男は笑う。
男は笑う…
男は……笑う……
誰かが問うた、何故笑うと。
すると男は愉快気に……いや狂った様に笑いながら答えた。
「ーーーー」
ああ、と吐息を漏らし、枯れた男は笑う
◆◇◆
明久は調べていた本棚から顔を上げる。その表情はあまり芳しくない。
「結局、成果なしか……」
「しょうがないわ。いつも何かを得られるなんて、そんな都合のいい話がある訳ないわよ」
明久がため息と共に漏らした愚痴を窘めた男、ギャリーは調べていた本を明久が見ていた本棚に戻す。
「ここにいてもしょうがないわね。いきましょ」
パンパンと埃を落とし立ち上がったギャリーは、トビラへと足を向けた。この部屋を出ようとしているのだ。とイヴは察して、それに続く。
だが、明久はその場を動かず、手帳を開き考えに耽っていた。
「(カギのかかった部屋に何処かの部屋を開ける仕掛けがある……ね。てことは隣か。けど、あっちのトビラには四桁の数字が必要だった。
それは何処にあるか?今まで通りなら通路とか探してたらヒントがあるだろうけど…素直に置いてあるはず無いし。
……いやまてよ、それ以前にその考え事態になる事が罠の可能性もなきにしもあらずか。どうするかなーーー)」
「何してるのよ明久!置いて行っちゃうわよ」
ギャリーからの叱責により思考を中断させられた明久は、ちょっとした腹立たしさを覚えつつ、表面上は笑顔を取り繕いながら
「ごめん、今行く!」
と二人に駆け寄る。ギャリーはそれを確認してから廊下へと出た。
「明久」
心配そうに呼びかけてきたイヴに「大丈夫」と答えて、ギャリーの後に続く。
彼へのと向けられているものを自分自身を騙す事で、自分の心を欺く事で、彼への疑惑を誤魔化していく。
先に行ったギャリーは、顔だけを出し、曲がり角の先の様子を探る。
が、咄嗟に頭を引っ込めた。
その直後、その先にある向こうの通路を『赤い服の女性』が上半身のみを実体化し、進んで行った。
なんとかやり過ごせたと安堵し、もう一度顔を出して絵画がいないか確認する。
「もういないわよね?」
何も音がしない事が分かり、後ろについてきた二人を引き連れて進む。
「(このフロアは左右に作品達が飾られている通路があり、それを中央にある二本の廊下が繋いでいるってところね。……何か隠されて無かったらの話だけど)」
今ある情報を擦り合わせ、的確に結ぶ。
すると彼の脳内にはある程度の地図が浮かび上がる。
これこそ、美大生であるギャリーの優れた空間把握能力の賜物だろう。
その地図にある事に気がついた。
「(このフロア……隠れるのには都合のいい所だけど、逃げることにはあまり適していないわね。広さも無いし)
出来る限り見つからないようにしなくっちゃ」
「うん、そうだね。あんまり体力も浪費したく無いし」
彼は明久からの同意を受け、隠れながらも進み方を変えることにした。
小回りがきき、更に最も五感が優れ危機察知能力の高い明久が斥候として先導する。
イヴはあまりいい顔をしなかったが、それが最適と明久に説得された。
「ん…?」
幾分か進んでいると、その明久が、何やら立ち止まり中腰の姿勢のまま見上げている。
「……明久、それって」
「トビラ……だね」
ドアノブに手を伸ばし、開けようと試みるが、どうやらここもカギがかかっているようだ。
「ダメだ。開かないよ。しょうがないから先に行こうか」
そのまま身を翻し、廊下を抜足差足と進む。
彼は周囲の音や空気の動き、振動を耳、肌から感じ取り安全を確保してから、一列一列の通路を調べながら動いていると……またもや彼の目が止まった。
「次は何を見つけたのかしら?イヴ見てきて」
後方を警戒しているギャリーに促されイヴが明久に近づく。
すると彼の視線の先に紐で足を縛られ、宙ぶらりんになっている男絵画が沈黙を保っていた。
「……バンジージャンプ?」
