戦艦・霧島は風呂上りの髪を扇風機に当てて乾かしつつ、脱衣場の長椅子に腰を落ち着けていた。
足を組み、手元の資料を見つめる視線は険しく細く、歪められている。
風呂上りのため、眼鏡が常時曇り気味になるので外さざるを得ないのだ。それにクールダウンのためにと、薄手のキャミソールを着ただけの姿だ。
しかし眼鏡がないと資料の小さい文字が見えずらく、まるで老眼の気分だなと、口の端でかすかに笑む。
霧島の素体となった少女が眼鏡をかけていたからと言う理由で自らの視力もそれに合わせているわけだが、敵との交戦時にはきちんと視力が矯正されるようになっている。
常にその状態でもと昔の仲間には笑われていたものだが、オンオフの切り替えは大事なのだ。
それに、頭脳派を気取るなら眼鏡は必要不可欠だ。素で視力が悪いことも然り。そもそも眼鏡を愛しているし、眼鏡をかけた自分の顔も好きなのだ。しょうがない。
漣や卯月に聞かれたらからかわれること必至だと、勝手に想像して咳払いするも、真正面でエア頬杖付いてこちらの顔色を伺っていたので手遅れかと頬が引きつる。
「つか、霧島さーん。扇風機回ってるんだからさ、眼鏡かけても大丈夫じゃ?」
漣の何気ない発言に「まさか」と苦笑いして眼鏡をかければ、これがなんと曇らない。
それもそのはず、曇りの原因となる熱の籠もりを即座に吹き飛ばしているのだから。
なんだこの盲点はと俯く霧島の肩を、漣と卯月は優しく叩く。
「そんなんだからさー、4番艦は頭脳派気取りの脳筋ばっかって、言われるんじゃない?」
「そ、そんなの初めて聞きましたよ!? いったい誰が!?」
どこかの4番艦がくしゃみする姿を一瞬幻視したが、3隻は努めて無視した。
「そーだそーだぴょん! うーちゃんは脳筋じゃなくてスケベ枠です!」
諸手を上げて抗議する睦月型4番艦の姿に、漣と霧島はしばし固まる。
そして、どこかの4番艦がくしゃみする姿を一瞬幻視したが、3隻は努めて無視した。
「霧島さーん、4番艦はスケベ枠だって」
「ないですから。……いえ、一概に無いとも言い切れませんが。しかし、ウサギに関して言うならば元ネタは3月からなので、ひと月違いですよ? まあ、連中ほぼ年中発情期らしいですが」
眼鏡の位置を直しての霧島の発言に、漣と卯月が大仰に頷いて彼女の肩や脇腹を叩いてくる。
ようやく頭脳派なところを見せてくれたなと感心している風な扱いに、これは馬鹿にされているなと確信する霧島ではあったが、歯を磨きながらやって来た酒匂の姿を視界の端に捕らえ「ほうら、阿賀野型一番のスケベボディが」と、漣と卯月を嗾ける。
歯磨き途中で対応できない酒匂に無慈悲に襲い掛かる駆逐艦たちを眺めながら、人数減っても賑やかなものだなここはと、苦笑しため息を漏らす。
ここ水無月島鎮守府から多くの艦娘が旅立ってもう1週間になるが、こうも賑やかだと寂しい気分を感じる暇もない。
……などとは霧島自身の強がりで、ふと立ち寄った食堂に喧騒がなかったり、船渠場がやけに広く感じたりと、寂しいと言うよりも怖くなる瞬間の方が強いというのが、彼女の正直なところだった。
まあ、その度にこうやってピンクやら薄紫やらの髪色が襲ってくるものだから、その度にムッとして、そしてホッとしての毎日だ。
特にピンクは1隻厄介なのが増えたもので、悪乗りが過ぎる毎日なのだ。
その度に、間宮のお仕置きが光るわけだが。
概ね双子の姉である榛名も同様の調子で、不安そうにそわそわして、常に誰かの後にくっついてる姿がよく見られる。
しかしまあ、さすがに風呂ともなればひとりでリラックスできるようで、今ちょうど脱衣場に戻ってきたところだ。
そうして湯気がやって来て再び眼鏡が曇るものだから、霧島はもはや資料を畳んで天を仰ぐ。
