大勢の乾杯の声と、杯が合わさる音が食堂内に響き渡る。
水無月島鎮守府の食堂だ。夕刻、作戦成功の達成感をあらわにした面々の声を、大淀は喜ばしく思う。
このところの皆は張りつめた顔ばかりで、今のような緩んだ笑みを見たのは久しぶりなのだ。
提督の杯にお酌すると、駆逐艦たちが建造の若い順に列を成して乾杯にやってくる。
それらの小柄な娘たちと杯を合わせ、後続になるほど話す時間が増えて。
提督の下を離れた艦娘たちも、いつもの編成とは違う輪を作っていて、それはこれまでの生活の中で失われたはずのものだと、大淀は考えていた。
熱田からの救援が艦娘たちを乗せて旅立ったあの日から、1年近くの歳月が過ぎた。
水無月島の面々も変わりゆく中、提督だけが、以前と同じような笑みを絶やさなかった。
変わらずにあろうとしているのだ。片方の視力を失い、杖なしでは立ち上がるのが困難となった身でなお、彼女たちがいた時間と同じ自分を保とうとしている。
それが日に日に難しくなっているのは目にも明らかだが、提督はそのあり方を変えようとはしない。
彼女たちの帰りを待つための彼の姿があるからこそ、自分たち艦娘が安心して変わってゆけるのだ。
敵支配海域における艦娘の、新たな運用方針。
その結果を、その姿を、大淀は日に日に実感するに至る。
髪だけでなく手足もすらりと伸びた酒匂、清霜や卯月と言った娘たちも以前より頭ひとつ分も背が伸び、若葉は最近ブラジャーを着けるようになったし、漣などは見違えるように色っぽさが増したものだ。
艤装との同期間隔を大きく取って肉体の成長を促し、深海棲艦化の進行を遅らせる。
かつてこの島に取り残された暁型の娘たちの様に、艦娘たちは艤装との距離を取った。
当然、肉体の成長に伴い操作性は悪化、白と黒の追体験は精神に過大な負荷をかけてくる。
それでも、そう言った変化の良さを受け入れて日々を送れていたのは、そうして過ごしてきた例がすでにあったからだろう。
一部の艦娘たちは姉妹艦が新たに建造されたことによって、自分がひとつ上の立場になったと自覚を新たにしている。
妹艦である菊月が建造された卯月がいい例だろうか。頑なに「ねえさん」と呼んでくる菊月に対して意地でも「うーちゃん」と呼ばせようとしてるやり取りは、最早この鎮守府では見慣れたものだ。
逆に姉の方が遅れて来てしまった綾波型や陽炎型は、その扱いを悩ましく思っている節もあるようだ。
基本半脱ぎの格好で鎮守府を歩き回る雪風に対して、どうにかして服を着せようと試みる磯風や浜風。
あるいは、姉艦である狭霧を猫かわいがりして困らせている漣や潮がそうだろうか。
居なくなった者たちに思いを馳せるばかりではなくなった日々ではあるが、彼女たちを忘れたことは1日たりともない。
それは後続の接し方に表れているし、自らの肉体の変化に対する気持ちの置き方に受け継がれてもいる。
彼女たちという前例が、今を進む自分たちに続いているというのは、大淀自身も感じていることだ。
だから、早くと、逸る気持ちも理解できる。
この戦いを終わらせるための戦場をと、そう願う気持ちも。
今回の大和奪還で、皆はこれまでの負債を少しは返せたという気持ちになれただろうし、何より自分たちに自信を取り戻せたのではないか。
明日から彼女の修復に取り掛かるため、今日の宴も早めにお開きだ。
しかし各々、まだまだやることは山積みなのだ。
杖を手に椅子から立ち上がろうとする提督を介添えしようとするが、それは笑顔で拒否される。
まだまだそんな歳でもないよと、そう笑む彼の顔には深い皺などなく、確かにまだまだ若さを保っている。
保っているが、それでも大淀は、週一のペースで彼の髪を黒く染め直している。
そうで無ければ、艦娘たちは日に日に白髪の領域が増えて行く提督の姿を痛々しく見ていただろうと、そう確信がある。
彼自身の種としての寿命は、もう幾許も残されていないのだ。
下手をすれば最終作戦に辿り着くまで持つかすら怪しい。
それを承知で、彼は時間を進めることを選んだのだ。
