孤島の六駆   作:安楽

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6話:

 駆逐艦・磯風は虚ろな目で、無風に萎れる吹き流しを見つめていた。

 天津風の髪飾りであった吹き流しだ。

 ふたつあったものを浜風共々譲り受け、お互いの艤装に括りつけてある。

 いま目にしているのは浜風の艤装に掲げてあるもので、風が無くともかすかな揺れと動きが見られる。

 艤装の駆動によるものではない。顔を覆って嗚咽を噛み殺している浜風の震えが伝わっているのだ。

 

 泣くという行為は悲しみを受け入れるという意味があるのだと、誰かが言っていた。本で読んだ一文かもしれない。

 その考え方で行けば、浜風は天津風の喪失を受け入れている最中と言うことになるし、自分は受け入れられていないのだなと、磯風はそう思う。

 受け入れられないのか、受け入れることを拒否しているのか。

 艦娘となる前には、鋼の時代には幾度もあったはずなのに、まるで初めてのことの様に動揺している。

 これが人の姿を取ることで得られたものかと思えば、なるほど確かに、不便極まりない。

 

 しかしそれでも、亡き者の遺品から目が離せなくなるのは、全方位を知覚出来るはずの自分の視野が一点に狭まるのは、自分は悲しんでいるのだと、そう自覚させられる。

 熱田島所属の磯風は、建造されたから今までで初めて、仲間の喪失に立ち会った。

 同型艦で姉でもある、天津風の喪失に。

 

 そうしてどれだけ意識を狭めていたものか、“隼”の船室に熱田の阿武隈が戻っていたことにしばらく気が付かなかった。

 見張りも出撃も交代で行っているというのに気を抜き過ぎだと焦る磯風を、阿武隈はまだ座っていろと落ち着ける。

 

「今は風雲と清霜が出ているから。ふたりはまだ休んで」

 

 笑んで告げる阿武隈の背後、戦闘糧食を抱えた潮が顔を覗かせて「食べます? 食べられますか?」と表情で問うてくる。

 残念ながら食べられそうにないと首を振る磯風の元へ、それでもふたり分以上の数が積まれ置かれて、さてどうしたものかと眉をひそめれば、妖精がどこからともなく缶切りを取り出してきこきこと規則的な音を響かせる。

 妖精化した提督だ。無理にでも食べろと言うのかと、心の中で反発が生まれるも、確かにそうするべきかと缶を手に取れば、いつの間にか傍らの浜風が大口でおにぎりに噛み付いている。

 

 目を丸くして見つめる先、目を真っ赤にした妹艦はまだ泣いている。

 まだ泣いているが、泣いているだけではない。

 こうしていつもの様に食事することで自分を取り戻そうとしているのか。

 ならば、自分はどうする。

 肩に乗る妖精提督をじっと見ても、彼は何も言わない。

 掛けるべき言葉が思い付かいというわけではなく、自分ならば、駆逐艦・磯風ならば大丈夫だという信頼によるものか。

 以前、この提督には提督としての在り方や人としての在り方等を大見得切ってまくし立てたことがあるが、それが今さら申し訳なかったと思えてくる。

 恥を忍んで言葉を作るならば、何か言ってほしい。

 しかし、そんなこちらの考えなどお見通しで、あえて黙っているというのならば、自分はもうどうするべきか、それをわかっているからだと考える。

 

 思い至って、ようやく安堵が得られた。

 自分に命令を下し背中を見つめる者がいるというのは、安堵に一役買うものだ。

 何かあれば、その時ははっきりと指示が下るのだ。

 だからそれまでは思う通りにするといい。

 提督の視線をそう受け取った磯風は、綺麗に開いた牛缶をそのまま浜風に手渡した。

 自分で食べるだけの気力がないので、人の食べている姿を見て活力を貰おう、そう考えたのだ。

 

 

 ○

 

 

 伊勢型から離脱して敵を掃討した面々は、そのまま投下された“隼”へ搭乗し、執拗に追いすがる残敵の撃破に乗り出した。

 早々に敵を撃沈出来ればすぐに伊勢型へ追い付けるかもしれないという淡い期待もあったが、続々と出現する敵艦隊によって、その道は断たれた。

 むしろ、それらの敵を放置しては伊勢型へ被害が及ぶため、こうして後続を足止めする他に手はなかったはずだとも思う。

 あちらの守りは残った艦娘たちが入渠明けに立て直しているだろうとは思う。

 重巡たちはともかく、駆逐艦たちの回復は早まるだろうと予測が成されていたはずだから。

 

 だからと言って、向こうの心配がなくなるわけではない。

 あの巨体を背にしていては思うような迎撃が出来ないことを、あの夜襲の時に初めて知ることとなった。

 暁に戦線を任せていたのが仇になったと、そう言わざるを得ないことに、水無月島の阿武隈は唇を噛むしか出来ない。

 背中に守るものを置かないことで全力を発揮出来るなどと、どうして誇れようというのか。

 それは、伊勢型に残った面々も同じはずだとも……。

 

「阿武隈さん?」

 

 潮の声に慌てて顔を上げると、向こうの顎とこちらの頭が強かに接触した。

 割れんばかりの激痛だ。向こうも相当に痛いだろう。

 呼びかけられるまで他者の存在が視界から外れていた。

 疲労のせいもあるだろうが、これでは磯風たちに小言のひとつも言えなくなる。

 

 潮の呼びかけは、彼女の記憶に残る浮島の分布に関するものだった。

 敵支配海域へと突入し取り残された半年間、潮は浮島に身を潜めて敵をやり過ごしていた。

 その間に辿った浮島を利用する。

 まだ無事である浮島を経由し補給等を行って、自分たちは水無月島へと返り付くための算段を立てている。

 現状はまだまだ戦えるが、まだ戦えるというだけ。

 こんな海の上では入渠も出来ない。艤装の修復もだ。

 長大な超過艤装の恩恵はもうない。

 

