敵と邂逅したまるゆは、急ぎ水上の皆へ警戒を促すため通信を入れた。
しかし、通信機からはノイズが響くだけで、水上とのやり取りが出来なくなっていた。
今まで好調過ぎるくらいだった通信機がここに来て不調など、どう考えても出来すぎてはいないか。
考えられる原因は姿を現した敵潜水級だ。
かの敵が何らかの手段を用いて水上との連絡を断ち切ったのだろう。
ならば、いち早く敵の存在を知らせなければならないが、どうしたものか。
手っ取り早くアクティブソナーを打って水上のパッシブに感知させれば良いのだが、そうした場合、敵がどう動くか予測出来なくなる。
尻尾を巻いて逃げてくれればひとまずこの場は御の字だが、しかしそうならなかった場合、まるゆ1隻では到底対処しきれない。
しかし、やらねばなるまい。
ここで水上の工程が滞れば、何処かでその帳尻合わせが起こるかもしれない。
結果、全滅とはいかなくとも、誰かが居なくなる可能性も出て来るのだ。
それは嫌だ。
水上の装備換装がどのくらいまで完了しているのかはわからないが、今のところ”ルサールカ“に目立った動きはない。
ならば、この状態を維持するのが最優先だ。
水上の工程が次に進むまでいい。
それまで、“ルサールカ”を足止めするのだ。
しかし、ところでと、まるゆは首を傾げる。
果たして向こうは、こちらの姿をどう認識しているのだろうか。
それが、敵と相対したまるゆが抱いた素朴な疑問だった。
海中は鈍色に濁りきって一寸先も見えぬほどの不可視環境だ。
はっきりと見えていたはずの青白い眼光も今や弱まり、ふと気を抜けば見失ってしまいかねない。
こんな環境下で活動するとなれば、視覚は退化しているのではないか、そう考える。
ならば、頼りになるのは視覚以外。
水の揺らぎや温度を感じ取る触覚と、血肉の香を嗅ぎ取る嗅覚や味覚、そしてソナーの代わりでもある聴覚か。
予測されるのは、それらすべて。
全身が生態艤装と言って過言ではない深海棲艦ならば、視覚以外のすべてを鋭敏にしていてもおかしくはないだろう。
しかし嗅覚や味覚かと考えて、まるゆが思い至るのはサメだ。
サメは怖いなあ……、などと調子外れなことを内心考えながら、まるゆは艤装のゴーグル横のスイッチをいくつか操作した。
まるゆの本来の艤装は、このゴーグルのみだ。
スクール水着は伊号潜水艦娘のものを着用して、両腕部には潜水艦の艦首を模した形状の水中用魚雷発射管を装備。
仮想スクリューの展開装置である脚部艤装は大型化して、予備の魚雷を搭載するための収納を増設。
そして背部艤装も伊号潜水艦のものを流用して、今回は甲標的・甲を1機マウントしている。
潜水艦にしてはかなり重装備な方だが、この装備はあくまで味方水上艦に随伴して、雷撃支援を行うためのものだ。
自らが艦隊戦の主役にはなれないだろうことをまるゆは自覚しているし、もはやそうなろうとも思っていない。
今すべきことは、こうして邂逅した敵潜水級をここに足止めして、味方に被害を出さないことだ。
そのためにまず、敵艦の位置を正確に把握し続ける。
艤装ゴーグルの機能は水中で動く物体の音を拾い、それを形に変えて視認出来るというものだ。
水中にて音のする方向へゴーグル越しの視線を向ければ、そこには動く魚の群れや巨大なクジラなどがコマ送りの形で映ることだろう。
水上の音をもある程度は拾えるので、訓練時に水面で立ち呆けている阿武隈の尻を狙うのはたいへん容易なことだった。
実戦となった今にして思えば、第二出撃場で訓練に明け暮れた日々は、本当に有意義だったなと強く頷く思いだ。
そして、この機能が最も効果を発揮するのは、この深海棲艦の支配海域だと、まるゆは考えている。
