リトルバスターズ! ~理樹くんの異世界モンスターハンター奇譚~ 作:九十九足一
第二話.(一)
――夢を見ていた。
それは幼き頃の記憶だった。
「強敵があらわれたんだ! きみの力がひつようなんだ」
子供の頃、両親を無くして毎日塞ぎこんでいた僕に、そう言って手を差し伸べてくれた四人の子供たち。
きみたちは誰なのか、と子供だった僕が尋ねると、リーダー格の男の子は答えた。
「悪をせいばいする正義の味方。ひとよんで、リトルバスターズさ」
あの時、差し伸べてくれた手――幼かった恭介に手を引かれるまま、僕は寂しかった事も、悲しかった事も全てを忘れる事ができた。
恭介や――他のみんながいてくれたからこそ、僕はここまで来る事ができた。
楽しかった。幸せだった。一人じゃないのが、嬉しかった。
これからも、皆と一緒にいられれば――それだけが僕の願いだった。
目覚めると、そこはいつも通りの男子寮の部屋――ではなかった。
そこはテントの中である。布越しに明るい光が入り、朝日が訪れたのだと理解した。
僕は、ゆっくりと身体を起こすと、テントから外に出た。
バルバレの町に朝が訪れていた。
数多くのキャラバンの集合体であるバルバレでは、空が明るくなるのもそこそこに、商売の準備を始める商人たちがちらほらといる。立ち並ぶ商店や大型テントでは、早くも商品を陳列したり看板を出している大人たちがいた。
その光景を眼にして、僕は軽く嘆息をついた。
(やっぱり、昨日の事は夢じゃなかったんだ……)
恭介、真人、健吾たちと一緒にゲームの世界に入り込んでしまった事。
ここバルバレを訪れ、ハンターとして生きる事を余儀なくされた事。
また、昨日出会ったキャラバンに加わり、キャラバン付きのハンターとして生活する事も思い出していた。
「おっ。理樹、起きたか」
「真人」
突然声をかけられて振り向いてみれば、そこには大きな樽を抱えてヒンズースクワットをしている真人がいた。
もといた世界でも真人は朝の筋トレを日課としていた。この世界でも、欠かさず続けているようだった。
「なんだか妙に朝早く目覚めちまってよ。他にやることもねえし、筋トレしていたってわけさ」
「恭介と健吾は?」
「健吾は、さっきまでそこで素振りしていたぜ。今はどこにいるか知らねえけど。恭介は――ちょっと判んねえな。まあ、あいつの事だから、余計な心配はいらねえだろ」
そういう真人は、上半身裸で巨大な樽を肩の上に抱えながら、屈伸運動を続けている。プロのビルダーにすら匹敵するような筋肉が、汗でキラリと輝いていた。どうやら、かなり長時間筋トレを続けていたようである。
(ひょっとして真人、僕が目を覚ますまで待っていてくれたのかな? 一人目覚めた僕が不安にならないように――)
などと、そのように思ったが――
「筋肉♪ 筋肉♪」
能天気そうに筋トレしている真人の顔を見て、いや、これは天然かなと思い直した。
「ええと……それじゃ僕、顔洗ってくるよ」
「おう、それじゃまた後でな」
一人筋トレしている真人を残して、僕は水場へと向かった。
「うぉおおおお――! 筋肉は爆発だぁああああ――っ」
「………………」
岡本○郎が怒りそうなフレーズが朝靄の中で響いていた。
そんな真人の声を後ろに、僕は水場を目指していた。
恭介が命名したキャラバン『リトルバスターズ』は、各地を放浪して商売する少人数のキャラバンだった。
そのメンバーであるユイコさんとコマリさんは、始めからバルバレに向かう予定だったらしく、僕たちもギルドから報奨金を貰うために一緒にバルバレに戻った。
ユイコさんと恭介が話し合い、キャラバン『リトルバスターズ』はしばしバルバレ中心に活動する事に決めたのである。キャラバンのポポ車をバルバレの端に止め、僕たちはそこを拠点にすることにした。
僕たちが寝泊りしたテントのすぐ傍では、車輪のついたコテージが停まっている。
キャラバンが普段移動用に使っているポポ車は、いくつもの荷台が連結して動く形となっており、そのうちの一つである大型荷台は、変形させれば簡易的なコテージになることができるそうで、キャラバンの女性陣は昨日そこで寝泊りしていた。
その隣で、昨日僕たちはテントを設営し、男性陣はそこで寝ることになった。男性陣といっても、僕と、恭介、真人、健吾の勝手知ったるメンバーだった。ちょっとしたキャンプ気分――などといかないのが悲しいところではあったが。
(みんな――どこに行ったのかな?)