 しかし、今は“隼”が2隻もある。

 元々水無月島の艦娘たちと提督は、これに乗ってこの支配海域を脱するつもりだったのだ。

 こうして実際に取り残されてみて、やはり無謀な考えだったと、改めて思う。

 だが、今の自分たちはその無謀を推してでもやらなければならないのだ。

 哨戒シフトは重巡もしくは軽巡1、駆逐2で組んである。

 あとは浮島にて補給を行い休息を取りつつ、羅針盤を頼りに島へと帰り付くだけだ。

 

 水無月島の方でも、こちらを支援するべく動き出している。

 榛名と霧島が高速型の補完艤装を待機させ、阿武隈たちが有効距離まで帰り着いた際には緊急出撃。

 あらゆる敵を蹴散らして迎えに行くのだと、戦艦姉妹が意気込んでいるのだとは提督談。

 

 それだというのに、阿武隈の表情が晴れることはなかった。

 榛名たちが迎えに来ればこちらの安全が保障されたも同然だという思いはある。

 だからそれだけに、そこに至るまでの道中があまりにも険しいことも理解しているのだ。

 

「あの、少し休んでは……」

 

 控えめな潮の声に、阿武隈は薄目を閉じて首を振る。

 提督にも再三に渡って言われているが、どうしても落ち着いて座っていられない。

 こうして潮に提案を持ちかけられなければ、今も海上で警戒に当たっていただろう。

 

「わかっているの。でも、動いていないと、その……」

 

 泣いてしまいそうだからと、阿武隈は困った様に笑むのだ。

 

 

 ○

 

 

「……そう。じゃあ今のところ、島に帰った連中は無事ってわけね」

 

 超過艤装・伊勢型の前部甲板。

 小さな提督の言に、霞は腕組みを解いて深く息を吐いた。

 ひとりでいる時ですら表情を厳しく張りつめさせていたものが、ここに来てようやく力を抜くことが出来たのだ。

 これで、木村提督の容態が急変すること無く、無事に敵支配海域を抜けることが出来れば、その時はすべてを忘れて大の字で倒れることが叶うだろう。

 昼のぬるい天候の中を、伊勢型は修復を行いながら航行中だ。

 艦橋にはシートが張られ、船体後部はむき出しのまま、妖精たちの手による修復が行われている。

 

 木村提督が重篤の今、代わりに水無月島の提督が指揮を執ってはいるが、そのほとんどは許可を下すに留まっている。

 方針決定のほとんどは霞と電が行い、それは今のところ上手くいっている。

 あれから敵襲が一度もなく、出撃も最低限に抑えられているから、という部分もあるだろう。

 そんな現状を、霞は解せずにいた。

 自分が敵ならば、この機会を逃すことはないだろう。ここで一気に片を付けるはずだと。

 敵がそうして来ないのは、何らかの理由があってかと再び腕組みする霞は、提督が誰かに向かって手を振る姿を見る。

 ちょうど、電が前部甲板にやって来たところだ。

 黙して目だけで「どう?」と問えば、首を横に振る答えが返る。

 医務室から出られなくなった響の見舞いに行っていたのだ。

 

 暁が離脱し、雷が消失して以降、響は部屋から一歩も外に出なくなった。

 誰が呼びかけても答えず、食事も摂らずの日々が続き、つい先日、意識を失っているところを発見されて船渠へ担ぎ込まれたばかりだ。

 艤装との同期も数日行っておらず、衰弱した肉体が回復するには時間がかかる。

 明白なのは、肉体よりも心の衰弱の方が著しいことだろうか。

 例え回復したとところで、戦線に復帰するにはかなりの期間を要することは避けられない。

 電にしてみれば、姉妹たちが失われ、最期に残った響だ。

 この状況に対して不安を感じ、しかし同時に安堵してもいるのだろうなと、霞は嘆息気味に情報交換を切り出した。

 

 情報交換といっても、その出所は索敵機からの報告と、提督経由の話に限られる。

 外界の情報が得られないのは支配海域に突入した時と同様だが、それでも敵姫級などと対峙し撃沈した際の海域一時解除で、断続的に外界からの情報を得ることは可能だった。

 

「……敵の“統率者”が姫鬼の投入を控えているのは、ほぼ確実なのです。伊勢型の皆が救援に来てくれた数ヵ月前を最後に、敵は空母級どころか大物すら温存しています」

「意図は明白よ。姫鬼級の喪失に伴う海域一時解除で、こっちと外界とで情報のやり取りをさせないため。そして、大量の水上戦力を投入しての消耗戦を仕掛けて来ているわ。しかも、こっちじゃなくて、島に帰った阿武隈たちの方を狙ってね」

 

 敵の手による情報封鎖、そして消耗戦。

 狙いは水無月島に帰還しようとしている戦力への打撃。

 こちらから提督経由で渡せる情報などたかが知れていて、今も戦いの渦中にいる彼女たちを支援できないのが心苦しいと霞は息を詰める。

 しかしならば、こちらが無事に支配海域を抜けたという報で向こうを安心させてやるのが一番の土産かと顔を上げた先、眉根を寄せて懸念を露わにする電の横顔を見る。

 

「……現状、向こうより早く、私たちの方が詰む可能性があるのね?」

 

 頷く電と、彼女の手に乗った提督の姿を、霞は見る。

 妖精化を持続する提督に掛かる負荷の問題かと、そう考え至ったが、すぐに違うことを目の当たりにする。

 電の手に乗る提督の姿にノイズが走り、輪郭を残して黒くなってしまったのだ。

 息を飲む霞が何か言葉を発する前にその変化は元通りになったが、言い知れぬ不安を胸中に抱かせるには充分すぎた。

 

「もちろん、こうしていることそのものが、司令官さんの寿命を損なう行為であるのは確かなのです」

 

 しかし、それよりも直近の問題があるのだ。

 

「“艦隊司令部施設”の有効圏外に出ようとしているのです。その範囲を出てしまえば……」

 

 妖精化した提督は、この伊勢型に顕現することが出来なくなる。

 超過艤装・伊勢型に、そして艦娘に命令を下せる者が居なくなるのだ。

 伊勢型に搭乗している艦娘たちは今、命令系統と最大の安全装置を失おうとしていた。

 

 

 ○

 

 

