孤島の六駆   作:安楽

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3話:

 夜の砂浜。流木などを材料としてつくられたベンチに座る暁は、自らの左手の指に光る指輪を複雑な気持ちで空にかざす。

 月など見えようはずもない、敵支配海域の夜だ。

 どうあってもロマンチックな雰囲気にはならないのが自分達らしいと、自然と苦笑気味に口角が持ち上がる。

 そうしてひとりの世界に浸っていると、傍らに座る響が肘で脇腹を小突いてくるものだから、いつかのように変な声が出てしまう。

 拳を振り上げて威嚇するのもほどほどに。何せ隣りには自分たちの司令官もいるのだから。

 

 夜の浜辺に提督と、暁型の四姉妹が並んで座り。

 思い出すのはこの島の鎮守府が再稼働した時のことだ。

 提督である彼が、この浜辺に流れ着いて、もうすぐ1年になる。

 たった1年でここまで来て、たった1年でここまで来てしまった。

 当初は断念せざるを得なかった脱出作戦も、救援のお陰でこうして叶おうとしている。

 

 島の鎮守府に取り残され、脱出を望んでいた暁型の姉妹たちと。

 彼女たちのために提督となった、造られた人である彼と。

 互いの行先は、ここで分かれることとなる。

 

 暁型の四姉妹は明日、この島を去る。

 暁を始め、多くの艦娘が自分は残るのだと、その正当性を声高に主張したが、提督はそれらすべてをやんわりと説き伏せて荷物を纏めさせた。

 提督と共に島に残るのは榛名と霧島と、建造から日が浅い酒匂、漣、卯月、それに格納領域を搭載した間宮。

 そして熱田からの救援である非戦装備の明石と大淀。

 戦力として運用可能なのは実質5隻。

 空母の艦娘であり、建造されて日も浅いと主張する飛龍が最後まで食い下がったが、それも先日ようやく説き伏せることが出来た。

 圧倒的な航空戦力を保持する敵艦隊に対して、空母たった1隻残ったところで戦力にはならないと判断されたのだ。

 

 委細合切承知で納得といった心地の艦娘は1隻も居なかったが、それでも渋々、あるいは気持ちを切り替えて荷造りに勤しんでいた。

 清霜などは「お土産たくさん持ってきますからね?」と、提督にるるぶを押し付けて来て、どこの地方のどんなものが良いのかと問い詰めてくるしで、それを見付けた他の艦娘たちがこぞって荷造りを放り出して手出し口出しして来るもので、霞が常時お冠だ。

 その荷造りも、もう3日も前に完了して、大半はすでに伊勢型に運び込まれている。

 あとは明日の旅立ちを待って、各々自由時間だ。

 

「そうは言っても、皆平常運転なのですよ。トレーニングしたり、読書やゲーム、艤装の点検、それと、司令官さんと一緒にいることも」

 

 ここ最近までは資料整理で忙殺されていた電もすっかり手が空いてしまい、暇を持て余して鎮守府内を彷徨っていたそうだ。

 古巣の調理場はすでに人手がいらず、かと言って、どこへ行っても自分のスペースが空いていない気がして、しょんぼり執務室に戻って来て。

 

「それで、司令官さんと一緒に鎮守府を回ると、どうしてか前と違った見方になるのですよね。どうしてでしょうね?」

「おやおや、いつの間にそんなあざとい言い回しで司令官の気を引くようになったんだい? 姉さん悲しいよ」

 

 響が口元を手で覆い流し目で煽って、電はしどろもどろに立ち上がって。

 拳握っての非力な打撃はしかし、盾にされた暁にすべて吸い込まれる。

 

 それを眺める提督の表情は穏やかだが、眉が寂しげに伏せられている。

 しばらく彼女たちとはお別れなのだ。この島で目覚めてから、いついかなる時でも共にいた彼女たちとの別れだ。

 しかし、これは今生の別れではない。

 

「皆ね、隠し持ってたお菓子とか日用品以外は、ほとんど自分の部屋に残して行くみたい」

 

 転属希望先はここなのだと、雷が告げる。

 そしてちゃっかりと、電が姉に反旗を翻して立ち上がった隙に、提督の隣りに座り直す。

 提督が「みんな?」と問えば、「ほぼほぼ」と肩を竦めて見せて。

 

