“ルサールカ”討伐作戦及び、対潜哨戒開始の前夜。
相変わらずの曇り切った夜空の下、阿武隈は鎮守府裏手の共同墓地に来ていた。
入渠の時間になっても一向に姿を現さないまるゆを探しに出て来たのだが、果たしてかの潜水艦娘の姿は墓地の一角にあった。
とある墓標の前にしゃがみ込んで微動だにせず、目を瞑り手を合わせている。
いつからああしているのだろうかと眉をひそめる阿武隈は、特に足音を殺さずにまるゆの元まで近付いていった。
阿武隈の接近に、まるゆは反応を示さなかった。
後ろで立ち止まっても同じ姿勢のまま、まるで阿武隈の存在に気付いて居ないかのような振る舞いだ。
むすっと頬を膨らませた阿武隈は、なんと言って驚かせてやろうかと周囲を見渡して、ふと、まるゆが前にしている墓石の名前に目が行った。
そこに刻まれているのは誰の名前だったか。
それを思い出す前に、答えはまるゆの口から発せられた。
「……武藤、提督代理さん。陸自から“海軍”に出向してきた方だったそうです」
提督代理。
かつてこの鎮守府の提督が病に倒れた折に、その代役を務めることとなった人物であり、ここにいるまるゆの建造を承認した人物でもある。
阿武隈にとって今の提督がそうであるように、まるゆにとっては彼が、好意を持って意識する人物なのだ。
しかし、その彼は、武藤提督代理はもういない。
10年前の空襲時に瓦礫の下敷きとなり、命を落としてしまったのだ。
「お顔は写真で見たこともあるし、暁さんたちからお話はたくさん聞いているんです……」
「……すごく優しい人で、今の提督みたいな人だったって。阿武隈も聞きました」
しゃがみ込んでいるまるゆの横に、阿武隈は腰を下ろした。
スカートが汚れるが構いはしない。
今日はもう、風呂に入って眠るだけなのだから。
「まるゆ、時々思うんです。まるゆがまるゆじゃなくて、ちゃんと本来の姿で……、戦艦の艦娘さんとして生まれていたらって。武藤提督代理は助けられなかったかもしれないけれど、この鎮守府のみなさんは助けられたんじゃないかって……。水偵飛ばして偵察したり、長距離砲撃でみなさん援護したり……」
「そうですね。そしたら、水偵運用できる艦が居るってことだから、阿武隈は生まれて来なかったかも……」
「あ……! ごめんなさい、そういう意味で言ったんじゃ……!」
「わかってます。わかってますから……。大丈夫大丈夫」
慌てるまるゆに対して、阿武隈は気にしてないよと素っ気なく呟く。
「でもまあ、結局まるゆは、水偵運用できなかったんですよね?」
「はい……。晴嵐とか積みたかったです……」
がっくりと項垂れるまるゆは、しかし、そんなことは些細なことだとばかりに、別の悩みがぶり返す。
「まるゆ、本来の性能よりはだいぶ戦えるようにはなっているのですが、水上機の運用は出来なくて、速力も大したことなくて……」
「運用は、運貨筒を用いた洋上補給と装備換装補助、あとは甲標的・甲による雷撃支援ですよね? 前線に出る側から言わせてもらえば、充分助かりますよ?」
「ありがとうございます……」
礼を言うまるゆだったが、その表情に微かな不満の色があることを阿武隈は見逃さなかった。
前に出て戦いたいと思っているのだ。
六駆の艦娘たちが同じような顔をしているのを見ているし、何より阿武隈自信も同じ思いだからだ。
好戦的、というわけでは、決してない。
自らの役目を果たしたいという思いと、あとは提督に褒められたいという子供のような感情だ。
しかし阿武隈は、そう考えているのが自分だけであることを、ここ最近で自覚するに至った。
役目を果たしたいという思いも、提督に褒めて欲しいという思いも、艦娘ならば誰もが持っているものだ。
持ってはいるが、それらとは別に、阿武隈にはないものを、この鎮守府の皆は持っているのだ。
遺志。先に逝ったものたちから託された想いが、彼女たちの大きな駆動力となっている。