 索敵機の帰還を待つ鳥海は、交代後も船室に入らず、ずっと外を眺めつづけている筑摩の姿に不安を覚えた。

 同じ熱田島所属であり、同じく深海棲艦から奪取した艤装核より建造された艦娘同士だ。

 利根の髪を留めていたリボンをひとつくすねてサイドテールにするも、この無風の海では長い髪が風に揺れることはない。

 

 現世における境遇こそ似ている互いだが、鳥海はこの重巡洋艦のことを良くわからずにいた。

 大破して重傷を負った姉のことが心配なのか、それとも、その原因の一端を担った自らを悔いているのか。

 恐らくはそのようなところだろうかと、鳥海は去った巨影のことを想う。

 

 鳥海自身に限って言えば、姉妹艦である高雄のことを心配はしていない。

 まったく、これっぽちもと、そういったレベルでは決してないのだが、彼女は自分よりも生存能力に長けていることを知っているのだ。

 “バンシィ”とぶつかった際も、艤装の損壊具合に比べて肉体の損傷は驚くほど軽微なものだったと聞かされている。

 そもそもが“艦隊司令部施設”の試験運用機として割り当てられていた彼女だ。

 性能的にも、そして当人の気質としても、慎重さを失わずに立ち回ったはずだ。

 

 それでも、あの惨状は避けられなかった。

 あの程度で済んだと、そう考えるべきかとも思うが、そう簡単に割り切れるものではない。

 友が重症を負う姿を目にしてしまっては、尚更だ。

 

 思考に没していた鳥海は、筑摩が大きな動作を取ったことで我に返る。

 何事かと身構える先、彼女は手すりから身を乗り出して彼方へ目を向けていた。

 敵航空機の接近を悟ったものかと思ったが、姿を現したのは鳥海の水偵だ。

 付近に着水したそれを潮が釣って言うには、近海に敵影無しとのこと。

 

 伊勢型と別れてからこれまで、敵襲はあるものの、その頻度は以前の比ではない。

 特にここ最近はめっきりと数が減り、もう3日も“敵影無し”が続いている。

 空も海上も、そして海中もだ。

 こうなってくると、戦力を一ヵ所に集中させてどこかで待ち伏せているのではと考えざるを得ない。

 それがこちらに来るか、向こうに及ぶか。

 そう考えると気が気ではないし、考え出したらきりがない。

 現状は大丈夫でも、次の瞬間にはと、幾度も背筋を震わせている。

 どうすれば高雄のように慎重に、そして冷静に立ち回ることが出来るものかと、力なく天を仰ぐ鳥海は、視界の端で潮が耳まで真っ赤に変色する様を見て訝しる。

 

 潮の視線を目で追って、思わず頓狂な声を上げてしまう。

 筑摩だ。目を離した少しの間に、彼女は着ているものすべてを脱ぎ去り、なんの躊躇いも見せずに海に飛び込んだのだ。

 お手軽な自殺かと血相を変えて筑摩を引き上げんとする鳥海は、一度沈んだ彼女が海面に顔を出して息継ぎする姿に、混乱して頭の中が真っ白になる。

 

「このところ、お風呂にも入れていなかったでしょう?」

 

 きょとんと、まるで子供のように告げる筑摩に、鳥海は言葉を失った。

 気が違ってしまったかとも思ったが、単純に肝が太いだけなのではないか。

 “隼”が停泊中でなければ遥か彼方に置き去りだというのに、このような行為に及べるだけの豪胆さを持っているとは思いもしなかった。

 仲間であっても、まだまだ知らないことが多いものだと、鳥海は艤装から予備のフロートを取り出す。

 この海域の海水は塩分濃度が高く人体が沈み切ることは稀だが、念のためだ。

 赤と白で色分けされた浮き輪を筑摩に被せると、にっこりとほほ笑み返してきた。

 

 確かに筑摩の言わんとしていることも一理ある。

 頼りであった浮島が、そのほとんどが破壊されていたがゆえに、ここまでは“隼”内の備蓄で持ち堪えているのだ。

 まだまだ水無月島まで距離がある以上、節約できるものは節約しなければならない。

 

 しかしこれは良いのだろうかと、視線を逸らした先には小さな提督が居て「気を抜くことも重要だよ」と笑んで見せる。

 提督にそう言われてしまえば、鳥海としては反論も何もできない。

 仰向けの姿勢で海面を漂う筑摩を横目に、まるで彼女の姉のようだなと嘆息して、ああそうかと思い至るものがある。

 単純に言えば利根の真似をしているのだろうが、こんな状況に陥って、自分はどうするべきかと考えた結果なのかもしれないとすれば、納得は出来る。

 無茶な動きこそ謹んで欲しいところだが、こうした余裕の確保の仕方は見習うべきかと、そう思わなくもない。

 提督が見ている前で裸になるなど、もっての外だが。

 

 しかしまあ、休息中であるはずのプリンツや熊野までが裸で飛び込んできた時には、さすがに阿武隈共々声を上げたものだ。

 それでも、伊勢型を離れてから初めて、ようやく声を上げて泣くことが出来たプリンツの姿を目の当たりにしては、それ以上何も言えなくなる。

 早く自分を取り戻さないと、今共にある仲間が居なくなってしまうかもしれない。

 だから、無理にでも以前の自分を取り戻そうとしている娘たちが多いのだと、鳥海は感じていた。

 

 駆逐艦たちも重巡たちの振る舞いに触発されて、概ね自由に振る舞うものが何隻か居たが、誰も咎めるものはいなかった。

 誰かが誤って本当に沈んでしまわないようにと、ずっと海中で待機しているまるゆには頭が下がる思いだが、彼女自身、今の顔を見られたくはないのかも知れない。

 妖精化した提督が彼女の方にも顕現しているのでそれ以上の不安は無いが、問題があるとすれば、その提督の方だ。

 

 今も鳥海の肩に立って寄り添っているこの妖精。

 この姿でいるだけで、彼の寿命は確実に損なわれるのだ。

 そのことについて何か言っても「普通に生きていても死に向かっているよ」と返されてしまい、反論が出来ない自分がもどかしい。

 こうして彼が隣に居るだけで安らぐが、ならばこそ早く島に着いて彼の下へと駆けて行きたい。

 友が隣に居れば、自分と同じことを考えていただろうと、そう思い至れるのだ。

 