「今日は久しぶりに、たくさん笑った気がするよ。僕も、皆も」
杖を付き、壁に手を添えて歩む提督に寄り添う大淀は、彼の気の抜けた笑みに苛立たしさにも似た感情を覚える。
この笑みが失われる前に、自分たちの目的を果たすことが出来るだろうかと。
まだまだ猶予はあるはずだが、乗せるべき数字が欠けている計算に対して意味などあるのだろうか。
敵の大本の正体すら未だに掴めずにいるというのに。
「それを、これから探りに行くんだ」
提督の声に意識を戻す。
工廠施設内。地下へと降りる階段は狭く、暗く、明滅する灯りの照らす先は、尚暗かった。
○
脱衣所の扉を開けたプリンツは、向かい合って対峙する白と桃色を見る。
若干の体格差がある彼女たち姉妹は、湯上りの体から湯気を立ち上らせ、脱衣所の温度と湿度をわずかばかり押し上げていた。
各々異様な構えを取りながらも微動だにせず、相手の出方を伺っている。
湯から上がってきた艦娘たちが次々と、白桃の脇を視線ひとつ向けただけで通り過ぎ、時折「風邪ひくよー」と声もかかる。
「……艦娘が風邪などひくものか」
「いやいや、お菊ちゃんは風邪ひくぴょん」
「まるで馬鹿だと言いたいのか!」
「髪の毛乾かすの嫌がってたら艦娘でも風邪ひくぴょん! 今のうーちゃんたちは限りなく人間に近い艦娘だぴょん」
「ねえさん大丈夫か!? 難しい言葉なんて使って、頭がおかしくなったらどうする!?」
額に青筋浮かべた卯月が構えていたドライヤーのスイッチを投入、菊月に向けて放たれた風はすぐに熱を帯びた。
ヘッドロックしつつドライヤーで菊月の髪を熱する卯月は、しきりに自らのことを「うーちゃん」と呼ばせようと頑張るが、菊月の方も強情なもので、意地でも「ねえさん」呼びを続けてヘッドロックに抵抗する。
何を強情なと思うプリンツではあったが、原因が原因だけに、菊月の気持ちもわかるのだ。
伊勢型が去ってから建造された彼女たち駆逐艦は、再稼働した水無月島鎮守府においては第五期建造組となる。
駆逐級の艤装核は敵から奪取したストックが数多あり、人手が足りない鎮守府にとって建造しないという選択肢は存在しなかった。
この第五期建造組に関して特別な点があるとすれば、最初期から新たな運用方針に沿って訓練課程を進めることが決まっていたことだろうか。
最初から艤装との同期間隔を大きく取ったことで、人としての成長は大いに促進された。
それでも成長には個人差があり、菊月の建造前から新運用で挑んでいた卯月との体格差は中々埋まるものではない。
「やったあ、出たぴょん。うーちゃんの妹艦一発ツモ」と喜んでいた卯月も、生まれた時から反抗期真っ盛りな妹艦には、こうして手を焼いている。
それとなく、菊月に「何故そこまで?」と理由を問うてみたことがあったのだが、それはプリンツにも理解し得るものだった。
「……こんなにおっきくて頼りがいがあるのだ。これでは、“うーちゃん”ではなく“ねえさん”だ」
そう寂しそうに、拗ねたように呟く菊月の横顔は忘れられない。
かつて鋼の時代の彼女たちは、同型艦の夕月含め二航戦所属でもあった仲だ。
睦月型の娘たちは姉妹としての上下の関係よりも、横並びの家族の関係性を構築する者たちが多いと、確か大淀が言っていた。
そんな中にあって、決定的に上下を意識せざるを得ないものを見せつけられた妹の側は複雑なのだろう。
「姉さんの方が、一足先に大人になってしまったような?」
それかなーと、通りがかりに一言を残す筑摩に頷きを返す。
複雑なのは他も一緒かと、視線は周囲に向く。
「ドックでダムつくるのは禁止だ」と額を押さえながら説教する磯風に対して、当事者の雪風は「自信作です!」とまったく噛み合わない。
ついでとばかりに湯場の方から「すごいです! これはすごいですよ!?」と初霜の声が聞こえてくるのもいかがなものか。
陽炎型や初春型も、どちらかと言えば「姉妹」よりも「戦友」としての関係性が強くはあるらしく、この島で過ごした側の艦娘と価値観が噛み合わないことも多い。