「でも、何故こんなところで資料を?」
そう問うのは、榛名に続いて脱衣場に戻ってきた間宮だ。
規格外サイズの持ち主であるが故か、ピンクの2隻が跳ねながら「間宮さーん、ちょーっと、ジャンプして見ようか」「ぴょん、ぴょんって」などと煽るもので、間宮は困り果てて仕方なしといった苦笑でジャンプして、傍らの虚空から瓶の牛乳を取り出している。
増設された格納領域の成せる技だなと目を光らせる霧島は、榛名までノリノリでジャンプする姿に頭を抱える。
最近精神年齢が急激に下がった気がするほぼ姉から瓶を受け取って礼を告げ、間宮の問いにはなんと答えたものかと苦い笑み。
「入渠している時や、上がった時のリラックスした状態で、もう一度検証したかった部分があったもので……」
そう告げて、いつの間にか自分を取り囲むかのように集まった艦娘たちへと、霧島は件の資料を差し出して見せる。
すると、皆の表情は明らかに難しいものへと変わるもので、やはりこれは難しい問題なのだなと短く嘆息。
「……この島の地下に出現した、超巨大サイズの艤装核、と思われる物体に関して。こればかりは、夕張や天津風、そして明石を交えて調査しても、詳細が明らかになりませんでしたから」
いつの間にか島の地下に出現していた巨大な艤装核。
まるゆが定期的に潜航して調査を行ってはいたが、まだ詳細を明らかにするほど情報は集まってはいない。
飛龍の時の様に、新たな艦艇の亡骸が出現することも無く、かの存在は今も島の地下にて静かに明滅を繰り返すだけなのだ。
調査にもうしばらく時間をかけたいと考えていたのは携わった誰もが同じだったようで、夕張と天津風は島を去る直前までに、ありったけのアプローチを資料に残している。
それは霧島たちをはじめ島に残った艦娘でも可能なものもあれば、明石などの特殊な艦娘でないと手を出すことが出来ないような内容まであり、さてどれから手を付けたものかと連日会議が開かれていた。
とは言え、“これ”についてばかり話し合っても居られず、話題には挙がるものの後回しにされているのが現状だ。
「でもさ、漣たちに出来ることは限られてるよ、霧島さん。そもそも、まるゆがいないから、直にあれを観察することも出来ないっしょ。“これ”だけのために潜水艦建造するの、ご主人様も反対していたし」
「私だってそうです。ただ、得体の知れないものを腹に抱えている以上、万が一の可能性も捨てきれないかと。もちろん、悪い方の」
「そうでしょうか。榛名には、“これ”が悪いものには思えないのですが……」
ふんわりとそんなことを口にする榛名に、霧島は困った表情になる。
頭を使わずに感覚でしゃべっているなと思念を送れば、即座に察して違うと否定の意。そして弁明が始まる。
「ほ、ほら、飛龍がいたからこそ、あの時の空襲は切り抜けることが出来たのですよ? 提督も無事に秋津洲を救出しました」
「まあ確かに、結果から見ればそうかもしれないわね。でも、だとしたら“これ”は何故、空母・飛龍を? 彼女でなければならなかったのか、他の空母系の娘でもよかったのか。あるいは、今回のような結末を望んだが、彼女しか送り込める娘がいなかったのか……」
考え出したらきりがないところに、今の水無月島鎮守府にはこうした議論が出来る艦娘が少ない。
明石や大淀も交えて話をしたかったが、彼女たちは共に入渠していない。
いつもは全艦一緒に入渠という流れだったが、今夜ばかりは別件があったのだ。
「明石と大淀は、今は執務室ですね。提督の検査結果が出たので……」
2隻とも夕食時に暗い顔をしていたので、間宮も気にしていたのだろう。