 その友からの便りは意外な形で“隼”の下へと届くこととなった。

 恐るべき航空機の音。

 しかしその音が頼もしい味方のものであると、誰もが知っていた。

 二式大艇だ。増設した格納領域に補給物資を満載した飛行艇。

 水無月島のエンブレムが横腹に塗装されたそれが、雲を擦るように現れた時の感動を、それを言葉に表す術を、鳥海は持っていなかった。

 

 

 ○

 

 

 医務室を飛び出して来たのだろう、久しぶりに床から起き上がった響は、付き合いの長い電の目から見ても怖い顔をしていた。

 そんな顔をするのは当然かと思うし、何よりその顔の原因が電自身にあるとなれば、こちらとしては弁明のしようもない。

 

「どういうこと!? 電の艤装を解体するって……!?」

 

 かすれ気味の声を押し殺すように問うた響に、電は先に告げた通りだと、神妙な顔でそう返す。

 数分前に伝声管を使って全艦に告知したことだ。

 これより電の艤装を解体し、彼女を仮の提督にする。

 “艦隊司令部施設”は木村提督が使用していたものが伊勢型に搭載済み。

 後は艤装解体後に電が同期テストを行い即運用状態にまで立ち上げる手筈となった。

 

 不確定要素が多い彼是ではあるが、しかし電は、自分ならそれらの項を確実にパスできると踏んでいた。

 

「電はプロトタイプなのですよ、響ちゃん」

「それがどうしたというんだい? 後発のクローンたちと何が……」

「違うのです。プロトタイプは、最初の5隻は、クローンではなく、生きた人間を素体にしているのですよ」

 

 響の表情が固まった。

 隣りで聞き流そうとしていた霞も同様だ。

 

「電には、人間だった頃の記憶があります。自分の名前も、家族や友達のことも覚えているのですよ。あの事故があった日のことも……」

 

 そうして電は、自分の人間としての名前と、家族構成や身辺に関する彼是をすらすらと口にして見せた。

 それが事実かどうか、今の響たちに裏を取る術はない。

 夕張が、魂がふたつあることへの矛盾について叫んだが、それは先日自らが解説したことであるはずだと返され、膝から崩れ落ちる。

 例え嘘だったとしても、電の語った“あの日の事故”は、どんなノンフィクションよりも真実味を帯びて感じられるものだった。

 

 電自身に選択肢はなかったという。

 生きた人間を素体にしたとは言うが、生きているだけの状態だったと知ったのは、艦娘になった後だ。

 それからプロトタイプたちは、ふたつの過去に苛まれることとなる。

 艦艇の姉妹として経験した惨状と、人間の姉妹として経験した別れのふたつとを。

 

「司令官さんの例があるものの、クローン体の皆だと、艤装が“人間からの命令”だと認識するかどうか、それが定かではないのです。でも、生きた人間を素体とした電なら、より確実であるはずなのです」

「……なら、鳳翔や雷みたいに消えたりしないよね? そのままの電でいられるんだよね……!?」

「いいえ、響ちゃん。最初の数年で体はすべて合成物に置き換わっているので、消える時はたぶん皆と一緒……」

「じゃあ駄目だよ! 解体なんてさせられない……!」

 

 声を荒げた響が電に掴み掛かり、千歳や祥鳳によって引きはがされる。

 それでも、もがき暴れる響の横を、肩をいからせた霞が通過。そして響同様に、電に掴み掛った。

 

「ふざけんじゃないわ! なんで、あんたが消えるかどうかの賭けに出る必要があるのよ!? 黙って聞いてれば、根拠も何もないただの推論じゃない! それで皆を騙して我を通せるとでも思っていたの!?」

「ぶっちゃけその通りなのです。でも、伊勢型に乗船している艦娘の中で、一番艦娘として役立たずなのが、電だから……」

「そんなの私だって同じよ!? もう出撃できないの! 次に出撃したら、私はあんた以上の役立たずになる! だったら、その役割は私だっていいじゃない!?」

「霞ちゃんはそうはならないのですよ。熱田島鎮守府で秘書艦を長年続けていたということは、木村提督と交友のある他の提督やスタッフの方々に顔が知れているということ。艦娘の身でも発言力だってあるはずなのです。爪弾きものだった電とは違う」

「そんな、だからって、だからってあんたが消えて良いはずないでしょう!?」

 

 伊勢と日向に引きはがされても響と同様に暴れもがいていた霞だったが、やがて力尽きたかのように脱力し、大人しくなってしまった。

 困惑する電は、霞が消え入りそうな声量で内心を呟く姿を見る。

 

「……あんたたち姉妹には助けられてばっかりよ。艦艇だった頃も、今も! 私は、あんたたちに何も返せない! 恩も義理も! 何も!」

 

 語気も荒く顔を上げた霞の目には、涙が溢れていた。

 阿武隈たちを見送った際にも泣くのをぎりぎり堪えていたものが、ここに来て限界を超えてしまったのだろう。

 艦艇時代の悔恨と現状とを重ねてしまったが故の感情の発露だ。

 電自身にも覚えがあり、彼女たちの気持ちは良くわかっている。そのつもりだ。

 それでも、そこを推してやらねばならない。

 だから、それをわからせるようにと、電は霞と、そして響を抱き寄せる。

 

「電を助けたいと思うなら、今一緒にいる皆を助けてあげてほしいのです。それが、電にとっての一番の救いなのです」

 

 当然というか、納得などあるわけがない。

 それでも響には思いは伝わったと、電は考えている。

 同型の姉妹艦。同じ鎮守府で過ごし、その後10年閉じ込められて、同じ人に好意を抱き、そして同じ目的のために島を出た。

 10年を共に過ごして生じた溝は埋まることはなかったが、それ以上に価値ある時間を共有できていたと、電はそう信じている。

 

「……電、絶対に消えちゃだめだよ。おじいちゃんの故郷に行きたがっていたのは、電が一番そうだったじゃないか」

「響ちゃんは人見知りなので、ひとりにはさせたくないのです」

 

