3年生卒業後なのでオリキャラ登場します。
原作準拠でキャラは関西弁です。私自身生まれてから大阪で19年暮らしてましたので変な関西弁は多分ないと思います(;^ω^)
誤字脱字その他ご指摘大歓迎です!
はじめましてユーフォニアム
―響け!ユーフォニアム―
これは久美子がある先輩から受け継いだ大切なノートに記された曲の題名だ。今、久美子は体育館裏付近の非常階段でまさにこの曲を吹いている。ある先輩とはつい数週間前に卒業した田中あすかのことだ。容姿端麗で学業優秀、演奏技術は言わずもがな、吹奏楽部の副部長と低音パートのパートリーダーを務め、昨年度まで久美子の右隣でユーフォニアムを吹いていた彼女は卒業式の後、この場所で久美子にノートを手渡した。その時は物寂しげだった桜の木も今は満開の花びらを溢れんばかりに咲き誇らせている。
入学式も終わり、新入生はそれぞれ帰路に就く者、部活動を見学する者、新たな友達と談笑する者と様々だ。吹奏楽部の練習は昼からだし、お弁当を食べるには早いしなぁ、と手持ちぶさたになった久美子はなんとなくユーフォニアムを持ってこの場所に足を運んでいた。新入生のせいか、はたまた彼らの入学に心躍らせている在校生のせいだろうか、どこか落ち着かない校内にあたたかさを感じさせる明るい旋律が響き渡る。
と、その時。
―ガン、ガン、ガン―
普段人気のない非常階段が突然大きな音を立てて揺れだした。その音はどんどん近づいてきて思わず久美子はその演奏を止めた。鉄製の非常階段はその振動をもろに伝え、久美子の恐怖心を煽る。ここって生徒は立ち入り禁止だったのかな、それともこの前トイレで携帯を弄っていたのが先生にばれたのかな、もしかすると入学式に来た父兄にまぎれて不審者が校内に?と、どんどん悪い方向に思考を巡らせているうちに人影は目前まで迫っていた。恐怖で動けなくなってしまった久美子は思わず手で顔を覆って体をすくめる。その足音は明らかに久美子の前までやってきて、彼女に影を落とした。
「俺、この曲知ってる」
へ?と間の抜けた声を漏らした久美子の前に立っていたのは風紀委員でも生活指導の先生でも強面の不審者でもなく、幼さは残っているが顔立ちの整った一人の少年だった。胸元に花びらをつけていることから彼女は彼を新入生だとすぐに認識することができた。
「新入生だよね。こんなところで何してるの。」
そんな風に軽口を叩けたのは想定していた最悪の状況ではなかったことによる安心感のおかげだろう。目の前の美少年は吹き付けた風で乱れた前髪を年下とは思えない優雅なしぐさで払いのけるとこう言った。
「この曲をもっと近くで聞きたくて」
ニッと口角を上げてみせたその笑顔は年相応のものに見えて久美子はなぜか少しホッとした。
しかし、何故この曲を新入生が知っているのだろう。この曲はあすかと久美子しか吹いたことがないはずだし、知っていたとしても校内で吹いていたのを聞いたことがある在校生くらいのものだろう。
どこで聞いたの、と久美子が尋ねようとしたその時、下の方から聞き覚えのある声が久美子を呼ぶ。
「久美子ー、ここにおるんやろー」
元気のいいこの声の主は葉月だろう。きっとお弁当を一緒に食べようと呼びに来たに違いない。目の前の少年が何者でなぜこの曲を知っているのか、気になる気持ちを抑えて久美子は立ち上がる。
「ごめん、あたし行かなくちゃ」
はよせな昼休み終わってまうでー、とせかす葉月のもとへ駈け出した久美子に少年は叫んだ。
「吹奏楽部に入ればまたこの曲聞けますか!」
その声は先ほどまでの落ち着いたそよ風のような声色で喋っていた少年のものと思えず、久美子は振り返ってその声の主と目を合わせる。目を見開いた少年は一向に視線を逸らそうとしない。そのかじりつくような視線がむずがゆくて久美子は一旦目を閉じてから答えた。
「うん。聞きたくなったら音楽室に来たらいいよ」
それを聞いて満足したのか、少年は先を行っていた久美子を追い抜いて駆けていった。再び落ち着きのない階段を揺らす音を残して。