「違うと思うよ?」
天然なのか狙ってなのか少々判断しずらい台詞にさしものイヴも疑問系で返した。
そこにギャリーが追いついてきた。
「これは吊り下げられた男ね。美術館にもあったわ。タロットカードで有名なんだけど……あら?なにかしら……」
ふとギャリーが何か見つけたのか、絵画の一点を見つめ始めた。
明久がその視線に釣られ絵画を見ると、吊り下げられた男の服に、『5629』の四桁の数字が記されていた。
「イヴちゃん、これって……」
「多分だけど、トビラの暗号だと思うよ」
イヴも彼と同じ考えをしていたのか、即答で返していた事に少し苦笑しつつも、何やら違和感を拭い去りきれない。
「(こんなに簡単に書いてあるものだろうか)」
今までの捻くれた仕掛け達を見てきたから疑う。
散々踊らされてきたのだ。そうせずに行動するのは愚行だ。
明久は吊り下げられた男の数字を睨みつける。
「(あれ……吊り下げられた…?)」
「明久……どうしたの?いかないの?」
彼の表情の変化に目ざとく気付いたイヴの問いかけにも応じず、逆さの男を穴が空くほど見つめる。
「(逆さ、もしかして……)二人とも、ちょっと離れてて」
そう言うや否や、彼はその場で逆立ちをした。
明久の見る世界が反転する。
全てが逆の世界で、唯一正常に機能しているものがあった。
「『6295』……と」
バランスを崩しながらも、足を床につけ世界を元に戻す。
イヴは彼の行動の意味をすぐさま理解し、ギャリーは彼女に遅れるも辿り着いた。
「これなら、どっちに転んでもいけるわね」
「うん、じゃあ戻ろう」
三人は互いの顔を見て、頷き合った。
◇◆◇
「早く、早くっ!」
少女の悲痛な叫びが廊下をこだまする。
その主、イヴの手元には四桁のダイヤルが存在する。
これは目の前に立ちはだかるトビラを開けるための仕掛けなのだ。
これに、彼、明久が手に入れたあの数字を入れるだけ。
なのだが、極度の焦りから手元が狂い、上手く数字を合わせることが出来ずにいた。
「あぁ!もうなんでっ!なんでこんなことも出来ないのっ!」
苛立ちが募る。
こうしている間に彼らが、明久が危険に晒されているのにもかかわらず、自分は何を手間取っているのか。
この状況を生み出したのも自分ではないかと、自責を続ける。
それは、明久とギャリーが互いに赤い服の女に追われる前、つまりは彼女達が四桁の数字を手に入れた時の事だ。
◇◆◇
逆立ちした時に手についた埃を払う明久が、周りに危険が無いかを確認する為にあたりを見渡す。
「さあ、見つかりたくないし、早く行こう」
「そうね。ん…?なにかしらーー」
すぐにトビラの元に向かおうとしていたのだが、ギャリーが吊るされた男に違和感を偶然にも感じてしまう。
はてと疑問符を頭に浮かべて、絵の中の男の顔に彼が近付いた瞬間…その虚ろな目が光った。
「ぎゃっ!」
「っ!ギャリーっ⁉︎何を⁈」
咄嗟に明久がギャリーの悲鳴を叱責するが、すでに遅い。
ーー彼の大声に
「ーーまずい…早く移動するよ!」
急速に近づいてくる音を微かに感じ取った明久は、喝を入れる様にギャリーの背中を押し、イヴの腕を取り走り出す。
ここで彼の身体能力、そして反射神経の高さが災いした。
彼の性能は、他の子ども達と比べて異常なものだ。それこそ大人のギャリーに迫る程に。
一方のイヴはあまり運動などが得意では無い。
よって、彼の急な動きについていけなかったイヴが、足を縺れさせ床に倒れこんだのだ。
そこに奴らの移動時に起こす音がイヴの耳へと入ってくる。
「っ!来た!」
「こうなったら僕が囮にーーってギャリー⁉︎」
冷や汗を流していた明久の横を、突然ギャリーが走り抜けた。流石に反応できなかった明久にギャリーが笑う。
「アタシがあれ引きつけとくから、二人はトビラを開けといて!あれを撒いたらすぐ向かうわ!」