 いつの頃の話だと苦笑する響を押しのけるようにして、霞が電の額を引き寄せた。

 

「条件があるわ。途中であんたがリタイヤしたら、次に艤装を解体するのは私よ。他の艦娘に、こんな大役任せられないわ」

「なるべくそうならないように頑張るのです」

 

 そして、電はしゃがみ込んで、妖精の姿をした提督を手に取って持ち上げて、視線を同じ高さに合わせる。

 

「……最後まで司令官さんの支えになるって、いざとなったら司令官さんを止めるって約束していたのに。司令官さんには支えてもらって、助けてもらってばっかりだったのです」

「支えてもらっていたさ。僕だけじゃない。水無月島の皆がそうだった。電には、助けてもらってばかりだよ」

「もっと、お話したいことや、やりたいことがたくさんありました。たくさんあったはずなのに、今はそのどれもが遠すぎます」

「帰りを待つよ。帰ってきたら、いくらでもその続きが出来る」

 

 力ない笑みで首を横に振る電は、輪郭がぶれ始めた提督を自らの肩へ乗せ、騒ぎを聞き付けて集まった皆を見渡す。

 語るまでもなく、先に告げた通りだと、工廠までの道を開けてくれと、笑って頷いた。

 

 この日、駆逐艦・電の艤装が解体された。

 現存する艦娘のプロトタイプ、その最後の1隻だった。

 

 

 ○

 

 

 荒い息を整える間もなく、阿武隈は大きく舵を取った。

 敵戦艦級の砲撃が長良型の残像を掠め、余波が艤装と体を打撃する。

 敵の精度が上がっているのかと歯噛みして、鼻先が海面に触れそうな体勢から魚雷を投じ、急速離脱をかける。

 いつもの癖で旗下から大きく距離を置いてしまったが、敵の狙いが阿武隈に集中したため、潮も清霜も無事だ。

 良くないことだとは重々承知してはいるが、どうしても前に出過ぎてしまう。

 提督に何度も諌められているというのに、気が付くとそれを蔑ろにしている自分が居て、自己嫌悪が思考の四隅に染みついている。

 

 仲間が頼りないというわけでは、決してない。

 誰かが居なくなるのが怖くて、その恐怖に突き動かされているのだ。

 長らく入渠出来ていないが故の精神の不調で、その症状を覚えているのは阿武隈だけではない。

 深海棲艦化の影響、というよりは、深海棲艦から奪取した艤装核を用いて建造されたが故の弊害だろう。

 以前、熱田島所属の艦娘たちが訴えていたように、自らが深海棲艦であった頃の記憶がフラッシュバックするという症状が出始めたのだ。

 水無月島を目前にして、出撃不能となる艦が出始めた。

 

 眠れば夢で、起きていても白昼夢という形で悪夢は繰り返される。

 阿武隈の場合はそれが軽微であったため、こうして出撃時間を延ばして戦線を維持している。

 敵襲が散発的であるのが何よりも厭らしいなと、不快感を振り払うように敵軽巡級をすれ違いざまに砲撃。急所を一撃で破壊して轟沈せしめる。

 厄介な敵戦艦級を除けば、後は駆逐級が2隻だ。

 今回もどうにか切り抜けることが出来そうだと、阿武隈は油断なく息を入れ直して、敵艦隊撃破までの流れをイメージする。

 しかし此度は、そのイメージに別の要素が割り込んだ。

 

「あれ、真っ暗だ……」

 

 たった今まで昼間の鈍い曇天であった空間が暗闇に覆われてしまっている。

 すぐに“夜”なのだと理解が追いついた。

 しかし何故と、そう疑問するのも一瞬。肩に提督の姿がないことに気付いた途端、呼吸が苦しくなり、取り乱しそうになる。

 そんな状態で改めて目の当たりにした敵の姿に、今度こそ息が止まる思いだった。

 

 阿武隈に向けて探照灯を照射し吶喊してくるのは、満身創痍の暁だ。

 左の眼窩に搭載した生態艤装の探照灯は莫大量の、しかし不安定な閃光で阿武隈を照らし出し、その主は幽鬼のようにふら付きながらも確実に迫ってくる。

 咄嗟に、阿武隈は後退を選んでいた。

 混乱する頭は暁に呼びかけることに思い至らず、来ないでくれと、砲を装備していない左腕を掲げて戦意がないことを主張。

 それでも、彼女には届かないであろうことを、理解してしまう。

 この光景は、阿武隈の艤装核を持っていた深海棲艦の記憶なのだ。

 

 敵との交戦中に、こんな白昼夢に気を取られてしまって。

 それでも阿武隈は、この悪夢を振り払おうとはしなかった。

 こちらを追おうとする暁の表情は鬼気迫るものがあり、同時に悲しそうに歪められている。

 敵から艤装核を奪取することが、あの島を脱するためには必要不可欠であった。

 だから無謀を推して出撃し、しかし彼女は、本当は戦いたくはなかったのだろうとも思う。

 

 暁と共に戦った時間はそれほど長くはなく、そしてほとんど彼女の背中を追いかけているだけだった。

 戦う彼女の姿に真正面から向き合うのは、終ぞなかったことだ。

 そして、こうして相対して目の当たりにしたように、1隻で戦い続ける道を行ってしまった彼女のことを思う。

 

「私、きっと役に立つから……」

 

 自分の胸元に突き立った刃。

 この直後に砲撃によって押し込まれる致命的な打撃。

 深海棲艦だった自らの死ではあるが、これから彼女たちの家族に加わるのだという安心が、恐怖を根こそぎ振り払った。

 そして聞こえる。

 提督が自らの艦名を叫ぶ声が。

 

 

 ●

 

 

「阿武隈!」

 

 提督の声を合図にするかのように、視界は現状に復帰する。

 昼間の鈍い空の下、接触距離にまで迫った駆逐級、その大きく開かれた咢へと、右腕にマウントしている主砲を突っ込ませた。

 即座に砲撃。右腕と主砲一門を引き換えに敵1隻を撃沈。高い代償ではあったが、単装砲の弾はどの道今ので打ち止めだ。

 熱田の阿武隈や重巡たちに弾薬を融通してもらう手もあるが、現状に対応するには間に合わない。

 