装甲空母零番艦の乗員が残した手記。そこから得た情報より提督の正確な寿命を割り出したり、日常生活を送る上で注意する点などを洗い出していたものが、ここに来てようやく纏まったそうなのだ。
「ああ、あれね? けちけちしないで漣たちにも教えてくれればいいのに」
「提督もそうおっしゃっていましたが、まずは提督個人が聞くべきだと、大淀が。それだけ重大なことだというのもありますが、提督を個人として尊重しているからこその判断ではないかと」
霧島の言に首を傾げるのは、榛名以外の艦娘たちだ。
その反応もわからなくはない、と言うのが霧島の感想だった。
“提督”という役割を持つ以外の人間と接触したことのある艦娘ならば概ね持っている価値観であるがゆえに、当然島生まれや日の浅い艦娘にはそれがない。
彼を提督ではない一個人として見る、と言われても想像が付かないだろう。
まあ、彼に名前でもあればまた違ったかもしれないが、それはさすがに酷かと霧島は唸る。
伊勢型で本土へ渡ることが出来ていれば正式な戸籍も得られたはずだが、どうも提督自身はそれに感謝しつつも気乗りはしない、といった風に霧島には見えたのだ。
彼自身が提督という役割以外に己の在り方を見い出せていないのかとも思い、そうだとすればやはり歪だと言わざるを得ない。
彼。つくられた人である提督は、誰でもない。
人としてのしがらみを持たずに生まれた彼は、自ら望んで提督となった。
彼は、自分が何者であるという証明を欲していたのではないかと、霧島は思うのだ。
そして提督と言う役割を得た現在、“提督以外の自分”と言う可能性を閉じてしまっているでは、とも。
今にして思えば、何故あれほど艦娘たちに好かれていたのかも、納得出来る予測が立つ。
建造時の刷り込みや個人の好みの問題を超えた理由があると、件の現象に対して、霧島はそう考えていた。
彼は、誰でもないがゆえに、愛しい誰かの面影をその中に見ることが出来る。
それは艦艇時代に共に戦った誰かかもしれず、あるいは艦娘の素体となった少女たちが恋していた誰かかもしれない。
誰でもない提督の彼は、そういった誰かの面影を、その像を確かなものとする。
かく言う霧島も、好みのタイプではないが目で追ってしまう、気になってしまうという症状に少しばかり悩まされた時期があった。
今でこそ、そういった感情抜きに提督と接することができるし、むしろ好ましさで言えば以前よりも増している程だ。
それは日課のボイストレーニングに付き合ってくれているからかもしれないし、寝言でハモっていたと榛名が証言したせいかもしれない。
しかし、彼に見るのはあくまで面影であり、彼そのものではない。
もしも、面影の主と彼とを並べれば、選ばれるのは確実に彼ではない方なのだ。
「……代用品」
人間としての、提督としての。あるいは両面での代用存在。
もしくは存在しないはずの、モニターの向こうの誰かか。
そう考え至って、霧島は己を恥じて身を震わせた。
気が付くと卯月が心配そうな顔をしていて「風邪ひくぴょん。いい加減、ちゃんとパンツ履くぴょん」とミントグリーンの色を差し出してくる。
妙な間の後にくしゃみひとつした霧島は、次いで咳払いひとつして資料を再び脇に置き、受け取った下着に足を通した。
○
「では、改めて提督の体質に関することで、再確認を……」
脱衣所で霧島たちが騒いでいる頃と同時刻、場所は執務室。
神妙な表情の明石と大淀を前に、提督は困ったなと笑むところだった。
性質上、どうしても深刻な話になってしまうというのは夕張の時に実感しているし、肩の力を抜いてと言ったところでそうもいかないことも理解している。
だから、言うだけは言って、後は本人たちに任せることにする。
大淀が口にした通り、今は提督の体質に関する彼是を再確認する時間だ。