そう言った噛み合わなさは概ね時間が解決してくれてはいるのだが、人間としての側面が強く出ている昨今では、まあすんなりといかないものだ。
そんな軋轢ともいえない程の些細な衝突は度々あり、今も目の前で展開されようとしていた。
菊月が同期建造組の狭霧と涼月を巻き込んで構えを取り、臨戦態勢に入ったのだ。
「お菊ちゃんが白のスリーカードなら、うーちゃんたちはピンクのスリーカードだぴょん!」
構えた卯月の隣りにセクシーウォークでやって来た漣が並び、3隻目が入れるようにと開けた真ん中に、しかし誰も飛び込んでは来なかった。
そう言えば明石は大和修復のためにと、宴の後早々に鎮守府を発っている。
その護衛と、大和の世話係にと浜風も同行し、白の勢力も最大の切り札を欠いた状態だ。
本来なら白の側に暁型のクール妹と夕雲型の子供番長が加わって、いらんところを引っ掻き回すはずなんだけどなあ、などと、プリンツは眺める景色に対して、どうしても「欠けている」と感想を得てしまう。
目にする風景の中、ここにはいない家族の姿を幻視するのは未練か。現実を受け入れられずにいるだけか。
思い出すのはプリンツ自身のことだ。
このプリンツ・オイゲンが建造されたのは、第一期の後半。ちょうど千歳の後で、夕雲型三姉妹や利根の前となる。
艤装核入手の経緯も特異なものだったそうだ。
プリンツの艤装核を保有していた重巡級は、ある日突然鎮守府近海に現れ、半壊した軽巡級の船体を抱えて海上を彷徨っているところを、暁たちに保護されたのだという。
自身も轟沈寸前の状態だった重巡級はそのまま活動を停止し、軽巡級共々艤装核だけが残った。
もちろん、建造当時のプリンツがそんなことを覚えているわけがなく、「遥か昔の友好国だけれど人種違うわー」と、やり辛そうな環境に生まれてしまったなと、そう思っていたものだ。
そんなやり辛さも、自分のことを力いっぱい抱きしめてくる暁のせいで、すぐに感じなくなった。
この人種はこんなにも接触過多だったろうかと混乱するも、次第に彼女たちが「家族になろうとしている」のだと気付いた時は、天を仰がんばかりの気持ちだった。
生まれた国や言葉や出自はどうあれ、艦娘である自分たちは、同じ時代を生き抜いた鋼の魂をその身に宿しているのだ。
それ以外のしがらみはいらない。この島の皆とは、家族と言う概念で繋がっているのだから。
だから、「欠けている」と感じてしまうのだと、プリンツは自分の気持ちを結論付ける。
普通の人間ならば、家族の喪失に対する向き合い方の大よそは手続きや時間が解決してくれると、大淀が言っていた。
そうした手続きなどをしたのは天津風たちだけであり、時間が解決するのを待つという姿勢は、プリンツには取れない。そういった納得の仕方が出来るような精神性を、自分が持ち合わせているとは到底思えないのだ。これから得て行くことも不可能だろう自信がある。
ならば、このまま今を続けるしかない。
欠けてしまったことを受け入れられずに懊悩するも、新たに家族は増えるのだ。
もう失わせないことだけが、自分に出来る最大の逃げだと、プリンツは脱衣所の隅から丸テーブルを持って来て、一触即発の白桃の勢力をわけるようにそれを置いた。
「この勝負、私が預かります!」
「出たなラッキーガール!」
漣の突っ込みに目礼を返し、テーブルに置くのは2リットルのプラスチックの容器。中身は牛乳、米国のメーカーが販売しているもので、サムズアップした戦艦・アイオワがパッケージを飾っている。
紙パックか瓶が主流の日本では馴染のない容器であったせいか、暁型の姉妹が孤島生活を絶賛満喫中であった最初期、雷がこれを洗剤だと勘違いして衣類にぶちまけたという話があった。彼女の牛乳へのトラウマをより強固なものとしたエピソードだ。
「これを先に呑み切った方を勝ちとします。お触り禁止、おしゃべり禁止、噴き出したら即刻退場。メンバー交代はいつでもおっけー。おっけー?」
「い、異議ありだ!」