 インナースーツの袖が収縮し、即座に止血が行われる動きに目も向けず、阿武隈は射程距離にいる残りの駆逐級へと、左手で高角砲を抜き放つ。

 腰部に増設した副砲群をも用いて撃沈せしめるも、ぎりぎりで発射された魚雷がこちらの進路へと走る。

 回避可能な攻撃だ。幾度もそうしたように体勢を傾け強引に針路を変えようとして、それが出来ずに体が傾斜、海面に接触し、転倒した。

 結果的に回避は成ったが、体のあちこちを打撲。即座の診断結果で骨折がなかったことに息を付くが、起き上がって速度を上げようとした瞬間、体の奥から致命的な破砕音が聞こえた。

 肉や骨の砕ける音ではない。

 それよりも、もっと致命的な断末魔だ。

 肩に居た提督の姿がない。

 加熱する脚部艤装が海中へ没している様を見て、阿武隈は今の破砕音の正体に気付き、顔を歪めた。

 艤装核が砕けた音だ。致命傷は敵からの攻撃ではなく、蓄積された疲労によるものだった。

 

 機関が停止し、荷重軽減が解除された鋼が本来の重量を取り戻して重力に従う。

 手足を巻き込む前にそれらは強制パージされたが、フロート類が軒並み作動せず。

 この海域の塩分濃度は高く、人や物がたいして沈まないように作用するものの、現状それは何の救いにもならない。

 敵戦艦級が健在であり、先の雷撃によって傾斜している身を立て直して、こちらに砲撃を加えんとしているのだ。

 沈まず、中途半端に海上に留まってしまったため、逃げることも防ぐことも適わない。

 この身には、あとは祈ることしか出来ないのかもしれない。

 そうだとしても、最期まで提督に傍に居て欲しかったなと、阿武隈は我儘を思う。

 

 敵の砲火を目に。音は遅れてやってくるはずだと構える身は、自分と砲撃の間に誰かが立ちふさがった姿を見る。

 自らとほぼ同じ背格好。熱田の阿武隈が、射線上に割り込んで来たのだ。

 

 

 ●

 

 

 潮が阿武隈たちの姿を見つけた時、敵艦隊はすでに撃沈された後だった。

 肩に乗る提督から「阿武隈の艤装に異常が起きて、あちらに居られなくなった」と告げられ、待機中であった艦娘たちは、出撃可能であるものが総出で救援に向かったのだ。

 予備の水偵をすべて発艦させての捜索は、瞬く間に良い知らせと悪い知らせとの両方を運んで来た。

 良い知らせは、水無月島の阿武隈が無事であったこと。

 そして悪い知らせの方を嘘だと否定したい一心で速度を保持していた潮は、艤装の機関が停止するとともに、自らの心臓をも止まってしまいそうな思いだった。

 

 水無月島の阿武隈は上半身を海面から覗かせ、作動して救命ボートの形に膨らんだフロートに捕まって救援を待っていた。

 そしてフロートの上には、もう1隻の艦娘の姿があった。

 青ざめた肌はあちこちに赤い飛沫を覗かせ、黒い上着を被せられた上半身は、本来あるべき部分が欠けていた。

 熱田の阿武隈であった彼女に、もう命がないことは明らかだった。

 

「……提督? そこに居ますか?」

 

 フロートにしがみ付く阿武隈の声。

 目が見えなくなってしまったのか、阿武隈は顔を上げ、鼻先で提督の姿を探そうとする素振りを見せる。

 彼女の下に寄り添った潮と提督は、その最期の頼みを聞く。

 

「近代化改修を、お願いします」

 

 阿武隈の言う近代化改修は、現在普及しているプログラムの更新や最適化とは異なるものだ。

 深海棲艦との戦いが始まった当初に考案された、複数の艦娘を1隻に統合するというもの。

 艤装核の複数個保有と同様に、意識や記憶をも統合され、混濁し、最悪の場合発狂することから廃止されたはずの機能だ。

 10年の間、外界から隔絶されていた水無月島では、その機能がまだ生きている。これまで使用されることがなかったというだけで。

 

 水無月島の阿武隈は艤装核を、熱田の阿武隈は肉体を損なった。

 本来ならば消滅を待つばかりとなった彼女たちではあるが、それぞれが失ったものは、まだ無事なのだ。

 彼女たちを統合する。水無月島の阿武隈の肉体と、熱田の阿武隈の艤装核を同期させる。

 混濁は避けられないだろうが、成功すれば2隻とも消失するという結果だけは回避できるかもしれない。

 ただし、そうして統合された彼女が、自分たちの知る阿武隈のままだという保証はない。

 

 阿武隈の提案を聞いた潮は、頭の中が真っ白になってしまっていた。

 普段通りの逃避癖が発揮されたものだが、今この時に置いてそれでは駄目だと、必死に考えを巡らせようとする。

 しかし、普段の癖がそう簡単に覆ることはない。

 海面に膝をついて固まる潮は、肩に乗っていた提督がぴょんと飛んで、阿武隈たちを乗せたフロートに飛び移る様を目にする。

 

「……もし近代化改修に失敗しても、熱田の阿武隈の艤装核は無事ですから、それで……」

「その艤装核を用いて建造を行ったとして、それはもう、僕たちの知るキミたちではないんだよ」

「わかってます。だから、積み上げたものをゼロにはしたくなくて、こんな、無茶なお願い……!」

 

 言葉の途中で泣き出してしまった阿武隈は、提督が鼻先に触れる手にすがるように顔を振る。

 阿武隈はもちろん、提督とて辛いはずだと、潮はふたりの話に入り込めずに思う。

 水無月島の提督にとって、この阿武隈は、彼が初めて建造した艦娘だ。

 それがこうして、目の前で失われようとしていることに、どうして耐えられるというのか。

 

「もうじき榛名たちが迎えに来る。そうすれば……」

「鎮守府に帰れるんですね? 私も、彼女も」

 