昨日は四人並んで寝ていたはずだけど、朝目覚めたときは、すでに布団はもぬけの殻だった。真人はさっきまでテントの近くで筋トレしていたが、健吾と恭介の二人は果たしてどこに行ったのだろう。
「ん…………」
とりあえず、考えるよりも先に顔を洗おうと思った。
コテージの近くに、真水を溜め込んだ樽があることを昨日教えて貰っていた。
樽の蓋を開け、手で水をすくって洗顔する。
「ふぅ…………」
一息つく。
冷たい水で顔を洗った事で、大分頭がすっきりするようになった。
さて、どうしようかと思考を回らせたとき――
「よいしょ、よいしょ……」
どこからか、女の子の声が聞こえた。
あたりを見回すと、声の主がコテージから出てきたところだった。
大きな荷物を抱えて、ふらふらと歩いているのはコマリさんである。
しかし抱えている荷物が邪魔で、前がよく見えていないようにも思えた。
「――ほわあぁっ!」
案の定、躓いてすっ転んだ。
ガラガッシャン、と盛大な音を立てて抱えていた荷物がぶちまけられる。
「ふぇええ、痛い~」
「大丈夫?」
僕は駆け寄って労わるような声をかけた。
「ふえ? リキくん?」
きょとん、と上目遣いでこちらを確認するコマリさん。
次いで、にぱっ、と花のような笑顔をこぼす。
「おはよう~、リキくん」
「おはよう、コマリさん」
朝の挨拶を交わす。
コマリさんは、さっきまで泣きべそかいていたことなんて忘れて、もう笑顔だった。
「手伝うよ」
僕は散らばった荷物を集める。
「ありがとう、助かるよ~」
コマリさんはお礼を言って、僕たちは手分けして散らばった荷物を集めていた。
散らばった荷物を拾いながら確認する。
ハシに小型ハンマー――荷物は、鍛冶道具のようだった。
そういえば、昨日出会ったときは、コマリさんは鍛冶職人をやっていると言っていた。おそらく、これはその道具なのだろう。
散らばった鍛冶道具を木箱に入れる。持ち上げると、結構な重さだった。
「コマリさん、そっちは――」
次の瞬間、振り返る僕の眼に、衝撃的な光景が飛び込んできた。
コマリさんは、四つん這いになって散らばった荷物をかき集めていた。
それはいい。それはいいんだけど――
おそらくは、さっき転んだときにそうなったのだろう。短いスカートがめくれていて、しかも彼女は気付いていないようだった。
「うーんと、どこかなー? 見つからない……」
散らばった道具を探しているコマリさん。お尻を僕に向けるような形となって探していたものだから、当然の如く、あられもない部分が見えちゃっている。
(コマリさん、ぱんつ見えてる!)
薄くて白い布地には、ファンシーな絵柄がプリントされていた。
僕はとっさに目を逸らしたけれど、悲しい事にその光景は脳内に鮮明にプリンティングされてしまっていた。
「あ、あったー。リキくん、そっちは……どうしたの?」
明後日の方向を向いている僕に対して、怪訝に思ったコマリさんが問いかける。
「えっと……空飛ぶクジラでも浮いていないかなって」
「ほえ? クジラ?」
適当に誤魔化した僕だったが、コマリさんは真に受けたようだった。
一瞬考えるような仕草をしたコマリさんだったが。
「リキくんって、面白い事言うんだね~。もしかして、天然さんかな?」
「………………」
それはあなたにだけは言われたくないです。
内心ツッコミを入れた僕だったが、とりあえず肝心なことを言わないといけない。
「コマリさん、さっき転んだときに背中が汚れてたよ」
「背中……? あわ、あわわわっ!」
自分の背中を振り向いて、ようやく致命的な箇所が露出していることに気付いたらしい。
しばらくバタバタともがく様な音を背中で聞いていたが、やがて静まると。
「えーと、リキくん」
「……な、何?」
「ひょっとして……見えちゃったり?」
「………………」
どうしよう。正直に言うべきか、言わないべきか。
やはり、ここは見なかった事にするのが優しさだろうと結論付けて、僕は言った。
「可愛いペンギンさんだったよ」
(見えたって、なんのこと?)