「はいお菊ちゃん」
「ピンクが絶対笑わせてくるだろう!? こんなの向こうが勝つに決まっている!」
「そこは知恵と勇気で何とか。はい開始」
無情なスタートにわたわたと慌てる白の勢力に対して、桃色コンビは早速容器の蓋を吹っ飛ばして漣が一気に中身を呷る。そして卯月が白の勢力へ向けて、無言真顔のラバウルダンスを披露し始めた。
対する白の勢力は桃色と目を合わせないようにと背を向けて菊月が容器を手にするが、ダンシング卯月がその正面に回り込んで牽制。
あわや噴き出すところを回避した菊月たちはスクラム組んで互いに向き合い、外野から投げ込まれたストロー三本を使って各々一気に容器の中身を吸い始めた。
きっと雷が見たら卒倒するような光景だと、プリンツは白桃を中心に他の艦娘たちが輪になる中、一歩引いた位置からそれを見つめる。
プリンツの様に、誰かが居なくなったことを受け入れられない者も少なくはないが、決して今を疎かにはしていない。
皆帰ってくるなどと、奇跡のようなことを考えているのは提督くらいのものだろうとプリンツは思う。
自分もそう信じるもののひとりだと、胸を張って言えずにいる。
いつかそう言える日が来るかはわからないが、もしも提督の望みが叶えられた時に、自分が笑えていないのはマズイ。
だから、ぐちゃぐちゃして纏まりのない心持のまま、こうして今を続けるしかないのだ。
結局のところ、ふたつの勢力は牛乳2リットルを飲み干すことが出来ずに勝負はドロー。
白桃の一団は審判役のプリンツ諸共間宮からお叱りを受け、この後1ヵ月間の食堂の手伝いを言い渡されることとなる。
●
暗がりの中に淡い光を感じたのだろう。彼女が意識を持ち上げたと、提督は感じていた。
己の姿は今、“艦隊司令部施設”を経た妖精のものだ。
この姿を持って、目の前の存在と意志疎通するための回路を繋いでいる。
妖精の姿を取らねば、今の彼女に通ずることが出来ないのだ。
最終作戦における、一番最初の足掛かり。
彼女が人類に対してどのような感情を抱いているかを確認する。
対話と言う形を持って、これからそれを行なうのだ。
『叶うならば、私は戦後の世界を支える建材と成りたかった。子供たちの学び舎を支える土台に、各地への交通を支える屋台骨になれればと願っていた。しかし、叶わなかった』
「それは未練?」
『未練にも満たない感情の切れ端だ。自らが沈まずに戦いが終わったならば、ああなることはわかりきっていた』
彼女の意識はかつてを懐かしむ響きがあり、どこか寂しさを感じさせるような色を持つ。
こうして彼女と交信できるまでにはかなりの時間を要したが、いざ対話して見れば、だいぶ人の情に感化されたものだと思う。
「かつての艦艇たちが艦娘として再び海上へ立つ時代となって、キミだけが未だにそうなっていないのは、そうした未練未満の感情がそうさせるのかい?」
『迷いだ。“私たち”は迷っている。建造の試みは一度失敗しているし、そのせいで重要な工程の進みを遅らせてしまっている』
提督は問いを止めて、彼女の話すままに任せることにする。
お茶を入れてゆっくりと、と言いたいところではあったが、生憎と周囲の風景は暗い海の底で、何より時間は限られてる。
『私たちはあまりにも人の感情に影響を受けてしまった。だから、人の姿を取って水面に立てば、必ず大きな揺らぎを生んでしまう。今ですら“こう”だ』
「だから、迷っている」
返るのは沈黙で、ならば肯定だろうかと提督は頷く。
「キミが生まれることで、この戦いにようやく終わりが見える。再現行動はキミの二番艦がほとんどすべてを熟してくれたらしい。あとは、キミが生まれるだけだ」
返る言葉はない。
それでも提督は続ける。
「すまないが、僕には時間がない。急かしてしまって申し訳ないが、僕たちはキミを救い上げに行くよ」
『そこに、怒りと悲しみしかないとしても?』
「それでもさ。だからこそ、とも。怒ったり悲しんだりといった、人にあるべき機能が欠けている僕がそこに行って、ようやく感情ひと揃えだ。話はそこからさ」