あらゆる生物の存在を許されない海域では、海中であっても等しくその通りであり、今や水中には艦娘か深海棲艦かのどちらかしか存在しえないのだ。
ノイズとなる音がないのならば、この濁りきった海中でも敵の姿をはっきりと視認できるはずだ。
そのはずだったのだが……。
「……しまった」
まるゆは早速敵の姿を見失っていた。
例え青白い眼光が消えたところで、このゴーグルを通せば敵の姿もはっきりと視認できるだろうと、艤装の機能を信頼しすぎていたようだ。
上方、水上へ向かう敵影は無い。
ならば下方か、もしくは背後に回り込もうとするだろうかと視線を前へ戻した時、まるゆは触れられるほど間近に迫った大きな咢を見た。
咄嗟に腕部艤装の作業用アームを展開して受け止めるが、衝突の勢いは衰えず、どんどん後方へと流されてゆく。
巨大な咢の持ち主は深海棲艦、その本体ではない。
形状としては水上を行く駆逐級に見えなくもないが、水中で活動するまるゆには、この異形の存在がどういったものか、直感で理解していた。
深海棲艦側の自立稼働型生態艤装。
その基礎は、まるゆ自らも搭載している甲標的を模したものだろう。
爛々と輝く青白い眼光を間近に捉え、先に見た二対の眼光の内ひとつが“これ”だったのだと確信する。
では、本体である“ルサールカ”はどこだ。
「いけない……!」
この敵自立稼働型は足止めだ。
“ルサールカ”はまるゆの動きを封じて、水上に対して仕掛けるための安全確保を行うつもりだったのだ。
悲鳴を上げる作業用アームで閉じようとする咢を強引に抑え、まるゆは急ぎ、水上の方へ視線を戻す。
そこに、仮想スクリューも展開せずに急浮上をかける人型を認めた瞬間、まるゆは即座にアクティブソナーを起動した。
まるゆを中心として全方位に放たれた緩い衝撃で、敵の咢が面食らって離れる。
その隙にと、背部艤装にマウントしていた甲標的をリリース、浮上する敵影へと突貫させた。
甲標的の航行距離はそれほど長くはなく、また魚雷の搭載数も2本と微々たるものだが、水上へ向かう敵の足止めにはなってくれるはずだ。
そうして“ルサールカ”の足止めを甲標的に任せ、まるゆ自らは腕部艤装の魚雷発射管ロックを解除。
巨大な咢の奥から魚雷の弾頭を覗かせる敵へと、攻撃を開始した。
1発目は敵の発射した魚雷と衝突して炸裂、衝撃波が海中を掻き回して、彼我の距離を大きく開ける。
咢の主を引きはがしたものの、それでもまだまだ近距離だと、まるゆは2発、3発と雷撃を続けるが、早くも体勢を立て直した敵には、もうかすりもしない。
敵自立稼働型は大型ながら素早く、そして小回りが利く。
一度距離を取られると、動きの鈍いまるゆの方が不利だ。
焦りと恐れで震える腕で敵自立稼働型を追い、こちらに突貫してくる時を待つ。
そうして敵をぎりぎりまで引き付けて、腕部艤装最後の4発目を発射する。
直撃こそしなかったものの、魚雷は敵の頭頂部付近で炸裂、咢を持つ巨体は眼光を彩っていた怪しげな燐光が消失した。
まるゆが変な声を上げて見守る中、敵自立稼働型は力を失ったかのように横倒しになり、ゆっくりと浮上を開始した。
倒したと言うよりは一時的に無力化したようなものだろうかと、まるゆは脚部艤装の収納から魚雷を装填しつつ、荒い息を整えて上方を確認する。
そこには甲標的と“ルサールカ”が接触した痕跡が“音”として残存している。
甲標的は魚雷2発を撃ち尽くした後“ルサールカ”の雷撃の余波を食らって出力が低下、緊急浮上して離脱している。
“ルサールカ”が水上に向かうのを見事阻止して、時間を稼いでくれたのだ。
水上、装備換装中だった阿武隈たちは作業を終えて、たった今移動を開始したところだ。
索敵を開始して、敵艦隊の元へと向かったのだろう。
