さな感情だったのである。
なんというか、アレは何だか、面白そうだな、と。
そんなことを少しだけ、心のなかで思ったのだ。
◆
それから、私はふと、カード――「TCG」のことをネットで調べてみようと思い立った。
大体それが二月の頭あたりのこと、1月の中頃に初めてカードに意識を向けて、それから大分時間が経っているが、まぁ、その時は割りとその程度、興味本位だったということだろう。
実際は、三学期の期末への対策が忙しくて手を付けられなかった、というのが本当なのだけど。
ともかく、調べた所TCGにも色々な種類があることがわかった。ただ、困ったことに、それはどうにも私の中でノイズになってしまったようだ。
色々なゲームがあり、そしてそれがどれもこれも、複雑――に見える――ルールを内包している。
これでは一体何に手を出したらいいのかわからない。
どういう動機でもってそのTCGを始めればいいのかわからない。
困ってしまった。
何も私は、気軽な気持ちで「楽しそう」だなんてそう思ったのだ。だから、それが複雑になればなるほど、情報が増えれば増えるほど、気後れしてしまうのは無理もないこと。
どうすればよいのだろう。答えをまとめながら少しずつ考えをまとめて、――ふと、あることに気がついた。
というよりも、発見してしまった。
曰く、基本的にTCGはそれ相応の場所でプレイするものだ。下手に公共の場でそれをやっても、見咎められてしまう、騒がしいから、あまりいい目では見られないだろう。
だから、その解決の場がある。
なにせカードゲームは私が子供の頃から流行っているゲームなのだから、それ相応のプレイヤーがいて、需要も在る。
つまりはその需要に対して供給を与える存在。
専門店、なるものが存在するのだ。
――俗に、それはカードショップと呼ばれる。
私は決めた、近くにあるカードショップに寄ってみよう、と。
その雰囲気を確かめるのだ。できることなら、何か一つ、ゲームを始めてみたい、なんて思いを抱きながら、そう決めた。
かくして、目の前には今、小さなお店の前に立っている。
普通の女子高生であるところの私が、神妙な面持ちで看板を見上げる。
何だか、少し不釣合いのような、場違いのような、そんな感覚を覚えながら、私はそこで、意を決したのだ。
冬の二月、冷え込む肌寒さは、私の吐息を真白に染め上げ、地につもり上がった雪に溶かしてかき消すのだ。
その寒さが、私を阻む壁に思えた。
未知の体験それもズブの素人が、何の知恵もないままそこへ足を踏み入れるのだ。
緊張は、しないわけがないだろう。
それでも少しだけ、私は顔をほころばせる、理由は視線の先にあった。
――なんとも、可愛らしい看板がそこにある。
「……カードショップ『ねこのみー』……かぁ」
可愛らしい猫のイラストが散りばめられた、ともすれば少し勘違いしてしまいそうな優しげな看板。
あぁうん、これは、引き寄せられないわけにはいかない。
単なる勘違いではなく、確固たる意思でもって、私はこの店に足を踏み入れるのだ。
そして、――それが、ある意味決定打となる。
背中を押されて、ゆらゆらと平行線の上で揺らめいていた私にとっての、最後のひと押し。
言ってしまえばそれは、ダメ押しのようなもの、ここまで来てしまえば、そういう他にないだろう。
私は自分の意志で、このカードショップへ訪れることを選んだのだから。
だから、決して後からそれを悔やむなんてことはなく、そもそもそれは、そんな衝撃的なものではなく――
店に入ると、私と同じくらいの少年が、エプロン姿でカウンターの向こう側にいた。
おそらくはアルバイト、何やらカードを整理している。
縦長のケースいっぱいに、カードが敷き詰められている、思わずそれに息を呑み、「それ」に気がつくことに、私は遅れた。
「いらっしゃいま……せ……」
そのアルバイトさんの声が、絶句へと変わっていくことに。
そして同時に、彼が顔を上げ、――目が合った。
「……おまえ、遊河峰か?」
そんな声に、私は聞き覚えが在る。
「――――高橋、くん?」
高橋冴木。
それがこの人の名前だ。
あまり特徴はないけれど、少しだけ逆立った黒髪と、理知的は鋭い瞳。
私と同じクラス、つまり同級生。
そんな彼がここでバイトをしている、それは確かに驚愕だ。
思わぬ偶然に、目を見開いてしまう。
だが、それだけではない。
驚かなくてはならない理由はもうひとつあったのだ。
そう、彼は――
――私が見ていたあのカードゲームの対戦を、中断させた人なのだから。
◆
高橋冴木。
周りからの評価は、平凡だがいいやつ。
運動はからきしだが勉強は大体上の中。
品行方正で、周囲を背負って立つ優等生というわけではないが、それを支えるタイプの人間だ。
言動こそシニカルさを持つものの、その性根はまったくもって真面目の一言。
つまり言えば――こういう趣味は、あまり似合わない。
いや、違う。