ひと月前の会議の席で夕張が告げたように、装甲空母零番艦からサルベージした研究者の手記には、提督の出自に関する項があった。
あれからさらに情報を拾い上げ精査し、提督の正確な寿命を割り出そうというのが主な狙いだった。可能ならば延命の方法も。
日々健康的な生活を送れば、当初の想定通り、その寿命は10年足らずと結果が出た。
今回、最新情報として告げられるのは、新たに判明した体質のこと。
提督である彼は、所謂人間と艦娘の交雑種のようなものであり、短命なのは既知として、生殖能力をほぼ持たないことがわかったのだ。
それらの説明に「なるほど」と、提督は以前図鑑で見た動物たちのことを思い出す。
ライガーなどの動物たちと自分を重ねる瞬間が来るとはまさか考えても見なかったが、どうやら自分はそういったものに似た存在のようだ。
「……雷がどういうわけか“お墨付き”をくれたのだけれど、それは考え違いだったということかな?」
「あの、いえ、提督。子孫を残す能力がほとんどないのであって、性行為自体は、その……」
頬を赤らめつつ説明を重ねる大淀に「知っているよ?」と笑んで見せれば、赤い色が頬から耳にまで広がる。
提督の気を抜いた態度と冗談とに、ようやく明石が歯を見せた苦笑を浮かべてくれたことが幸いだろうか。
「ああ、それに捕捉しますとー、“ほぼ”子供が出来ないのであって、かなり天文学的な確率で可能性が生じます」
明石の捕捉に「どれくらい?」と提督が問えば、桃色の髪は顔を険しく歪めて「七桁の回数やって、一度あるかないか」と答える。
確かにそれは現実的じゃないねと苦笑すると、明石は同様に笑んで、大淀は眼鏡が曇るレベルで発熱する。
「ええと、現実的にお世継ぎ残すならば、提督が生まれた時と同様の方法となるでしょうけれど……」
「その方法までは、サルベージ出来ませんでした。もし具体的な方法を拾い上げることが出来たとしても、それを艦娘由来の設備であると妖精さんがジャッジして構築し始めるかまでは……」
なるほどそうかと唸る提督に対して、何か言いたげな2隻が大きく前のめりとなって顔を近付けてくる。
ちょっと後ろに仰け反りつつ発言を促せば、躊躇った挙句に大淀が「やはり、お世継ぎを残すことに?」と問うてくるものだから、提督は笑って「今は考えていないよ」と手を振って見せる。
こうして改めて告げられると、確かに自分は人ではなかったのだなと、形の無い実感を得る。
艦娘と同様の刷り込み教育の成果も中途半端で、提督となった当時、頓狂なことを言って彼女たちに笑われたことを思い出す。
しかしそうすると、自分は最初から提督となるべき存在としてつくられたわけではなかったのだなと、目深帽子で思案する。
これに関しては明石が挙手。零番艦では極地活動が可能な人間の、その代用品を研究していたのだと解説を始める。
「極地、つまりはここ、深海棲艦の支配海域下での活動を前提とした代用人間の研究。あの零番艦で主に研究されていたテーマですね。支配海域において活動可能な人材が揃えば反攻作戦の準備もかなり進めることが出来ますし、何よりもこの世界が敵に完全に支配された状況を、あの艦の研究者たちは見据えていたようです」
「それは、深海棲艦の支配海域が、海域だけに留まらず世界全土を覆ってしまったらと、そういう状況を見据えてのことかい?」
頷く明石の言によれば、提督のような代用人間と艦娘を、対深海棲艦の前衛に据える構想もあったのだとか。
構想だけで終わるはずだったそれを水無月島鎮守府が果たしてしまったことは、果たして吉か凶か。現状の提督たちには判断材料が乏しい。
