【影無為】と呼ばれる存在は、北凪の前で不規則な動きをしていた。見た目は、真っ黒な薄い紙っぺらの様にも見える。
「こう見えても、お父さんに、かなりしごかれてるんだから……ね!」
ジャリという砂を蹴る音を気にも止めず【影無為】へと疾走していく。
その手には、狐に貰った刀が握られていた。
「こんな訳の分からない世界で、死んでたまるものですか!!」
中高生位の見た目に反し胸囲はかなり大きい為、少しでも動くと揺れてしまう。
それを見ていた南条はほんの少しだけ顔を赤らめ、コホンと軽い咳払いをする。
「お前……自分が女だって事自覚した方が身のためだぞ?」
右手で銃を持ちながら、銃口を【影無為】に向ける。
放たれた弾は、空を切る様な音をさせながら北凪が刀を振るうすよりも早く、【影無為】の身体へと到達した。
『★#!★◇』
「あ? 何、言ってんだ?」
【影無為】の叫びは、全く理解出来ない言葉だった。
地球全土探しても、決して見つける事の出来ない言語。つまりは、存在しない。
『お二方。あれの言葉は、理解しなくても良いです。続けて下さい』
この狐は、【影無為】が何を言っているのか分かっているらしいのだが、かなり嫌そうな顔をしながらその言語を拒否している様にも見えた。
「よく分かんないけど……倒せば良いのよね?」
もがき苦しむ【影無為】の前で立ち止まり、腰を低くして抜いていた刀を鞘へとしまう。
制服のスカートが汚れて仕舞いそうな程にしゃがみ、目を瞑る。
左手で鞘を持ち、右手で刀の鍔(つば)に手を置く。そして――目を開けたと同時に、素早く刀を鞘から抜く。
「っふ」
吐く息を声に出して、左から右へと刀を走らせた。
何故か刀から、少しの水が飛び散った事に気付いた南条は、
「まさかとは思うけど……あの刀【雨村雲剣(あめのむらくものつるぎ)】か?」
隣で、可愛いく尻尾を左右に揺らしながら浮いている狐に訪ねた。
「え!? あれを知っているんですか!?」
知らないとばかり思っていたらしく、南条の口から出た刀の名前に驚いてしまう。
「……まあ、色々あるんだよ」
何かを含む笑みは、狐の身体を震え上がらせた。ちょっとだけ離れる狐に気付いた南条は、にやっと人の悪い顔をする。
「……怖い。この人、怖いです」
半泣き状態の狐を見て、少々やり過ぎた感を感じたらしく、頭を撫でてあげる。
「悪かったな。でも俺にだって、色々事情はあるんだよ。勿論、北凪にも……な」
何時の間にか【影無為】を倒していた北凪は、満面の笑みをしながらVサインを南条に向けていた。
「終わったか」
『案外、戦い慣れしてますね?』
黒髪を鬱陶しそうに払い退けながら、運動場の砂の上を歩いて戻って来る北凪は、刀を鞘へと納めた。
「別に、戦い慣れとかじゃないわよ? さっきも言った様に実家が道場で、何回か大きな大会とかにも出てたの。ただそれだけよ?」
狐の頭や尻尾をひたすらモフリながら実家の事を話す北凪の目には、少しだけ涙が溜まっていた。
「……おい。お前……」
何泣いてるんだ? そう言おうとしたのだが、涙を溜めている本人の口の方が早く動いた。
「え? あれ? おかしいな……何で、涙なんか……」
少しずつ溢れて来る涙の量が増えて行く。
「……泣けば良いさ。ここには、俺とお前とこの狐しか居ない。誰も笑ったりしない」
大きな手が、北凪の頭に優しく触れる。
「う……うわぁーーん! 帰りたい! お父さんとお母さんに会いたい!」
南条の胸を借りて泣き続ける少女――北凪は、ずっと我慢していた。
いきなり訳の分からない世界に飛ばされ、訳の分からない戦いを強いられた。
強がっていても、やはり女の子。北凪は見た目通りの、普通の女の子だった。
◇◇◇
狐に案内され、建物――地球と全く同じ校舎の中へと入って行った二人は、ある事に気が付く。
「あれ? 誰も居ない?」
地球の学校の廊下は、この時間……夕方になると、部活動などをしている生徒で賑わっていた。
けれど、この地球に似た何処かには、人っ子一人の気配すら感じられずにいた。
『ここは、【影無為】が支配する世界です。人は、生きてはいられません。戦う術がないのですから』
申し訳なさそうに話す狐は、何処か遠くを眺めていた。