自分の役割は果たせたのだと、まるゆは安堵と共に一息ついて、そして表情を引き締めてやや上方を見つめた。
上目使いでも見下す風でもなく、真正面から睨み付けるように。
視線の先には、敵がいた。
すらりと長い人型の姿。
長い髪を一纏めにしていて、右耳の近くには髪留めのような装飾が見える。
身に纏う衣装は海中に生じた揺らぎで裾を翻らせていて。
腰や背中から幾本か無造作に伸びたコードのような部位は恐らく、先の自立稼働型とリンクして何らかの機能を発揮するのだろう。
潜水棲姫、個別コード“ルサールカ”の姿だ。
こうして“ルサールカ”の姿を間近で目にしたのは自分が初めてなのだろうなと、まるゆは息を飲む。
10年前当時、丸一日中交戦状態だったと証言する響でさえ、この敵の姿を見ることは叶わなかったと言っていたからだ。
艤装のレコーダは起動状態だ。
この状況を生き延びて鎮守府に帰還出来れば……、例えそれが叶わなくとも艤装内のメモリが無事なら、正体不明だった海中の敵を検証出来るようになる。
それだけでも、こうして敵と鉢合わせた意味があった。
後はもう、この状況からどうにか生き延びるだけだ。
それが簡単ではないことくらい、まるゆも理解している。
あまりお利口ではない頭を痛めて、どうにか妙案をと表情を険しくした時、“ルサールカ”に動きがあった。
まるゆに背を向けて、そのまま移動を開始したのだ。
「なんで……?」
てっきり襲い掛かってくると思っていた予想が外れ、危機が去ろうとしていることに全身の緊張がほぐれてゆく思いだ。
しかし、どういうわけか、“ルサールカ”が遠ざかる程に、頭の中で何かががんがんと不快な音を響かせている。
所謂警鐘というものかなと頷いたまるゆは、ではどうしてそんなものが頭を割らんばかりに鳴り響いているのかを考える。
そしてその意味に気付き、自らも急いで移動を開始した。
敵は去ったのではなく、追跡を開始したのだ。
“ルサールカ”はまるゆの存在を危険ではないと断じて、移動を開始した阿武隈たちを追い掛けて行ったのだ。
●
仮想スクリューを展開して海中を行くまるゆの頭の中は、次から次へと湧いてくる疑問でいっぱいだった。
その中で最も比重が重かった考えは、自分は放って置かれたのか、それとも後回しにされたのかだ。
放って置かれたというのならば、まあ元々が戦闘向きの艦娘ではないとして認めることも出来ただろう。
しかし、直前にあちらの自立稼働型を行動不能に追いやっていることを、“ルサールカ”が知らないわけがない。
敵自立稼働型の撃退をカウントに入れていないのだとすれば、あの巨大な咢が浮いて行ったのは燃料切れにでもなったものだろうか。
そう思った矢先、後方から急速に迫り来る気配を感じて、慌てて身を捻ると同時、右の脚部擬装が巨大な顎に捕らえられた。
足元から這い上がってきた怖気を振り払うように脚部擬装をパージした直後、推力を生ずる大切な器官は飴細工のように噛み砕かれた。
敵の自律稼働型は動きを取り戻していたのだ。
あと少しでも判断が遅れていたら、右の膝から下を持っていかれていただろう。
敵自律稼働型はまるゆにそれ以上の攻撃を加えることなく、先行していた“ルサールカ”に合流、コードのような器官で互いを繋ぐ。
すると、“ルサールカ”の足裏に展開していた仮想スクリューが消失して、敵自律稼働型のスクリューが巨大化、駆動して海中に大きな揺らぎを生む。
そうして莫大な推進力を得た敵は、潜水級とは思えないほどの高速で潜航し、まるゆとの距離を大きく伸ばした。
その速度は魚雷にも匹敵するかと言わんばかりで、まるゆは遠ざかってゆく後ろ姿を睨むことしか出来ない。
あんなもの反則だと眉をひそめたまるゆは、しかし待てと、敵の姿に疑問する。