ジトジトと落ちる雨粒は少しずつ薄桃色の花弁を散らせていく。せっかくの新入部員を迎える節目の日だというのにどんよりとした雨雲は晴れやかな心に影を差す。部活動の体験期間が終わり、正式に入る部を決めた新入生は必要事項を埋めた入部届を持って指定の教室に向かうこととなっている。
「イス足りひんのちゃう?」
ぶっきらぼうにそう漏らす中川夏紀は吹奏楽部の副部長だ。担当楽器は久美子と同じユーフォニアムで、吊り上がった目からも連想できる少々きつい性格ではあるが、根は優しく真面目な先輩で部員からの信頼も厚い。夏紀の言うように続々と押し寄せる一年生の数は音楽室で許容できる人数を上回る勢いだった。
「まぁ、最悪私たちは座らんでええやん。それにしてもこんなに来てくれるなんてやっぱり部長の人徳やろかー」
んなわけないやろ、と夏紀に呆れた口調でつっこまれているのは吹奏楽部の部長の吉川優子。愛らしい見た目に反してこちらも我が強く副部長の夏紀とは犬猿の仲らしい。とは言っても、彼女らの関係を知っている部員から見ればじゃれているようにしか見えないのだが。
なんか言うた?、別に、といつもの茶番が始まるのをよそに久美子は一人の少年を思い出していた。今日集まっている一年生は一度は体験入部に来ている子がほとんどだ。名前と顔が一致しているわけではないけれど、見覚えのある子たちばかりだった。けれど、入学式の日に会った吹奏楽部に入ると言っていた少年は一度も体験入部に顔を出していない。まぁ、気が変わることもあるだろうと特に気にも留めていなかった久美子だが、いざ新年度ミーティングの日にいないとなると少し残念に思えてくる。
あの日、目をきらきらと輝かせてあの曲に興味を持ってくれていたことは久美子にとって結構嬉しいことだったのだ。
「それじゃあミーティング始めるでー」
優子が音楽室の扉を閉めたその時だった。
ガラッと勢いよく扉が開けられ、そこに姿を現したのはまさにあの時の少年だ。その端整な顔立ちと纏う爽やかな雰囲気に、音楽室は少しどよめく。あの子見たことあれへんで、かっこよくない?ハーフみたい、吹奏楽部初のイケメン枠やん、と部員、新入生問わずその容姿に黄色い声が湧き始める。
目の前で勢いよく扉を開けられた優子は少しの間固まっていたが、なかなか入ろうとしないその少年に声をかけた。
「えーっと、入部希望者ってことでええの?」
聞こえているのかいないのか、自分に向けられた言葉を一切気に留めず、大げさに視線を逡巡させ何かを探している。そして、その目は久美子を見つけたところでピタリと止まった。彼女を捉えた目はあの日あの曲を聞いた時のようにギラギラとしたものに変貌し、小走りで久美子の前まで駆け寄った。
「先輩!会いたかったです!」
その言葉にどよめいていた教室は一瞬で静まり返った。久美子の頬を嫌な汗がゆっくりと伝ってぽとりと落ちる。約100人もの目線が突き刺さるこの場を収めるにはどうすればいいものか。目の前の真っ直ぐな視線を向ける少年に悪気がないことが余計に久美子の頭を悩ませるのだった。
突然の事態に一旦静まり返った音楽室は先ほどにも増してざわつきが大きくなり、こんな時に纏める立場の優子は無視されたことが気に障ったのかピーピー騒いでおり収集がつかなくなっていた。
「きゃー少女漫画みたいやなぁー」
「黄前って塚本と付き合ってへんかったっけ?」
「久美子ーあたし何にも聞いてへんでー」
口々に飛び交う雑音は音量を増す一方で、両手をふわふわさせて説明しようとする久美子だがその雰囲気に呑み込まれてしまい何も出来ずにいた。秀一の方に目をやるとこちらに目線を向けていたようだが、視線が合った途端に目を伏せてしまった。やばい、これはまた厄介なことになる。
と、そんな混乱状態の音楽室にファーンと伸びのあるロングトーンが鳴り響く。音のする方を見れば、麗奈が素知らぬ顔で佇んでいた。
「部長、ミーティング始めましょう」
麗奈の落ち着いた様子に優子も我に返り、パチンと両手で音を鳴らし壇上にあがる。
「それでは、ミーティングを始めます。私は部長の吉川優子です、担当楽器はトランペットです。こんなに来てくれると思ってなくて立ち聞きの一年生もいるけどごめんな。」