「ほとんどはこの島に帰ってくるつもりみたいだけれど、時雨なんかは命令無視して脱走した件がどうなるかまだわからないし、夕張は本部の工廠に戻るよう話が来ている見たい。高雄や潮みたいに救助した娘は、一度本来の所属に戻される見たい。青葉は……、ちょっとわからないわね。元々自分の物を増やす娘じゃなかったし、現像室の鍵も漣たちに預けちゃったし。それに鳳翔は……」

 

 指折り数え述べる雷に、提督は彼女たちとも再会出来ればなと、淡い希望を想う。

 そんなしんみりした気持ちをひっぱたくように、雷の言葉は提督の安否を気遣うものへと続く。

 

「一応、医務室は大淀に引き継いだけれど、大丈夫? 主治医が変わるとそれがストレスになったりするっていうし……。大淀を信頼していないわけじゃないのよ? 彼女も20年来のベテランだもの。だけれど……」

「雷ちゃんみたいに触診って言って司令官さんの体弄らないので大丈夫だと電は思うのです」

「司令官が寝ている間にとても口では言えないようなことをするような妹艦よりはだいぶ、ねえ?」

 

 先ほどまでいがみ合っていた響と電が結託するものだから、今度は雷が立ち上がって拳を振り回す番だ。

 そうして先ほど同様に盾にされて打撃を一身にその身に受ける暁が、ついに爆発した。

 纏わり着く妹たちを弾き飛ばすと、指輪の輝く左手をかざして威嚇する。

 するとまあ、響以下は仰け反ったり苦しげに呻いたりするものだから、気を良くした暁がかざした左手を右から左へ薙ぐように振ると、妹たちどころか提督まで一緒になって薙ぎ払われた。

 電が「指輪の魔力なのです!」などと悲鳴を上げて、吹っ飛びついでの後方宙返りに失敗して腰を痛めた響に覆いかぶさって追撃した。

 

 

 ○

 

 

 入渠中の榛名は突然、桃色の湯船から立ち上がり、指輪の輝く左手を虚空にかざした。

 共に湯船に浸かっていたものたちがどういうわけか眩しそうに身を仰け反らせるなか、榛名は体をうねらせ掛け声まで気合を入れて、周囲を左手で薙ぎ払った。

 居合わせたものたちは洗い場の面々までがノリノリで薙ぎ払われてゆく中、飛んで行った眼鏡を探してあたふたする霧島が何事かと、ほぼ双子の姉を問い詰める。

 

「何なの!? 自慢!? 嫌味!? 自己主張!?」

「いえ、その。やらなければならない気がして……」

 

 

 ○

 

 

「どうしたの霞ちゃ……、わあ! 眩しい! 指輪眩しいよ! どうしたの! 自慢なの!? 嫌味なの!? 自己主張なの霞ちゃん!?」

「逃げろ、逃げろ清霜! 霞がご乱心だ! 指輪の魔力であたいらを薙ぎ払う気なんだ!」

「うっさいわね! やらなきゃいけない気がしたのよ!」

 

 

 ○

 

 

 絶大な力を発揮して妹たちを制圧する暁を前に、「魔力ねえ」と、提督は複雑な心境になる。

 榛名や霞などもその指にしている、この指輪。

 白落、深海棲艦化の侵攻を食い止め、艦娘の存在を保ったまま“それ以上の力”を発揮させるための安全装置なのだとは、木村提督に告げられるまで知らなかったことだ。

 電たちも限定解除のための品だと考えていたが故に(それ以上に“ケッコン”の側面が強いと考えていたようだが)、指輪を渡した当初こそ動転していたが、執務室に詰めかけた艦娘たちが「結婚式をします!」と断言してしまったもので、さらに動転することとなった。

 当の暁はと言えば「いや、そんな、そこまでしなくても……」と尻込みしてしまい、この鎮守府のレディは思い切りが足りないと方々から煽られて、すっかりやる気になってしまった。

 話に入り辛そうにしていた木村提督も「なんだ、俺は、仲人でもすればいいのか……」と怪訝そうな顔で名乗り出て、霞から投げやりにど突かれていた。

 

