ディオの奇妙な冒険 ManicStreet (ジョジョ1部+7部) 作:ヨマザル
ジョニィは、ディオとジョジョをホテル裏手の路地に連れ出した。
ロンドンの表通りは華やかだ。
だがその裏は灰色にくすんでいる、そこは、その日暮らしの貧しい者達が住む世界だ。
三人が入った路地裏も狭く、薄暗かった。ディオ達三人が歩く靴の音だけが、カツカツと響く。
ジョニィは路地に入ってすぐ足を止めた。
正解だ。それ以上路地裏に深入りし、暗黒街の住人が住む地域に来てしまえば、ディオ以外の二人は5分と持たないだろう。それぐらいロンドンの暗黒街は危険なところなのだ。もちろんロンドンの暗黒街育ちのディオは、その世界で生きていくすべを知ってはいた。だがそんなディオとて、長居したい場所ではない。
「なんだい、話って」
微笑むジョジョに、ジョニィは自分の騎乗用の手袋を投げつけた。
「決闘だッ! ジョナサンッ お前はいけ好かない。ブッチめてやるぜッ」
「決闘? ……僕が? ……君と? 」
ジョジョは激しく困惑していた。
ジョニィは自分よりも3歳も年下なのだ。正直、『決闘』を挑まれても困る。一方的な結果になるはずだ。決闘などすれば、ジョジョは、ジョニィも何もさせないまま一方的に勝つだろう。
そんな後味の悪いことはしたくなかった。
「? 待ってくれッ、僕には君と戦う理由はないが、紳士として決闘を挑まれたからには、本気で相手をしなければならないッッ」
ジョジョは、言葉を選びながらゆっくりと言った。
「……でも、今なら聞かなかったことにするよ。撤回してくれないか」
ジョジョの返答を聞いて、ジョニィの顔が真っ赤になった。
「なっッッ! お前、俺のことをいつでも倒せると思ってやがるだろっ。馬鹿にしやがってぇッ」
ジョジョの襟首を掴み、どなりつける。
「そ……そんなつもりはないよ」
ジョジョはジョニィの手首を掴み、ゆっくりと押し戻した。
「ジョジョッッ 彼を思うのなら、きちんと相手をしてやるのが礼儀だと思うぞ」
横からディオが言った。
「やれよ……僕が審判をしてやる、それでどうだい? ジョジョ、ジョーキッド」
「……しかし……」
「……僕には異存はない……なんだ、逃げるのか? ジョナサン・ジョースター……」
ジョニィは唇をかみしめ、真っ青な顔でジョジョに詰め寄った。
ジョジョはしばらく黙りこみ、ついにガックリと肩を落とした。
「わかったよ……じゃあ審判を頼むよ、ディオ……」
「よし、では始めるか……これは決闘だ。だから、クインズベリー・ルールではなく、下町版のロンドン・プライズリング・ルールで行くッ」
ディオが宣言した。
「いいか、ローブローとサミング無し、投げ技あり、頭突きありだッ! 」
──── 説明しようッ! ────
19世紀末のこの時代は、ボクシングが凄惨な戦いの技法から次第にスポーツとして洗練される途中の時代であった。ゆえに、年を追うごとに多種多様なボクシングのルールが提唱され、それが徐々に広まっていったり、淘汰される時代だったのだ。
クインズベリー・ルールとは、1867年に策定された、グローブ着用などを義務づけた現在のボクシングの基礎となるルールである。
対するロンドン・プライズリング・ルールとは、1838年に策定されたルールだが、これは、素手で行う、蹴り、頭突き、目玉えぐり以外のほぼ何でもありの方式だ。
(因みにディオは、ロンドン・プライズリング・ルールよりももっと凄惨なブース・ボクシングの達人であった)
────────────────
「望むところさッ」
ジョニィは勢いよく拳にバンテージを巻きはじめた。
(だがまともにやっては勝てない。仕込むぞ……)
ジョニィはディオとジョジョの目を盗み、バンテージの中に大きな鉛の固まりを握りこんだ。
(相手は僕よりも3才も年上で、あんなにウスラ馬鹿でかい奴だ……ちょっとした『仕込み』くらい、当然さ)
「よし、準備できたか? ボディチェックをするぞ」
ディオは、手早くジョジョとジョニィのボディチェックをしていく。
ジョジョには問題はなかった。だが、ジョニィの拳を触った時、ディオは一瞬ボディチェックの手を止めた。ジョニィの拳が、一回り大きく膨らんでいるのだ。
『こういったこと』に詳しいディオには、ジョニィが、パンチの威力を増すために拳に錘を握り込んでいることが、すぐにわかった。
(ほう……コイツ、何の工夫もなしにジョジョに挑むわけではないのだな……パンチの威力を増すために、拳に何か握り込んでやがるか……さて、どうしたものか……)
ディオの視線に気づいたジョニィは、一瞬たじろぐ。
(うっ……コイツ、気が付いたのか? )
ディオとジョニィの視線がぶつかる。
だがディオは特に何もいわず……試合開始の掛け声をかけた。
「よし、はじめだッ」
ディオの掛け声と共に、二人は向かい合った。
小手調べにジョニィが放ったジャブを受け止め、ジョジョはグルグルとまわり始めた。
こうして向き合うと、体格の差は歴然であった。
だが、ジョニィはフットワークを巧みに使って、ジョジョを翻弄していく。
ジョジョの周りをまわりながら、鋭いジャブを放っていく。
(やはり、スピードがある……やりづらいな……)
逃げるジョニィを追おうと、ジョジョが一歩踏み込む。
体重移動のタイミングをついて、ジョニィのパンチが、ジョジョの顔面を襲う。
パシッ!
ジョジョはそのパンチを顔面で受け止め、さらに踏み込むッ!