顔の前で両手を合わせて申し訳なさそうにするその仕草はあざとさ満点なのだが、どうも優子がすると様になるもので男子生徒がざわつくのも無理はない。
「えーっと、ここに来てくれたみんなは吹奏楽部に入ってくれるってことで、ありがとうございます。知っている人もいるかとは思いますが、北宇治高校吹奏楽部は去年、吹奏楽コンクールで全国大会に出場しました。今年は全国大会出場は勿論、全国で金賞を目標にしていきます。やから、一年生もそれは理解しといて欲しい。」
後半の演説での優子は真剣そのものでやはり部長は彼女でよかったな、などと思い巡らせていると入口の扉がスーッと丁寧に開けられ、そちらに全員の視線が集中する。
かつかつと鳴らす足音まで優雅に聞こえる、その人物は溢れんばかりの爽やかさと落ち着いた大人の魅力で一年生女子の視線を釘づけにしている。丁度よかったです、と壇上に立つ優子はその人物に場所を譲り、一歩横にずれた。
「それでは自己紹介させてもらいます。吹奏楽部の顧問をしております、滝昇といいます。副顧問の松本先生は他の部活の副顧問も掛け持ちしてますので、またの機会に紹介していただくことにしましょう。」
丁寧な物言いと、爽やかなルックスに一年生が目を輝かせるのを見て、二、三年の部員たちは皆同じことを考えているに違いない。いずれ一年生も真実を知ることになる。
滝の自己紹介は当たり障りなく簡潔なもので、去年と違うのは目標の設定が既に完了していることだろうか。自己紹介が終わると、楽器決めが終わったら読んでくださいと優子に告げて、すぐに音楽室を後にした。
「それじゃあまず、各楽器の紹介からはじめます。順番に各担当に話してもらうから、まだ決めかねている一年生は参考にしてください。」
基本的に後輩に敬語を使わない優子も部長として話すときはこうやって敬語で話すようになり、すっかり様になっている。夏紀もそんな彼女に奮い立たされたのか、副部長として部の円滑な運営に大きく貢献していた。こうやって見ると改めていいコンビだなぁと久美子は頬を緩ませてしまう。
滞りなく楽器紹介を終え、楽器決めに入るわけだが、やはり低音パートに好んで希望するものはおらず、期待していなかった久美子も流石にちょっと寂しいと思った。
そんな中一人だけ希望者が低音パートにやって来る。訪れたのは来て早々音楽室を掻き乱した爽やか美少年だった。久美子先輩って言うんですね!といきなり名前呼びをする少年は雨堤誠というらしい。
「雨堤くん、あたしのこと慕ってくれるのは嬉しいんだけど、」
そう言いかけたところで、雨堤は久美子の続きの言葉を待たずに口を開く。
「はい!俺、久美子先輩と同じ曲を同じ楽器で吹くために、今日までめっちゃバイトしたんですよ!これでユーフォニアムっていう楽器を買えます」
それで体験入部に一度も来なかったのか、と納得し久美子は心の中で思わず手を打った。
「っていやいや、吹奏楽部は楽器貸し出してるから、自分で楽器を買う必要はないんだよ」
それにユーフォニアムは新品だと十万はするし、と続けると雨堤は仰々しく落ち込んで見せた。
「そうなんですか…。」
別に久美子が悪いことをしたわけではないのだが、目の前の純粋な彼にいたたまれなくなり、フォローせずにはいられない。
「あ、いや、だ、大丈夫だよ。初心者用セットみたいなのなら五万ちょっとでも買えるって聞くし、楽器買わなくてもお金必要なこといっぱいあるから無駄にはならないよ!」
早口でまくし立てるようなフォローが余計にむなしい気持ちにさせてしまったかなと心配していたが、当の雨堤はその言葉を真っ直ぐに受け止めたのか、そうですか!とすっかり機嫌を直していた。
あまりにも久美子に従順な雨堤を見て耐えかねたのか皆が気になっていたであろう経緯を葉月が尋ねる。
「なんで久美子は体験入部に来たことない雨堤くんと知り合いなん?しかもただならぬ関係って感じやし」
ニヤニヤしながら久美子の顔を覗き込むように葉月は挑発する。うんうんと他の低音パートの部員も大きく首を縦に振る。
「それは話したら長くなるというか何というかー」