それは、阿武隈とほぼ同期の新参者であるはずのまるゆですらそうだし、元々は部外者である提督ですら、そういった面があると感じていた。
皆、もういない者たちの思いを背負って戦おうとしている。
亡き人に故郷の景色を見せるために、この閉鎖された海域から脱しようとしているのだ。
敗けられない戦い。
失敗できない作戦。
阿武隈は自分だけ、それを持っていないと思っている。
自分だけ、誰かの遺志を背負っていない。
こんな身軽なまま海上に立って大丈夫なのだろうかと思うのは、果たして見当違いな悩みなのだろうか。
この場にはそんな悩みを察してくれる人も、気遣ってくれる人もいない。
まるゆは今は自分の内側と折り合いをつけるので精いっぱいだし、何故か後をつけて来てた連装砲ちゃん(仮称1番砲塔)は、気落ちした様子の阿武隈とまるゆを励ますように背中を叩くだけだ。
阿武隈とて、誰かに察してほしいとは思っていないし、必要以上に心配されるのは本意ではない。
しかし、目をかけられないのもそれはそれで寂しいものだなと、この期に及んで思ってしまうのもまた事実だった。
しばらくのあいだ墓地でしゃがみ込んでいたふたりと1機は、まるゆがくしゃみしたことを切っ掛けにして、ようやく入渠しようという手筈になった。
いつもは雷がまるゆの髪を洗ってやる役だったが、今夜ばかりは阿武隈がその役割を買って出た。
腰まで届く長い髪はひとりで洗うには確かに難儀するが、これを切ってしまえというにはあまりにも勿体ないなというのが阿武隈の感想だった。
おそらくは、いつもこの髪を手入れをしている雷も、同じように考えているのだろうな、と……。
○
その夜、阿武隈は眠れなかった。
初出撃の前夜に高いびき出来る程、軽巡・阿武隈に設定されたメンタルは図太くない。
自分の素体となった少女も、こんな風に夜眠れないことがあったのだろうか。
そんなことを考えてしまうのは、遺志について考えていたせいか。
不安や落ち着かない気持ちから逃れるように、阿武隈はパジャマの上にカーディガンを羽織って寝床を抜け出した。
ふらふらと怠い体を引きずって向かうのは食堂。
この鎮守府には夜間の飲み食いはあまりしないように、という緩いルールがあるだけだったが、阿武隈自身あまり遅い時間に食堂を訪れたことはなかった。
食事量は朝昼晩と、鎮守府の皆で取る食事量で充分足りているし、そうでなくとも会議や訓練の休憩などで、何かと間食を挟む機会は多いのだ。
こうして夜中に空腹を感じることも稀だなと思い、そんなことを考えていられる自分が恵まれているのだなと再確認する。
自らが置かれている状況は確かに八方塞で、目標達成のために除外するべき障害も山ほどある。
そんな中でも、この鎮守府の面々は提督も艦娘も悲嘆に暮れるばかりではなく、常に前を向いている。
皆で同じ方を向いて、肩を組んで、脱落者を出さないように気遣い合いながら走ってゆく。
そういう仲間の元に、そういう時間と場所に生まれたことは、良かったと思っている。
これが、上下関係厳しくて剣呑な雰囲気の場所であったのならと考えると、途端に胃が痛くなってくる思いだ。
「……本来、そういうのが普通なのかな……」
余所の鎮守府を知らないため、どういった環境が“普通”なのか、阿武隈にはわからない。
強いて言えば、自分が今立っている場所こそが“普通”であるのだが、こんな状況でそう言えたものかなと、目を細めてしまう心境だ。
夜の食堂、その厨房には先客がいた。
エプロン姿の雷が、鼻歌を歌いながらおにぎりを握っていたのだ。
この鎮守府で厨房に立つのは主に電の役割だったため、阿武隈は一瞬見間違えたかと目を擦る。
「ええ? なになに? 私がおにぎり握ってちゃおかしいって言うの?」
そんな阿武隈の動作に雷は頬を膨らませて見せて。
阿武隈はといえば、慌てて違う違うと手を振って。
妙な間を一拍置いて、ふたり同時に噴き出してしまう。
