軽巡・酒匂は高速巡航形態を維持し、艦隊の先頭に立って海上を疾走する。
速度の上がり過ぎを意識したものか、補完艤装に備わったミラーで背後の旗下を確認し、速度を微調整して陣形の保持に努める。
単縦陣にて目指す先は、ある地点へ向けて進行中の敵艦隊。その横っ腹だ。
本来ならば阿武隈が居るべき位置に自分が立つとは思っても見なかったが、その位置を代わることに対する諸々の感情は、すでに鎮守府に置いて来た。
今いる位置は、彼女が戻るまで自分が守るべき場所、その役割だ。
旗艦を任された当初こそ戸惑い、大いに失敗をやらかしたものだが、皆の助けもあって徐々に板について来ている。
最近では顔付も変わってきたとよく言われるが、酒匂自身にその自覚はない。
ただ、髪を伸ばし始めたので、その点は確かに変わったものだという覚えはある。
入渠時の調整をカットして伸ばし始めた髪も腰のあたりまで届き、普段は後頭部で括って一纏めにしている。
休みの日は皆が髪を弄りに来て三つ編みにされたり巻かれたりと忙しいが、そういった楽しみが増えたのは嬉しいことだ。
だから、その日々を続けるためにも、全てにおいて気を抜けない。
水無月島の提督が乗り出した最終作戦。
それとはあまり関わりがないが、しかし重要な作戦を、現在は遂行中なのだ。
彼女を取り戻すことが出来れば百人力の戦力となり、敵に渡ってしまえばこちらの不利は確実。
酒匂としても、勇壮な彼女の姿をこの目にしたいと常々思っていたのだ。
だから、今回の作戦に対する思い入れは人一倍と言って過言はない。
過言ではない。過言ではないが、思い入れならば彼女たちも負けていないはずだと、酒匂はもう一度ミラーで背後の旗下を確認する。
酒匂の背後には駆逐艦が5隻。その中には浜風と磯風の姿もある。
この2隻にとって、艦艇時代に最期を共にした彼女の存在は大きい。
普段から鬼気迫る表情で任務に挑む2隻ではあるが、今回は輪をかけて怖い顔をしていると感じる。
未だ必須訓練時間を満たさず、鎮守府近海の警備から離れられない初霜や雪風、それに涼月とて、この編成に加わりたかっただろうとも。
「酒匂、敵艦隊捕捉だ。どう攻める?」
妖精の信号経由による、二番艦・若葉からの進言。
見れば、もはや視認できる位置に敵艦隊の姿があった。
単縦陣にて真っ直ぐ目標地点を目指す、敵6艦編成の姿。
それを真横から見据える酒匂の表情が、薄っすらと硬直してゆく。
「回り込んで、突っ込むよ」
「後ろから?」
「正面から!」
大きく舵を取った酒匂に続くように、駆逐艦たちは速度を保ちつつ体を傾けて、そして立て直す。
若葉が問うたような背後からの回り込みでは、速度を上げてやり過ごされる可能性がある。今回のような場合ならば特に。
だから、少々の破損は承知で、敵の進路を塞ぎ、速度を削ぐ。
敵艦隊の編成は旗艦側から、戦艦2、軽巡1、駆逐3の6艦。
正面に回り込んで、魚雷で敵の足を止めるのだ。
駆逐・軽巡の砲撃程度ならば、その堅牢さで押し切ろうとする戦艦級も、魚雷の接近は回避せざるを得ないはずだ。
もしも旗艦が戦艦級1隻を盾にする判断を下したとしても、それは敵の力を確実に削ぐことにつながる。
こちらの存在に気付いた敵戦艦級が砲塔を指向する間に、正面への回り込みは完了していた。
艤装のグリップから右手を離し、後列にサインを送って突撃を指示。
速度をさらに上げての反攻戦。梯子型陣形で敵艦隊の正面に構え、各艦次々と魚雷を投下する。
対する敵艦隊は酒匂の読み通り、旗艦を盾にした強行突破を仕掛けてきた。
この時点で、酒匂は確信を幾つか得る。
艦隊の旗艦が盾となって自らを使い潰す動きを取ると言うことは、その後続が旗艦の代わりを務めても支障ないと言うこと。
そして、この敵艦隊はさらに上位の深海棲艦の指揮の下に行動しているという確証だ。
艦の喪失を前提として練られた動き。
自分たちは決して行わないはずの動きだ。
敵艦隊の旗艦ル級は盾砲型の生態艤装を前面に展開して、魚雷の炸裂を一身受けつつ進行する。