そして、強烈な右フックを放つッ!
ジョニィは、慣れた動きで頭を下げ、そのフックをかいくぐった。
だが、ジョジョは右フックの回転の動きを利用して、足を入れ替える。
今度は左ジャブが、ジョニィを襲うッ!
(チッ……コイツ、でかい体のクセにちょこまか動きやがる……だがッ)
ジョジョが放ったジャブをかいくぐり、ジョニィは懐に飛び込むッ
(コイツのでかい体とリーチは確かに脅威だ。だが、懐に入ってしまえばッ)
「うぉおおおおおおおおおおおッ」
ジョニィのボディブローッ
返しざまの顔面へのワン・ツー
そしてすれ違いざまのボディ連打ッッ
(長期戦は不利だッ! 一気に決めるぞッ)
ドンドン
ドン
ゴッッ!
ジョニィは息の続く限りジョジョのボディに連打を打ち込むッ
「ウッ……プッ。プハ──―ッ」
どれだけの連打を放ったのか。ついに息が続かなくなったジョニィは、素早く後ろにバックステップして、大きく息をついた。
(どうだッ、馬鹿にしやがって。だが手ごたえはばっちりだぜ……やってやったぞ、この野郎ッ)
意気揚々とジョジョのダメージを確認しようとしたジョニィは、すぐに顔面蒼白になった。
ジョジョは両腕を十字に組み、ジョニィの連打をすべてさばいていた。
ジョニィ渾身の攻撃は、まったくヒットしていなかったのだ。
「……中々やるね……」
ガードの奥から、ジョジョはクールに言った。
(チッ……)
ディオは、その様子をイライラと見ていた。
(ずいぶんお行儀のいいボクシングをするじゃあないか、ジョジョ……まさかコイツ、お可哀想なジョニィに遠慮してやがるのか……)
(クッくっそオオオオォォォッ)
ジョニィは心の中で悪態をつきながら、飛び下がってジョジョから距離を取った。
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……
「これで終わりかい? 」
ブロックの隙間から、ジョジョが平然とした顔でジョニィの様子をうかがっている……
「やっやろオオオオオおおッ」
破れかぶれになったジョニィは、再びジョジョの懐に飛び込む。
しゃがんだ姿勢から、伸び上がるようにして頭突きを放つッ
だがその一撃も、ジョジョはあごの下に手を入れギリギリ防御していた。
「うぉおおおおおおッ」
ジョニィはあきらめない。
ジョジョの足をとり、投げに行くッ
「お前なんかに、負けるかよぉおおお! ! 」
だがジョジョはびくともしないッ
(クソッ! 仕切り直しだッ……)
ジョニィは、いったん距離を取ると見せかけ、フェイントをかけた。
ジョジョのボディの右側に飛び込むッ!
(すれ違いざまにアバラを狙うッ! それから一旦距離をとるぞ)
ボゴッ
だが、再び懐に入ろうとしたとき、ジョジョの槌を振り下ろすような重たい一撃がジョニィを襲うッ!
「ウッ」
その一撃をジョニィはかろうじて防いだ。
だが、ガードごと吹き飛ばされる。
「うっ……くっそおおおおおおッッ」
ジョニィは足元の地面を蹴った。
土塊をジョジョにぶつける。
目つぶしだ。
思わず目を閉じたジョジョのスキをつき、もう一度ジョニィが懐に飛び込むッ
そして、最後の力を振り絞って、ラッシュを繰り出すッ!
ドッドドドドドッ!!
「は―ッは──ッは──」
どうだ、この野郎ッ
ジョニィは荒く息をついた。その両こぶしはジョナサンの体を殴り続けたため、ジンジンと痛んでいた。
いくら鉄壁のブロックをしていたとしても、何発かはガードをこじ開け、クリーンヒットを顔面に入れることが出来た。仕込んだ拳だ、一発でも入れば……
そう確信してジョジョの状態を探ったジョニィは、またしてもがっかりした。
ジョニィは確かに攻撃をヒットさせていた。
だがジョジョは、痛みなど全く感じていないかのようにほほ笑んでいるのだ。
間違いなく、何発かの会心の一撃を、確実にヒットさせた。
それはジョジョの唇がうっすら切れて血が出ていることからもわかる。
だが、ジョジョにダメージを受けている様子は全く無い!
「なんだって、この野郎ッ……鉄でできているのか、この……薄らボケ」
その強気なセリフとは裏腹に、ジョニィは弱気な表情を見せた。
かろうじて保っていた意地も、プライドも折れかかる。
(……これだからジョジョの奴は侮れん……あの攻撃……パンチの威力を増すため、ジョニィの奴は拳の中に重りを握りこんでいたはずだ。それをまともにくらって、平然としているだとォ)
鈍感なドンキーめッ
ディオは内心悪態をついていた。
これでは、わざわざジョニィの反則を見逃した意味がないではないか。
「やるねッ……だが、遠慮はしないッ」
ジョジョが目をキラキラさせて言った。
「うっうう……」
ジョニィはあとずさった。
怯えていると見せかけ、ジョニィは不意討ちの飛び込み胴回し蹴りを放つっ!
ドッゴォオオオオンッッ!
だがその大技も不発に終わった。
ジョジョは、ジョニィに向かってさらに踏み込んだのだ。
ジョジョは肩で、ジョニィの太ももの辺りを押し上げる様にして回し蹴りを受け止めた。
当然、ジョニィの蹴りの威力はほとんど殺されているッ!
「ち……チクショウ」
ジョニィは、悔しそうに言った。
そんなジョニィを、ジョジョが優しく見守っていた。
「ジョニィ、君はよくやったよ……では僕から行くよッ」
バゴォッ!