怪しーと、はやし立てられる久美子はそういうのじゃないから!と必死に弁解するが誰も聞く耳を持たない。当の雨堤はというと周りに茶化されるのを気にする様子もなく、あの時の曲を聞かせてください、と性懲りもなく久美子にせがんでいた。
周りのパートが楽器決めを順調に進める中、低音パートは相変わらずの不景気だった。雨堤以外の一年生はこちらに興味を示そうともしない。
「今年も低音は新入生来ないな」
低音パートリーダーの卓也は心なしか寂しそうな表情を見せるので、梨子がでも、と即座にフォローを入れる。
「去年低音パートで抜けたのはあすか先輩だけやし、そのユーフォが入ってきてくれたから今年も体制は一緒やね」
それにまた他のパートから回ってくるよ、と続けて卓也を慰める。
久美子は所在なさにふとトランペットパートに目をやった。今年もペットの競争率は高いようで、パートリーダーの優子が取り仕切って選抜テストを行っている。他のパートもそれぞれに演奏をしたり説明をしたりとたくさんの音で満たされていた音楽室だったが、その喧騒を一本の矢が突き抜けるようにロングトーンが鳴り響いた。そう、同じようなことが一年前にもあった。去年の楽器決めでも麗奈の音はどよめく音楽室の視線を独り占めしていた。今、その注目を集めているのは、これまた一年生とは思えぬ大人びた容姿の女の子だった。そういえばこの子も体験入部で見た記憶がない。そもそも一年生でこんなに可愛い栗色ロングヘアーの美人がいれば一目見れば忘れることはないだろう。去年の香織が麗奈にしたように優子も上手だね名前なんていうの、と声をかける。その一年生も麗奈のように嬉しくなさそうに礼をするのかと肝を冷やしながら眺めていた久美子だったが反応は意外なものだった。
「ありがとうございますっ!中窪星来(せいら)っていいます。優子先輩みたいな可愛い先輩に褒めてもらえるなんてめっちゃ嬉しいですぅ」
星来はクールさを思わせる顔立ちをくしゃっと崩して満面の笑みを浮かべたまま、優子の右手を両手でつかむ。キャピッと音が聞こえてきそうな程にわざとらしいゴマすりだったが、可愛い女の子に弱い優子は早速籠絡されてしまっていた。あんたはどっかのいけ好かない後輩と違ってええ子やなぁと頭を撫でながら目を細めて麗奈を見やる。ぷいっと体ごと顔をそむける麗奈。麗奈のような敵を作る態度もどうかとは思うけど、これはこれで厄介なタイプの子だなぁと久美子は自分が指導係であることを思い出して深いため息をついた。
後から聞けば、サックスやトロンボーン、クラリネットにも即戦力の有望な一年生がいたようで、全国大会出場という肩書きはこうも影響を与えるものなのかと自分たちの功績の反響を再認識した。
例年より人数も多かったためか初日のミーティングには時間を要した。一年生全員の楽器決めが終わった時には下校時刻が差し迫っており、滝先生のありがたいお話は次の機会に先延ばしとなった。夕日は半分ほど地平線に身を隠しながらも音楽室に橙色の光を余すことなく届ける。今頃楽器室は人で溢れ返っているだろう。久美子はもう少ししてから直しに行こうと、整頓されたばかりの机に腰をかける。
「久美子」
付き合い始めてから四ヶ月、この声で自分の名前を呼ばれると例外なく心臓が跳ねる。それまで何年もの間何度呼ばれてもなかったことだ。
「なに?」
「一緒に帰ろうぜ」
久美子は無言で頷いた後、楽器直すから少し待ってて、と告げて音楽室を後にした。
本当は混んでいる楽器室の前で並んで待つのは気が進まないけれど、あんまり彼氏を待たせるのもなぁと思い、ユーフォニアムを担いで小走りで向かう。実際に楽器室に着いてみれば、楽器を直すのに手間取っている様子もなくスムーズに作業は進んでおり、待ち時間なんてほとんどなかった。それなら最初から楽器室に直行すればよかった、と後悔する久美子。
ものの十分ほどですっかり辺りは暗くなったが、校門で待つ秀一の顔が遠くからでもはっきりと見えたのは彼が熱心に弄っているスマホの光が反射したからだ。久美子は近づいてくる自分に気づかない彼の背中をバシッと強めに叩いた。
「うあっと!久美子か」
「お待たせ」