「ギャリーっ⁉︎何を言ってんだよ!」
「ダメ、明久っ!早く隠れるの!」
ギャリーを追いかけようとした明久を抑える為に彼の体にイヴが抱きついた。
彼女は理解していた。
前に迷宮でギャリーが私達をカバーすると宣言していた事がある。
だから、
彼が消えた角の先で「こっちよノロマ!」というギャリーの声がし、そのまま足音が遠のいて行く。
ーーその時の歯噛みした彼の顔がイヴの脳裏にこびりついているーー
「……行こう、早く開けとかないと」
心底悔しいと言ったトーンの声にイヴは恐怖する。
嫌われたのではないのかと、いや、それなら自分が消えればいいだけだ。それならば…自分を盾にできる。
そうではない、彼女が本当に恐怖したのは、彼がギャリーを囮にしたという事実に自暴自棄にならないかという事だ。
それはまずい、彼が傷つく可能性が高まる。と、
彼は優しすぎる。それはここで彼と接すればする程理解させられる。
ゆえに、彼の優しさが自分を責める事に繋がるかもしれない。と、
そうイヴは考えていたのだが、次には明久が手を差し伸べ、イヴの手を取る。
「イヴちゃん、走れる?」
「え、うん行けるよ。あそこに向かうの?」
ああ、と頷いた明久の横顔は、とても力強いものに彼女は見えた。
彼に引っ張られながら、ギャリーの向かった方とは逆に向かうイヴーー
「ーー!イヴちゃん!」
ーーだが、二人にも背後から近づいてきたもう一枚のほうは予想外だった。
◇◆◇
突如として現れた作品を明久が咄嗟に引きつけ、そのまま走り去る様は彼女の脳裏にしっかりと焼きついている。
まさに、自分の失態ーー運動神経のなさから始まり、こんな状況を生み出してしまった。
その事実が彼女の判断力を鈍らせ、焦燥が心の中で燻り、彼女の行動に正確性を欠かせている。
だが今の彼女は正常な思考を保てていない。しかもそれにより更に正確さがかけて行く。
最後のダイヤルを合わせようと回し続ける彼女、だが努力むなしく、それが合うことが無い。
「イヴっ!」
そこへたどり着いたのは、ギャリーだ。あたりを渡し、明久の不在を理解し、そして彼はすぐにイヴの異常に気がついた。
今の彼女に優しい言葉で諭しても意味は無いと判断した彼は息を吸い込み、イヴの耳元で
「落ち着きなさいイヴ!明久はあいつらなんて撒いてすぐに来るわ、それがあの子の仕事なんだから!ならアナタはアナタの仕事をしなさい!
それにアナタがここを開けておかないと逃げてきた明久を更に危険に晒す事になるのよ!」
ギャリーに叱られた事で縮こまる彼女だったが、そのお陰か多少の冷静さを取り戻す。
「っーーうん」
彼の姿を思い浮かべ、彼の笑顔を想像した。
「(自分の仕事をする……)」
その瞬間、指の震えが止まり、涙でいっぱいになっていた視界は晴れる。
その結果、容易く鍵を解く事に成功した。
先程までとは違い、その顔は何かをはっきりと自覚した者の顔だ。
若干、ギャリーの顔に冷や汗が伝う。「(あれ?なんか間違えた?)」と彼女の真っ直ぐすぎる瞳に不安を感じたのだろう。
そんな事など与り知らぬイヴは、
「(私は、靭くならないといけないんだ。明久を守る為に。だから、私は私にしかできない事をするんだ)」
答えを見つけた事に歓喜した。
ーーこれが彼女の精神が折れ、
◇◆◇◆◇
「かはぁ、はぁはぁ」
呼吸は荒く、全身が焼ける様に熱い。喉には渇いて粘度の増した唾液が絡まりつく。
頬に伝う汗を拭い、彼、明久はあたりを警戒を強める。
「っはぁはぁはぁ、撒いたか?」
だがそんな甘い考えはすぐに粉砕される事となった。
彼の探知範囲で何か引きずる音がした。恐らくはあの絵画だ。しかも彼の聴覚によればふたつ、それが迫ってくる。それにはさしもの明久も顔色を変えざるおえない。このままでは挟み撃ちになると考え移動しようとするも、兎に角逃れようと後先考えずに走っていた事が災いしたのか体が疲労し動きは鈍く、足が震え思う様に動かない。