ジョジョの強烈な右フックがジョニィを吹き飛ばすッ
「ぐわっ」
吹き飛ばされたジョニィは路地裏の壁に背中をぶつけた。
そして、そのまま地面に崩れ落ちた。
「大丈夫かい? 」
「!? 触るなッ」
差し出したジョナサンの手を、ジョニィが払いのけるッ
「いや……勝負はついたよ……もうこんなことはやめて、仲良くしないかい? 」
「うっ、うるさいッ! お前らの情けなんかいるかッッ! 」
ジョニィが涙を流しながら言った。
「だいたい、お前の父さんが家業を継いでれば、こんなことにはならなかったんだッ! にぃさんだって……」
まるで小さい子供がするように、ジョニィは両こぶしを振り上げてジョジョに殴りかかった。
ジョジョはブロックもせず、ジョニィの拳を黙って正面から受け止めた。
ジョニィは泣きながらジョジョを殴りつづける…………
ボカ
ボカ
ボカ……
(チッ……)
イライラしてきたディオは、ジョニィを引きはがした。
「……もういいだろう」
「何だ、何だよォ、お前ッ! 」
ジョニィは泣きながら、今度はディオに向かって腕を振り回した。
「チッ……」
ディオはジョニィのパンチをかいくぐり、やすやすと押さえつけた。押さえつけるときに少し関節をひねってやったのはご愛嬌だ。
ジョジョはジョニィの肩に手をかけ、優しく話しかけた。
「……年下の君にこれ以上拳をふるうことは、僕にはもう出来ないよ」
ジョニィの肩にかけたジョジョの両腕は晴れ上がっていた。ボディにも顎にも何発もいいのを喰らっているはずだ。だがそんなダメージを受けていることを感じさせない、いたって平然とした口調だった。
「ジョニィ、君が苦しんでいるのはわかる、僕にできるのは君の苦しみを受け止めてあげる事だけだ。どうだろう? 君の感じている怒りを、少しは解放できたかい」
「なっ……馬鹿にしやがって」
ディオはジョニィを睨みつけた。
「ジョニィ……そもそもお前は反則負けだ。これ以上やるなら、僕が代わって相手をしてやってもいい ──―だが、あらかじめ警告しておくが、僕はジョジョほど優しくはないぞ」
やるのならばいつも本気だ。手加減はしないぜ。
「ウッウッ……」
ジョニィは大粒の涙を流して、本格的に泣き出し始めた。
「僕は……僕は兄さんの意思を継いでやるッッ。イイカ……いつか僕は馬に乗ってジョースター家の伝統を受け継ぐ。そして、一流ジョッキーになってお前達を上から見下ろしてやるッッ! 」
「そうだね。君ならきっとできるよ……」
「フンッ! 不幸ぶっているんじゃあないッ! 継ぐに値するものを持っているのならば、すでに貴様は『幸運』なヤツなのだ」
行こうぜジョジョ……
ディオは泣き叫ぶジョニィの尻を蹴っ飛ばすと、イライラしながらホテルに戻った。
翌朝、ホテルをチェックアウトしたディオ達は、ロンドン港へと向かった。
ジェフェリーとジョニィも、三人を見おくるために港まで一緒に同行してくれている。
大人たち二人は、顔を晴らしたジョジョと目蓋を晴らしたジョニィに気が付いていた様子であった。だが、またしても何も言わなかった。
港へと向かう馬車の中で、ひと時沈黙が流れる。
「……ジョニィ君」
二人の腫れについて語る代わりに、ジョージが顔を腫らしたジョニィにかたりかけた。
「……何ですか」
ジョージが遠い目をした。
「……昔話だが、私は妻を馬車の事故で亡くしていてね……」
ジョニィとディオが眉を上げた。それは、二人が出会うきっかけとなった事故の話だ。
「あれは、ジョジョとディオが生まれて直ぐの事だったよ。……妻を亡くしたのは、自分の身がきられるほどに悲しかった」
当時の事を思い出したのか、ジョージは身を震わせた。
「だが私は思うのだよ。もし妻が天から私達の事をみるときがあるなら、妻に対して胸を張れるような、妻を幸せな気持ちにさせることが出来るような、そんな生き方をしたいとね」
「なにがおっしゃりたいのですか? 」
ジョニィは固い声で聞き返した。
「僕も確かに母さんと、兄さんを失っています。……だからアナタに僕の気持ちがわかるとでもおっしゃりたいのですか? 」
「ジョニィッ! 」
ジェフェリーがジョニィを咎め、息子に代わって謝ろうとした。
そのとき、ジョージがジェフェリーを抑えた。ジョージは懐から懐中時計を取り出すと、ジョニィに手渡した。
「いや……これは私のただの思い出話というだけさ。ジョニィ君、話を聞いてくれてありがとう。これはお礼だよ」
「これは……」
受け取れません。突っ返そうとしたジョニィに、ジョージは首を振った。どことなく悲しそうな表情だ。
「実はこれは、『君の兄さんが初めてレースに勝った時』の記念に贈ったものと同じ型の時計なんだよ……同じものではないが、一緒に買ったものさ。君に受け取ってほしいんだ」
「しかし文字盤にダイヤが入っていますッ! こんな高価なモノを……」
気にしなくていい。
ジョージは微笑んだ。
「これは確かにいい懐中時計で、長いこと愛用していたものだが、ついこの間、市場をあさっているときに、もっといい時計を見つけてね……だからこの時計はもうほとんど使っていないのさ。もったいないから、君に持っていてほしいんだ。ワタシが持っていても仕方がないものだからね」
「あッ……ありがとうございます」
ジョニィは顔を伏せた。
(……フン)
ディオはその様子を冷めた目で見ていた。
彼には失った母の事を思い出すための『形見の品』など何も残っていなかった。
すべてあのクズな父親が、酒代代わりに売り払ってしまったからだ。
沈黙のまま馬車は進む。
しばらくして、ジェフェリーが遠慮がちにジョージへ話かけた。
「……兄さん……実はトルコでのレースの後、アメリカに戻ろうと思っているんです」
「ほぉ。それはどうしてだね」
「新大陸でも再び競馬が盛んになってきたんです。でもあの国は広いですからね。競技場もレースも増えすぎて、ジョッキーも調教師も足りないんです。で、私にも声がかかりましてね……行くことにしました」
「そうか、ジェフェリー……イヤ、君ならやれるさ。変わらず応援させてもらうよ」
ジョージは、穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
ジェフェリーは、頭を下げた。
「これからはあまりお会いできなくなりますが……兄さん、お元気で」
その日の午後、ディオ達はジョニィ親子と別れてロンドン港から出港した。
船を見送るときジョニィは黙って海を見つめていた。一言も口を聞かなかった。
海ッッ!
