青年が目を覚まして最初に見たものは、天井の木目だった。
古い木造の建物という情報が、ぼんやりの頭の中に浮かぶ。
自分が身を横たえているのがベッドだということもわかるが、体が熱を持ちすぎているせいか、感触が鈍い。
閉め切られた窓に、ストーブの上で湯気を吹いているやかん。
この部屋を暖めるための措置だ。
青年は、それが自分のためになされた措置だと、なんとなく気付く。
理屈ではない。
完全に直感による理解だ。
今が夏の入りだと知らなかったし、浜辺に漂着した自分が低体温症一歩手前の状態ということも知らない。
しかも、心停止していたなど、青年の知る由もないことだ。
それでも、青年は“なんとなく”で現状を認識していた。
自分は非常に危険な状態にあったこと。
そして、誰かがそれを救ってくれたということを……。
カタンと、小さな物音がした。
青年が身を横たえるベッドの右隣。
椅子に座っていた人物が、うたた寝していて身じろきした時に発せられた音だ。
座っていたのは、白衣姿の少女だった。
誰だろう。青年がぼやけた視界のなか目を細める。
髪は明るい鳶色のボブカット、赤いフレームのメガネが良く似合っている。
白衣の下はセーラー服のようだが、スカートの丈が若干短い。
少女が身動きするたびに太腿がちらちらと見えてしまう。
思わず目を凝らすと、明るめのオレンジ色までしっかりと見えてしまった。
青年が小さな寝息を立てる少女から視線を反らすのと、少女が首をかくんとさせて目を覚ますのはほぼ同時だった。
半開きになった口元のよだれを袖でぬぐう少女は、青年が目を開けているのを見て椅子から転げ落ちそうになる。
少女の表情が、びっくりから嬉しいに変化してゆくのを、青年は呆けたように見ていた。
白衣の裾を翻して椅子から立ち上がった少女は、ベッドに飛びつくようにして青年の顔を真上から覗き込んだ。
「目が覚めた!? 意識は!? はっきりしてる!? あ、それと、言葉は日本語で大丈夫!? お腹すいてない!? 何か食べれそう!? その前に話せるかどうか……」
白衣の少女は流れるように言葉を青年に浴びせかける。
青年が目を覚ましたことがそれほど嬉しかったのか、ベッドの端を掴んだままぴょんぴょんと、まるで子供のように小さく飛び跳ねている。
小さな子供がそのまま大人になったかのような仕草。
互いの鼻が触れ合いそうな至近距離で見つめてくる少女に面食らって、青年は何を言ったものかと口をへの字にして閉口するしかできない。
やがて、青年の困ったような表情に気付いた少女は、慌てた様子で一歩離れた。
「えっと、一気にいろいろ聞いちゃって、混乱するよね? まずは自己紹介かしら?」
少女は白衣の襟を正すと、メガネの位置や髪形を直して手を背中側で組んだ。
「雷(いかずち)よ。かみなり、じゃないからね? この島では医務室を担当しているの。ようこそ、見捨てられた島の鎮守府へ」
○
「それじゃあ、ここがどこかと、今お兄さんが置かれている状況と、簡単に説明していくわ。わからなかったら聞き流していいから。質問はあとで受け付けるわ」
雷は一息に言って、椅子に座って足を組み直した。
青年はベッドに身を横たえた姿勢のままなので、雷が足を組み直した時に再びパステルオレンジと再会してしまう。
気まずそうな青年の表情を不思議そうに見つめた雷は、こほんと咳払いひとつする。
「さてと。さっきも言った通り、この島には鎮守府があって……、今いるここがそうなんだけどね? でも、10年前に提督が亡くなられて、それっきり機能停止しているの」
そうして雷は、青年に語り聞かせる。
10年前、この孤島の鎮守府で何があったのか。