さて、そうして代用人間を用いた計画が進んだ場合、本来の人間はどうするのかと言えば、大きくふたつの道を歩むことになる。
ひとつは、自分の遺伝子情報をもった代用人間を残し、それそのものを“次世代”とすること。
もうひとつは、艦娘たちが世界を取り戻すまで、人間たちはコールドスリープで眠りに付くことだ。
「ひとつ目の道は、支配海域でしか生きられない代用人間を“次世代”とするため、海域奪還を放棄して変貌してしまった世界で暮らすというものなのかな?」
「はい、提督の体質に関しての記述が見られたため、その可能性が高いかと」
「もうひとつの方は、完全に私たち任せですよねコレ。某和製のアニメーションを思い出します。原作の方」
ちなみに人の姿を捨て去るやり方ならば、人間を妖精化するというものがあったのだとか。
しかし、長時間妖精の姿でいると、人間としての自意識が消滅して本来の妖精と見分けが付かなくなってしまうため、この研究は別の部門に引き継がれることとなった。
“艦隊司令部施設”への技術転用だ。
「司令部施設、本体のメンテナンスは?」
「万全ではありますけれど……。提督、本当に……」
歯切れの悪い明石を前に、その懸念は最もだと提督は頷く。
夕張が情報を公開した時点では、“艦隊司令部施設”を運用するリスクについて、すでに概ね纏められている状態だった。
運用する度に提督の寿命を縮めると断言されたその設備、それを用いることを好ましく思う艦娘は、少なくともここにはいない。
その事実に提督はありがたいなと笑み、しかしそれを用いてしか開かない扉があるのだと息を詰める。
島の地下に眠る、超巨大艤装核に対するアプローチのひとつに、“艦隊司令部施設”を用いたものがあったのだ。
その巨大さゆえに建造用として精製・純化することはまず不可能だとされているかの艤装核に対して、“艦隊司令部施設”の効力によって妖精化した者が接触するという案だ。
当初は提督を接触端末にと考えていた夕張ではあったが、資料にはそれ以降の記述が無い。検証の前に記述する手を止めたのだろう。
恐らくこの続きを検証する前に、サルベージした情報の結果が出てしまったのだなと察する提督は、手詰まりになったならば一考するべき案だと、この方法を頭の片隅に、しかし重要な位置に置く。
それに、内部だけに気を割いてはいられない。外部に対しての動きにも気を配らなくてはならないのだ。
水無月島鎮守府が健在であると、かの“統率者”に知らしめる必要がある。
伊勢型がこの島を発った日から、それは既に行われている。
榛名と霧島、2隻の金剛型の補完艤装、高速航行タイプのそれが出撃し、島を見張る敵艦たちを翻弄・攪乱、時に撃沈しては生還する、という動きを繰り返している。
それでも未だに空襲がないということは、敵の航空戦力はまだ回復しきっていないのかと提督は思うが、すぐにそれは違うのだろうと考えを否定する。
あれだけ周到に準備してきた敵だ。必ず何らかの策を講じてくる。
もしもその時が来たら、この島の面々は地下に籠って逃げの一手と出来るが、それらが伊勢型の方へ向かってしまったらと考えると、気が気ではいられない。
伊勢型の出航前に増産した航空機をありったけ積み込んではいるが、それらは熱田島に着くまで持ってくれるだろうか。彼女たち自身にしてもそうだ。
楽観したくはあるが、見送った暁たちの顔を思い出すと、そうも言っていられない。
動きも情報も少ない現状維持に苛立ち、つい手元の封書に手が伸びそうになるのを抑える。
その動きを幾度繰り返しただろうか。
木村提督から手渡された、最終作戦概要の封書だ。
開けて中を見てしまえば、それ以降、恐らく見ないふりは出来なくなる。
そう自覚しているからこそ、この封を破ることが出来ずにいるのだ。