「明日の出撃に向けての準備よ。洋上で食べる用のと、あとはお夜食用ね? 司令官と電が、まだ第二出撃場で最終チェックしてるの。だからお夜食の差し入れね」
「こんな時間まで、ですか……?」
明日の出撃に向けて、各員の艤装関連の最終チェックをしているのが電。
提督は許可・承認の関係でいちいち呼ばれるのは手間だということで、勉強も兼ねて一緒に作業中なのだ。
「というかー、出撃する面子は、明日に備えて休んでなきゃ駄目よー?」
「それ、雷もそうじゃないですかあ……」
お互い眠れなかったのだなとわかって、阿武隈はどこかほっとした気持ちになる。
こうして寝床を這い出てのが自分だけではなかったこともそうだし、雷のように実戦経験がある艦娘でもこうして緊張するのだと知って、二重に安堵を得る。
そんなことを雷に話すと、それなら以前暁が、更衣室で勝負パンツ選びながら響相手に弱音吐いていたと聞かされて、阿武隈は思わず噴き出して、お腹を抱えて数分のあいだ動けなくなってしまった。
第二出撃ドックに夜食を持っていくと、そこにはテーブルに突っ伏して寝落ちている提督と電が居た。
ふたりの背には毛布が掛けられていて、傍で待機していた連装砲ちゃん(仮称2番砲塔)が「お静かに」と口に人差し指を当てるジェスチャー(構造上無理があるが、雷と阿武隈はそう察した)。
肝心の作業自体はほとんど終わっているようで、後はもう寝床に放り込んでしまっても大丈夫かなと阿武隈は考えていたが、雷はこのまま引こうと、夜食だけ置いて退散の構え。
起きたらまた確認作業など始めてしまうだろうから、このまま寝かせて置いた方がいいという判断だ。
そういうものかと眉をひそめる阿武隈だったが、提督も電も渋そうな寝顔で「……艤装の、荷重軽減、……解除」「……荷重100%、……なのです」などと、寝言でよくわからないやり取りを展開しているのを目の当たりにしてしまうと、確かにその方が良いのかもしれないと納得してしまうのだ。
夢の世界でいったい何やってるんだかと、阿武隈は苦笑いでふたりの毛布を掛け直して、雷と一緒に第二出撃場を後にした。
○
「何か飲む? ホットミルクとか……、あーお腹壊すといけないからホットココアね。ココアココア。ミルク入り。うん、その方がいいわ? ねえ?」
自分が牛乳を飲めないからだろう、慌てて戸棚からココアの缶を取り出す雷を、阿武隈は困った様な顔で眺めていた。
第二出撃場に夜食を差し入れて来た帰り、自室に戻ろうとしていた阿武隈は雷に呼び止められ、厨房に連れて来られた。
どうせ眠れないなら、何か飲んでいこう言うのだ。
てっきりお酒でも進められるのかと身構えた(建造記念の歓迎会の時、雷電がものすごい酒乱であることを身を持って知っているのだ)阿武隈だったが、ミルクを鍋で温めココアを投入している雷を見て、ほっと安堵する思いだ。
いくら入渠で体調の調節が可能とはいえ、出撃前にお腹を下すなどもっての外。
出撃前もそうだが、これが海上で、しかも交戦中に、などと考えると、もうそれだけで胃が痛くなる思いだ。
「……それにしても、牛乳。よく腐らずに流れ着きますね? 普通に冷蔵したんじゃ1ヶ月も持たないでしょうに」
「そうよね? 冷凍、じゃなくて、冷蔵、なのよねコレ。どうやら最新の技術を使ってるんだって、響が言ってたわ? ほんと、この島に取り残された10年で、外の世界は随分進んじゃったのね……」
感慨深そうに言う雷に、阿武隈はどこか寂しさのようなものを感じた。
姉妹同士で取り残されたとはいえ、やはり孤島生活は寂しいものだったのかと、これも“外”を知らない故の考えかなと顔を伏せると、ふわりと漂った湯気が前髪をくすぐった。
阿武隈専用のマグカップ(でかでかと猫のドヤ顔がプリントされている)を差し出した雷は、早くも自らのカップに口を着けていた。
「取り残されて、時代遅れになって……。それでも私たちが戦えることは、暁と響が証明してくれた。私だって、戦えるんだから」
「私たち、ですよ。阿武隈だってやりますから!」