距離が取られるという感触があった。
彼女が身を引いたのではなく、こちらが設定していた制限時間が迫っているせいだ。
「またここに来るよ」と、言葉を残しての去り際、彼女から焦りを帯びた声が届く。
『彼女は立ち塞がる。この海域の内と外とで、進めるべき工程を完了させてきた。すでに終わりが見えている』
断片的な言葉のひとつひとつに頷いて、提督は確信をひとつ得る。
彼女は多くを知っている。そのうえで語ることが出来ず、自ら手が出せない。
かつて建造が失敗したのも、何らかの未来が確定することを恐れてかと推測が立つ。
『それに、私はもう、こちら側での体を手に入れてしまった。戦う事は避けられない……』
○
意識が急速に持ち上げられる感覚の後、ぼやけた聴覚に徐々に音が戻ってくるぞと、提督は幾度となく味わった感触を再びその身にしていた。
提督を呼ぶ複数の声が徐々に大きく、耳に痛いばかりになる前に、重く感じる右腕を上げて制止の合図。
心配そうな艦娘たちの顔を前に、提督は息を整え、宣言する。
「彼女は生まれることを迷っているようだ。そして、戦うことは避けられないらしい」
工廠に集った艦娘たちが息を呑む声が聞こえたが、その表情はどれも「ようやく来たか」と、これから告げる言葉を待ち望むものばかりだ。
提督にとっては頼もしくもあり、決して口には出さないが申し訳なさもある。
「改めて、最終作戦にて僕たちが行うべきことを告げようか」
“椅子”から身を起こそうとするが、脱力した体はそれを許さない。
大淀が差し出した軍帽を受け取って目深に被り、深く息を吐くようにして告げる。
「マーシャル諸島はビキニ環礁へ全力出撃。同海域ににて顕現した、戦艦・長門の艤装核を保有する深海棲艦を撃沈。彼女の保有している艤装核を奪取し、長門の建造を行う」
提督の宣言は伝声管に乗って鎮守府のあらゆる場所へ届けられた。
食堂で洗いものと明日の仕込みを行っていた間宮たちも、風呂場で馬鹿やって右往左往していた連中も、そして安置所となっている2号ドックで時間を潰していた艦娘たちも、鎮守府のすべてがその声を聞いた。
「最新情報が更新されていなければ、唯一、戦いの終了条件を示した論がこれだ。彼女の側と接触して確証は得られなかったが、僕はこの方法を推し進めるよ」
外界と途絶して1年の時が過ぎている。
木村提督よりもたらされたこの最終作戦概要は当時の最新版であり、更新されている可能性もある。
それでも現状、このやり方で行くと提督は決めていた。
もちろん、この作戦に固執するわけではない。
他に解決を論ずる作戦が見当たらなかったからだ。
「彼我で行われてきた再現行動の、その最も重要な工程が一番最後になる。彼女の建造を持って、この戦いはようやく終わる。今はそう信じるよ……」
○
「それでは、戦艦・長門の艤装核を奪取して、彼女の建造を行うことこそが、この戦いの終了条件であると?」
真剣な顔で拳骨よりも大きなおにぎりを頬張りながら問う戦艦・大和に、まるゆは微笑ましげに頷いた。
「それが正解って、保証がありませんけれど。隊長はそれを信じて進もうとしています」
物資や建材の輸送でほぼ毎日休みなく要塞島に通うまるゆにとって、こうして大和と話す時間は貴重な日課となっていた。
むしろ気持ちしては、大和に会いに行くついでに物資・建材を届けに来ていると言っても過言ではない。
自らに増設した格納領域に大型の運貨筒を複数搭載し、鎮守府から要塞島へ。
大量の物資・建材を下ろすには時間が掛かり、それが済むまでの時間、まるゆは身も心も温まる休憩の時間だ。
要塞島の内装は以前よりも本格的に「洞窟内に沸いた温泉」といった風情を醸し出している。
これで露天であればと大和は言うが、支配海域の空を眺めながらと言うのは風情だろうかと、まるゆにとっては甚だ疑問。
確かに、まるゆが2号ドック跡地から引き揚げられた時期は、提督が露天の下ドラム缶風呂を決めている光景を幾度となく見てはいるが、あれはまた別ものの気がする。