その作戦は少なからず、しかし確実に、犠牲を要するものだと直感しているからだろうか。
彼女たちの誰かが確実に失われるとわかっていて、その判断を下すことは出来ない。
自分はつくづく提督の器ではないなと悔しくなり、結果、現状維持への苛立ちを抑えている。
楽観は出来るが、不安はなくならない。
一息ついて暁たちの笑った顔を思い出して、ようやくいつも通りに戻れる心地だ。
彼女たちが帰ってくるまで繰り返す毎日だ。こんなところで根を上げてはいられない。
実際に出撃する彼女たちの消耗を考えれば、もっと安全なやり方を考えるべきが自分の役割だ。
ならばと、大淀と明石を下がらせて、これから連装砲くんたちにお付き合い頂こうかと言ったところで、両脇を2隻にがっちりと固められた。
「……何かな?」
「提督、御存知ですか? 発想の種が下りてくるのは、お風呂やトイレと言ったリラックスできる空間なのだそうです」
「知っているよ、大淀。けれど、正直実感はないかなあ……。ほら、トイレに入っているとよく阿武隈が気付かずに入って来てびっくりさせてしまったり、風呂時には祥鳳だったりで、意外と落ち着かないものでね」
「て、てーとくー? それは故意だったんじゃあ?」
「そうかもしれないね。慣れたからいいのだけれど」
心中お察し致しますと苦笑した2隻はしかし、そのまま提督を席から立たせる。
もう一度何かとと問えば、両面から「そろそろ入渠してください」と、ぴしゃりと告げられる。
食事時には必ず顔を出すようにはしていたが、ひとりになると彼是と考え続けてしまい、気が付くと朝だったことも少なくはない。
控えめに言って、そろそろ彼女たちの前に出られるレベルを超過しようとしていた、ということだろう。
間宮や他の皆には失礼なことをしたなと頭をかき、明石に言われるならば相当ダメだねと笑んで見せれば、ピンク色の髪は口角を上げた張り付き笑顔のまま足早に提督を船渠場へと連行した。
○
「なんつうかもう、さ。全部あいつひとりでいいんじゃないの?」
駆逐艦・秋雲は伊勢型の側面から交戦の様子を眺めつつ、乾いた笑いを浮かべた。
水無月島を発った超過艤装・伊勢型。その道行は順風満帆とは、もちろんいかなかった。
連日昼夜を問わずに敵襲があり、その度に艦娘たちは出撃を繰り返しているのだ。
故郷を想って憂う暇もなく訪れる敵襲に、しかし全体で見れば消耗は微々たるものだ。
確かに燃料・弾薬の目減りはあるが、それは当初予定されていたレベルに達していない。
“彼女”がほとんど毎度出ずっぱりで、そしてほとんどの敵を撃沈しているからだよなと、秋雲は乾いた笑みのまま、視界の端から端へと高速移動する彼女の姿を追う。
仮想スクリューの青白い燐光を海中に走らせ疾駆するのは、暁型1番艦の彼女だ。
駆逐艦としての艦種をはるかに凌駕する彼女の性能には、指輪の効力で“白落”を抑えたことにより、安定と言う概念が新たに加わった。
以前ならば時間経過によって艤装が浸食され変異する症状に悩まされていたが、もはやそんな心配はない。
燃料と弾薬が尽きるまで、あるいは彼女の体力と気力が続くまで、戦い続けることが可能となったのだ。
それが良いことか悪いことか、秋雲は考えたくもないなと首を振る。
彼女の活躍によって自分たちの消耗が抑えられているのはありがたいが、温存されている身としては心苦しいものなのだ。
かつて彼女が感じていた思いを知り、そしてその彼女は全力で戦って爽快そうに笑んでいる。
嫌でも筆が進むものだなと、ようやく手を止めた秋雲の隣り、シャッターを切る音が聞こえてくる。
「あんなに動き回っているのに、よく描けるものですよね?」