どちらからともなく歩き出す二人。一緒に帰るのもすっかり恒例になっていた。マンションが同じこともあるし、お互いの親にばれてしまっているので、付き合ってからはどちらかの家で晩御飯を食べることも増えた。いつもくだらない話をして、寄り道したり、買い食いをしたりと、していることは中学生の時となんら変わらない。けれど、今日はそれがいつもと違った。
いつもだったら、最近はスマホのゲームに一喜一憂して声をあげる秀一にちょっかいを出したり、久美子が緑や葉月とした話を聞かせたりというのが定番だったのだが、今日の秀一は口を閉ざしたままで醸し出す雰囲気はなんとなく重く、スマホも全く弄っていない。
結局、一言も話さないまま京阪電車を降り、宇治川を渡る橋にかかったところで秀一が足を止めボソッと呟いた。
「あのさ、俺、」
すごく久しぶりにその声を聞いた気がして思わず固まってしまった。秀一の顔を見るのがなんとなく恐くて、静かにせせらぐ川を見つめた。
「お前が思ってるより久美子のこと好き、やから」
「きゅ、急になんなの!?」
突然発せられた小っ恥ずかしい台詞に久美子は動揺を隠せない。顔に血が集まってくるのが分かる、今にも破裂してしまいそうだ。
「いや、その、別に…」
言葉を詰まらせる秀一を見てどうしたものかと思っていたが、彼が言い淀むような出来事に思い当たる。
「もしかして、雨堤くんのこと?」
「やから何も言うてへんやん」
秀一は怒っているわけではなさそうだったが、尻すぼみになっていく声を聞く限り雨堤くんと久美子の関係を気にしていることは分かった。勿論やましいことは何も無いのだが、あれだけ衆目に晒されて色眼鏡で見られると否応にも背徳感にさいなまれる。
「雨堤くんは入学式の時にあたしの演奏を聴いて食いついてきただけだよ。あすか先輩にもらったノートにある曲を吹いてたら、この曲知ってるって。きっとそれで懐いてるだけで別に何も、」
ふーん、と拗ねた顔をした秀一はゆっくりと歩き出す。
「めっちゃイケメンやったけどな」
「確かにね。滝先生とはまた違った方面だけど」
確かに顔立ちは整っているし、身長も秀一ほどはないけれどスタイルもいい。だけど、言ってみればそれだけだ。久美子は滝先生をイケメンだと思うのと何ら変わりない印象しか持っていない。淡々と答える久美子を見て、秀一は呆れたように笑った。
「ほんまにそういう感じちゃうみたいやな」
「だからそう言ってるじゃん」
「せやな、悪い悪い」
ニヘラと笑みを浮かべ頭を掻く秀一はすごく嬉しそうで、なんだか照れくさかった。自分を誤魔化すように川に目をやると、白い街灯が水面に映ってそれがゆらゆらと揺れ、ぼやけたり輪郭を表したりを繰り返している。そんな様子をぼんやりと眺めていると、久美子の手の甲にあたたかい感触が伝わった。あたっただけなのかなと秀一の顔を見上げたのだが、ばっちり目が合ってしまった。そのまま秀一は手の甲で久美子のそれに触れた。どちらからともなく二人の指は絡まる。伝わる体温はやけに熱くて、それは一瞬で体全体に行き渡り、どこからともなく火が吹き出しそうなくらいだ。ぎこちなく歩く二人はどんな風に見えるのだろうかと久美子は周囲の雑踏に思いを馳せる。歩幅なんて気にしたこともなかったのに、今はいつもどんな感じで歩いていたのかも分からなくなってしまっていた。また無言で足を進める二人だが、気付けば不思議と心地よい時間だと感じている自分がいる。二人の間に会話はないのにどうしてか周りの音は耳に入ってこないし、視界もやんわりとぼやけている。熱を帯びていた体は少し冷えても、心臓はどくどくと大きく脈打ちそれは手の指先までしっかりと伝えているのを感じた。
不意に、あっ、と秀一が前方左を指差す。その方向には中学の頃よく買い食いしていたたこ焼き屋さんが見えた。
「久しぶりにあっこのたこ焼き食べたくなった!買ってくるわ」
秀一はこれお願い、と肩にかけていたトロンボーンを久美子に渡す。
そう言って無邪気に駈け出した秀一を見て、何度も見た昔の景色とそれを重ねた。何年経っても彼の笑顔はまるで変わっていない。
けれど、久美子はそんな変わらないこの景色を愛しいと思うのだった。