 笑む阿武隈に、提督が「必ず上手くいく」と力強い言葉をかける姿に、潮は驚きを隠せなかった。

 潮がこの提督のことを見てきたのは、ほんの数ヵ月の間だけだ。

 自らが見た彼の姿も、人から伝え聞く彼も、楽観的ではあれど、決して確証の無いことは口にしなかったはずなのだ。

 それを知らない阿武隈ではないはずだが、彼女は嬉しそうに、安堵したように笑っている。

 例え自分が失われるとしても、大切な人が必ず助かると信じてくれている。

 それだけで、彼女の幸福は充分すぎたのだ。

 

 

 ○

 

 

 提督の軍装を纏う艦娘の姿に違和を感じなくなるのは早かったと、霞は艦橋の片隅で思う。

 妖精の手による修復を経て、鋼の巨影は瞬く間にその姿を取り戻した。

 元通りに修復された艦橋には、霞や響をはじめ複数の艦娘の姿と、そして提督の姿がある。

 提督、軍装を纏うのは艦娘であった電で、真っ直ぐ前を睨んでいたはずの眼差しが、ふっと笑みに歪む。

 

「皆、暇なのですか? 艦橋がちょっと賑やかなのです」

 

 はにかみ気味に電が言うとおり、艦橋に集った艦娘たちは霞や響だけではない。

 海上で哨戒中の艦娘以外は、ほとんどがこの艦橋に身を置いているのだ。

 しかし、提督姿の艦娘が言うような賑やかさは、この場にはない。

 皆張りつめた表情と雰囲気で、消えてしまいそうな灯を見守っているかのようだ。

 

 実際にそうしているのだという自覚が、霞にはある。

 電が艤装を解体し、水無月島の提督に別れを告げてから数日。ここまでの航海は怖いくらいに順調だった。

 超過艤装に不調は無く、敵襲も無ければ艦娘にもそれ以上の不調は見られない。

 これまでの敵襲がなんだったのかと憤りたくなるほどに、何もない。

 敵の“統率者”がこちらへの興味を完全に失ってしまったかのようで、霞はやはり解せない気持ちを抱きつつ、どうかこのまま通常海域へ辿り着いてくれと願うばかりだった。

 しかし、もしそうならずに敵襲があったのならば、ここにいる艦娘たちは我先にと戦場に飛び出して行くだろう。

 1秒でも早く敵を沈めてこの艦橋に戻り、灯が消えていないことを確認するために。

 

「そんなに注目されると、恥ずかしいのです」

「は。何を勘違いしてんだか……」

 

 悪態突いては見る霞だったが、自分の言葉に欠片も嫌味が含めていないことに眉が寄る。

 言葉通りの感情が乗せられないは向こうも同じようで、どこか余所余所しいはにかみ笑いで誤魔化している。

 誰も彼もがそういった心地で過ごす中、電にべったりとくっついた響だけは、感情むき出しの正直者のままだった。

 ここ最近は何をするにしても電にくっついている響の姿は、霞の目にも、そして水無月島の面々にとっても新鮮だった様子だ。

 それがこの雰囲気を作り出す原因の一端であるとは言え、誰も責められない。責めるつもりもない。

 もしも電に最期の時が訪れるのならば、彼女の傍に居てあげてほしい。

 

 本当に縁起でもない言い方だなと嘆息する霞は、艦内に響くサイレンの音に表情を険しくする。

 所属不明の航空機の接近。

 巻雲や朝霜が即座に艦橋を飛び出して行き、それに続こうとする響は、時雨に襟首を掴んで引き留められる。

 

「あんたの持ち場はここよ」

 

 曙が吐き捨てるように呟き、先を急ぐ。

 呆然と立ち止まった響を置いて、各々は持ち場へと駆けて行く。

 空母も重巡も全てが海上へと飛び出し、全員で戦闘のダメージを分散させようとしていることは明白だ。

 引き留められた響はそれを追わず、電も彼女たちの行動を制することはしない。

 それどころか、電はこの状況下にあって、ようやく安堵できたとばかりに力を抜いた笑みを見せるのだ。

 

「大丈夫、敵ではないのですよ」

 

 言葉の通り、艦内に元気な駆逐艦の声が届く。

 敵支配海域では遮断していたはずの無線通信だ。

 それを行うと言うことは、支配海域内部にはいなかった勢力が新たに現れたと言うこと。

 

『こちら熱田島鎮守府所属、駆逐艦・杉! 伊勢型のお迎えに上がりました!』

 

 霞がふらふらとした足取りながら艦橋の窓に辿り着くと、ちょうど空を覆っていた曇天が途切れて行き、昼間の青空が顔を出すところだった。

 敵支配海域の脱出はここに完了した。

 即座に戦闘態勢は解除され、危険な敵支配海域まで迎えに訪れた超過艤装たちに合流する。

 霞が所属していた熱田島鎮守府の警戒隊であったものたちや、前期突入作戦に参加していた超過艤装隊が護衛として同行。

 これだけの戦力が揃えば、熱田島までの道行は保障されたも同然だと、霞の顔にもようやく笑みが戻った。

 

「ねえ、電? 青い空と海よ……」

 

 表情を緩めた霞が提督の方を振り向く。

 そこには、主を失った軍帽を抱え、膝を付く響の姿があるだけで。

 駆逐艦・電であった少女の姿は、もうどこにもなかった。

 

 

 ○

 

 

 清霜はふら付いた足取りで工廠を後にし、皆が集まっているはずの執務室へと向かおうとした。

 歩みは遅い。長旅の疲労が抜けきっていないこともあるし、気が重いからだという理由もあるかもしれない。

 だから、潮がまだ地下の建造ドックから上がって来ないことに気付いても、戻って呼びに行くだけの気力はなかった。

 地下へ続く階段に座って彼女の気が済むのを待つ。

 自分は気が済んだかと問われれば、清霜は絶対に首を横に振るだろう。

 それがわかっているからこそ、こうして引き上げてきたのだ。

 