「この島は資源が豊富で、補給基地として運用されていたわ。でも、そこを深海棲艦に目を付けられちゃってね。この島に続く海路は悉く強襲されて、ついには孤立してしまったの。海軍本部の方は、何度も航路となる海域を奪還する作戦を試みたらしいんだけど、うまく行かなくてね。段々、奪還作戦の発令される頻度は少なくなっていったの」
そうして、膨大な資源を抱えたまま、この島の鎮守府は孤立することになった。
「いくら資源が豊富でも、食糧や医療品がなければ人間の生活は守れない……。だんだん病気になる人も増えてきて、それに、深海棲艦に海域を乗っ取られたことで、この海域周辺の環境が変わってしまったの。……その、人が生きていくには、ちょっと厳しい環境に……」
深海棲艦の支配領海では人間が正気を保てなくなるという部分を、雷は濁して青年に説明した。
今まさにそういった環境下にある青年に不安を与えないためだ。
「鎮守府のみんなを護衛して島から脱出しようとした時には、もう動ける人は残ってなかったわ。それで、提督もご病気になられて……。提督の訃報をすぐに海軍司令部に伝えて指示を仰いだけれど、返ってきた指示は『待機せよ』だけだったわ。『艦娘は待機せよ』って……」
肩を落とした雷だったが、すぐに姿勢を正して青年に視線を合わせる。
「私たち艦娘はね、提督の指示がないと出撃しちゃいけないの。日常生活や趣味、勉学は大いに結構ってことで許されているけれど、艤装を纏って海上に出ることは認められていない。だから、私たちは提督の指示があるまで、ずっとこの孤島の鎮守府で“待機”していなくちゃいけないの。指示をくれる提督が現れない限り、このままずっと……」
青年はベッドの上で、体を起こそうとした。
無意識的な動きだったが、衰弱した体は思うように言うことを聞かず、雷に「安静にしていて」と窘められてしまった。
「今この鎮守府に居るのは、私を含めて4隻の艦娘だけ。みんな駆逐艦で、私のお姉さんたちと妹。通信器は敵の空襲があった時に壊れちゃって、もう外とは連絡が取れないの。だから、10年前からずっとこの島で、姉妹で肩を寄せ合って暮らしてきたわ」
そこまで言い終えて、雷は青年に質問を促した。
しかし、青年はなんと言ったものかと口をつぐんでしまう。
話が理解できなかったわけではなく、抱いた感情をどう言葉にしたらよいか、それに悩んでいるといった風に雷には見えた。
「じゃあ、質問はあとで受け付けるとして……。お兄さんのことを教えてちょうだい?」
手にメモ帳代わりのバインダーと鉛筆を握った雷が椅子を引いてすり寄ってくるなか、青年は二重の意味で気まずそうに視線を反らした。
○
「それじゃあ、お兄さんは記憶喪失ってこと?」
半ば問診になってしまったやり取りに、雷は思わずため息をこぼさんばかりの心境だった。
この青年は記憶喪失だったのだ。
青年には、この医務室のベッドで目覚める前の記憶がない。
正確には思い出、エピソード記憶の欠落だ。
文字の読み書きは出来るが、それを覚えるに至った経緯がそっくり抜け落ちてしまっている、という風に。
さて、いったいどういうことだろう。
雷は顎に手を当てて考える。
まず考えが向いたのが、この青年が着ていた服や所持品についてだ。
青年が漂着したの時の服装は、内地ではどこでも売っていそうなシャツとジーンズ姿で、これといって特殊な点は見られない。
では持ち物はといえば、これが皆無。
身分証明書をはじめ、財布のひとつも身に帯びていなかったのだ。
暁の見た限りでは、今回の漂着物のなかに青年の持ち物らしき品はなかったという。
漂着物は船舶の残骸や人間大のコンテナ等が主で、ポケットに入るサイズの小物の類は見当たらなかったのだ。
それでも、まだ見落としがあるかもしれないと、暁は今も浜辺を捜索中だ。