――しまった、本音と建前が逆だった!
「う、うわあああん、見られた~」
大泣きするコマリさん。笑ったり泣いたり、本当に忙しい人だった。
「いや、ごめん。勿論わざとじゃないんだけど、本当にごめん。言わないし、忘れるよう努力するから」
正直、忘れようと思っても、なかなか忘れそうにもない珍事件だったけど。
僕が必死に謝っていると、コマリさんはいつの間にか泣き止んでいた。
「えーと……。それじゃ、お互い無かった事にしましょう。はい、おっけー?」
「お、おっけー」
「うん、じゃあこれで円満解決」
「そうだね……」
そういうことにしておいた。それ以外にどんな選択肢があると?
僕はさっき集めた荷物を思い出していた。あれだけの重量だと、彼女一人で運ぶのは大変そうだろう。
「これを運ぶの? 手伝うよ」
「え、でも悪いよ」
「いいから。さっきみたいに転んだら危ないでしょ。最後まで手伝うよ」
「うーん……、じゃあ、お願いします」
僕はコマリさんと並んで、荷物運びを手伝う事となった。
「お疲れ様~。リキくん、ありがとね~」
プラス一往復くらいして、全ての荷物を運び終えた。
荷物の運び先は移動式の鍛冶工場みたいな場所だった。ポポ車の荷台の一つが変形したものだそうで、コマリさんの仕事場らしい。
「ちょっと待ってね~。……あった」
コマリさんは、棚にあった袋の一つをとると、僕に手渡した。
「はい、お礼のお菓子」
袋の中身を見ると、ワッフルっぽいお菓子が詰められていた。
「おいしいよ~。私のおススメ」
そういうコマリさんも、別の袋からお菓子を取り出して頬張っていた。
(朝食、まだなんだけど……)
僕はコマリさんに習って、お菓子の一つを口に入れた。
(あ、でも結構おいしい……)
運動した後のせいかもしれないけれど、甘さが染み入るように口の中で広がっていた。
そんな僕の表情を読み取ったのか、コマリさんが喜びの笑顔を浮かべる。
「お菓子を食べると、ちょっぴり幸せな気分になるよね。その幸せを共有できる人がいたら、それはとっても幸せなことだと思うんだ」
「コマリさんは、甘いものが好きなの?」
「うん、お菓子は私のジャスティス」
そんでもって、さらに別のお菓子をプレゼントしてくれる。
あっという間に、僕の両手が紙袋で塞がった。
「はい、これで君も幸せ」
そう言って、太陽のように笑うコマリさん。
「誰かを幸せにするって、自分もちょっぴり幸せになるよね。君が幸せになってくれれば、私も幸せになれる。そうやってずぅーっとずぅーっと幸せにすれば、みんながハッピーになる気がするんだ~」
「幸せスパイラルだね」
「うん、そうだよー!」
同意を得られことが嬉しいのか、とびっきりの笑顔を見せてくれるコマリさん。
(うーん、やっぱりこの人、どう見ても小毬さんにしか見えないよなぁ……)
元居た世界の友人の顔を思い浮かべる。
次いで、その友人と一緒に学校の屋上で何度も会って、お菓子を食べていた事を思い出していた。
「コマリさんは、ここで鍛冶の仕事をやるの?」
「うん、私、キャラバンの鍛冶職人だから」
笑顔で答えるコマリさん。
正直、コマリさんのあの細腕で鍛冶なんてできるのかどうか、甚だ疑問ではあった。
けどあたりを見渡せば、鍛冶道具はそれなりに使い込まれている様子だったので、伊達で鍛冶職人を名乗っているわけでは無さそうである。
「リキくんも、素材を持ってきてくれたら装備を作ってあげるよ」
そう言って、コマリさんは鍛冶について説明してくれた。