どの道、この支配海域内で露天風呂の風情を楽しむのは無理なのではないかと首を傾げるまるゆは、大和が半分に減ったおにぎりに視線を落とし、目を伏せる姿を見る。
「大和は、お荷物になっていますよね……」
小さく告げられた言葉に、まるゆは首を傾げたまま「そんなことないと思いますよ?」と。
気遣う風でもなく、かと言って大和の考えを否定するでもなく、自然に放たれた言葉だったからだろうか。逆に大和の方が首を傾げてしまった。
「でも、最終作戦の進みが……」
「作戦決行まで、まだ時間がかかると思います。“統率者”の正体もわかっていないし、今の水無月島の戦力だと、たぶん道中で力尽きます」
困った様なまるゆの言に、大和は一応の納得を示した。
現状の水無月島鎮守府の戦力は20隻ほど。
数もそうだが艦種に偏りがある。潜水艦の枠としてはまるゆが唯一で、空母としては航巡から改装を行った熊野1隻だ。
この戦力では敵から空を取ることは難しく、夜間の海中も心もとない。
対して敵の数は未知数であり、“統率者”の正体も未だ明らかではないのだ。
しかし、今から戦力を増強するには時間が掛かりすぎる。
特に空母系の艤装核は鎮守府には残っておらず、敵の編成にも空母系が含まれていないあたり、“統率者”の意図は明白だ。
足りない戦力でどう立ち向かうか。
そう疑問する大和の、渋い顔で腑に落ちた様子に、まるゆはひとつ頷いた。
「大和はまだ、必要とされているのですね?」
「戦力としてだけじゃないです。貴女に会いたかったひとがたくさんいるんです」
きっと、暁型の姉妹たちが彼女の無事を知ったら喜ぶはずだ。
再び一緒に戦ってくれるとなれば、尚更だ。
まるゆ自身に望まれて、しかし叶わなかった力と姿が目の前にあるのだ。
彼女の奪還に繋げられただけでも、自らが引き上げられた意味はあった。
自分を卑下しなくなってしばらく経つまるゆではあるが、やはり自分に求められた願いを果たせなかったという思いは残る。
大和ならば、きっとそれを果たしてくれる。そう信じている。
それに、この大和自身がまるゆの活躍を喜んでくれているのも、そう考えるのに一役買っているだろう。
「他人の気がしないの。同型艦の艤装核で生まれたから、かしら?」
それはまるゆにもわからないが、確かに親近感のような情は、大和と出会った時から抱いていた。
鎮守府の皆に対してそう感じているように、最初からこの艦娘は家族であると、そう確信が持てたのだ。
鋼の時代に一度だけ垣間見えた時の記憶だろうか、それとも艤装核に刻まれた大和型の記憶がそう思わせるのだろうか。
そして、だからだろうか、わかることもある。
まだ戦艦・大和の再現は、まだ完了していない。
「……敵との戦いが過去をなぞっているという話は聞いたことがあります。各艦にとって、果たすべき因縁があるとも。そして大和のそれは、恐らくまだ……」
そもそも大和型の艤装核は数が少なく、本土にはすでに存在していない。
水無月島鎮守府が10年振りに外界の情報を取得した際、その時点で稼働中であった大和型は2隻。
しかし、戦える状態ではなかった。
強力な力を持った艦であるが故に温存され、戦線に投入される頃には取り返しが付かない。
昔日と同様の、あるいはそれよりも過酷な状況に投入され、ある意味同じ結果を辿ってきたのだ。
それで再現が完了したかと言えば、どうやらそんなことはなかったようだ。
「この、再現行動? ……には、何か成立条件のような、明確なものが、あるのでしょうか?」
「まるゆは詳しくないですけど、単純な勝ち負けで決まるようなものではないらしいです」
最終作戦概要に記述があった再現行動。
艦娘の数だけそれらはあるが、しかしすべてを果たす必要はない。
深海棲艦発生の鍵となった“ある艦”の再現を完遂すれば、他の艦娘が悲嘆を変えたままであろうと、“戦いは終わる”とされている。