問うてくるのは祥鳳で、二眼レフカメラを首から下げた姿だ。
島に居た頃は青葉と組んで鎮守府内新聞部だったそうで、カメラは彼女の担当なのだとか。
「いやねー、目で追って描いてるわけじゃなくて、じっと見てる中で強烈に印象付いたワンシーンを誇張して描いてるのさ。で、細部を確認するためにちらちら見直しているわけで」
なるほどと納得して頷く祥鳳は、再びファインダーへと向き直る。
秋雲に言わせればシャッターチャンスの方がはるかに難しいと思えるものだ。
あれだけ縦横無尽に動き回り、停止している瞬間などありはしない高速戦闘の最中、それでも祥鳳がシャッターを切る回数は少なくない。
その瞬間を待つ集中力と忍耐力は他の艦娘の追随を許さず、そしてチャンスをものにする腕前は確かなものだ。青葉がカメラ担当を願い出るのも頷ける。
葛城が島に居た頃、空母の艦娘の後ろにくっついて歩いていた時期があったのだが、この祥鳳には特に懐いていた記憶がある。
それだけ彼女の射形に一目置いていたのだろうとは容易に想像が付くが、彼女が脳内花畑な煩悩の塊だとは、果たして気付いていたのだろうか。
「良いの撮れたー?」
「どうでしょう。こればかりは、現像してみないと何とも。デジタルではないので」
現像するまで成果を確認できないのはもどかしいなとも思うが、祥鳳はそれすらも楽しんでいる節がある。
それに、現像してみないと、などと彼女は言うが、シャッターを押した瞬間には完成がどうなるかわかっているのだろう。
空母系の艦娘の、特に弓を用いる者たちの得手なのだろうなと笑む秋雲は、戦いの音が止んだことに今さら気付く。
敵は駆逐・軽巡級のみの三個艦隊という数の暴力に対して、彼女はたった1隻でそれらを撃沈してしまったのだ。
クレーンに釣られて引き上げられている途中の暁が、こちらに向かって単装砲を握った手を振ってくる。
まったくいい笑顔だなと苦笑する秋雲は、彼女が両の手にする艤装を目にしてさらに苦笑。
暁が右手に持つ単装砲はピンク色に染められ、つぶらな瞳と口角を上げた顔が描かれている。砲身がまるで長い鼻にも見える風だ。
左手の連装砲は白に染められへの字の口。どことなくデフォルメされたウサギの顔に見えなくもない。
それぞれ、卯月と漣の主砲であった“ピノキオ”と“ムーンビースト”だ。
何かと主砲に顔を描いたりベルトにシール張ったりする潮の影響だが、そういった艤装へのペイントは水無月島でもかなり流行したものだ。
古参組の響なども、主砲を黒く塗装して半眼に×の字口の顔を描いていたのを、秋雲も記憶している。
島に残った2隻の駆逐艦は防空・対潜に特化した改装を行ったため、そうして降ろすことになった主砲を暁が譲り受けたのだ。
それらをわざわざ艤装して戦うのは、残してきた彼女たちといつでも共にあると、そう言った心持なのだろうかと秋雲は思う。
やんちゃ盛りのちびっ子のイメージしかなかった暁型だが、その成長した姿には驚かされるものがある。
そして、果たして自分が同じ立場だったのならば、彼女たちの様に在れただろうかと、そう幾度も考えてしまうのだ。
嘆息するこちらをきょとんと眺めている祥鳳に、「書き残しておきたい被写体が多すぎてさ?」と肩を竦めて見せれば、こちらも同じだとカメラを向けられる。
そうして描き手と撮り手が互いを画に残してその場を去った後。この日は運良くもうひとつ、被写体に有り付く事が出来た。
伊勢型の艦内に設けられた休憩スペースに、帰投した暁を挟んで眠る、暁型4姉妹の姿があったのだ。
敵襲のたびに出撃を繰り返していた暁はもちろん、妹たちの方もそれぞれの役割を果たすため、休息もそこそこに動き続けている。
姉妹たちがこうして集まっているということは、それらにひと段落が付いたのだろう。