あれだけ巨大なスクリューの駆動音ならば、水上であっても敵の接近に気が付かない筈がはずがない、すぐにパッシブソナーに音を拾われて気付かれるはずだと。
その疑問の答えは敵がすぐに実践してくれた。
“ルサールカ”はある程度速度が乗ったところで自立稼働型の仮想スクリューを消失させ、自らは咢の主に体を寄せて水の抵抗を抑え、惰性航行となったのだ。
推力を停止したと言うのに速度がまったく衰えないのは、敵自律稼働型のデザインが水の抵抗を極限まで抑えるような設計されている故か。
これではスクリュー音がせずパッシブソナーが感知出来ない。
そして、敵がこの動きを取ったと言うことは、水上艦のソナーの探知範囲に入ったと言うこと。
水上の阿武隈たちを射程に入れる位置まで、猶予がないと言うことだ。
まるゆはすぐに動いた。
両腕の発射機構に装填済みの魚雷4本すべて、先行する“ルサールカ”目掛けて放ったのだ。
直撃が望めるほどの精度はないが、それでもどれか1本でも敵の近くで炸裂すれば、水上の味方に危機を知らせることが出来る。
果たしてまるゆの運が成せる技か、4本放った魚雷の内2本が“ルサールカ”の後方、高速潜航の余波で生じた揺らぎに当てられ、互いに接触、炸裂して海中に轟音と大きな揺らぎを生んだ。
驚いたような急な挙動で後方を確認しようとした“ルサールカ”はその直後、海上から降り注いだ爆雷の檻に囚われた。
魚雷が炸裂した時点で、“ルサールカ”の直上に誰かが居たのだ。
深度も正確に計算され投射された爆雷が炸裂するかと言うタイミングで、“ルサールカ”は下方に直角にターンして回避行動を取る。
それでも、炸裂の余波を受けてきりもみしながらの離脱だ。
直撃すればいくら深海棲艦でもひとたまりもなかったろうと考えると、効果の範囲外のまるゆでも息を飲む思いだ。
まるでサメのような挙動で直下へ消えて行った“ルサールカ”たちを見送ったまるゆは、水上の味方に意図が伝わったことに感涙して密かに拳を握った。
海上の味方が魚雷の炸裂を感知して、攻撃に転じてくれたのだ。
装備の関係上、対応したのは響だろうという確信がある。
全員で足並みを揃えて残ったのだろうかと不安になるが、通信器は未だノイズの嵐で水上との連絡が取れないままだ。
狙いを外され回避を選ばされた“ルサールカ”は、目標をまるゆに変更する。
潜航して体勢を整えた後、先のような加速を生じてまるゆに突貫してきたのだ。
今度はまるゆが慌てる番だ。
腕部の魚雷は使いきり、装填は間に合わない。
他に展開できる武装も搭載していない。
敵の突貫を回避しようにも、速度の差は歴然。
先ほど咄嗟に敵の咢を止めた時のようにすることは可能だろうが、今度は“ルサールカ”本体も一緒だ。
水上の味方はソナーでまるゆが追い付いてきていることを察知しているだろう。
そうすると爆雷による攻撃はもう出来ない。
“ルサールカ”が自律稼働型との接続を解除して、巨大な咢が再び迫り来る。
ひとまず受け止めればよいかなと、迎え撃つように両腕を広げたときだ。
水上の方から高速で突っ込んできた何かがまるゆと敵自律稼働型の間を横切り、敵の勢いを削いだ。
魚雷だ。
まるゆはたった今横切ったものの正体を理解し、そして水上を見上げる。
そこには、離脱したはずの甲標的が、全速力でこちらに向かって来る姿があった。
魚雷も燃料も尽きた甲標的を海上の阿武隈たちが回収し、応急処置と補給を施した後に送り出したのだと、そう思い至ることは容易だった。
まるゆの元まで辿り着いた甲標的の搭乗妖精たちは、通信途絶から不明だった水上の様子と阿武隈たちからの指示を伝えてくれる。
――海上にて妖精たちがまるゆの無事を知らせた後、阿武隈たちは敵艦隊の捜索を開始。
