「そいじゃ、三日空けるよ」
「はい、留守は任せて下さい」
夏が終わりを告げ、初秋に入ろうとしていた横浜鎮守府は大きな事件も無く、何時も通りの穏やかな日々が流れていた。そんな中、大規模作戦の立案の為に各鎮守府の提督が数名大本営へと招集されていた。難関海域である南方海域制圧の目標を掲げた大本営は、何としても奪い返し、再び最後の海域へと望むことを強く推進していた。深海棲艦の大きな進攻も確認されておらず、朝霧は万が一を考え三日間出撃は控えるように命じ横浜鎮守府を後にしていた。残された翔鶴は司令室のソファーに腰かけ、その日の予定を確認していた。第六駆逐隊と第七駆逐隊の護衛任務が入っているだけで、他は予定がなく、訓練でも行ってみようかと画策していた所で司令室のドアが開かれた。
「あれ?翔鶴姉?さっき宿舎に居なかった?」
「……?私はずっと此処に居たわよ」
司令室に入るなり驚きの表情を浮かべた瑞鶴は、翔鶴の顔を見つめながら向かいのソファーに座る。翔鶴はお茶を淹れようと立ち上がり、棚から湯呑を取り出す。
「見間違いかなぁ……」
瑞鶴は唸りながらも頭を切り替え、久しぶりに兼任する提督に少々の緊張を覚えながらも、翔鶴が淹れたお茶を口に運んだ。朝霧が鎮守府を離れた二日目、敵の襲来も無く、翔鶴が画策した訓練に皆へとへとになりながらも平穏な日常があった。そんな中、ここ最近少し奇妙な現象が鎮守府で起こっていたのに陽炎は気付いた。
「あれ?不知火?さっき食堂に行くって言ってなかった?」
訓練を終え、宿舎へと向かっていた陽炎は、先程食堂へ行くと言って別れた不知火と宿舎の出入り口で出くわした。不知火は何時も通りの無表情であったが、長い時間共に戦ってきた陽炎には、不知火の纏っている雰囲気に違和感を感じた。
「…………いえ、少し忘れ物を」
一瞬固まった後、不知火はぶっきらぼうに答えると、陽炎を横切り司令室のある建物へと歩き出した。
「食堂行かないの?」
「…………ええ、少し」
陽炎は目を細め、首を傾げながら不知火の後ろ姿を見送ると、宿舎へと足を踏み入れた。
自室へ戻った陽炎は、誰も居ないことに退屈を覚えながらベッドへと飛び込み天井を見上げる。
「変ねえ……」
ここ最近、陽炎は鎮守府全体に違和感を感じていた。別れたと思えば別の場所でその人物と出会ったり、見かけたと思えばその反対方向に姿を確認したりと。最初は見間違いかと思っていたが、余りに頻度が多すぎる。
「んー……疲れたかなー……」
空腹も程々に、訓練の疲れで強い眠気を感じていた陽炎は目を瞑り、直ぐに意識を手放した。
次に目を覚ました時には日が暮れ、部屋は窓から差し込む夕日に照らされていた。寝ぼけ眼を擦りながら時計を見つめるが、ピントが合わずベッドから這いずると時計に近寄り夕食までまだ時間がある事を確認する。まだ暑さが残っており、喉の渇きと汗に滲んだ服に不快感を覚え、風呂を求め立ち上がると宿舎の入口へ向かい歩き出した。
「は……」
人は余りに理解が出来ない光景を見た時言葉を失う、艦娘も例外では無かった。陽炎はその光景に渇いていた口の中の水分が全部失われたような感覚に陥り、軽い吐き気を覚える。そこは部屋から出て直ぐの廊下、この時間は皆基本的に風呂か外で自由に過ごしている為、宿舎の廊下に人影は無いに等しい。その白い廊下に不釣合いな赤色。戦いに身を投じている自分にはよく憶えのある命の色。
「睦……月……?」
多少距離があるが横たわっているのは如月であることは一目瞭然だった。その直ぐそば、ぴくりともしない如月を見下ろしている睦月は陽炎の存在に気付くと、その顔を上げた。
「ひっ……」
短い悲鳴を漏らし、悲鳴が喉元まで上がってくるが理解不能な状況に声が上がらない。目を合わせた陽炎は、それは睦月ではないと確信する。容姿、姿形はどれを取っても睦月なのだが、憎しみに駆られたようなドス黒いその瞳は、それがあの無邪気な睦月であることを否定していた。
「だ……誰よ……」
微動だにしない睦月に怯えながら何とか声を発した陽炎は、震える足に右拳を振り下ろすと二人と距離を詰めていく。すると睦月は直ぐそばの窓に拳を振り翳し、ガラスを叩き割ると、踵を返し廊下を駆け出していく。外まで響き渡った音と共にガラスが地面へと落下していき、外に居た艦娘は何事かと宿舎三階を見上げる。余りの突然の行動に陽炎は呆け棒立ちしていたが、我に返り如月へ駆け寄る。抱き起した如月の腹部からは血が滴っていたが、陽炎は意を決し傷口を確認する。