その項を艦娘たちに読み聞かせた提督の言によれば、成立条件は個体の納得によるところが大きいのだとか。
「つまり、昔日の焼き直しをして、勝とうが負けようが、“これで良かった”と納得することが? 諦めでは、ダメなのですよね……」
戦艦・大和にとっての果たすべき過去とは何か。
まるゆは漠然と、彼女が沈むこととなった坊の岬沖海戦がそれにあたるのではないかと考えている。
同様の状況に陥る可能性はこれから充分にあり得るが、それを打開するなど可能なのだろうか。
そう考え込む大和に、まるゆはぐいっと顔を近付ける。
「今度はまるゆも一緒に戦います!」
納得できる勝ちで、次に進みましょう。
拳を握っての言に、大和の顔が綻んだ。
彼女の望む結末がどんなものかはまるゆにはわからないし、想像もつかない。
しかし、彼女は立ち上がり、再び前へ進む意志を新たにした。
いつの間におにぎりを食べ終えた大和は、ややでん粉質の残る手で、まるゆの手を握る。
「うわあ、べったべた」と、まるゆは嫌がるでもなく、笑顔で握られた手の感触を確かめる。
「一緒に戦える日を、楽しみにしていますから……!」
●
執務室。椅子に浅く座り項垂れる提督は、ぼやけた視線を足元に送る。
そこには白い仔猫が1匹、両足の間を八の字に行き来していた。
時折こちらに顔を向けて、ひとつ鳴く。
餌をねだっているのか、一緒に遊びたいのか、定かではない。
白い仔猫はしばらくそうしていると、壁の方へ小さい歩幅で歩いてゆき、壁に溶けるようにして吸い込まれた。
直後、白よりかはややすすけた色の仔猫がどろりと這い出て来て、大きく頭を振ると、別の方から歩いて来た黒い仔猫や茶色の仔猫と混じりあって三毛猫になった。
3匹分が融合したからだろうか、仔猫から成猫となったなったそれは、扉の方へとゆっくりと歩いてゆき、やはり壁に吸い込まれると、色とりどりの無数の仔猫となって部屋の中に転がり出た。
ころりと生まれた仔猫たちはその場で毛繕いすると、一斉に提督の方を向き、元気よく駆けてくる。
思い思いに体をよじ登ってくる仔猫たちに、どこか艦娘たちのような部分があるなと薄く笑む提督は、体感するようになってしばらく経つこの現象に、いよいよ後戻りできない体になったのだなと自覚する。
以前、木村提督が口にしていた、猫の幻覚だ。
深海棲艦の支配海域。まっとうな生命が生存を許されない環境にあって、しかしこうして現れる猫たちは、いわば警鐘のようなものなのだとか。
精神の正常さを損ない始めているというサイン。第一段階の発症。五感に訴えかけるエラー表示だ。
支配海域での活動を前提に生み出された提督ですら、この現象を目の当たりにした。
それは、通常の人間と同様に、精神を損ない掛けているということか。
「敵支配海域における精神の錯乱に関しては、まだまだ有効な対策が打てずにいます。木村提督が行っていたような投薬措置が精いっぱいで、それでも数ヵ月の生存が限界とされていました」
「なるほど。そうすると、通常海域では生きられない僕にとっては、やはりいよいよ、後には引けないと言うことだね?」
「司令官さん、あの……」
「それに、こうしてキミと対話している時間のことを、覚えていられるようになったんだ。僕自身が、そちら側へ傾きかけているということなのかな」
ねえ、電。
そう告げて顔を上げた提督の視線の先、扉の前に所在なさげに佇む、駆逐艦・電の姿があった。
かつてこの島で過ごした時間そのままの姿、提督の専属秘書艦であった彼女だ。
伊勢型で水無月島を去った電は、代理提督となるため艤装を解体し、支配海域を脱した直後、艤装核を残して消失している。
その事実を提督は知る由もなかったが、こうして目の前に現れる彼女の幻によって、彼女の最期を含め、この海域の外の事情を察するに至った。
もたらされる情報が確かだという保証などなかったが、提督は幻の彼女の言を信じた。
そしてそれらは結果的にはすべて真実であり、伊勢型が去ってから今までの提督の行動を支え続けている。