しかし、響だけは高速巡航形態を解除して速度を落とし、第一艦隊から離脱。
“ルサールカ”と対峙したまるゆをサポートするべく、単艦残ったのだ。
そうして響から提案されたのは、水上と海中で連携して“ルサールカ”を倒すための作戦だ。
現状のまるゆに実現可能なパターンを数十通りと、それを実行した場合の“ルサールカ”の反応パターンをもう数十通り。
全ては覚えきれないが、その中で一際興味を引く案に、まるゆの意識は釘付けとなった。
妖精たちの手短な説明を急いで臓腑へと流し込み、まるゆは了承の合図としてアクティブソナーを打って、敵への対応を再開した。
●
海中を引き裂くように突貫してくる敵自律稼働型。
その咢を、まるゆの予備魚雷を装填した甲標的が迎え撃つ。
交差、接触、そして雷撃を交えながら、異形の艤装を徐々に海面へと誘導してゆく。
敵を海面側へ誘導して、響の爆雷で仕留めようという、作戦の内の一案だ。
敵自立稼働型の方は甲標的に任せておいても大丈夫そうだと、まるゆはようやく、自分が対応している相手に全神経を集中する。
相対する“ルサールカ”が、一部の隙も見せてはくれないのだ。
最後の魚雷を腕部発射菅へ装填しようとするが、“ルサールカ”からの雷撃を回避するのがやっとで、その隙を与えてもらえない。
わかってはいたことだが、やはり艦としての性能に差ありすぎる。
海中という三次元の移動を可能とする領域で、敵艦はあまりにも素早く、そして縦横無尽だ。
攻撃を回避しながら海上へ誘導しようとしても、常に海底側の位置を取って遠間から仕掛けてくる。
爆雷の射程に誘導するという狙いは即座に看破されていて、しかし代案を思いつく頭も時間も、そして海上の響と連絡する手段もない。
時間をかけてどうにかなる問題でもないかと思い至ったまるゆは、響に作戦をもらった時からずっと頭を離れなかった案で行こうと決めた。
艤装の機能を操作して荷重軽減を数%カット、艤装本来の荷重による潜航を行う。
ふわりと、海中特有の浮遊感が消失し、金属の重さに引きずられるかのように、徐々に潜航速度が上がって行く。
海上へ引きずり出すのが駄目ならば、逆に海底に引き込んで活路を開く。
もしも“ルサールカ”が乗って来なくとも、背部艤装に搭載されたフロートで緊急浮上をかければいいし、まだ海面近くには甲標的が健在で、そして海上には響が構えている。
一定の速度で海面から遠ざかって行く感触にじわりと染み込むような恐怖を覚えながら、まるゆは一瞬だけ、“ルサールカ”と同じ深度で目が合った。
その表情に驚きや困惑の色を確かに見とめ、密かにしめたと拳を握る。
敵はこちらの行動に合理性を見つけられなかった。
性能差はあちらも把握しているだろうし、こうして“下”を取ったところでどうにかなるものか、という思いもあるだろう。たぶん、あるはずだ。
それがどういうわけか、自ら沈んでゆくこちらの姿を見て、敵は考えるはずだ。
――何を企んでいる? と。
初めて深海棲艦と邂逅したまるゆには、彼女たちが……、主に人型の姿をした深海棲艦たちが基本的にどう言った思考回路で動いているのか、わからない。
しかしそれでも、この“ルサールカ”は追ってくるのではないかと言う、根拠の薄い自信はあった。
少なくとも、まるゆのこの姿を自滅とみて海上を狙いにゆくようには思えない。
単艦で活動を続けてきた潜水艦ならば、恐ろしいまでに慎重に立ち回ってきたはずだという、半ば尊敬のような感情を、まるゆはこの敵に抱き始めているのだ。
だから、きっと追ってくる。
追ってきた時が勝負だ。
果たして“ルサールカ”は、自らも潜航を開始した。
まるゆよりも潜航速度を上げて、さらに“下”を取ろうと立ち回るのだ。
