控えめなノックに雷が応えると、扉の向こうで「はわわわ!」と困ったような声が聞こえてきた。
ノックに返事があったにも関わらず、扉を開けて入って来ないのは何故だろう。
青年が訝しげな表情で開かない扉を見つめていると、雷が「あ……」と何かに気が付いたようだ。
椅子から立ち上がってスタスタ歩いて行くと、扉を開けて外に居た人物を招き入れた。
「やっぱり! 両手が塞がってたんじゃない!」
「ご、ごめんなさいなのです……」
雷に招き入れられて医務室に入ってきた人物は、雷と瓜二つの少女だった。
暗い鳶色の髪をうなじの辺りでひとまとめにした髪型で、目元はやさしく緩んでいる。
袖を落としたセーラー服の上からピンク色のエプロンを身につけた姿は、主婦というよりは母のお手伝いをする女子高生といった風だ。
大きめの漆塗りのお盆を両手で持っていて、その上には小さな土鍋が湯気を上げていた。
「紹介するわ。妹艦の
「あの、始めまして。電です……。あの、お兄さんは、体調大丈夫ですか? お粥つくってきたのですが、食べられそうですか?」
問われた青年は、そこで自分が空腹かどうかにようやく意識が向く。
この島に漂着する前の記憶はないが、少なくとも1日以上は腹の中に何も入れていないはずだ。
胃袋は収縮しきっているのか、空腹は感じない。
ただ、体を動かすのに必要なエネルギーが足りないことは、先ほど咄嗟に体を動かせなかったときに自覚している。
早く何か食べなければという思いはあった。
それよりも、青年には気になることがあった。
先ほどのノックは電のもので間違いないだろう。
しかし、彼女の両手は土鍋を乗せたお盆を持っているので、塞がっている。
あの状態で、どうやってノックを?
足だろうか。
青年の視線に気付いた電が苦笑いしながら言うには……、
「あの、その……。おデコで」
「おデコで!?」
……額で、扉をノックしたのだという。
よく見れば、確かに電の額は少し赤くなっているのが見て取れた。
青年は絶句する。
どうやったら頭突きであんな控えめなノックの音が出せるのだろうか。
それよりも、扉の前で両手が塞がった電が、どうやってノックしようかと「はわわわ」しつつ、結局額でゴツンとやったのだろうかと想像すると、どこか微笑ましい気持ちになってくる。
「……あの、それで、食べられますか……?」
「食べます! わざわざありがとう」
青年のありがとうに照れた様子の電は、はにかみ笑いでベッドの方まで歩いてくる。
しかし、どういった異常現象か、電は何も障害物の無い部屋の中で足をもつれさせ、勢いよく前のめりに倒れ込んだ。
ちょうど、青年の鳩尾の辺りにタックルする塩梅になり、思わぬ衝撃を浴びた青年はくぐもった悲鳴を漏らした。
事態はこれで終わらない。
青年の上に倒れ込んだ電の手からは、土鍋がお盆ごと消え去っている。
転んだ時に放り出してしまったのだろう。
そして、ここまでの事が起これば、青年にも何となく、この先の結末というものが予測できた。
電の手を離れて宙高くに舞ったお盆と土鍋。
それがゆっくりと回転しながら、落ちてくる。
見上げる青年の顔目がけて。
確か、湯気が上がっていたよなと、青年は落下を始めた土鍋をスローモーションの視界で見つめていた。
熱いのがくるか。
痛いのがくるか。
それとも、どっちもか。
ゆるやかに覚悟を決めた青年の顔面へ、しかし土鍋も粥も落ちては来なかった。
これまたスタスタと歩いて来た雷が、まずお盆をキャッチ、続いて土鍋をキャッチ、そして宙を舞った粥がその中に納まって蓋が閉まり、難なく緊急事態を回避してしまった。
見事な手際、というよりはもう手慣れてしまったという印象を受ける。
彼女たちにとっては日常茶飯事なのだろう。
「ごめんねー。電はこんなだから、危ない現場を任せられないの。医療とか、機械とか」
「ご、ごめんなさいなのです……!」
青年の腹の上で「はわわわ」と鳴いている電を宥め、雷はお盆を傍らにおく。
危機が遠ざかった青年はと言えば、今さら心臓が早鐘を打ち始めていた。
しかし、どういうわけか、鼓動の大きさがおかしい。
何故こんなにドキドキしているのだろう。
まさか……。
青年はハッと何かに気付いたかのように身を強張らせ、まだ腹の上からどこうとしない(できないらしい)電を見つめる。
困ったように眉を寄せた瞳は涙ぐんでいて、見つめているとどうにも胸がざわつくのだ。
「……もしかして。これが、恋なのか……?」
ぼそりと呟いた青年は、次第に顔に熱が上がってくるのを感じ……、
「もー、電! 早くどきなさいったら! お兄さん蘇生させるとき暁が胸骨圧迫やりすぎて、胸骨にちょっとヒビが入ってるんだから、安静にしてなきゃ駄目なの!」
……などと雷が言ったことで、青年は自分の胸騒ぎがなんなのかを正しく理解した。
蘇生の際に圧迫されて脆くなった胸骨の軋みと、どこでも転べる危なっかしい電がいつ飛び込んでくるかわからないスリル。
それが、青年が感じた胸騒ぎ。
危機感、本能のエマージェンシーコールだ。
恋では、なかったのだ……。
早とちりして恋とか言っちゃった自分に恥ずかしくなって赤面する青年の様子に、雷電は顔を見合わせる。
電の方は本気で青年のことを心配していたが、雷は青年の心中を大よそ察していて、ふたりから一歩離れてニヤニヤと綻びそうになる顔を押さえていた。