敵への打撃は心が痛む。こればかりはどうしても慣れることがない。
艦艇の時代に実戦経験がなかったが故かと考えていたが、それは自らが身を置く場所が、そう言ったことを忘れないだけの余裕を残してくれているからだと、酒匂は思うのだ。
敵旗艦が爆発炎上し、海中へと沈みゆく。
その背後から、後続の艦隊が何事もなかったかのように進み出てこちらへと殺到する。
仲間の喪失を気にも留めない、そんな素振りを微塵も見せない敵の姿に、酒匂は硬直させたはずの表情を歪ませた。
その在り方が彼女たちの本意であるかは定かではないが、自分はああいった存在にはなりたくないと唇を噛む。
そして、そんな世界に行ってしまったかもしれない仲間のことを思うと、さらに胸が痛むのだ。
敵艦隊とのすれ違いざまに砲撃戦は行われた。
彼我の損傷は同程度の軽微。
敵を確実に沈めるのではなく、受けるダメージを最小限にする接触だ。
高速で背後へと去ってゆく敵艦隊は、新たな旗艦へと繰り上がった戦艦ル級以外、攻撃の意志は見せない。
敵は目的地へと速度を上げつつ、新たな旗艦であるル級だけがこちらへ砲撃を開始する。
狙いは、こちらの艦隊最後尾の清霜だ。
戦艦級の有効射程を離れるまで続くであろう攻撃は、確実に精度を上げて峡嵯となる。
清霜に援護をと酒匂は思うが、しかしそれはいらないだろうと即座に判断する。
清霜は半身となって味方艦隊に追従しつつ、自らに迫る砲弾に対して長10センチ砲を掲げる。
確実に己の身を穿つ一撃ならば、狙いを定めることなど造作もない。
言葉にせずとも彼女の背中からはそんな思いが読み取れて、そして実際にル級の砲弾を空中で撃ち落としてみせた。
爆砕した砲弾が破片となって降り注ぎ、清霜の体と艤装を散弾の様に打撃する。
態勢を崩して転倒するかというところを、五番艦に位置していた風雲が背後から支えて持ち直し、全艦、敵の射程から離脱を果たす。
たいして足止めにもならなかったが、主力がこの場に到着するまでの時間稼ぎは出来た。
視界の端、巨大な水柱を上げながら高速で疾走する味方の影を遠目に見る。
それは瞬く間に進行中の敵艦隊へと激突して、砲雷撃どころか接触しただけでそれらを蹴散らしてしまう。
接触した駆逐イ級がくの字に折れて空高く舞い上がる様には、後続の磯風たちも同情のため息を禁じ得ない様子だ。
前後に分断された敵艦隊が、砲撃体勢を整え応戦しようとするよりも先に、海面を跳弾してきた砲弾が駆逐級を順に吹き飛ばしてゆく。
宙へと跳ね上がった敵に対して、さらに砲撃が加えられた。
空中で打撃するのは最早冗談とも思える光景で、つくづくあの姉妹は規格外だと酒匂は苦笑する。
瞬く間に敵艦隊を轟沈せしめた味方は水上をドリフト、というよりはスキッドして酒匂たち水雷戦隊を追い抜いて行く。
水無月島の第一戦隊、榛名と霧島だ。
互いの高速型補完艤装を変形合体させた超高速巡航形態は、現在運用されている艦娘の中で最高速度の名を欲しいままにしている。
すれ違いざまに片手を上げて挨拶した彼女たち。その姿はすぐに水煙の向こうへと消えてゆく。
向かう先は、目標地点へと向かっている敵の別働隊だ。
大淀の読み通り、敵は艦隊を複数に分けて目標地点を目指していた。
その艦隊数は10を超え、現状の水無月島の戦力では、とても対応しきれるものではない。
ならば、少しでも敵の進行を遅らせて、こちらの本命が先に目標地点へと接触を果たすまでだ。
それまで、酒匂含む水無月島の艦娘たちは敵の動きを抑える必要がある。
先の榛名や霧島が向かえば瞬く間に敵を撃沈出来るだろが、広範囲に散った敵艦隊をすべて沈める前に、どれか一個艦隊が敵に接触してしまう。そうなってしまえば作戦は失敗だ。
だからこそ、酒匂たちは最も目標地点に接近した敵を抑える役割を担った。
敵艦隊の分布は熊野の索敵機が教えてくれるし、鳥海率いる第二戦隊も動いてくれている。
もたらされる情報を元に次のポイントへと舵を取ろうとした時、酒匂の背部艤装が黒煙を吹き、機関が異音を上げ始めた。