 指輪の真の機能に関して、何故、電たちも知らずにいたのか。

 それは、それらの情報が提督の中でも一部の者にしか開示されていなかったからだ。

 

 木村提督からもたらされた最新資料。

 それを夕張や明石が読み解き説明するところによれば、艦娘の白落は艤装核に澱のようなものが溜まるために起こる現象なのだという。

 艦娘と海の戦いに携わる者たちの間で長らく“呪い”と呼ばれていたものの正体がこれだ。

 溜まった澱が艤装核から溢れ出して他の艤装へと転移、侵蝕して、艦娘をあちら側の存在に変えるのだ。

 指輪の機能はその澱が溜まる艤装核の枠を拡張して猶予を設けつつ、敵側へ変じかけている変化そのものを出力系などに転用したシステムとなっている。

 また、白落を抑えたことによって提督の命令が正常に機能するため、艦娘が我を忘れて命令を無視することがないのだとも。

 現に、提督に反抗できなくなった暁が頬を膨らませて不満そうにする場面が以前よりも増えたのだが、指輪を眺めていると「へにゃり」と頬が緩むので、ほぼほぼ相殺されるというのが現状だ。

 仮の結婚式をしてからというものの、暁は膨れているかにやけているかのどちらかで、漣には“忙しいハムスター”とあだ名されていた。

 

 しかしそうすると、最初期に指輪を身に帯びることになった榛名たち有馬艦隊の面々は、その試験運用艦だったのではと憶測が生まれることとなる。

 有馬提督の意図するところであったかは定かではないが、装甲空母零番艦で行われていた研究の中には、確かに艦娘の白落を防ぐ目的のものがあり、指輪の機能に関しても木村提督からもたらされた資料とほぼ同等のものが見受けられた。

 これに関して榛名はと言えば、例え実験か何かであったとしても、有馬提督との絆は真実だから良いのだと、諸々の雑念を吹っ切った清々しい顔で笑い飛ばしたものだ。

 その直後「榛名は、提督の義理のお母さんでもありますからね」と胸張って言い放って、その場を凍り付かせていたが。

 

「大丈夫よ、司令官」

 

 物思いに耽っていた提督に、不意に暁の声が降る。

 顔を上げれば、腰に手を当て立つ暁の姿がある。

 その顔の左側を覆う眼帯からは、もうあの光が漏れ出ることはなく、笑顔には少しも陰りがない。

 

「私が皆を本土まで連れて行くんだから。そして、元気になって戻ってくるの」

「今でも充分、元気に見えるけれど?」

「今よりずっとよ。そしてこれからもずっと……」

 

 この浜辺から始まったのだ。

 だから、ここに帰ってくるまで終わりにする気はない。

 暁はそう告げて、照れくさそうに笑うのだ。

 

 

 ○

 

 

 水無月島を経つ日の朝、熊野は鳳翔の姿を探していた。

 いつも通りに早朝の鍛練を終えた風呂上りの祥鳳に聞いても、今日に限っては彼女の姿を見ていないのだという。

 出発まで時間はまだまだある。彼女もいつも通りにどこかの掃除を始めてしまったり、厨房に出入りしているのだろうとは思うのだが、今日に限っては胸騒ぎがするのだ。

 落ち着きない仕草で廊下を歩いていると、同じような調子の葛城と鉢合わせ、すぐに同様の考えと目的であることを悟る。

 2隻で連れ立って彼女の姿を探すもその痕跡は無し。

 すれ違う他の艦娘たちに聞いても同様だ。

 

 この出発の日にいったい何をと落ち着きない仕草の熊野に、葛城は怪訝そうな視線を向ける。

 そんな調子になってまで、鳳翔のことを気に掛ける理由が熊野にはあるのかと、そう疑問する表情。

 気付いた熊野は立ち止まって、バツが悪そうに視線を逸らす。

 

「葛城は入渠が明けるまで伊勢型の方に居ましたから、当時の私がどんな体たらくだったかご存じありませんのよね?」

 

 不思議そうに首を傾げる葛城に、熊野は熱田勢がやって来た当初の自らの事を語る。

 

「私、任務中にやらかしまして、それで、しばらく引きこもっていましたの」

 