そもそも、「こいつが趣味なんてものをしているところを誰も見たことがない」だ。
傍目から見て、俺の評価は、おおよそそんなものだろう。
俺自身、そのことに自覚はないではないし、真面目すぎる、とはよく教師や親にも言われる事だが――
さて、俺のプロフィールを確認した所で、現状のこいつについて考えてみよう。
目の前にいる少女、関係を一言であらわすなら同級生。
会話もあまりしたことはないが、人となりならそれなりに知っている。
そんなところか。
そんな彼女の名前は遊河峰歩という。
見た目はいかにもおとなしめな少女といった所。
今は茶色のコートとマフラーで、身体をすっぽり覆い隠している。
平均から少し低めの体格と、ふんわりとした黒髪のボブカット。
確かこいつは普段はメガネをかけないタイプだが、時折かけていて、今はそう。
赤色の少し派手なデザインのメガネは、唯一のお洒落ポイント、なのかもしれない。
ともかく、クラスの中でもあまり自己主張は激しくなく、また人付き合いもそこそこ。
特徴がないのが特徴というか、それでも顔のパーツはいいし、少し磨けば化けるとおもうが、それは余談か。
そんな彼女が、どうしてこの場にいるというのだろう。
――否、目的は解っている、どうにも店を間違えたという様子ではないし、顔には幾ばくかの緊張が見て取れる。
遊河峰がカードゲームをしている、何て話は聞かないし、とすればつまり――
「何だ、……興味があったのか?」
興味本位、というのがおそらく正解だろう。
「え? あ、え、ぅん」
少しだけ狼狽した声で、遊河峰はこくりと頷いた。マフラーに隠れた首が、少し揺れる。同時にそれは、明らかに彼女が緊張状態にあるということを意味していた。
「まぁ落ち着け、うちは飲食禁止だから歓待はできないが、まぁ歓迎はするよ、いらっしゃい」
「お、お邪魔します?」
「おいおい、ここは俺の家じゃないぞ、俺はあくまで単なるアルバイターだ」
軽く笑い飛ばして、それで少しは緊張も揺らいだだろう。
ほう、と溜息混じりの笑みを漏らして、ようやく向こうも落ち着いたようだった。
「アハハ、高橋くんの冗談なんて、初めて聞いたよ」
「そうか、俺もこんなところで遊河峰を見るのは初めてだな」
「あ、うんそうだね。えっとここは……」
店内を見回して、思わず遊河峰は驚きに満ちた吐息を漏らしたようだ。
まぁ、初めて見る者にとって、壁一面のストレージの山は圧巻か。
「――カードショップ「ねこのみー」、名前の由来は店長が猫好きだから。主に<遊戯王>、<MTG>何かを扱うTCG専門店だな」
「あ、知ってる。どっちも有名なカードゲームだよね」
「<MTG>まで知ってるのか、予習でもしてきたか? まぁ、ともかく、TCGに興味があって来たんだろう?」
「うん、そしたらいきなり高橋くんがいてびっくりしたけど」
俺は天然記念物か、熊か何かか、というような驚きようだったな。
「ごめんなさい。でも、なんていうか、意外だよね、少なくとも、ここで会うなんて夢にも思わなかった」
それは俺もだ、と頷く。そしてそうくれば、続く質問も察しがつくというもの。
「学校で朝によくカードやってる男子たちがいるけど、高橋くんはやらないの?」
「うちはなんだかんだ上原が厳しいだろう。俺がそういうのやると、周りがたぶらかしたとアイツは思うらしい、失礼なことに」
「あぁー」
心底納得した様子で遊河峰は頷いた。なんというか、どこかのイロモノ教師みたいである。
そしてこれはもっと単純な問題なのだが――俺は見ての通りショップのアルバイターだ。
そしてここは俺を含めて二人の店員で成り立っている、つまり俺と店長。
去年までは大学生のアルバイトがもう一人いたのだが、今は就職してしまってもういない。
要するに一言で言えば、俺は一日のかなりの時間をカードゲーム漬けにしている。
趣味らしい唯一の趣味なので、熱中度も半端ない。
朝の時間は短く、故にそんな短い時間で、不完全燃焼になるのはよろしくないのだ。
さて、雑談もそこそこに、本題は俺ではなく遊河峰だ。
「それで、始めたいんだろう?」
「……?」
「TCG、で、問題はどれを始めるのか、っていう点だ」
「あ……」
多少の予備知識はあるようだが、だからと言って何を始めよう、という結論は出ていないのだろう。
<遊戯王>を始めようと思うなら、それを重点的に調べてくるはずで、<MTG>には興味が向かないはずだ。
同時に同じくらい知っている、というのなら、つまりそういうことになる。
「まぁ聞け、TCGって言っても、その種類は実に豊富だ。有名ドコロのTCGが五つ前後、それ以外にも中堅どころは山ほど、もう生産サポート終了間際のマイナーなものもそれなりに、だ」
「ぐ、具体的に言うと?」
「三十は越える」
えぇ? と、思わず遊河峰も飛び上がる。
というか、すでに終わってしまったものも含めればもっとある。
まぁ、いまさら終わってしまったものを始める理由は何処にもないわけだけれども。