敵艦隊と砲火を交わした時のダメージだ。
致命打こそ避けられたものの、放って置けば航行能力に支障が出始める。
このままでは旗艦としての役割を果たせなくなる。
そうなる前に作戦から離脱するべきかと唇を噛むと、若葉から退避の進言があった。
「酒匂がすべて負うべきことではない。ここは下がるんだ。代役は任せろ」
感情を押し殺した若葉の指摘が頼もしい。
逡巡する時間も惜しいとばかりに、酒匂は自らの離脱を決めた。
臨時旗艦を若葉に、曳航役を浜風に頼み、速度を上げた仲間たちを見送る。
数が減り水雷戦隊というよりはもはや駆逐隊となってしまったが、彼女たちは皆死線を潜ってきた艦娘だ。
特に、殿でこちらに手を振ってくる清霜の姿は心強さにひと押しした。
「浜ちゃんごめん。会いたかったよね?」
「作戦が成功すれば、いつでも会いに行けます」
苦笑いする浜風の気遣いが心に痛かった。
○
まるゆは密かに海中を進み、目標地点付近で浮上を開始した。
味方の現状の動きは、頭上に位置する妖精化した提督(シュノーケルを装着した海中仕様だ)が教えてくれる。
熊野の索敵機の情報からも、周囲に敵艦隊の影がないことは確かだ。
問題は、これから接近する対象だ。出会い頭に攻撃を受けることは既にわかりきっているので、浮上してからは迅速に、そして慎重に進めなければならない。
だから、こちらの存在をぎりぎりまで知られないよう、浮上しつつ距離をも詰める。
浮上と潜行とを繰り返し、腹部が海底にすれる程の浅瀬を行く。
プリンツなら絶対に近付けない位置だなと薄く笑みが浮かび、安全策のデコイを先に浮上させた。
大型の運貨筒。中には仕掛けがしてあり、砲撃が直撃すれば即座に爆発するように仕掛けられている。
これを浮上した潜水艦に見立て、目標の注意を引き付けるのだ。
安全策は狙い通り、即座に目標からの攻撃を誘い出した。
頭上の海面が広範囲に亘って爆ぜ、かき混ぜられる。
余波は海中をも打撃してまるゆの船体を押し流そうとするが、その衝撃には逆らわず、利用して、デコイから距離を取る。
運貨筒が爆発、炎上するタイミングに合わせて、まるゆは急速浮上し海面へと躍り出た。
そして、背中に搭載していた特二式内火艇に提督が跳び移るのを感触で察知し、ロックを解除。
「いけぇ、カミ車ぁ!」
まるゆの背から内火艇が射出されるようにして発進、水面を跳ねるようにして目標地点へと向かう。
提督の他には陸戦装備の妖精たちがひしめき合い、わいわい喚きながら揚陸後の動きを確認し合っている。
水飛沫を掻い潜った先、提督は今回の目標である物体を間近に見る。
それは小島のような規模の鋼の塊だった。
ほぼドーム状となっているそれは、幾つもの艦艇の模型を高温に加熱して一握りに押し固めたかのような歪さで、各所に点在する捻じ曲がった副砲や機銃が絶え間なく火と音を噴き続けている。
10年以上前に沈んだはずの、水無月島所属であった艦娘の成れの果てだ。
彼女は沈むことなく、この姿で今日まで長らえ続けた。
艦娘から艦の側へと傾き、格納領域に搭載されていた複数の補完艤装を己を守る要塞に造り替え、その命を繋ぎ続けていたのだ。
彼女の名は大和。大和型戦艦一番艦・大和だ。
此度、水無月島の皆が救わんとして行動する、その目標だ。
彼女を発見できたのは、まったくの偶然だった。
軽空母へ改装を果たした熊野の航空機運用訓練の最中、道に迷った索敵機がこの要塞に攻撃を受けている深海棲艦の艦隊を発見したのだ。
調査の結果、外装の側面に水無月島のエンブレムが見とめられ、外装となっているのが補完艤装であると断定。これが戦艦・大和であると確証が得られた。
彼女を救い出すことが出来れば、最終作戦への大きな布石となる。
何より、失ってばかりの自分たちにとって、彼女を救うことは、折れ砕けてしまいそうな心を繋ぐ理由にしては、あまりにも大きなものだったのだ。
最早鋼の要塞と化した大和に内火艇が揚陸、提督はじめ妖精たちが即座に降り立ち、駆け出した。
提督たちの揚陸を感知したものか、副砲と機銃の群れが旋回し、小さな影を打ち据える。
