“ルサールカ”と呼ばれていた深海棲艦の眼に飛び込んで来たのは、暗い夜空を明るく覆う分厚い雲の壁だった。
自らが海面に浮いて漂っているのだと自覚した“ルサールカ”は、かつて自らが伊168と呼ばれる潜水艦の艦娘であったことを、おぼろげに思い出していた。
しかし、その記憶はもう、かつて艦娘であったというだけの記憶だ。
体が深海棲艦のものへと変貌を遂げた時に、多くの怨嗟とも言うべき感情と記憶とに自我を上書きされてしまい、もう自分が伊168と呼ばれた艦娘だとは思えなくなってしまったのだ。
名前の無い深海棲艦。
あの鎮守府の艦娘たちならば、自分に個別コードを着けていてもおかしくはないだろうなと、思考能力を取り戻した頭でそう考える。
かつての怨敵と同じ“ルサールカ”なのか、それともまた別の名前を付けられたのかは定かではない。
彼女にとって自分の名前など、最早どうでも良いことなのだから。
勢い良く上体を起こし、硬質な海面にぺたんと座り込む。
彼女の周囲には、海中で対峙したあの艦娘の艤装と思わしき鋼が幾つか浮かんでいる。
どうやって浮力を得たのかは定かではないが、まあ自分がこうして海上に上がって来たのだから、こうした金属の類も浮上するのだろう。
そう、取り留めのない考えことを考え、散らばった艤装の類を見渡していると、彼女の眼に止まるものがあった。
ドラム缶を模した耐水耐圧性の収納ケース。サイズはせいぜい握りこぶし3つ分ほどだ。
しばらくケースを弄って開口部を見つけると、爪でひっかけて器用に開く。
中に収納されていたのは戦闘糧食、雷が出撃の前の晩に握っていたおにぎりが3つだ。
息を飲んだように一度身を引いた彼女は、ひとつ、躊躇うように手に取って口に食む。
すると、鮮やかな記憶が蘇り、涙があふれてきた。
蘇った記憶は、かつて艦娘であった頃の記憶だ。
任務の合間、港に仲間たちと並んで腰を下ろして、おにぎりを食べていた記憶。
当時の戦況も辛く厳しいものだったが、皆確かに笑っていたし、誰も弱音を吐かなかった。
深海棲艦の体となった今、もう味覚は機能していないが、あの時食べたおにぎりの味は鮮明に思い出せるのだ。
米粒ひとつ残さず胃の中に収めた彼女は、涙を拭い鼻をすすって、もう一度周囲を見渡す。
あの時、あの艦娘が緊急浮上のためにほとんどすべての艤装をパージしたのならば、うっかり“あれ”も一緒に脱落していてもおかしくはない。
探せば、すぐにそれを見付けることが出来た。
艦娘が身に帯びる艤装の中で、最も重要ともいえるパーツ。羅針盤だ。
艦娘の羅針盤は深海棲艦の支配海域下にあって、唯一正確な方角を指し示す。
この羅針盤が指し示しているのは、水無月島鎮守府の方角と、そして北だ。
投棄された艤装と言うこともあり、鎮守府側で設定がリセットされる可能性もあったが、その時はその時だと、彼女は深く考え込むことはない。
この羅針盤を、然るべき存在の下へと届ける。
それが、自らが再びこうして、黄泉から送り返された意味なのだと、彼女はそう自覚した。
本来ならば、あの時撃沈された自分は浮上すること無く黒い泡となって消えて、そして自分を沈めたあの艦娘が深き場所へと落ちるはずだった。
それが成されなかったということは、あの艦娘は何らかの方法で深海棲艦の呪いに打ち勝ったということだ。
海中へ没するだけとなったこの体は、ひとりでに彼女を助けるようにと動いた。
ならば、彼女たちに賭けてみよう。
もしかしたら、この争いが終わる日をこの目で、人と同等にまで復帰したこの眼で見ることが出来るかもしれない。
それに、あの焼けるように熱い掌の感触は、未だに手に残ったままなのだ。
向かうは北。北方海域。
意識を向ければ、頭を割らんばかりの雑多な記憶と感情が濁流のように押し寄せて来る。
それをひとつひとつ洗い出し、人類側にとって、そして艦娘側に対して最も友好的であったあの深海棲艦の存在を探り当てる。
今現在の彼女が、どういう考えでこの海面を踏みしめているのかは定かではない。
しかしそれでも、会って伝えるだけの価値はあるはずだ。
そうして彼女は、名前のない深海棲艦となった彼女は、北方海域を目指し単独で移動を開始した。
第2章『雲の上の世界は』完
第3章『想い人の似姿』へ、つづく