「えっとじゃあ、ルールが単純なものは?」
「敷居が低い、という意味では間違いなく<遊戯王>だろう、プレイヤーも多いし、簡単なルールさえ覚えてしまえば、プレイすること事態は簡単だ」
「えっとじゃあ……ルールが特に複雑なのは?」
「<遊戯王>だ」
即答である。
これまたえぇ、と遊河峰は嘆息する。
「簡単な話、<遊戯王>っていうのはプレイヤーが多い、間口も広い、デュエルをする上で覚える必要のある予備動作が最初は少ない」
遊戯王はコストの概念がないゲームだ。
もっと言ってしまえば<マナ>の概念がない。
コストはカードの効果によって指定されているもので、ルール上のものではない。
だから、最初に覚える必要のある動作は、ターンの流れ、そこでできること、そして<チェーン>位だろう。
<シンクロ>や<エクシーズ>なんかは、実戦で使ってみせればいいわけで、最初に教える必要はないからな。
しかし――それが少し踏み込むと、一気に<遊戯王>は魔境へ変わる。
「これは<遊戯王>において有名なルールなんだが、『○○を破壊する』というカードの効果がある。その効果で、すでに効果を発動したカードを破壊したとしよう、するとどうなる?」
「……その効果は、無かったことになる?」
「いいや、無かったこと――つまり、無効にはされない。一度発動してしまっている以上、無効にはできないんだ。だから無効にすることを目的とするカードは『○○を破壊する』ではなく『○○を無効にして破壊する』というテキストになる」
「な、なるほど……?」
よくわかっていない風だが、さもありなん。
混乱を避けるため具体的なカード名は出さなかったが、これは初心者――特に小学生などがよくやるミスだ。
実際にカードを手にしてみれば、すぐに説明できるだろうが。
「カードゲームっていうのはとにかくテキストが複雑なんだよ。しかも、カードに書かれていることだけでは解らないルール、裁定なんてものも、ざらにある」
そういう俺に、どこか遊河峰は気圧された様子。
「なんていうか、難しそうだね」
そう零すのも、当然といえば当然、が、しかしだ。
俺は間髪入れず、それに言葉を続けた。
「――――だから面白いんだよ」
畳み掛けるように、勢いに圧された遊河峰へ向けて、俺は意識して語気を強める。
「TCGってのはむずかしい、当然だ。頭脳ゲームなんだから。幾らでも覚えることはある、ルールだけじゃない、カードの効果を把握して、それに対策を立てることも重要だ。でも、それがいい。それがさいっこうに面白いんだ」
「…………」
「だってそうだろう? 複雑な戦略も、先の先を読んだプレイングも、すべてがTCGでしか得られない快感だ。でな、TCGは一人じゃできない。誰かと向かいあうことでしかカードゲームは生まれない。これはそういうものなんだ」
完全に圧倒された様子で押し黙る遊河峰。
けれども、その瞳が輝き、揺れていることを俺は見逃さない。
それは間違いのないことだった。
こいつは間違いなく、そういう所にカードゲームの楽しさを見出したのだろう。
何か一つにこだわってではなく、TCGそのものに興味をもったことがその証拠。
ならばそれを刺激されて、興奮しないはずがないのである。
「長々と語っちまってすまないな。……その上で、敢えて聞きたい。遊河峰、お前は一体、――何がしたい」
それは余りに単純で、けれども多くの意味を持つ問いかけだっただろう。
遊河峰の顔は迷いに揺れた。
幾つもの感情がその中でせめぎ合うのが解った。
だが、それでもひとつ間違いないのは、そこにもう、引き下がるという選択肢はないということ。
彼女は今、TCGを始めるか、始めないかの話をしているのではない。
どのTCGを始めるか、の話をしているのだ。
「私、は……色んな人がカードでつながりあうのって、面白いなって、思いました。だから、どれをっていうわけじゃないんですけど、まずは一番始めのところからやってみようと思います」
つらつらと語る彼女の口元から、悩みと呼ばれるものが剥がれ落ちていく。
ゆっくりと定まっていく焦点、ぼんやりとした輪郭は、やがてひとつの形を得た。
彼女が見つめる視線の先に、俺が先ほどまで整理をしていて、そして会話の最中に放置されたカードが置かれている。
一枚のカードが裏向きに、まるで彼女を誘うチケットのように置かれているのだ。
それはすなわち、俺がこれまで話の引き合いにだしたTCGであり、つまるところ――
「……<遊戯王>のカード、初心者に何かおすすめはありませんか?」
確固たる意志でもって、遊河峰歩は、<デュエリスト>としての一歩を、踏み出すのであった。
本作はカードショップを舞台とした、少年少女の物語。
ということで、本作を投稿していきたいと思います。
さほど長い話ではないですが、楽しんでいただければ幸いです。
なお、本作の時系列は今年の二月から三月の辺りです、つまり遊戯王の禁止制限などもこの辺りです。