ふんすと鼻息を荒げる阿武隈に、雷は安心したような深い笑みを浮かべて見せた。
「もう緊張は解けた? ぐっすり眠れそう?」
「う……。それは、まだ……」
改めて明日に対する緊張を指摘されると、不安がぶり返してくる。
雷に会って、話して、少しは気が和らいだ気がしたのだが、そうそう上手くはいかないようだ。
「ごめんねー阿武隈。せっかくリラックスしてたのに」
「いえ……。でも、ひとりになったらたぶん、また……」
「だったら、膝枕する? 眠るまで一緒にいる?」
雷お得意の過干渉が始まったなと、阿武隈は苦笑いで身を引くが、今は確かにそうしてほしいかもと、弱気ゆえの変化を自覚していた。
そうしてふと気付くのは、こうして甘えさせてくる雷はどうなのかという疑問だった。
「雷はいつもそうやって、甘えろ甘えろーって言いますけど……。雷は、誰かに甘えたくなる時って、ないんですか?」
何気なく聞いた阿武隈だったが、次いで目にした雷の様子がいつもと違い、はっと息を飲む。
一度、顔から表情が消えてしまう程の驚きを見せた雷は、それ以降、阿武隈と目を合わせられず、持っていたマグカップで顔を隠してしまったのだ。
その反応から阿武隈が感じ取ったものは、気まずさや申し訳無さ、あるいは、悪戯を咎められた子供のそれだった。
雷が隠していたものを、探られたくなかった場所に踏み込んでしまったのだ。
今度は阿武隈が気まずくなる番だ。
いつも誰かの世話を焼きたがって、ぐいぐい突っ込んでくる雷がこうなってしまうのは、いったいどういうことなのか。
阿武隈はその原因を、人の世話を焼くことに何らかの後ろめたさがあるからだと、推測する。
では、いったい何に後ろめたさを感じているというのか。
動機の不純を感じさせているのはいかなる背景だったか。
これまでの鎮守府での生活の中でのやり取りを思い出す限りでは、そう言ったものは見当たらなかったはずだ。
判断材料がないではないかと考えを一度止めた時、答えは唐突に降って湧いた。
「……誰かに甘えたくなっちゃうから、誰かを甘やかしてるんですね?」
言葉に顔を上げた雷の表情は、もう何年も老け込んでしまったかのように阿武隈は錯覚した。
疲れ切った力ない笑顔、憔悴した表情。六駆の艦娘がこれまでに一度は見せたことのある顔だ。
「ばれちゃった」あるいは「やっとわかってもらえた」。そんな表情はどこまでも痛々しさを感じるものだった。
脱力して、そのままテーブルに蹲りそうになる雷に、阿武隈は「こいこい」と手招き。
椅子に座った状態で自分の太腿をぽんと叩き、「ほら、おいで?」と誘う動きだ。
困惑気味ながらも期待に頬を緩めた雷は、花の香に誘われるように阿武隈に引き寄せられ、そしてころんと阿武隈を見上げる形でその膝に寝転んだ。
椅子を繋げて簡易のベッドを作り、阿武隈の手による即席の膝枕だ。
「……私ね、ずっと、誰かに甘えたいと思ってたの。建造されてすぐに、満足な訓練もなしに船団護衛に着いて、いっつも不安で、怖くて、心細かった。でも、所属部隊の皆は、私と同時期に建造された子ばっかりで、甘えるどころか不安定になっちゃう子ばっかりで……。だから、私が仕切ってお姉さん代わりもやっててね? ……それで、そうしている内に、気付いちゃったの」
その言葉の先を、阿武隈は身を持って実感しているところだった。
甘えられる側に回った途端、先ほどまで胸中に渦巻いていた不安や恐怖を、ほんの一瞬忘れたのだ。
意識を向ければすぐに思い出すというレベルではあるが、楽になった感触は確かにあって、微睡の中から目覚めたかのようにはっきりとものを考えることが出来た。
弱っている仲間のことを、自分よりも弱っていて可哀そうだと思うことで、自前の悩みを考えないようにしていると、そう言った作用を生じているのだろう。
確かにこれは、楽になったその瞬間にひどい罪悪感が襲ってくるものだ。