銃砲の雨を姿勢を低くして掻い潜る提督たちではあるが、大半の妖精たちは風に舞う木の葉のように蹴散らされる。
死と言う概念がない妖精たちにとって、これもひとつの陽気な行事のひとつでしかないのだろうが、提督にとってはそう思えない。
死にはしないが、彼女らとて消滅する。その多くが何食わぬ顔で再会の杯を交わすものだが、消えたまま姿を現さない個体も、確かにいるのだ。
それを承知で嬉々として、こうした危険に身を投じる妖精たちは少なくはない。
彼女たちが何のためにそうした行動を取るのかは、妖精たち自身でもはっきりとわからないのだという。
妖精たちはきっと、何か大切な目的のために、無意識の内にこうしているのだ。
人や艦娘に味方して、力を貸すのもその目的のためだろうと提督は考えている。
例えそれで自らが失われようとも、彼女たちは自らの在り方を曲げることはない。
だから、提督はすべての妖精たちに敬礼を送り、死の雨の中を駆け抜ける。
再会すれば盃を。
叶わなければ弔いを。
今は彼女たちの声を背に行くだけだ。
目指す場所は鋼の要塞、その内部へと続く亀裂だ。
そこから内部へと侵入し、大和の艤装核と接触、彼女の自我を呼び起こす。
しかし、その道行は閉ざされようとしていた。
目標地点まで目前と言う時、真正面に位置する待機状態であった副砲群が一斉に動き出し、その砲身を提督に指向したのだ。
火を吹けばこちらなど消し飛んでお釣りが来る。逃げ場はない。
妖精と化した姿での死は、人としての死ではない。他の妖精たちと同じように時間を置いて元通りに復帰するだけだ。
それでも、提督本体の寿命は確実に損なわれるだろう。
承知の上だと、提督は小さな体でなお姿勢を低くして砲火を潜り抜けようとする。
砲群の動きが止まり、いざ砲撃と言う時、彼方からの攻撃がその動きを阻害した。
まるゆの搭載しているWG42の支援攻撃だ。
提督を投下したら急速離脱だと打ち合わせていたはずなのに、こうしてその場を動かず、こちらを助けてくれる。
水無月島の所属の中では一番古い付き合いとなってしまった彼女だ。
その彼女が出撃前に言っていたことを覚えている。
自らが望まれ、しかし成ることの叶わなかった姿。その力。
まるゆを建造した彼が望んでいたはずの希望を取り戻してほしい。
その期待に応えるまでだと、提督は飛び込むようにして、要塞の亀裂に侵入を果たした。
○
胡乱な己が自我と言う形を取り戻しかけていると、彼女は思う。
来訪者の存在は、それだけ強い刺激だったと言うことだ。
敵味方の区別なく、近付くものを攻撃するだけの存在となって久しかったが、それらを掻い潜ってこちらの懐に入り込んだのは、どうやら味方のようだ。
こちらに語りかけてくるのは若い男の声。
浮かんだイメージは妖精のそれだったが、恐らく本当は人間の形をしているのだろう。
提督。その言葉を忘れた日は無かったはずだが、ずいぶんと懐かしい響きに感じられた。
人間的な感情を失ったこの身でも、涙が温度を保つような、そんな響きがある。
「来るのが遅くなってしまってすまないね。目覚める気には、なれるかい?」
問いかけの意味を、彼女は思う。
それは、再び艦娘として戦いに身を投じる覚悟があるかということだ。
最後の出撃における大敗は、悪夢と言う形で彼女を苛むだろう。艦娘の身に戻れば。
物言わぬ鋼に近い今は、そうした悪夢を無為にやり過ごせる。痛みも悲しみも感じなくていい。
だが、提督の問いかけはひどく魅力的だった。蠱惑的と言ってもいい。
自分にはまだ機会が与えられる。それがどれだけ幸福なことか、彼女は知っている。
艦娘の時代も、艦艇の時代も、機会には恵まれなかったと思う。
果たせなかった諸々が多すぎて、悲嘆がひとりでに化けて出そうだ。
今の自らの姿が、恐らくはそれなのだ。
だが、再び目を覚ませば、どうだろう。
毎夜訪れる悪夢と引き換えに、得難い機会を手にすることが出来るのだ。