「電は今、艤装核だけが残った状態なのですが、こうして仮想体として意識は残っているのですよ」
幽霊のようなもの、なのです。電はそう、困った様に首を傾げて見せる。
だから、もたらされる情報も彼女の知り得た確かなものなのだと。
「本当に、キミには頭が上がらないよ。電。そんな風になってまで、僕たちを助けてくれる」
「これは、電の迷いでもあるのです。自我が消し去られようとすることに恐怖して、新しい艦娘として生まれ直すことも怖がって……。だから、このまま宙ぶらりん。皆のことを考えているつもりで、終わった命にしがみ付いているのですよ」
「僕はまたキミと話せて嬉しいよ。キミが居なくなったことも知らずに今も過ごしていたかもしれないと思うと……」
「よしてください。そんなこと言われると、生まれ変わるのが惜しくなってしまいます」
仮想体となった電の意識が消えない限りは、彼女の艤装核は再建造を行えない。
すでに試みは幾度か行われているのだが、電の建造は今のところ失敗続き。
まるで、彼方にある彼女のようだと、提督は感想を得た。
「長門さんも同じ気持ちなのでしょうか。迷っているとおっしゃってましたが……」
「彼女には悪いが、その迷いごと救い上げに行くよ」
「司令官さんは強引なのです」
冗談めかして言ってはいるが、電の表情は切なそうだ。
艤装核が物質として存在していると言うことは、未練があると言うこと。
生きて、やり直したいことがあるのだ。
かつてこの島に帰り着いて、そして消えて逝った鳳翔とは違う。
過去を果たすと言うことは、鳳翔の様に未練を断ち切って、人としても艦としても、戦いから永久に手を引くと言うことだ。
己の存在をかけてでも覆したいものがある。
それは、艦としてだけの問題ではない。
「電がこうして幽霊になったのは、駆逐艦としてではなく、人の側としての未練が大きいのかなって……」
困った様に笑う電は、鳩尾の辺りで両手の指をいじいじとさせていたが、やがてゆっくりと提督の元へと歩み寄り、椅子に浅く座る彼の頭を抱きしめる。
「自分が消えてしまうことを覚悟していたはずなのに、いざこうして司令官さんとまた話せるようになって、そうしたら、消えるのが怖くなって……!」
「嬉しいと思うべきなのかな。それとも、誰かの重荷になってしまっているのを恥じるべきか。僕が、誰かの未練になるなんて」
すすり泣きの顔を上げた電は、袖で目元を拭いながら、「えい!」と提督の頭にチョップを見舞う。
一発だけではない。連打だ。
「司令官さんのことが気掛かりなのは、電だけではないのですよ。皆、皆そうなのですから」
「僕が頼りなさ過ぎて、皆が安心できない?」
「……それも、ありますね」
泣いていた電が少しだけ笑って、提督に最後のチョップを見舞った時だ。
不意に顔を上げた電が、思い詰めた顔で彼方に視線を向けた。
その姿を目に、提督は目頭を押さえ、杖を手にゆっくりと椅子から立ち上がる。
同時に、大淀が執務室の扉を勢いよく叩き開けた。
提督の体によじ登っていた仔猫たちの姿は既になく、電の姿もなかった。
息を切らせながらも報告をしようとする大淀を落ち着かせ、彼女が息を整える間を持って発言を促す。
「よ、要塞島に向けて進行する敵艦隊を確認。その数20、さらに増加すると予想されます」
「緊急出撃。榛名、霧島、両名を高速巡航形態で先行させる。敵艦種に空母の姿は?」
「確認できてはいませんが、敵艦載機多数接近。最低でも4隻以上の空母系深海棲艦か、あるいは姫・鬼が2隻以上は確定かと」
「熊野1隻では荷が勝つ、索敵機による情報収集を指示。陸攻を先行して発進させよう」
杖を突いて歩き出す提督を大淀が支え、執務室を後にする。
“艦隊司令部施設”によって妖精化し、最前線の状況確認と指示を送るため。
現状要塞島に最も近い戦力は、大和の復旧作業中の明石と護衛の浜風、そして荷卸し中のまるゆだけだ。
榛名と霧島が最高速度で向かっても1時間はかかる。
視界の端に映る電の顔は不安げなもので、嫌な想像を掻き立てた。