しめたと、まるゆはこの隙に最後の魚雷を装填、“ルサールカ”の位置を見失わないように視認を続けながら、アクティブソナーを打って下方の地形を再確認する。
地形だ。海底列山と呼ばれる鋭角な海底山脈が、はるか海底に横たわっているのだ。
30年前の地殻変動で水無月島が隆起したように、この近海の海底も大きく変動しているのだ。
深度100メートルに満たない地点に足場と成り得る地点をいくつか見付け、まるゆはひとつ頷いた。
減圧を始め諸々の制御を艤装に任せ、まるゆは“ルサールカ”の足跡を追い続ける。
まるゆが海底の地形を利用しようとしているのだと、“ルサールカ”は判断したのだろう。
先んじて海底に到達した“ルサールカ”は、隆起した岩盤に背中を預けるように潜航し、降りてくるまるゆに雷撃の照準を合わせる。
しかし、今回ばかりはまるゆの雷撃の方が一足早かった。
“ルサールカ”の進行方向目がけて放たれた魚雷は岩盤を直撃し炸裂、多大な岩と砂とを巻き上げる。
先のように直角にターンして爆破の余波を危なげなく回避した“ルサールカ”は、まるゆがその巻き上がった砂煙の中に突っ込んで行く様に思わずと言った風に動きを止めた。
いくら岩や砂を巻き上げたところで“ルサールカ”の動きに変わりはない。
巻き上がった岩や砂の中からより大きな音を感知して、そこに待機していた魚雷を撃ちこむのだ。
放たれ砂煙を割いて潜航した魚雷はしかし、“ルサールカ”の見立てよりも遠い位置で炸裂した。
次の魚雷を用意しつつも、“ルサールカ”の挙動はかすかに鈍りを見せた。
当てが外れたことに、何らかの不安要素を見い出したのだろう。
それでもやることに変わりはないとばかりに、物音のする地点へ雷撃を続けるが、まるゆに直撃した様子はない。
物音がするのは確実で、まるゆがそこに居て動いているのは確かなのだ。
――種を明かせば、“ルサールカ”は当然、水中では視覚が使えていない。
聴覚と触覚のみで広大な海中の世界を把握して活動しているのだ。
よって、巻き上がった岩や砂には目くらましの意味などない。
あくまで目くらましとしては……。
幾度目かの物音で、“ルサールカ”はようやく雷撃の手を止める。
音が違う事に気が付いたのだ。
まるゆの艤装の駆動音、仮想スクリューの音ではない。
艤装の音ではなく、砕け舞い上がった岩がぶつかる音、故意に岩と岩とをぶつける音。
まるゆが艤装の作業用アームを使って、巻き上がった岩に、そこらの岩を打ち付ける音だ。
魚雷を無駄撃ちさせられたのだと、“ルサールカ”は気付く。
深海棲艦が用いる燃料や、砲弾、魚雷といったものは、その体内で自動精製される。
燃料は4割を切ったところで戦闘行動を放棄、弾数は2割程が一般的なところだろうか。
個体差はあるものの、持てるすべてを空っぽにしてまで戦う艦など存在しない。
少なくとも、姫級や鬼級といった、下級種に指令を出すような個体の命令がない限りは。
そして、“ルサールカ”は姫級。上位種から命令されることなく、自ら思考して活動している。
当然、魚雷の弾数管理も自ら行っていて、戦闘の続行・放棄の判断をも自らの領分の内だ。
“ルサールカ”の魚雷、その残数はすでに戦闘放棄する領域をはるかに下回っている。
燃料もすでに危険域に達していて、本来ならば戦闘放棄している頃であるはずだった。
戦闘を放棄しなかったのは、10年間この海域に留まり、戦闘行動を取らなかったがゆえに感触が鈍ったせいか。
あるいは、同じ海中と言う領域での戦闘になってしまったため、――まるゆが離脱せずに食い付いて来たためか。
こうしていつの間にか自らが追い詰められていることを自覚した“ルサールカ”は、砂煙の中から何かが飛び出してくる様を感知する。