それは大英帝国の力の源泉であった。
19世紀末、大英帝国はその領土を世界中に広げ、世界唯一の超大国として世界中に君臨していた。その力の根源は、海上を行き来する船によって『自由貿易』が生み出す『富』であった。
その海の上、ロンドン港からエジプトのアレクサンドリアに向かう帆船の上で……
「ククッ……海と言うものは、お……思っていたより揺れるし、じめじめしているのだな」
ディオは、一人船べりに立っていた。周りを確認し、そっとハンカチで口を拭う。
「ウッくッ……」
ゲロゲロゲロ……
誰も見ていないことを何度も確かめてから、ディオは船べりに顔をつきだした。そして紺碧の海に、朝に口にしたビスケットとオートミールを思いきりリバースする。
「はーッはーッはぁ──―ッ」
ディオは情けない気持ちで、船べりにしがみついていた。
貿易の仕事でアチコチ旅行をしているジョージはともかく、あれほど見下しているジョジョがまったく船酔いになっていないことも、ディオの感じる忌々しさに拍車をかけている。
船が大きく揺れた。
マストに泊まっていたウミツバメが、大きな声を上げて飛び立つ。
19世紀末は帆船から蒸気船に、船の主役が移りかけていた時期であった。
だがこの船は帆船であった。荒れ始めた風が帆を抑えておく張り綱の間を抜け、ビュービューと音を鳴らしている。
風が強まってきたのだ。
すぐに航海士の怒鳴り声が聞こえ、慌てた船員たちがキャビンから飛び出してきた。帆船員達は帆を制御している張り綱をいじるために甲板を駆け回り始めた。
そのうち一人の船員がディオの背後を通った。そのとき鼻を鳴らした音が背後から聞こえた気がして、ディオはさらに不機嫌になる。
だが揺れはドンドンひどくなってくる。ディオはすぐに余裕をなくし、ただ船べりに顔を突き出したままじっとしているほかはなかった。
そのままどれだけの時間が経ったのだろうか。やがて風は収まり、船の揺れも収まってきた。船員達も再びキャビンの中に戻って行く。
助かった……そう思って気を抜いた瞬間、再びディオを激しい悪寒が襲った。
「ウッ……まただ、クックッソオオオオォオオッ」
ゲロゲロゲロ……
ディオは、まるで恋人のように船べりにしがみ付いた。自分の意思とは裏腹に、腹の中の物をすっかり追い出す。
そのディオの様子を見て、今度は本当に背後からクスッと笑う声が聞こえた。女の声だ。
「くっ、誰だッ」
「あら、ゴメンナサイ」
振り向くと、美しい服を身にまとう貴婦人が立っていた。
その貴婦人は、青白い顔をしているディオをみてもう一度クスッと笑った。そしてフトコロから、気付け薬の入った小さな小瓶を取り出した。
それを船べりにしがみついているディオに差し出す。
「差し上げますわ……気付け薬よ。気分がすぐれない時に嗅いで見られたら、いかがかしら? これで症状が回復されるかは、わかりませんが……」
「クッおまえ、このディ……」
情けはうけん。憎まれ口を叩こうとしたディオは、しかし、その女の顔をもう一度見て唖然とした。
なぜなら、彼女の顔を知っていたからだ。彼女は、ケンプトンパーク競馬場でディエゴの頬に勝者へ捧げるキスをした女性であった。
「ア ……アンタはミナ・ハーカー……」
その金髪……痩せているが高貴な雰囲気さえ感じさせるその笑み……
始めて間近に彼女を見たディオは、しばらく呼吸も忘れてミナを見ていた。やはり最初に思った通り、ディオの亡き母にそっくりであったのだ。
ミナは小首を傾げ、あら? なぜ私の名前を知っているの? と可愛らしい声で尋ねた。
「すっ……すみませんッ! 」
ディオはぴょんと立ち上がり、直立不動の姿勢になった。
「何かしら? 」
「私の名前はディオ・ブランドーと申します……マダム。じ……実は、先週競馬場でお姿をお見かけしまして……その時にお名前を知りました」
ミナはにっこりと笑い、あら、記憶力がいいのね♡……と微笑んだ。
ディオの耳に、鈴が転がるような美しい音色に聞こえた。
夕刻:
「ディオ、どうしたんだね? ボ──ッとしているようだが」
その日の夕食の席で、物思いにふけっているディオを心配し、ジョージが話しかけた。
3人はその日、自分たちの船室に食事を取り寄せ夕食を取っていた。
船の後部にしつらえられた客用船室は、あまり広くはない。部屋の中央に置かれたテーブルは年代物の木をしっかりと組み合わした作りで頑丈だが、小さい。大人が4人も座れば、それで満席だ。テーブルの中央には、ランタンが置かれている。船が傾いても火事にならないように特殊な工夫がされたランタンだ。
そのテーブルが部屋のほぼ半分を占めている。窓のない壁には地中海の海域を示す地図が貼られ、船の現在位置がピンでとめられていた。あと数日でエジプトへ着く……といった進行状況だ。
壁際には、くくりつけのベッドが据え付けられている。入口から入って左手の壁にくくりつけられた二段ベッドが、ディオとジョジョの場所だ。反対側の二段ベッドはジョージが占有している。
「はっ……ジョースター卿、無作法をしました。実は少し昔のことを思い出しまして」
「ブランドーさんと暮らしていた時の事かね? 」
「……ええ……」
ディオは顔を伏せた。
いまだにあの、クズそのものであった父のことを思うと、怒りのあまり顔がゆがむ。ジョースター卿の前で、そんな憎しみに満ちた顔を見せるわけにはいかない。
「そうか……」