 以前、時雨が勝手に占拠して引きこもっていた倉庫奥の控室に、熊野もまた引きこもっていた。

 僚艦の負傷に気が動転し、旗艦を務めていた身で作戦に穴を開けてしまったことを、ずっと引きずっていたのだ。

 提督も僚艦たちも、あの時のことは仕方ないし、お咎めも無しだと言ってくれる。

 その言葉はありがたかったが、かと言って自分を許せるかどうかは別だ。

 自らを罰するという意図こそ、なくはない程度だったが、要は皆に顔向け出来なくなって引きこもってしまったのだ。

 そんなことをしても皆を悪戯に心配させるだけだと理解もしていて、余計に自責の念がつもり、日も経って外に出辛くなってしまった。

 

 このまま狭いスペースでミイラになってしまおうかと、どうしようもない考えが堂々巡りをしていた頃、いつの間にか鳳翔が室内に居て驚いたものだ。

 鍵は熊野が持っているし、マスターキーは以前時雨がねじ切ってしまっていたので、正規の方法で扉を開ける手段はなかったはずなのだ。

 かと言って力任せにこじ開けた形跡もなかったもので、どうやったのかとぼそぼそとと問えば、トイレの窓から侵入したのだとか。

 

「無理やり入るのもどうかと思ったのですが、せめて食事だけでもと……」

 

 泣き腫らしてかすんだ目に、味噌汁の湯気はよく染みた。

 それじゃあ自分はこれでと、そそくさと扉から出てゆく鳳翔の姿を、熊野はしばし呆然として見送ったものだ。

 無理やり扉をこじ開けて出て来いと言うわけではなく、早くこの場所から出るように説得するでもない彼女の動きに、何故か笑みが込み上げてきたのだ。

 いつの間にか当然の様にそこに居て、気が付くと居なくなっていて、まるで妖精たちの様ではないかと、おかしくなったのだ。

 

「それからしばらくして自分から外に出て、初春と叢雲にすごい叱られまして、浜風に泣かれまして、漣と卯月にからかわれましたの」

「……どうして、外へ出ようと思ったの?」

 

 あまり感情を込めずに放たれた葛城の疑問に、熊野は「だって」と、苦い笑み。

 

「毎食持ってトイレの窓から入って来られたら、堪ったものではありませんのよ?」

 

 おかしそうに口元を隠して言う熊野に、葛城は唖然とした顔をして、そして「確かに」と苦笑した。

 

「だから私、あの鳳翔にはきっと頭が上がりませんの。恩人であるというものそうなのですが、ここ最近はなんというか、ふと目を離すと消えてしまいそうな気がして……」

 

 熊野が口にした懸念を、葛城も同じように感じていたのだという。

 

「鳳翔さん、ここに来るまでにかなり無茶したみたいで。その影響かわからないんだけれど、私が入渠明けてこの島で再開した時、おんなじ様に思ったの。なんていうか、いつもと変わらないはずなのに、存在がどんどん希薄になってるっていうか……」

 

 そんな不安のまま、大先輩と慕う空母たちの元を早朝から訪ねて回り、熊野とほぼ同じルートを辿って追い付いたのだ。

 

 そうして2隻で早朝から鎮守府内を探し回っても見つからず、ついには伝声管を使って鎮守府内に呼びかけようかと言う時だ。

 ちょうど差し掛かった執務室から、提督が姿を現すところだった。

 

「鳳翔を探しているのかい?」

 

 何故それをと疑問する2隻だったが、すぐに鳳翔の居場所を知っているのだと理解する。

 しかし、それにしては提督の顔色は優れずにいて、胸中に不安が立ち込めて来る。

 

「もう時間がない。別れを告げるならば、早くした方がいい」

 

 

 ○

 

 

 鳳翔の艤装がすでに解体されていて、この2ヵ月あまりの時間を彼女は人として過ごしていたのだと、熊野も葛城も知らずにいた。

 それも当然のことで、鳳翔が木村提督に口止めを願い出ていたのだ。

 彼女の艤装が解体されたことを知っていたのは、木村提督と秘書の霞と、そして解体に立ち会った明石たち。

 水無月島の面々や熱田側の駆逐艦たちはそれを知らされずにいた。

 薄々気付いている者も少なくはなかったが、毎日元気いっぱいな彼女の姿を前に、事情を問うことを躊躇ったのだ。

 