鎮守府の他の面々はどうなのかは定かではないが、少なくとも阿武隈はそう感じたし、雷がずっとそうだったのだと確証を得てしまった。
そして何より、この感触は危険だとも、阿武隈は思うのだ。
これは“毒”だ。心を圧迫しているものが霧散してゆく感触は強い薬の効力に似て、高い依存性を持つのだろうと察することが出来た。
きっと癖になってしまったのだろうなと感じた阿武隈はしかし、自らの膝に頭を預けて力を抜く雷の姿に、ひとつの疑問を得た。
「……だったら、提督に甘えれば良かったんじゃ……」
「ダメ」
はっきりと即答が返り、息を呑む。
雷は泣きそうな笑みで、阿武隈を見上げていた。
「そりゃあさ、司令官は男の人だし、司令官さんだし、甘えたり甘やかしたりって、最初は考えていたけどね……? 考えていたけど、そうしようって思ったけど、やっぱりダメよ」
何が、駄目なのだろう。
「だって、私たちが求めたら、司令官、絶対に断らないもん。私たちもダメになるし、司令官のこともダメにしちゃう。それが怖いの。べたべた甘えてどろどろになって、島を出るどころじゃなくなるのが怖いの。私は、自分がそうなるって、わかってるから……!」
「確かに、うちの提督はそういうの、断らなさそう……」
あの提督は恐ろしいほど自分というものがない。
真っ白なキャンバスのような、真っ新さと危うさがあると、阿武隈は感じているのだ。
迂闊に近付き過ぎてぶつかってしまえば、出鱈目な色でおどろおどろしい絵に染め上げてしまう。
意識的にか無意識的にか、あの提督と接したことのある艦娘たちは、それを理解しているのだ。
だからだろうか、提督が島に流れ着いた当初、まだ提督ではなかった青年に対して「そうしてしまおう」と企んでいた雷は、その試みをすぐに放棄したのだ。
無垢に触れて、我に返った。
雷の口から発せられたことを大まかにまとめると、そういうことなのだろうなと阿武隈は困った様に笑んだ。
「それにね? 私たちが求めても、きっと司令官、本当の意味でダメになったりしないわ。ダメになったふりをしてくれるだけ。私たちに合わせて、私たちが変な笑顔を張り付けないようにって、そう考えてくれて……」
だから、雷は全力で前を向くことに決めた。
提督を不要な怠惰に付き合わせないようにと。
どうせ合わせてくれるのならば、前向きであった方が良いはずだと。
故人の遺言を果たすという目標が嘘だというわけでは決してないが、しかし、それを果たすための原動力、その最後の一押しが、提督の存在だったのだ。
「今でもね、怖くなる時があるの。さっきの阿武隈みたいに、私の理由に踏み込まれちゃったら、司令官に必要以上に優しくされちゃったら、私は……」
もう、耐えられなかっただろう。
二度と、提督の顔を見られなくなってしまったはずだと、雷は阿武隈の腹に顔を擦り付けながら、途切れ途切れに言葉を吐き出していた。
そんな雷の有り様を、阿武隈は至極冷静に見つめていた。
冷静と言えど冷徹ではなく、人の情の暖かさを持った瞳でだ。
阿武隈が考えていたよりもずっと、皆それぞれぎりぎりで。
それでも笑って、互いを気遣って距離を置いて、そうしながらも支え合って。
しかし、ふとしたボタンの掛け違えですべて台無しになってしまうような、そんな危ういバランスの上に、この鎮守府は成り立っていて。
それを理解しているからこそ、誰も彼もが自分勝手に振る舞えない。
たった今、阿武隈は雷の抱えていた事情に触れたが、きっと他の皆もそういった面を持っているのだと考えると、どうしても苦い顔になってしまう。
それと同時に、阿武隈は己が担うことの出来る役割がまだまだあるのだと自覚するに至っていた。
自らが誰の遺志も継いでいないのならば、遺志を継ぐ彼女たちの支えとなればいい。
それは、かつてこの島に流れ着いた提督が、自ら提督となって彼女たちの支えとなろうと決意した心境に良く似ていたことを、阿武隈自身は知る由もない。
「大丈夫ですよ……。ちゃんと支えますから……」