ジョージは何でもないように話題を変えた。次の話題は英国紳士のたしなみ、政治論議だ。
ホィッグ党を支持するディオとジョジョに、トーリー党を支持するジョージは忌憚ない論争を仕掛けた。ディオもジョジョもジョージの意見に真っ向から反論した。
三人は遠慮なく意見をぶつけ、その議論を大いに楽しんだ。
「フム……しかし、問題は政策だよ。トーリー党の主張している政策には一定の信頼性があると私は思うがな。対してホィッグ党の政策はなんというか……実現性に欠けるのではないかな? 」
ジョージが二人に論争をしかけた。
「しかし他の見方もできますよ………………我々の事業に対しては、明らかにホィッグ党が予定している貿易規制の撤廃が有益なはずです」
「……そっ、それに、彼らは少なくとも『色々なことを今より良くしよう』としているじゃあないか。トーリー党なんて、ただ今までの決まりを後生大事に守ろうとしているだけさッ」
「ハハハッ……手厳しいな」
二人の主張を聞いて、ジョージはうれしそうに笑った。
「だがどうだろう。ディオが先ほど言っていたことでもあるが、それでも…………逆に考えることもできないかな…………」
三人のギロンは、消灯時間を過ぎてもなお続いた。
香油の香りが町中を漂っていた。
ゆったりとした服をまとい、頭にターバンを巻いたエジプト人。同じく頭にターバンを巻いた、浅黒い肌のインド人兵士たち。顔にベールをかけた貴婦人たち。ちりちりの頭をした、アフリカのさらに奥地からやってきたらしき人達。
行きかう人々の話す言葉は、全く理解できない。
そして、いわゆるエジプト風のエキゾチックな建物、観たこともない食べ物、細工物、布や建物に書かれた文様……
蒸し暑い気候……
イギリスではありえない、強い日差しと高い気温。
数日間の航海の後、一行はエジプトのアレクサンドリアに到着していた。
ディオとジョジョにとっては、これが初めての『イギリス外の世界を感じる』経験であった。生まれて初めて目にする異国の情景に、二人はすっかり興味をかきたてられていた。そして興奮して街中を歩いていた。
「ちょっとディオ。あれを見てくれよ」
「ああ、あれは現地の女性だな、この地にすむ人々の宗教上の理由で肌を隠さなくてはならないんだ……しかし、暑そうだな。見ているこっちが汗をかきそうだ」
「あの格好には、意味があるらしいよ。これくらい暑い地方だと、半袖で直接肌を焼くよりも、長袖の服を着て肌に直射日光が直接当たらないようにすることこそが、効果があるんだそうだよ」
「ジョジョ、それは君が汽車で読んでいた本に書いてあったことかい」
「そうだよ」
「あの本の著者はなって言ったっけ……ああ、シュリーマンだ。奴はただの山師だって聞いたことがあるぞ。そんなやつが書いた本を信じるのは、やめた方がいい」
「だから、こうして実際に実験しているんじゃないか」
「なるほど。それで君は、大汗かきながら長袖を着ているのか。ところで効果あるのかい? それ? とても暑そうだゼ」
二人はあれこれ話しながら、荷物を引きつつアレクサンドリア市街を歩いていく。その様子を少し離れたところでジョージが満足げに見守っていた。
その晩はすぐ港の近くのホテルに宿泊し、翌日は汽車に乗る予定だ。
そしてアレクサンドリアで汽車を乗り換え、カイロに行く計画になっていた。そしてカイロで再び汽船に乗り換え、ナイル川を遡上してルクソールまで訪れ、色々と観光して回るというのが今回の旅の目的であった。
汽車に乗るまでの間、わずかに余った時間を有効に使うべく、三人はアレクサンドリアのスークに立ち寄り、市場の観光をしていた。
貿易の仕事をしているジョージは、まず自分の行きつけの織物や貴金属の店に連れていった。二人に商売の雰囲気だけでも掴ませようという心づもりだったのか、ジョージは気に入った品を見つけると二人の前で商談を始めた。
ジョージの目利きは確かで、しかもジョージが醸し出している信頼感のおかげか、商談は短い間で非常にフェアに進んで行く。そしてジョージは、あっという間にそれは見事なオリエンタル調の絨毯を数枚、購入する話をまとめてしまった。どの絨毯も高価なものだが、ジョージにとっては小遣い程度の額なのだろう。
絨毯をエジプトからイギリスのジョースター亭に輸出する段取りをまとめ終えると、無造作に財布を取り出した。そして金貨を数十枚、亭主に支払う。
その様子を、ディオとジョジョは行儀よく座って眺めていた。
店は広いがアチコチに商品が並べられているため、人が立つスペースは少ない。ジョージとディオ、ジョジョ、そして店主の4人が座っていると、歩けるスペースはほとんどないほどだ。
少し埃っぽいそんな狭い店の真ん中に、大きな絨毯が積み重ねられている。その奥の壁には、素敵な刺繍の入ったスカーフや何やらの織物が、ところ狭しとかけられている。そしてその他の壁際には、エジプトの神々を現した木彫りや石の彫刻、奇妙な象形文字が記された日焼き煉瓦の版などが立てかけられている。その上にはびっしりと棚がしつらえられ、不思議な神々をかたどった泥人形や、パピルスという植物を乾燥させて作った紙に描かれた色鮮やかな絵、そのた雑多なものがビッシリと並べられていた。
と、その中に薄汚れた短剣が埃をかぶっているのが、ジョジョの目に入った。
「これは? 」
「ああ……こりゃあお目が高い。お値打ちものですよッ」