 阿武隈たちの処置は無事に完了した。

 肉体が損壊した熱田の阿武隈と、艤装核が破損した水無月島の阿武隈との統合は、その全工程を無事に完了した。

 しかし、そうして一体化した彼女が目覚めることはなかった。

 肉体にも艤装にもこれといった異常は見つからず、ただ、眠り続けている。

 2号ドックを改良したカプセルの中で延命する彼女の姿に、その前で泣き崩れる潮の姿を目の当たりにして、清霜は以前自らが考えていたことをもう一度考え直す。

 

 生きてさえいれば、たいてい何とかなるのではないか。

 あの光景を見た後では、もうそうは思えなくなってしまっていた。

 延命するも、彼女は目覚めることはない。

 どうすれば目覚めるか、誰にもわからないのだ。

 水無月島の清霜が建造された時から面倒を見ていた阿武隈は、物言わぬ姿で鼓動を刻み続けている。

 自分はあまりにも無力過ぎた。

 だから、こうして頭の中に声が聞こえてくるのかもしれない。

 幻聴。力を欲するかと問いかけてくる声が。

 

 その声の主が何なのかと考えている内に、清霜は自分が執務室に辿り着いていたことに気付く。

 泣き腫らした潮も隣りにいる。

 水無月島において動ける全艦が、執務室に集まっている。

 時計を見れば、清霜が工廠を出てからかなりの時間が経過していた。

 胡乱になっているなと唇をかみ、その視線は提督に向けられる。

 

 提督は椅子に座って項垂れていた。

 やつれてしまったように、もう何歳も歳を取ってしまったようにも見える。

 誰も、こんな彼の姿は見たくなかったはずだ。

 提督自身も、こうした姿を見せたくなかったはずだ、とも。

 なんだかんだと、これまでは皆無事に生還していたものが、今回ばかりはそうはいかなかった。

 提督の考えが、あるいは人柄そのものが変わってしまってもおかしくはない。

 そういう喪失だった。

 

 不意に、提督は立ち上がり、机の上にあった封書を手に取る。

 一部の艦娘が息を呑む音が聞こえた。

 手に取られたのは、最終作戦概要。

 深海棲艦との戦いを終わらせることが出来るかもしれない一手を記したものだ。

 それを手に取ったと言うことは、提督が自棄になったのか、それとも考えるのを止めてしまったのか。

 清霜にはわからなかったが、それでも目深帽子の下の瞳が逡巡している姿は、はっきりと確かめた。

 

 伏せられた目。視力を喪失した左目を、似合わない大きな眼帯で覆った、片方だけの目。

 

「僕は、皆の帰りを待つ。そのつもりだよ」

 

 囁くような声量。

 艦娘たちのざわつきの方が大きいはずだが、提督の声ははっきりと耳に届いた。

 

「もしかしたら、皆が帰って来るまで、僕は生きていられないかもしれない。だから、時計の針を速めてしまおうと考えている」

 

 それは深海棲艦との戦いを終わらせるという宣言に他ならない。

 戦いが終われば、きっと皆、帰って来てくれる。

 望みの薄い可能性を、それでも信じているのだ。

 

「だから、これから大きな無茶をするよ。皆の考えと相反することもたくさんすると思う。それでも、一緒に戦ってくれるかい?」

 

 誰もが、嫌だとは言わないはずだと、清霜は考えていた。

 そうでなければ、自分たちはこの島に戻ってこなかった。

 逃げ出すことなど不可能な環境にあったことは確かだが、そんな選択肢は最初から視野に入れていない。

 

「……ご主人様さあ、漣たちがご主人様のこと、めっちゃ好きだって知ってて、あえてそれ言う?」

 

 呆れた様子の漣の言葉に、提督は苦笑気味に頷いた。

 ふんと鼻息吹いた漣は、腰に手を当てたままつかつかと提督の下へと歩み寄ると、握った拳を「えいや」と彼の腹に叩き込んだ。

 一部の艦娘が悲鳴を呑みこまんとする中、提督は微笑ましげに笑っているし、殴った側の漣も笑みだ。

 どういう状況だろうこれはと混乱が生まれる中、清霜は漣の言わんとしていることには概ね同意する気持ちだった。

 

「皆が帰ってきてほしいのは漣たちだって一緒なの。ご主人様が下がってろって言ったって、漣たちは勝手に手伝うんだからね!」

 

 それはそれはと笑んだ提督が、拳を痛め脂汗を浮かべて蹲っていた漣を立たせると、横合いから卯月が「えいやえいや」と腹に連打を入れて行く。

 そこに若葉や浜風が追撃して、清霜も跳び付くように参戦。

 呆れたように静観する衆は、プリンツの参戦までは黙って見守っていたが、榛名が助走を付ける素振りを見せたところで全力で捕縛した。

 その横を奇声を上げた熊野が走り抜ける。助走の乗った美しいクロスチョップは提督には届かなかったが、一塊になっていた皆を巻き込んだので、もしかすると成功だったのかもしれない。

 

 じゃれ付きたい盛りの艦娘たちがひとしきり襲い掛かった後、提督は最終作戦概要の封を切った。

 途端に執務室が静まり返るが、その温度を提督の笑みが和らげた。

 そうして、清霜は何となくであるが、気付いてしまった。

 提督は怒ることが出来ないのだ。おそらくは泣くことも。

 

 艦娘以上に歪につくられた人の似姿は、封書の中身に目を通す前に、とある詩を朗々と読み上げる。

 

「……僕の命のろうそくは短く、夜明けまでは持たないかもしれない」

 

 とある作家の詩。

 世界大戦を生き抜き、戦後作家となった元飛行機乗りの詩。

 ロアルド・ダール氏の人生モットーだ。

 

「ならば、両の端から火を灯し、敵も、味方も、すべてを明るく照らし出そう」

 

 それは直訳ではなく、提督なりのアレンジが入っていて、本来の意味とは別物になっているなと清霜は感じた。

 しかし彼が、この詩を気に入っていることは間違いようがないとも、そう思う。

 だってこれは、まるで自分たちのことのようなのだから。

 

「嗚呼、愉しきかな。光の舞は……!」

 

 

 




6話:主役気取りの舞台装置は、己の信じた方向を照らし出す



第4章『かえりみち』完

第5章『大和の帰還』へ、つづく



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