6月も半ばに差し掛かり、鬱屈を貯めこんだような雨雲が空に蓋をする梅雨空。
グラウンドのコンディションは当然のように最悪な日が続く。顧問の門田先生に言い渡された練習は、フォームの見直しや階段昇降など、屋内で出来るようなものが主体になっていった。
……と言っても来月には都総体が控えているため、外が使えないからといって練習が楽になるなんてことも無く。概ね湿っぽさを意にも介さず気合に燃えている部員が多かった。
思考一千倍の世界という他にないアドバンテージを持つ俺は、それらも使い倒しながら練習を重ねていた。無論、対戦の方も休みはしないのだけれど。
「あぁぁ、つった!つった!」
「だから準備運動しっかりしろって……」
「うっわ!あぶねぇ、誰だよ拭き残し!まだ濡れてるじゃんか」
「ちゃんと拭いとけよー、滑って転んだらだいぶ危ないからな」
今やっているのはできるだけ速く階段を駆け下りる練習だ。登る方だと足の筋力向上に良いのはわかりきっているのだけれど、そこはやはり中学生。指導者としてはあまり膝に負担のかかる、強度の高い運動はさせられないのだろう。
足がもつれたりすると洒落にならないので階段の半分からだが、これはこれで思ったより大変なのはすぐに分かる。一定の歩幅で、正確に速く足を回さなきゃならないこのメニューは、思ったように体を動かすという俺の至上命題にも迫る非常に素晴らしい課題だった。
速すぎては前のめりに転んでしまい、かと言ってブレーキをかければ「できるだけ速く」という指示から遠のいてしまうという、この二律背反的課題が俺のスピードを落とさないブレーキという目先の目標ともそれなりに近いため、自然と練習にもいつも以上の熱が入るというものだった。最初は何度も勢い良く転んでしまったもののコツを掴んでくるともう楽しくて仕方ない。やはりネックになるのは脚力だ、勢い付いた体重移動を制するために単純な筋力が必要になるし、かと言ってただ勢いを殺せばいいという訳ではないそれらの勢いを活かす為には膝でしなやかにふんわりと受け止めて次の挙動に可能な限りロスを減らしつつ持っていくことが必要になってくる。そう、もっていく。前に前に駆けて行く自分の体の中で秒刻みに膨れ上がっていくエネルギーを体の中に留めたままゴールまで持っていく、否、そのエネルギーに体を前に持って行ってもらうイメージだ。そこでこの練習が非常に素晴らしい点に立ち戻るとまず速く足を回さなければならないというのが上のイメージに照らし合わせるとエネルギーのない最初の体をできるだけ早く加速させるスタートダッシュのために自力だけで前へ送る為の練習になり尚且つ終盤もはや自分の制御下を離れ前へ前へ加速する体を転倒させない為にそれに追いつく足の回転速度の練習にもなるという実際に走る際にブラッシュアップされるフォームや呼吸といったいわゆるセンスとは別のフィジカル的なトレーニングとし
ーーー異音、暗転、激痛。
「だ、あッ!?~~~~!!」
……どうやら俺は、熱中しすぎて転んだらしい。言い方が人事なのも仕方ない、痛すぎてもう笑うしかないあれだ。そうしないと泣けるレベルの激痛が、膝と床に付いた手に走っていた。
「うはぁ、思っきしいったなぁ……大丈夫かよ矢光」
「し、死ぬほど痛いっす……」
必死に息を整えて痛みを逃がすようにしながら、俺は短パンの小学生のように、膝小僧に新しい擦り傷をこしらえて保健室へと向かうのだった。
「
「ん?」
珍しく雨が途切れたある日の放課後。久々に少し遠出して2つ隣の目黒区で対戦した後、お決まりになったケーキショップでの反省会でのことだった。
一通り話し合ってのんびりコーヒーを飲んでいたところで、美早の脈絡のない質問に首を傾げる。
「部活。都総体出るんでしょう」
「ああ、うん。100mな。調子はまぁ、悪くない。つか負ける気がしねー」
ニッと笑って言ってみせると、相変わらず表情のわかりづらい顔でカップを傾けている。
「油断か慢心に見える」
「まさか」
ともすれば調子に乗りがちの俺を気遣ったであろう言葉に苦笑しつつも、しっかりと否定して続けた。
「どんな奴がいるだろうって、期待だってしてるよ。ただ……負けたくも、負けるつもりも全く無い。自信とプライドってやつだな」
「……またそれ」
今度は向こうが呆れたように小さく苦笑する。ジェンダーフリーが声高々に唱えられるこのご時世に、男の意地がどうのなんて下手すれば白い目を向けられることもあるだろうが、少なくとも美早はいつもこうやって意地を張らせてくれるものだった。
「悪いな美早。でもこれだけは絶対に負からん。加速世界でも、現実でも。最速は……俺だ」
「少なくとも前者は、私に勝ってから言うべき」
「むぐっ……や、やるかァ!?」
「まだ、負けてあげない」
涼しい顔して微笑む《親》に一矢報いてやろうと、俺は何度目かになる下克上を挑もうとして……
「……ん、これは」
「?」
マッチメイキングのウィンドウで手が止まる。一つの名前で目が止まっていた。
「……あぁ、この前言ってた」
「わり、美早。下克上はまた今度だ」
「K」
練馬区までなんの用かは知らないが、見つけたからには見逃す選択肢は無かった。その名前が消える前に、俺は急いで対戦を申し込む。
現実の季節に影響されたわけじゃないだろうが、ドス黒い雲が視界を遮る雨と雷鳴を撒き散らしている。《轟雷》ステージって奴だろう、少なくとも地表で白兵戦してる限りにおいては、雷に怯える必要はないはずだった。
「さって、ガイドカーソルは……無い、結構近いのか?」
「そうらしい。試合後に周りを探すのは勘弁してくれると、助かる」
「うおっ……?!」
豪雨で見渡しづらい視界の中で、ある意味保護色のように働いていたのだろう。碧色の装甲を持つそのアバターは、しかし律儀に背後から俺の背後から声をかけてきた。
「全然気づかなかった……分かってたろうに、相変わらず律儀な奴。一応ルール無用だぜ、これ」
「ム……これは個人的な好みの問題だ。不意打ちでは気が乗らず、手が鈍る。そうすると勝率も落ちるだろう、けして慢心や侮りは……」
「あーはい、わかったって!」
「ムゥ」
そのクソ真面目さへのからかいにすら、馬鹿正直に対応してくる独特の空気。
俺のレベルアップ騒動以来、およそ一ヶ月強ぶりの再会となる武人アバター……《ターコイズ・ハンガー》は、苦笑する俺を意に介さずに律儀に挨拶してくるのだった。