さて、いざこうして恰好の被写体を目の当たりにして思うことは、断りもなく描いてしまっても良いのだろうかというもの。
隣りの祥鳳も困った様に笑むものだから、ならば事後承諾と言うことで、ペンが走り、シャッターが切られる。
静かな寝息を立てる姉妹たちは当分夢の中であろうことは確かなもので、彼女たちがずっとこうして穏やかな寝顔を浮かべていられんことをと、秋雲はそう願わずにはいられなかった。
○
超過艤装・伊勢型を護衛しての、夜間の無灯火航行の最中。
重巡・足柄は姉艦である那智の不穏な動きに眉をひそめた。
何をするかは概ね見当が付くが、ぴたりと思った通りの結果となれば、溜息すらもったいないと目を閉じる。
「ちょっと姉さん? 任務中にお酒?」
暗闇でも見通せる目は、彼女が懐からスキットルを取り出す様を確かに見た。
水無月島に滞在していた頃、曙からもらったのだと呑む度に自慢していた品だ。
妖精たちの手による特注品は艤装とほぼ同等の素材で構成されており、いざという時は弾除けにもなるのだとか。
いつも左の胸元に忍ばせているそれは、彼女の体温を吸ってほの温かいはずだ。
中身をひと口あおった那智は、それを足柄の方へと投げて寄越す。
受け取った足柄は同じようにしてひと口。
温い液体が喉を焼く感触と共に胃に降りてゆく。
味はわからない。
この足柄は今まで呑みやすいカクテル類を好んで口にしてきたから、というのもあるが、それ以前に味覚が機能を失っているのだ。
「ガタが来ているの、嫌でも自覚させられるわ」
なるべく感情を込めずに言って、スキットルを投げ返す。
艦娘として長く戦ってきたのだ。どう足掻いてもその時は来る。
むしろ、無理を通してきた身でよくここまで持ったものだと思う。
足柄自身も、姉の那智も。
今回の任務、水無月島の艦娘たちを熱田島へ送り届ける仕事を持って、自分たちも引退だなと考えていた。
割り切っていたはずだが、鳳翔の終わり方を目の当たりにして、次はいよいよ自分たちの番だと、感傷的になってしまったのだ。
果たして、自分たちも彼女のように終われるのか。
鳳翔が姿を消したのと同時刻、工廠に保管されていた彼女の艤装核もまた、同様に消失したのだそうだ。
彼女の艤装が解体された際に摘出され、新たに艦娘を誕生させることも、深海棲艦に変異することもないだろうと、そう診断されたもの。
役割を失い、なお残った艤装核。その消失の意味を、鳳翔が満足を得て逝ったものなのだろうなと、足柄は思う。
自分にその時が来たら、果たして彼女と同じように満足を得られるのだろうか。
きっと同じことを考えているはずだと姉を見れば、歴戦の重巡はもうひと口が進まない模様。
酒に酔えなくなった身で酔った振る舞いを続けるのはさぞ辛かったろうなと、妹は姉の心中を察する。楽しく呑める仲間ばかりだったのが尚更辛い。
打ち明けるくらいなら墓まで抱えて騙し通そうとするのは、お互い悪い癖だなとかすかに笑んで。
そして、もう笑い合ってはいられない時間となっていたことを、これから思い知らされることとなる。
電探が敵の存在を感知する。
すぐに戦時の感覚に切り替わる2隻だったが、その表情は焦りに凍り付く。
夜間の索敵を電探に頼っている身ではあったが、それでも目と耳は未だに衰えていないはずだった。
それでも発見が遅れ、そして対応するには遅すぎだ。
「伊勢! 日向! すぐに回避行動を……!」
足柄が悲鳴のように叫ぶ、その頭上。
敵航空機の群れが姿を現したのだ。
充分な高度を稼ぎ、機関を落とし惰性に身を任せ、伊勢型へと殺到する。
敵航空機群は伊勢型へと飛び込んでいき、その内の何機かが艦橋に激突した。