また岩なのかと、“ルサールカ”はそう判断しただろう。
まるゆのように音を映像に変換出来ない“ルサールカ”には判別が付かないのだ。
飛び出して来たものが岩ではなく、まるゆが装備していた腕部艤装、駆動を完全に停止したものだったとしても。
速度は緩やかで回避は容易、そう判断した“ルサールカ”は直後、腕部艤装がもうひとつ、高速で突っ込んで来る様を見る。
迫る緩急ふたつの腕部艤装に気を取られた直後、同じように高速で突っ込んで来たまるゆに、“ルサールカ”の対応は大きく遅れる。
何より突っ込んで来たまるゆが両腕を前に突きだし、ゴーグル奥の双眸は固く閉じられ「ふわあああ!」と悲鳴を挙げながらの突貫で、もう自棄になっているような雰囲気を“ルサールカ”も感じ取れた程だ。
“ルサールカ”の回避も左右に退けるようなものではなく、思わず背を向けての全力逃走の形となってしまい、それが命運を分けた。
“ルサールカ”の速度が乗る前に、その背から伸びたコード状の部位を、まるゆがむんずとつかんだのだ。
最高速度に達する前とは言え、それなりにスピードが乗った状態で急制動をかけられれば体勢は大きく崩れ、立て直すまでにわずかな間が生ずる。
まるゆはその隙に、艤装を解除してフリーになった両腕を“ルサールカ”の首に巻き付けた。
そうして仕掛けるのは、雷仕込みのチョークスリーパー。
決して解けぬようにと全力を込めて、左足のみの仮想スクリューで直進。
海底に身を擦り付けるようにして目指す場所は、数十メートル先の海溝だ。
潜航時にソナーで確認していた海溝へ誘導する所まではうまく行った。
魚雷を無駄撃ちさせて、こうして接触距離まで接近することも。
ここまでくればもう己の領分だと、まるゆは確信している。
“ルサールカ”を掴んだまま安全深度を超過して、水圧で押し潰す。
「荷重軽減100%カット! ――急速、潜航!」
海溝の闇の奥へと潜航する。
我慢比べの時間だ。
●
海底に頭頂を向けて、真っ逆さまに落ちてゆく。
艤装の荷重軽減をすべて解除したとはいえ、身に残る艤装は背部と左脚部だけであり、重量としては先ほどの潜航時よりもむしろ軽くなってしまった程だ。
加えて推進力も半減しているし、燃料の残りもわずかだ。
しかし、燃料の残りが心許ないのは向こうも同じだと、まるゆは腕に込める力を緩めないようにと必死になる。
チョークをかけて拘束している“ルサールカ”は、まるゆの腕の中で暴れ続けているのだ。
懸念は深度か燃料か、それともエアーの残量か。
死に物狂いで暴れ続ける“ルサールカ”に、まるゆはこの手段が正解だったのだと確信を得る。
しかし、この姿勢を維持し続けるには限界がある。
“ルサールカ”の体表と接触しているまるゆ腕、その皮膚がずたずたに引き裂かれ、出血が始まったのだ。
深海棲艦の体表は所謂サメ肌というもので、鑢状になっている肌は剃刀と同等以上の鋭さを持つ。
加えて、もがく“ルサールカ”がまるゆの腕に爪指を立ててひっかき続けるため、両腕の体積が時間と共に確実に減って行くのだ。
チョークが解けることはないが、それよりも腕が引き裂かれ、断たれる可能性が出てきた。
肉体へのダメージはそれだけでは済まない。
自らも仮想スクリューを展開した“ルサールカ”は、強引に進行方向を曲げて海溝の壁にまるゆを叩き付け、押し付け擦り付けるように力をかけ続ける。
背部艤装への深刻なダメージをゴーグルの表示が知らせ、徐々に機能を損なってゆく。
喉の奥から血の香が昇って来ているのは、艤装のどこかが破損して、破片が体内に入り込んだからか。
自らの限界が近いことを自覚しながらも、まるゆは早く落ちろと念じ続け、深くへと行く。
――勝負が決したのは、まるゆにとっての限界深度を超過して、しばらく経った頃だ。