スークの店主は、大げさにその短剣をほめたたえた。
「これは薄汚れてはおりますが、かの有名な王妃、アナンカの碑文がかかれた歴史的に貴重なものですからの」
「そッ……そうなんですか」
ジョジョは嬉しそうにナイフを見ている。
「へぇ、僕にはただの古ぼけた短剣にしか見えないが……値打ちものなのかい? ジョジョ」
ディオが尋ねた。
「いや、ディオ……そういうわけでもなさそうなのだけど……でも、これは作りがしっかりしているし、確かに古いナイフだという事もわかるね……ちょっと欲しいかも」
いいナイフだよ。
そうか……何やら考えていたディオは、ニヤリと笑って店主と交渉を開始した。
「ふぅん。オイ、亭主ッこれを1万で買ってやるッッ」
「ヒャッヒャッヒャッ」
何をおいいですかね。店主はわざとらしく大笑いして、首を振って見せた。
「馬鹿がッ、このナイフのおかれた跡をよぉく見てみろ、ほこりが一センチは積もっているじゃあないか。大方、ここ5年は手に取ってみられる事もなかったものだろう? このままでは貴様の店の場所ふさぎにしかならんから、僕がもらってやるといってるんだッ」
「そりゃあ、旦那様。誤解ってもんですよ」
「何が誤解だ。ではこのナイフを買わずに放ってもいいんだぞ。僕たちが買わなかったら、後何年ここにこのままあるのか、見ものだな? 亭主、お前が生きてる間にはたして売れるのやら」
「何てゴウクツバリの旦那だ」
「何を言っている。ただのガラクタを1万も出してやろうといっているのだぞッ……だがいい。では、あのアンティークの絵と抱き合わせではどうだ? 3万だ」
「……10万です」
「馬鹿を言ってるんじゃあないッッ4万だ」
「8万、これ以上はびた一文下げませんよ」
「馬鹿か? 」
「7万……いえ、6万5千ではどうですか」
「4万だ」
即金だ。ディオは4万の札を見せた。
「……5万です」
「やれやれ……めんどくさくなってきたぞ……4万5千で絵と、ナイフと、それからこの石くれも一緒に買ってやろう」
「……4万9千です」
「ほう……」
ド ド ド ド ド ド ド ド ……
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……
ディオの目がきらりと光った。
「気が変わったぞ。3万7千だ。それ以上は一銭も出さんッ」
ディオは三千を男の目の前で懐にしまった。
「なっ? 」
「いや、よく考えたらこれでもちと出しすぎかもしれん。三万5千にしようか」
もう2千をさらにポケットにいれる。
「わっかりましたよッだんな」
店主が情けない声を上げた。
「3万7千でいいですよ」
「ダメだ。三万4千、それでナイフと絵と、この石を二つで商談成立だッ! いいなッ」
「……結構です……」
「ディオ……容赦ないね。あの人少し涙目だったんじゃあないかな」
商談が終わり店を出た後で、ジョジョがこっそりとディオに耳うちした。
「!? 何を言ってるんだ? 何もわかっちゃぁいないな。アイツは今頃カモにガラクタを売りつけたと思って、ほくほくしているさ」
ディオが首をすくめた。
「まぁ、奴は何もわかっていないがな。僕たちが手に入れたこの宝にッ」
「この石? 」
「そうだ、これはスカラベの印章ッ さっき君が手に入れたがっていたイルホテップの印章さ…………これだけで、イギリスでさばけば50万にはなるだろ? 大儲けさ」
ディオは悦に入った高笑いを上げた。
(フム……ジョジョは商談の中で、商品の目利きに才能を見せてくれるな。そしてディオは、やはり数字に非常に強いのだね。金額交渉をあれほどシャープに進めるとはね……ふむ……二人ともいいところがある。この様子なら、将来は安心して後を任せられそうだね)
ジョージは大変満足していた。
その翌日、ディオ達はアレクサンドリアからカイロに向かって出発した。
三人は段取りよく手続きを済ませて出発の三十分前には汽車に搭乗し、思い思いの時間を過ごしていた。
ディオがカイロ発の汽車にあつらえられた食堂車で一人、本を読んでいると、彼に話しかけてくるものがいた。
「あら、この間船でお会いした若者クンね? 分厚い本をよんでいるのね。何のお勉強をしていらっしゃるの? 」
意外ッ
それは競馬場で見かけ、船上で再会し船酔いに苦しむディオに気付け薬をくれた貴婦人、レディ・ミナ・ハーカーであった。
「……マダム・ハーカーッ! 私は学生でして。こ……これは、ただの法律学の勉強です」
ディオは勢いよく持っていた本を閉じ、ピョンと立ち上がった。
「あら、難しいお勉強をしているのね。感心だわ」
「いえ、まだ始めたばかりですから……」
ディオは謙遜して見せ、そして先日もらった香水の礼を言った。
「フフフ……いいのよ。役に立ってよかったわ」
ミナは、また会いましょうねとディオにウィンクをすると、去って行った。
その後には、甘いバラの様な香りが残っていた。
「落ち着け……感傷は破滅を呼ぶ……ディオッ あの女は『母さん』じゃあ無い。ただの俗物だ──―それをよく自分の心に言い聞かせておくんだ」
ミナが去ったあと、ディオはしばらく動かずにミナが出ていった客室への入口をぼうっと見ていた。やがてディオは右手を無意識のうちに動かし、左胸の内ポケットの上を抑えていた。
何でもないと自分に言い聞かせながらも、そのディオの胸ポケットには、ミナ・ハーカーからもらった気付け薬の小瓶が大事にしまわれていた。