 熊野たちが重い足を引きずるようにして執務室へ入ると、鳳翔は執務机に伏して眠りに落ちている姿だった。

 先ほど提督がやって来た時、鳳翔はちょうど執務室の掃除を終えたところだったようで、机の写真を前に、懐かしそうに見入っていたのだとか。

 

 彼女がまだこの鎮守府で活動していた頃の写真だ。

 懐かしそうにそれらを眺める鳳翔を前に、提督はいつも昔話をひとつせがむ。

 すると鳳翔は毎朝ひとつだけ、かつて自分が活動していた頃の話を、提督に語りはじめるのだ。

 なかには他の艦娘から聞いた話もあったが、鳳翔の口から語られるそれはまた別の意味を持ち、提督のここ最近の楽しみでもあったのだ。

 そうしてここ数ヵ月でいつも通りとなってしまったやり取りをするうちに、ふと鳳翔からの返事が無くなり、この姿となっていた。

 

 葛城が鳳翔の傍で膝を付き、囁くように呼びかける姿を、熊野は立ち尽くしたまま見守る。

 何故と、多くの者に黙っていたのかと問い質したいと思っていた気持ちが、あの安らかな寝顔を見ると霧散してしまう。

 彼女はここに帰ってくることを望んでいて、それを果たしたのだ。

 鳳翔自らが望んだ場所に、彼女は帰ってきた。

 

 それから程なくして執務室に艦娘たちが集まり、彼女たちに見送られるようにして、鳳翔はその姿を消した。

 艤装の解体から数ヵ月をかけて、ゆっくりと確実に艦艇の魂と離れてしまった肉体は、目を離した一瞬の内に揮発して空気に溶けて。

 最初からそこに誰も居なかったかのように空になった執務机に、誰もが言葉を失くしていた。

 海で沈まなかった艦娘の、陸での最期の姿を鳳翔は見せた。

 それは水無月島の艦娘たちや熱田の新規建造組にとっては、自らが迎える最期かもしれず、またこの最期に対して思うところはひとつやふたつではなかっただろう。

 

 ただ、熊野はこうして誰かに看取られる最期を羨ましいと、そう思ってしまう。

 故郷に帰ることが出来ずに果てた、艦艇としての記憶がそう感じさせるのかもしれない。

 囁くように話す葛城に対して、消える直前まで夢の中から語りかけるような口ぶりだったもので、彼女は苦しみや悲しみなどとは程遠い場所に行ったのだと、そう察することが出来たから。

 彼女の遺書もそうだ。毎日毎日書き直されて、1日ごとに中身が膨らみ、もはや日記のようになってしまっていて、彼女がこの2ヵ月をどれだけ大切にしていたのかが伺えた。

 死を恐れていないわけではなかった。

 それ以上に、毎日が楽しかったのだ。

 

 そんな最期を見せられたからだろうか、執務室を後にした熊野は呆然として、記憶も足元も覚束なくなっていた。

 とは言っても、提督に心配そうな顔をされて大丈夫だと答えたことははっきりと覚えているし、立ち止まって振り返ろうとする背中を青葉に押されて大発に乗り込んだことも確かだ。

 ただ、その道行、鎮守府の風景などがさっぱりと抜け落ちていたのだ。

 見慣れた景色としばしのお別れだというのに、それらを目に焼き付けることが出来ないほど、余裕がなくなっていた。

 

 大発が水無月島を発つ最中、島の小さな港を振り返る熊野は、見送る皆の中に鳳翔の姿を見付けて息を呑む。

 そして、そこでようやく体の力が抜けて、残る皆に手を振りかえすことが出来た。

 皆から少しだけ離れたところで小さく手を振っていた鳳翔。

 その隣りには、彼女よりも少しばかり背が低い御老体の姿があったのだ。

 写真で幾度も目にした老提督。彼等の遺品を故郷に届けんと旅立つ暁型の姉妹たちを見て、微笑んでいる姿が。

 

 隣りで大声を上げ両手を振って見送りに応える葛城に気をされつつも、負けじと熊野も声を張り上げた。

 必ずもう一度この場所へ帰ってくるのだと決意する傍ら、もしも自分も終わる時が来るのならば、やはりここがいいのだと、ようやくそう自覚するのだ。

 

 

 


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