ただの一度も得ることの適わなかったもの。そしてその先にあるものを、目の当たりにすることが叶うかもしれない。
それは、彼女が考えているような華々しいものではないかもしれない。
目覚めなければ良かったと後悔する可能性の方が高いくらいだ。
それでも、彼女は再び目覚めようと思った。後悔ならば甘んじて受けようとも。
幾度悲嘆を抱いて沈むことになろうとも、戦い続けることでしか果たせないものがある。
過去と現在の無念を晴らして未来への道を繋ぐ。
そのために、彼女は提督の声に導かれることにした。
大和は長い眠りの時間を終えた。
○
朦朧としていた意識がはっきりしてくる。
目に移る風景は、薄明りが照らす洞窟のような場所。
大和が身を置くのは、彼女が作り上げた要塞の中だ。
ただ、体をがちがちに固めていた鋼の感触が今は薄く、温泉のような桃色の湯の中に自らはあった。
すぐに入渠場の湯だと思い至る。
己が纏っていた補完艤装の材質を再利用して、仮の船渠を作り上げたのだと合点が行く。
この要塞の中で、これから己の修復が行われるのだろうと思うと、安堵の息が漏れる。
まだまだ人の感情を取り戻し切れてはいないが、自分が安心しているのだと、それだけははっきりと理解できた。
「お目覚めの気分はどうかな? それと湯加減の方は?」
若い男の声がする。提督の声だろう。
固まった関節に負荷をかけないよう、ゆっくりと声の方へ首を巡らせれば、軍装姿の妖精が傍らにあった。
恐らくは彼が提督なのだ。
「大和はもっと熱いお風呂が好みです」
舌の回りはあまり良くはないが、言葉選びはまあ及第点だと、そう思う。
不躾な物言いに提督は笑んで、湯の温度を上げて入浴剤を投下するようにと妖精たちに指示する。
湯の色と同様の桃の香に、長らく忘れていたはずの空腹を覚えるが、気の利いたことに食事は用意されているようだ。
湯の上に揺蕩う大きな盆。その上に整列する色とりどりのおにぎりは、この仮船渠がある地点に物資を運搬してくる輸送艇が毎日運んでくるのだとか。
未だ会ったことのない仲間に感謝し、しかし今の自分の体では食事もままならないなと悲嘆にくれる。
体がまだ自由に動かないのだ。感覚も覚束ない。
湯の中にある自分の腕が、人の腕の形をしているかすら怪しい。
もっと自由に体が動かせるようになるまで流動食をチューブで流し込まれるのではと考えたが、しかしならば、このおにぎりはなんだ。
その答えはすぐに、隣りに位置する人物によってもたらされる。
湯衣を纏って大和に寄り添うこの艦娘に、この大和自身は会ったことがなかった。
しかし、それでもわかる。彼女が何者か。
「陽炎型の、浜風ね?」
「ずっとお会いしたいと思っていました」
銀色の長い髪が涙ぐんだ目元を隠し、それはこちらが言いたかったことだと、大和は言葉を呑みこんだ。
艦娘であった時代に出会えなかった旧知が多すぎた。彼女もその内の1隻だ。
浜風の背後で自らを指さして自己主張している、桃色髪の工作艦の彼女も。
「本当はキミの本体を連れて水無月島へ帰投したかったのだが、それが困難であったため、このような形を取らせてもらっているよ」
提督の言によれば、大和の肉体を再構成することには、一応成功した。
だが艤装核は、この要塞の材質と強固に癒着していて、切り離すことが困難なのだ。
だからこそ、敵支配海域のど真ん中で湯治状態を続行中。艤装核のサルベージにはもうしばらく時間がかかる。
「それまで、不肖浜風がお世話をさせて頂きます」
「お手柔らかに」と笑んだ大和は、先の提督の言葉の中に、懐かしい響きを見付け、かつてを思い出す。
水無月島だ。大和が所属していた鎮守府があった場所。
最期の出撃の後、あの島の今に至るまでの姿を知らない。
「それを語る義務が、僕にはあるね」
高いところから飛び降りた提督が、浜風の用意していたお椀の上に着地、流されて大和のところまでたどり着く。
「キミに話すよ。キミが水無月島を離れていた間のことを。今から約2年前、僕があの島に流れ着いてからのことを。あの島に取り残されていた、彼女たち姉妹のことを」