その日から、ディオはミナ・ハーカ―と不自然なほどに何度も出会った。ディオが一人でラウンジにいたり、ジョジョと二人で通路を歩いていると、まるで図ったかのようにミナが現れるのだ。
そのたびに、ミナはディオの頬や手にそっと触れたり、ウィンクをしたり、人目につかないようにこっそりと挑発していく。
その挑発も少しずつ大胆になっていた。
夜のディナーの時など、なんとミナは堂々と三人と同じ席に座ったのだ。そして何も知らないジョジョやジョージの視線を盗んでは、ディオにパチンと投げキッスをして見せたり、さりげなくディオの二の腕に触れたりするのだ。
しかも、社交辞令的な会話をしている途中で……だ。
(なっ、何だ? この女、何を考えていやがる? もしや俺を誘惑しているのか? )
正直、ディオは困惑していた。
これまでもディオに言い寄ってくる女は星の数ほどいた。はっきり言って初心さの欠片も無いディオは、気が向けばそれらの女性をそれなりに『楽しんだり』もする。
だがいくら美女とは言え、どこかしら自分の母親の面影を残す女性に誘惑されても、さすがに困るのだ。
そんな時、事件が起こった。
ミナとディオ達が夕食を共にした夜の翌日、早朝のことだ。
最初に気が付いたのは、隣のコンパートメントで眠っていたインド人の一家だった。
後日警察に事情を聞かれたとき、その一家の長女は、深夜、隣の部屋からガタガタと物が動く音、女と老人のような声も持ち主が言い争っているのを確かに聴いたと証言した。
次に異変に気が付いたのは車掌であった。
早朝、彼は乗客の切符を確認するために、客室を訪問して回っていた。
車掌がミナの部屋についたのは朝6時のことだ。車掌はミナの部屋を何度もノックしたが一向に返事がなかった。
ドアの奥には、人の気配が全く感じられなかった。
車掌は厄介ごとの予感に顔をしかめた。
ごくまれに列車へのタダ乗りをもくろむ輩がいる。ポイント切り替えのために汽車の速度を落としたわずかな間に、線路に下りて行方をくらまされたこともある。
そんな厄介ごとはゴメンだ。
車掌は念のためドアを開けた。だが、そこには誰もいないがらんとした部屋があるばかりであった。
ミナの気配は全くなかった。
「レディ・ミナ? どうしたのですか? 」
客室に入りミナの名を呼んでいると、車掌は
ガシュ
という物音を背後から耳にした。
怪訝に思い、窓のほうを向く。
「ひぃつっ」
ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ゴ ……
走行中の列車の窓の外に、ボロボロの肌の男が貼りついているのが見えたのだ。
男の肌はすっかり乾燥しており、まるで枯れ木の様だ。男が動くたびに、パラパラと何かが剥がれ落ちる音がする。体中を包帯で巻いてあるが、その包帯もひどく傷んでいる。もとは白かったはずの包帯は今はカーキ色に変色している。そしてひどく擦り切れだらけだ。
カラカラに乾いた……埃と砂とボロボロの布切れに覆われた、屍体。
まさしく木乃伊であった。
最も恐ろしいのは、その目だ。木乃伊の顔の中心は、目玉の代わりにポッカリと漆黒の穴が開いているだけなのだ。
『Xtgrps』
ミイラが口を開いた。ひび割れ、擦れた声だ。どの国の言葉か、まったく判別ができない。
ミイラはノロノロと動き……列車の窓を押し割り中に入ってきた。
「!? ッ」
ようやく我に返った車掌は、助けを呼ぼうと口を開いた。
だが、あまりの恐怖からか『喉がカラカラに乾いて』言葉が出ないッ!
シャッキィインッ
そのミイラは、恐怖に震える車掌の目の前で手にしていた刀の鞘をゆっくりと抜いた……
掃除婦によって車掌の肉体が発見されたのは、それから2時間後の事であった。
発見された車掌の死体は、恐怖に顔をゆがめ、紫色に染まった顔をしていた。
一方その頃、ディオとジョナサン達の客室(コンパートメント)でも大騒動が起こっていた。
『ちょっと三人が朝食をとっている隙』に、誰かがディオたちの客室に入り込んだらしいのだ。
その招かれざる客人は三人の寝床をひっくり返し……ディオが手に入れたイルホテップの印章を二つとも盗み出したようであった。
幸い、絵のほうはジョージが、ナイフのほうはジョナサンが身に着けていたために無事であった。
それから、不思議なことに他の金目のものには全く手が付けられていなかったのだ。
その代り……
ド ド ド ド ド ド ド ド ……
「ディオ……これは? 」
「ああ、おかしい。なぜこんな物が……」
「!? 二人ともッそれに触れるなッ近寄るなッッ」
ジョージが警告した。
「なんだ、これは……」
ディオがなんとなくめくった寝台の毛布。
そこにあったのは……
ジョージの寝台の上、毛布の下に『あった』、いや……『いた』のは……
カシャカシャカ…………
それは、無数に蠢くサソリであった。
サソリたちはその毒針がしたたり落ちるしっぽを高く上げ、鋏を振り立てカチカチと鳴らす。
「ディオ……落ち着いてゆっくり動くんだ」
「おお……」
ディオとジョジョは、物音を立てないようにゆっくりと歩く。
カサカサカサ……
サソリが身を揺らす。
動くたびその体が互いに触れ、擦れるような音を立てる。
ぎぃぃぃ──
ジョージがゆっくりとドアを開ける。
残念なことに、そのドアの音に反応してサソリが一斉にジョジョ達の方を向いた。
そして、一斉に襲いかかるッッ!!