「こんな時に……っ!」
体力もこの美術館に来てからというもの連続して走る事が多々あった。その度にちょくちょくと体を休め、誤魔化し誤魔化しで繋いできたが、それも限界に達したのだろう。
「これは……本格的にまずいな」
しかし、口に出した言葉とは違い、緊張感を持つ事が場違いではないかと錯覚する程、その表情は心底どうでもいいといった様子の彼は、一応逃走ルートを脳内地図で構築を始める。
ーーだがその直前、予想外の展開が起こった。
彼の前方にある。彼自身がこちらに来た時に見つけた開かないはずのトビラからカチャリと音が出たのだ。
まさかと明久は緩慢な動きでそのトビラへと近づきそのドアノブへと手を伸ばす。
「ーー開いた……?」
先程ここに来た時には開く気配など全くなかったのに。と洩らすが、背後から着々と迫る這いずる音に急かされ、罠に十分に注意しながら中へと入り込む。
◇◆◇
少しばかり時間は遡る。
とある部屋にて、いかにも重そうな音を立てながら花瓶の乗った台を移動させる男がいた。
「っと、これでいいのかしら?」
「うん、ちょうどそこが一番見やすい」
彼の問いかけに答えたのは少女の声、それと同時に空中に筆が浮かび、純白のキャンパスに花瓶の写実的な絵が形創られた。
その絵を描いた透明な画家は、キャンパスの端にアルファベットを書き綴りその筆をパレットの側に置いた。
その刹那、何処かからカチャリという音が鳴り響く。
透明な画家はそのまま動かなくなる。
「ーーこれで終わりかしら?」
「多分、早く明久を捜しに行こう。どこかで動けなくなってるかも」
彼女がそのまま目を画家から離す直前にもう一度だけ筆がキャンパスの前に浮かび上がった。
今度は何事かと男が警戒を始めるよりも早く、花瓶に水が流れ込む部分を絵に付け加えた。
「……?」
「何よ、これだけなの?警戒して損した」
肩透かしを喰らったと呆れた男を尻目に、少女は花瓶を確認しに行く。
「やっぱり」
男は中身を見て、目を閉じた彼女が気になり、近くへと寄って同様に花瓶の内側を覗き込んだ。
「ーーな、なんで水が入ってるのよ!さっきまで空っぽだったわよ⁉︎」
「多分、この世界はやっぱり、絵に描かれた事が現実に移されるんだと思う」
今までの経験から総合した結論を男へと伝えて、タプタプと満杯になっている境界線を少女は見つめ続けた。
これが本当ならば、かなり自分達は危険な状況にあるのだと理解してーー
◆◇◆
「ーー?」
鏡を前にした明久はこれに何か意味があるのかと、何度も自問自答を繰り返す。
果たして、これに意味があるかどうかすら見出せない。
「しょうがない。イヴちゃん達と合流してからここに来ようか」
どれだけ頭を捻っても、理解出来ないと判断した明久は肩を落とした。
ーー何かが割れる音がした……
「っ!なんだろ?」
周囲を見渡し、危険性がないかの確認をする。
そして、正面の鏡に写る自分の姿を見直した……肩に乗るマネキンとともに
「えっ!」
咄嗟に横に跳ね飛ぼうとしたが、まだ足に疲労の残っていた為か尻餅をついてしまった。
「ーーなんだーー?」
目の前のマネキンはゆっくりと彼と向き合う形に直り、床に何かを記す。
《おいで、数字の部屋で待ってるよ》
それだけ伝えると、マネキンは部屋の隅に行ってしまった。意外と満足気に見えたのは彼特有の感想ではないだろう。
「数字の部屋…か。あそこかな?」
脳裏に浮かぶのは、あの四桁の数字を入れ込むトビラだ。
多分、そこしかないだろうと未だ疲労の残る足に鞭打ち、そこに向かって動き出した。
ーーなにが待ち受けるのかを知る由もなく。
ちょっとの間、このくらいのペースになるかと思われます。
誠に申し訳ございません。