船舶の残骸や積み荷と一緒に漂着した以上、青年は乗船中に深海棲艦に襲われて海に放り出されたと考えるのが自然だ。
それでも別の可能性を考えるのならば、入水自殺や強盗殺人という物騒な単語が思い浮かぶ。
漂着時に片方の足には靴を履いていたので入水自殺の線は消える。
体には人や獣に襲われたような外傷も見られなかったので、襲われたということもないのだろう。
それでも、雷の頭の中には違和感がこびりついていた。
彼女の本業は艦娘で、そういった捜査や調査の専門家でない。
知識の裏付けがない以上説得力のある言葉など吐けるはずがないのだが、それでもおかしな点を挙げる事は出来た。
この青年は、この孤島に漂着した数少ない生存者の中で、誰よりも素性が読めなかったのだ。
例えば、軍服を着ているのならばほぼ海軍の人間ということで間違いないだろう。
身分証なども含めれば完璧だ。
服装や所持品で大よその見当も付けられる。
他には、日焼け跡や筋肉の付き方、体型体格など、体に刻まれた生活の跡だ。
外傷の跡などがあれば、医療をかじった雷ならばすぐにどういった事故にあったのかも把握できるはずだった。
ところが、青年にはそういった、体から読み取れる情報がほとんどなかった。
唯一はっきりしたものは、右腕の時計跡。
左利きの人間は大よそ右手に時計をするため、日焼け跡が右手にできる。
わかったのはそれだけだった。
日焼け具合からわかったのは、この青年があまり陽の元に出るような生活をしていなかったということ。
そして体型体格からわかったのは、青年は一般の成人男性としては平均的で、かつ健康体ということだ。
筋肉の付き方からは、あまり体を動かすような生活をしていなかったと知ることもできた。
そうすると、雷の抱く違和感はより強烈なものになる。
この青年が何者で、どうしてこの島に漂着したのか。
深海棲艦の脅威が存在する以上、艦娘の護衛なく船舶が海上を行き来することはない。
雷がこの島で10年の時を過ごすあいだ、戦況は悪化しているだろうし、そうすると民間の客船などが海上に出るという線は消える。
海に出るのはそのほとんどが海軍所有の軍艦や輸送船であり、それに民間人、ひいては一般人が乗り込むとは考えられないのだ。
そうでなくとも、海岸付近に住まう民間人に避難勧告が出ている現状、高波にさらわれた等の事故も考えにくい。
世界各地の情報がリアルタイムで飛び込んでこないのが悩ましい限りだと、雷は額を押さえ得るしかない。
さて。ならば何故、この青年は流れ着いたのか。
雷には、ひとつだけ思い当たる可能性があった。
軍属ではない一般人が、海軍船に乗っているケースや、海岸付近への立ち入りを許されているケース。
それは、艦娘を指揮する“提督”となる素質を持った人物に限られる。
“提督”として艦娘を指揮するには、ただ指揮能力に優れているだけではいけない。
まず真っ先に必要とされるのが、深海棲艦の支配海域でも正気を保っていられる特殊な体質だ。
これまでこの孤島に漂着した生存者は、みな数日と経たずに気が触れて、自ら命を断ってしまっている。
意識を取り戻した時点で正気を失うような兆候が見られるはずなのだが、今のところ、この青年にはそれがない。
数日の経過観察が必要ではあるが、雷の見立てではこれまでのどの漂着者よりも、はるかに“安定して”いた。
この青年は“提督”候補だったのだろうか……。
雷はメガネの位置を直して、青年の顔を上から無遠慮に覗き込む。
青年の反応はといえば、顔は真っ赤で照れきっていて、顔を逸らすことはしないものの、視線は左右に明後日にとぶれまくっている。
照れ屋さん、というよりは女性慣れしていない反応だ。
初心なのだ。