「ウワアアアツ」
「フンッッ」
ジョジョは、ディオを抱き抱えて出口へ走るッ!
ディオは上着を脱ぎ捨て、飛びかかってくるサソリを払いのけるッ!
ガシャン!
かろうじて扉を閉めたのはジョージだった。
ジョージは二人よりも一歩早く部屋を出ていて、二人が部屋から飛び出してくるのを待ち構えていたのだ。
グシャッ……
一匹だけ部屋から出ることに成功したサソリを、ディオが踏みつけた。
残ったサソリは、すべて部屋に閉じ込められている。
ガシャ ガシャ ガシャ ガシャ
サソリがドアを引っ掻く音が、聞こえつづけている。
だがもう安心だ。三人は脱力して床にしゃがみ込んだ。
「は──ッはぁ──ッッ……ジョースター卿ありがとうございます…………ジョジョッ……おッ……君が助けてくれたのか」
「……いや、君がサソリを防いでくれなかったら、僕たちは逃げられなかった」
ジョジョはディオに手をさしのべた。
「ありがとう……ディオ」
「……」
ディオは一瞬、ジョナサンが差し出した手を握ることをためらった。
その時ッ!
悲鳴が列車の奥から響き渡ったッ!
「!? ジョジョッ、ディオッ、行くぞッ」
ジョージはすくっと立ち上がり、悲鳴のあった方向に駆けて行くッ
「父さんッ」
「ジョースター卿ッ……待ってください」
ざわめく人々を押し退け、列車の前方に走った三人は、3号車に到達!
客室につながる扉を開いた。
そこで三人が見たものは……
血にそまり、徹底的に破壊つくされた客室。そして、壊れた人形の様に転がる死体の山であった。
その客室の中央には、大柄な男が仁王立ちで突っ立っていた。男は分厚いコートをはおっていた。まるでここが温暖なナイル川沿いではなく、寒いイギリスにいるかのような姿だ。
血と埃と、黴の臭いが、客室に充満していた。
「うっ……なっ、なんだ? 何が起こっているッ」
「あ……あの、人達、死んでいるッ」
すっと、ジョージが二人の前に立ちはだかった。
「二人とも下がっていなさい」
ジョージは懐から拳銃をとりだすと、両手で構えた ──ただし銃口は下げたままだ──
「君イッ何があったのだ! 」
ジョージが男を問いただした。
「…………ジョースター…………か? 」
男が口を開いた。聞き取るのがやっとな、しわがれた声であった。
男はクルリとディオたちの方に向き、そして刀を構えた。
「うおおおおッ! 」
「なんだあれはッ」
「!? 二人ともッ! ボ──ッとしているんじゃあ、ないッッ」
ターンッ!
ジョージの放った銃弾が、男の肩を吹き飛ばすッ
だが、男はまるで痛みを感じていないかのように平然と立っていた。
「ウッうわわああああああッッ! 」
「なッッなんだ、こいつはッ」
ディオとジョジョは、驚きの声を上げた。
「ジ……ジョースター」
男がグルリ……と首を回し、ジョージの方を睨みつけた。
ギココチナイ動きで刀を振り上げる。
「……ジョースター……あれを……あの印を持ってこい」
「何の話だ? 」
「ト……トボ・ケルナ……ヨ」
パキンン
突然、男の周囲の座席が二つに切り裂かれた。
その一瞬後に、ジョージの持っていた拳銃の銃口が二つに斬りさかれた。
「見えたか、この剣さばきが? この剣で息子たちを真っ二つにされたくなければ、『あれ』を持ってこいッ」
「なっ……なんだと、貴様ッ」
男は、カッカッカッと口をカクカクさせた。
笑っているつもりなのか……
「フフフ……人質は一人いればいいカ……一人殺しておくか? 」
どっちがいい?
男は、聞き取りづらいしわがれ声で笑った。
「ど……っち ……がいい? コロ……スの ……は? 」
「ウッ……」
思わず一歩後ろに下がったディオを見て、男がうなずいた。
ぎくしゃくした動きで振り向く。
そしてディオに向かって近づいてくる。
「貴様ダ……キ……サマを殺すッ」
「クッ……うぉおおおおおおおおおおおおおおおおお」
ギクシャクした動きと裏腹に、男の動きは素早かった。
まるで野犬が飛びかかってくるような速度で、男がディオに跳びかかるッ!
ディオめがけて振り下ろされる刀ッ
Buuaaannnnn!
だがその時、刀を掴んでいた腕が、吹っ飛んだ。
「Guxyuuuuuあああ! 」
男が叫ぶ。
「ジョースター卿っ……大丈夫ですか? 」
男を撃ったのは、やっとのことで駆け付けた第二陣の警官隊だ。
「ああ、助かったよ。幸い私も息子たちにも怪我はない」
「ハッ! ! お前ら、うてぇええええッ」
警官が叫んだ。
男は、残った腕で再び刀を掴もうとしていた。
Bun!
その腕がぶっ飛ぶ!
Bun!
次に左足ッ!
立っていられなくなった男が、倒れた。
Bun! Bun! Bun!
さらにもう一発ッ! 二発ッ!
弾丸が命中するたびに、男の体が吹っ飛んでいく。
そして硝煙がすっかりあたりに立ち込め視界がほぼ真っ白に染まったころ……気が付くと男はどこにもいなかった。