「良かった……そんなに深くは……」
しかし危険な状態にいる事は変わらず、艤装を着けていない艦娘は妖精の保護を受けることが出来ない為命の危険がある。陽炎は助けを呼ぼうと考えたが、割れたガラスを不審に思った艦娘が駆けつけてくれることを思いその場で如月を介抱する。頭の中ではあれが何か、本物の睦月はと、様々な疑問が駆け巡るが如月のことが第一と考え助けを待つ。やがて直ぐに階段を駆け上がる複数の音を聞き取り、胸を撫で下ろすとその先を見つめた。
「陽炎ッ!」
真っ先に視界に飛び込んだのは最も信頼出来る不知火の姿であり、陽炎は安堵の表情を浮かべると如月を降ろし立ち上がった。此方に駆けている不知火の表情までは確認出来なかったが、やがてその表情に気付き陽炎は戦慄する。滅多に感情を表情に出さない不知火の憤怒の表情に、陽炎は怯み一歩身を引く。駆け寄った不知火の振り翳された拳が一瞬見えたのを理解した後、その衝撃で後ろへと転がり頭が真っ白になる。陽炎はじんじんと痛む頬を右手で抑えつけると、此方を見下ろしている不知火を恐る恐る見上げた。
「見損なったわ」
「なんで……」
後ろから来た重巡達により如月は保護される。しかし陽炎は不知火に殴られた事実より、その重巡の影に居る睦月の姿に驚愕し言葉を失った。
「睦月が教えてくれたわ。如月と喧嘩して、手をあげたと……それもこんな……」
「ちっちがうっ!」
「睦月が見たと言ってるわよ?」
陽炎が睦月に視線を移した時、顔を伏せ表情こそ見えないものの睦月は嗚咽しながら泣きじゃくり、重巡達に介抱されている姿が映った。その瞬間目元を腕で覆っているその隙間、確かに睦月と目があった。それは笑っていた。只笑っているのではない、嘲り笑っているのが見えた。
「ッ!そいつから離れてッ!」
陽炎は立ち上がると震える足を何とか抑えつけ、未だに顔を伏せている睦月へと指を指す。その怒号に睦月は更に体を震わせると、再び大声を上げて泣き始める。
「……陽炎?話を聞かせてくれるか?」
那智は冷徹な目線を陽炎に向けると、不知火の横を通り過ぎ此方に歩み寄ってくる。陽炎はパニックを通り過ぎ、一瞬冷静さを取り戻すとある決断をし、踵を返した。そして足が縺れながらも全速力で廊下を駆け出し、突然の行動に呆気に取られた不知火と那智は我に返り後を追う。
「羽黒ッ!如月を頼む!」
「は、はい!」
二人は既に廊下を横切り見えなくなった陽炎を追い、羽黒と遅れてきた川内達は如月をドックへと運んで行った。
「ッハァ……ハァ……」
汗まみれになった服の袖で流れ落ちる汗を拭うと、陽炎は身を潜めた資料室の陰で腰を下ろした。必死に頭を落ち着かせ、現在の状況を整理する。最近起こっていた違和感、そしてあの明らかに常軌を逸している睦月。
「ハァ……もしかして……」
陽炎はそんなことが有り得るのかと考えたが、ふと右腕にはめられているブレスレットを見つめ気付く。このブレスレットを送った張本人、朝霧が提督を辞めることになった作戦。その作戦失敗の主な要因になった深海棲艦による艦娘の擬態。もし、それがこの鎮守府内で今起こっているとすれば全ての辻褄が合う。そして偶然自分はまんまと罠にはめられたのだろう、あそこを通り過ぎたばかりに。陽炎はそこから更に話を展開していく。恐らく、深海棲艦は艦娘に成りすましながらこの鎮守府に滞在していた。そして友好関係等を探りながら実行に移す日を伺っていたのではないかと。提督である朝霧が此処を離れた瞬間の事件だ、偶然とは言い難いであろう。仲の良い艦娘と二人きりになり、徐々に始末していく。ところがその時間、普段は誰も居ないはずの宿舎三階に自分が居た。そして咄嗟に自分に罪を被せ、鎮守府内を混乱に陥れようとしたのだろう。
「はは……冴えてるわね……私……」
まだそれが事実と決まったわけではないが、その仮説が矛盾なく辻褄が合ってしまう。そして何より、陽炎にはあれが睦月ではないと言う自信は言い切っていい程あった。
「……どうするかしら」
このまま放っておけば犠牲者が増えてしまう。
「ッ……じゃあ本当の睦月は!」
あの様に大仰に振る舞ったのだ、本物の睦月が居ては計画は頓挫してしまう。それが指し示す意味を陽炎は瞬時に理解する。陽炎は第一に睦月を探し出す事を優先し、資料室の扉を恐る恐る開け人気の無い事を確認すると廊下を駆け出した。