“ルサールカ”の体から力みが消えて、まるゆの拘束を引きはがそうともがいていた腕が、力を失ったのだ。
仮想スクリューも消失してはいるが、まるゆはまだ拘束を解けない。
自立稼働型が死んだふりを決め込んでいたこともあり、生死の判定に確信が持てないのだ。
接触した肌はずたずたに裂けて、一番深い裂傷は骨まで達しているが、それでも“ルサールカ”の音を伝えてくれる。
生態艤装の機能はそのほとんどを停止して、徐々に心音の間隔も空いてゆく。
まだ息はあるものの、この深度から急速浮上するだけの燃料も時間も、もう“ルサールカ”には残されていない。
そう判断したまるゆは、ゆっくりと“ルサールカ”の首に回した腕を解いた。
ゆっくりと滑り落ちるように、脱力した“ルサールカ”の体が海溝に飲み込まれてゆく。
落ちてゆく敵を、まるゆは息を荒げて見送る。
怪しげな青白い燐光はもう弱々しく明滅するだけで、あれだけ殺気を放っていた眼光も消えてしまいそうで。
その敵の目が、まるで泣いているかのように見えてしまい、まるゆは思わず手を伸ばしてしまった。
彼女を抱えて浮上して、皆になんて言われるだろうか。
例え敵でも助けたいと言った皆の言葉に嘘偽りがあるとは思えなかったが、それでもこの仇敵を前にしてはどういった顔をするのか、まるゆにはわからない。
しかしそれでも、助けたいとまるゆは思ってしまった。
彼女が海の底で死にたいと思っているかどうかなど知らないし、陸に挙げられることを屈辱と思うかもしれない。
「でも、こんな暗くて寒いところに、おいていけない……!」
海中にひとり取り残されるのはきっと寂しいはずだ。
少なくとも自分ならと、まるゆはそう思う。
だから、助けるのだ。
力を失った“ルサールカ”の腕は、海上の光を求めるかのように伸ばされている。
自分の掌がずたずたなのも厭わず、その手を掴む。
力強く、決して離さないように。
そして、残った背部艤装と脚部艤装をパージ。
艤装核を含め、最低限の生命維持機能を残して身軽になり、緊急浮上用のフロートを展開した。
浮き輪状のフロートが急速に膨張し、まるゆと“ルサールカ”の体を海上へと引っ張り上げる。
体内の圧力の調整は艤装に任せ、まるゆは手を離さず海上を睨み続ける。
険のあった表情はしかし、耳に届く音で徐々に明るくなってゆく。
“ルサールカ”の機能が停止しかかっているせいか、通信が回復して鎮守府や響たちと連絡が取れるようになったのだ。
阿武隈と暁が無事に敵空母を発見、撃破したこと。
響と合流した雷がアンカーを下ろし目印として、そこまで辿り着けば、後は水上の方で引っ張り上げてくれるらしいこと。
そして鎮守府からは提督や電がまるゆを気遣う声が、次々に届いてくる。
皆無事なのだと、嬉しくなって涙ぐんで、早く海上へと手を伸ばしてアクティブソナーを打ったまるゆは、件のアンカーをゴーグル越しの視界に捕らえる。
これで帰れる。
そうして一安心といった心地になった時だ。
背部艤装が致命的な音を立てて、フロートの浮力が消失した。
海溝の壁に激突した時に負ったダメージは思いの他深刻だったようで、ゴーグルに送られてくる損害情報はどれも絶望的なものだ。
ここまで来たのにと、焦りを帯びて必死に手を伸ばす先、真っ赤な警告表示で埋め尽くされていたまるゆの視界にひびが入った。
圧の調整を行っていた機能が破損して、水圧が一気にまるゆの体を押し潰したのだ。
肺が潰れ、体内に残っていた空気全てを吐き出しながら、せめて彼女だけはと“ルサールカ”を引き上げようとするが、握っていた手の感触すらもう怪しくなっている。
――意識を手放したまるゆの体は、“ルサールカ”と共に沈降を開始した。