呟くように言えば、返事は無言のみ。
いや、かすかな寝息が返って来たというべきだろうか。
雷は阿武隈の膝を枕にしたまま、夢の世界へと旅立っていた。
その寝顔は険のあるものでも、笑みを浮かべたものでもなく、力が抜けて弛緩した穏やかな表情だった。
阿武隈の膝枕が余程心地よかったのか。
それとも、やっと安心できる場所を得られたという安堵からのものか。
こんな安らかな寝顔なんて見せられたら、しっかりしなければと思わざるを得ないではないか。
きっと笑顔で居続けるのも疲れるのだろうなと、寝顔に掛かる髪を梳いてやると、雷の姿が艦娘としてのデフォルトの姿に、幼い少女の姿に幻視出来て。
彼女たちはどれだけ自分を取り落としてここまで来たのだろうかと、阿武隈は悲しい気持ちになった。
○
「もう……。ふたりとも、こんなところで寝ちゃって……」
食堂の椅子で静かな寝息を立てている雷と阿武隈にそっと毛布を掛けたまるゆは、困った顔で静かに笑んだ。
時刻はまだ朝の4時を回ったところ、この鎮守府で起きて活動しているのは、まだまるゆただひとりだった。
まるゆは昨夜眠れなかったわけではない。
誰よりも先に眠りに落ちてしまったが、その分目覚めるのが早かったのだ。
悩みが堂々めぐりして疲れてしまったのだろう、その分目覚めはすっきりとしたものだった。
自分はきっと本番に強いタイプなのだなとひとり思うまるゆは、立ち寄った食堂で雷と阿武隈が話しているのを偶然聞いてしまった。
ふたりが話しているところに入って行くことは出来ず、食堂の入り口に座り込んで、ふたりが静かになってから、ようやくそっと足を踏み入れることが出来た。
ふたりの話はすべて聞いていた。
雷がまるゆに対して過保護だった理由を知ったところで、それで今までの関係が変わることはないと思っている。
雷は人の面倒を見て自分が救われることに罪悪感を覚えていたようだが、まるゆ自身がそうしてもらって救われていたこともまた事実なのだ。
ただ、こうしてふたりの話を盗み聞きしてしまい、雷が本当にして欲しいことがなんなのかわかったので、今度は自分が膝枕してあげようと、まるゆは笑みを浮かべてそう考えるのだ。
自分がこんなことを言い出したら、雷は驚くだろうか。
それとも、人が変わったようにべったり甘えてくるだろうか。
考えれば考える程、その時が今から楽しみになってくる。
それに、阿武隈が考えていた支えとなることに、まるゆも思い至っていた。
今までは前線に出たい出たいとばかり考えていたが、それだけが己を果たすやり方ではないと自覚したのだ。
かの武藤提督代理が命を賭して自分を建造してくれたことに報いたいと、まるゆは強く思う。
その方法は何も前線に出て戦うだけではない。
後方で彼女たちの戦いを補助し、支え続けることこそ本懐なのではないのだろうかと、そう言った考えがようやく納得の形となったのだ。
自らが支えとなって、そして自らも滅ばずに有り続ける。
それが、自らがここにいる意義ではないかと、そう思うのだ。
昨晩まで悩んでいたのが嘘のように、今は気分が晴れ渡っていた。
これで外の景色が真っ青の空だったのならどんなに良かっただろう。
故人の遺品を故郷に、青空の下に送り届ける。
その行為が確かに意義あるものだと、まるゆは再確認する。
この場所が亡き人たちの思い出の場所であることは確かだが、この気の滅入るような環境では、きっと眠りも穏やかではいられないだろう。
だから、必ずこの島を出るのだ。
どれだけ時間がかかるかわからない。
前の定例会議で話していたように、脱出から攻略に舵を切る可能性だってある。
しかし、目標は変わらない。
彼らを故郷に送り届ける。
そして、この目で彼らの故郷を目の当たりにするという目的が出来たのだから。
「……まるゆ、頑張ります!」
窓の向こうへ、誰にともなく敬礼して見せる。
気のせいだろうか、見知った誰かが深い笑みで頷いてくれているような気がした。