雷は試しに、「ちょっとこの部屋暑すぎよね? ストーブいらなかったかしら?」などとうそぶいて胸元を開けて見せると、青年の下半身がしっかりと反応していた。
シーツを押し上げて起立する物体をしっかりと確認した雷は、目を輝かせてあとで触診しようと力強く頷いた。
「……この様子なら、あの方法が使えるかしら……」
「ええ? な、なに……?」
雷の発した呟きに、青年は情けない声色で聞き返す。
すぐに青年から身を離した雷は、医務室のデスクの引き出しを開けて、あるものを取り出した。
「ひとつだけ、お兄さんに聞いておきたいんだけど……。お兄さんは、失った記憶にどんなイメージを持ってるの?」
「どんなイメージって、言われてもね……」
「直感でいいのよ? 忘れてしまって悲しい、とか。思い出したくもないくらいおぞましい、とか」
「そう言われても……。今まで持っていたものが手元になくて、それが重要だったかどうかもわからないって感触で……」
「思い出さないと、不安?」
「そう、かな。不安かもしれない、です」
「ああ、私たち相手に敬語や丁寧語なんて使わなくていいのよ? もっと言葉を崩しても大丈夫だから!」
それより、と。
雷は引き出しから取り出したあるもの、書類の束を胸に抱えて青年に問いかける。
「お兄さんは記憶を取り戻したいと思う? そうすることに、後悔しない?」
青年は雷の言っている意味が呑み込めなかった。
しばらく無言で考えて、これまでの人生で負った心の傷など思い出すかもしれないと、心配してくれているのだろうと好意的に受け取った。
「後悔は、思い出してみないとなんとも言えないけれど……。やっぱり自分が何者かは気になるよ。なんでこの、島? に流れ着いたのか。それと、もし家族が一緒だったら、無事だったのか……」
青年の顔が曇る。
もし、青年が海に放り出された時に、青年の家族か、あるいは友人か恋人かが隣にいたとしたら、その人物は今は無事なのだろうか。
そういった面で心配する心が動くのなら、この青年は悪い人間ではないのだなと、雷は納得する。
「じゃあ、記憶を取り戻すためにリハビリしなきゃね? 大丈夫、私も手伝うから。調子が良くなったらでいいから、これをやってみて?」
雷は胸に抱えていた書類の束を青年に見せる。
題目や文章の数ヶ所が黒く塗りつぶされているが、それが何かの問題集であると、青年にも理解できた。
「――あ、ちょっと思い出して来たかも。僕たぶん、勉強とかあんまり好きじゃなかった気がする……」
「そうなの? でもそれ、記憶を取り戻すための大きな一歩よね!」
笑顔で告げる雷の脳内にはある意図があった。
エピソード記憶、思い出だけが欠如した状態ならば、体や頭が覚えていることはそのままのはずだ。
鉄棒の逆上がりや、方程式を使った計算など、青年がこの歳までそういったものに触れてきていれば、必ずと言っていいほど通る道。
雷が渡した問題集は、青年の基礎学力を計るためのもの。
外観上日本人ではある青年だが、もし本当に日本国籍を持つ日本人ならば義務教育を受けているはずだ。
最終学歴はどのあたりか。
優等生か落ちこぼれか。
どの科目に秀で、あるいは苦手としているのか。
体調が良くなったら外に出て軽く運動してもらったり、機械など弄ってもらおうとも考えていた。
もちろん、青年の適性を見るためで、力仕事を任せるためといった意図ではない。
(それに、もしこのお兄さんが“提督”の素質を持ってる人なら……)
雷は、その先を努めて考えないようにした。
それは見方を変えれば、この青年を利用するということになるのだから……。
思いつめそうになる心を表情に出さないように、なるべく笑顔でいることを意識しようとする雷は、医務室の扉が控えめにノックされる音を聞く。
確か、電(いなづま)がそろそろこちらの様子を見に来る頃なのだ。