○
「それじゃ、体起こすわね? 痛かったら言ってちょうだい」
雷に介添えされて、青年はベッドの上で状態を起こした。
食事をするために、仰向けの体勢から身を起こす必要があったのだが、その時になってようやく青年は自分が下着一枚纏っていないことに気付いた。
全身にびっしり汗をかいている感覚もだんだんフィードバックされてくるし、何よりシーツに隠れた下半身の一部が元気よく起立したままであるのにも今さら気付いた。
なんたることか。
壮絶な顔で、青年は雷電の表情を盗み見る。
雷の方は「わかってるわ。大丈夫よ!」と、慈愛と好奇心が合わさったような、聖母の笑みで見つめ返してくる。
もう一方の電の方はというと、困ったような顔を真っ赤にして、そわそわと落ち着きがない。
ちらちらと、青年とシーツの隆起に交互に視線を送っていて、気まずさや好奇心といった感情で複雑な気持ちになっているのだろう。
青年と電が気まずい思いをする中、ひとり勝ち状態の雷は鼻歌を歌いながらお盆に乗った土鍋を開ける。
「……電、どっちがいい?」
「はい? なにが……」
「お兄さんに、ふーふーあーんして食べさせるのと。お兄さんの着替え持ってくるの」
ぎくりと固まった電は、その場であわわわと顔を赤くしながら「き、着替えを取ってくるのです……!」と言って、医務室を飛び出して行った。
遠ざかる足音が時々、壁にぶつかったり躓いて転んだりする音になるところを耳にすると、そうとう気が動転しているのだなと、青年は申し訳ない気持ちになる。
「気に触ったらごめんね? 電に悪気はないの。ただ、こうして普通に話せる人間の男の人って、すごく久しぶりだから……。元々人見知りする子では、あるのだけれど……」
雷は独り言を語るように言うと、レンゲで土鍋から粥をすくって、青年の口元まで持っていく。
「ふーふーは、いる?」
「……い、いらないと思うよ」
緊張したように口調をどもらせた青年は差し出されたレンゲにかぶりつく。
熱かった。
やんごとなき灼熱だった。
一度宙に舞って空気を含んでいるのだから、少しは冷めていると高を括っていた。
舌と上顎に灼熱を感じながら口を閉じることが出来ないでいると、雷が苦笑いしながらも水の入ったコップを持ってきた。
「これでも、ふーふーいらない?」
「……お、お願いします」
○
食べ終えてしばらくしても口の中の痛みは引かなかった。
これはもうしばらく尾を引くだろうなと消沈する青年は、ベッドに身を横たえることなく電の帰りを待っていた。
これから着替えるというのに横になってしまっては面倒だ。
それに食べてすぐ横になると牛になるとも言う。
こういう言葉は覚えているのに何故思い出だけすっぽりと抜け落ちてしまったのかと、青年はため息交じりに窓の外を見る。
空は灰色の曇天で、遠くに稲光が見え隠れする。
海は鉛色の凪で、浜辺付近にならないと波の行き来が起こらない。
本当に普通ではないところに来てしまったようだ。
空も海も本来は青い色をしていると知識は告げているが、それを自らの目で見た“記憶”は抜け落ちてしまっている。
本物の空と海を、忘れてしまっているのだ。
「窓の外が気になる?」
食器を片づけながら聞いてくる雷に、青年はなんと返したものかと小さく唸る。
「……空の色も、海の色も、元はこんな色じゃなかった、ってことはわかるんだけど、どうだったか思い出せないんだ。確か青い色をしていたって、知識のうえではわかるんだけど、青い空と青い海が想像できない……」
「そっかあ……。私たちも、もう10年も青い海を見ていないかな……」
「もう一度、青い海が見たい?」
「そりゃあねえ……。でも、私たちが見たいって言うよりは、見せてあげたい人がいる、って感じかしら?」
雷たち艦娘の姉妹たち以外に、青い海を見せてあげたい人がいる。
自分のことではないだろうなと内心呟いた青年は、では、それは誰だろうかと黙考する。
この島の外に居る人物だろうかとも思ったが、そもそも外界では空も海も普通に青い色をしているはずだから違うのだろう。
窓の外の灰色を見て悩む青年だったが、その疑問は後々氷解することになる。
やがて電が着替えを持って戻ってくると、それまで青年を見てしんみりしたりニヤニヤしていた雷が、ふと表情を消した。
着替えを持ってきた電もどこか気落ちしたような表情をしていて、青年は自分がわるいことをしているような気持ちになってくる。
「あの、これ……。サイズはたぶん、ちょっと小さいと思います……」
そうして着替えを置いて、雷と電は医務室を出ていった。
ご丁寧に下着まで用意してあり、電が言うとおり、確かにサイズは小さ目だ。
簡素なシャツとズボンで、丈が足りず七部丈のようになってしまっているのだ。
青年がもう少し筋肉質だったら腕も腿も入らなかったかもしれない。
「……デザインというか、布地自体が結構古いのかな……」
10年ものあいだ補給がなかったというのだから、この服も10年前のものなのだろうか。
だとしたら、ものすごく大事に保管されていたのだなと、青年は匂いや着心地の感触からそう印象を受けた。
襟元や袖口には糊が効いていて、ほつれも繕われている。
後に青年は、この服の持ち主が、10年前に亡くなった提督のものであったことを知る。
そして、雷が青い空と海を見せたかった相手というのも、その提督だったのだと……。