「ハンターの装備は、鉱石以外にも、モンスターの素材からでも作れるんだ。より強力なモンスターの素材であればあるほど、強力な装備が作れるようになるんだよ。それに、装備同士を組み合わせる事によって、ハンターにとって有益なスキルを発動させる事もできるんだ」
「そうなんだ」
「うん、だから、クエストでモンスターの素材を手に入れたら、ここに持ってきてね。私、頑張って作るよ」
「ありがとう。――僕はもう行くよ」
「ほえ? 行くの?」
「うん。ところで、鈴を見なかった?」
「リンちゃん? うーん、どこだろう……?」
コマリさんは少し考える仕草をした。
「ごめん、ちょっと分からないかも……」
「分かった。それじゃ、探してみるよ」
「リンちゃんに何か用事?」
「用事っていうか……、ちょっとどうしているか、気になったから」
彼女が僕たちの幼馴染である棗鈴であるかどうか知りたいから――とは言わない。それは話さなくてもいい事柄だった。
「じゃあ、これ、持っていきなよ」
コマリさんは、工場の棚にあった袋を僕に手渡してきた。
「これは?」
「それはね~、リンちゃんと仲良くなれる魔法のアイテムなのです」
得意げに言うコマリさんだったが、その表情は少し寂しげだった。
「リンちゃんと、仲良くしてあげて欲しいな……。友達は少ないより多い方がいいから」
その一言で、今の彼女の境遇を少しばかりだけど察することができた。
あのリンって子が、僕たちの知っている鈴かどうかは知らない。それでも、仲良くしようと思うには充分だった。
「探してみるよ。それじゃ」
「うん、またね~」
手を振って、僕はコマリさんに別れを告げた。
工場を出たところで、気になって袋の中身を覗く。
中身を見ると、ゼリーっぽいお菓子が詰まっていた。
(えーと、要するに食べ物で釣れってことなのだろうか……)
そんな動物じゃあるまいし、とは思いつつも、彼女を探すべく僕は工場を離れたのだった。
鍛冶工房を出た後、ポポ車の荷台の陰で、その小柄な少女を見つけた。
鈴――いや、この場合、リンと呼ぶのが正しいのだろう。彼女は一人で、日向の中にいた。
否、独りではない。
一匹の猫とじゃれあっていた。
(違うな……あれは猫じゃなくて――)
アイルーという生物だった。
白一色の体毛で、リンの膝ほどの高さをしている。
リンはそのアイルーと一緒に遊んでいるようだった。
猫じゃらしを構えて、アイルーの目の前で左右に振ったりして反応を楽しんでいる。
白っぽい服を着ていたせいかもしれない。陽だまりの中で、今のリンは、まるで一人舞い降りた天使を彷彿とさせる姿をしていた。
「みょんみょん、みょんみょん」
そう独り言を呟きながら、リンは猫じゃらしを使って、無邪気にアイルーと遊びつつ、時折、アイルーの首や背中を撫でては、微笑んでいた。
――うなうな、ごろごろ。
くすぐったく反応を示す白いアイルー。
「………………」
離れた場所で、そうしたリンの姿を眺めていた。
そうやって戯れる姿は微笑ましくもあった。
平和な世界の中で、一人と一匹は仲睦まじく遊んでいる。
僕は思い切って、呼びかけてみる事にした。
「リン?」
「○×▲■※――っ!」
リンは僕の声に、驚いて、とっさに飛び退いた。
予想以上のリアクションに、僕はかえって言葉を失ってしまう。
リンは荷台の影に隠れると、ふー、と毛を逆立てて(イメージだけど)、威嚇するように僕を睨んでいた。
「えーと、リン?」
恐る恐る呼びかけると。
「来んな! あっち行け!」
敵意剥き出しの声が返ってきた。
「えええ……」
なんで? 僕はそんな嫌われることしただろうか、と首を捻り掛ける。
人見知りが激しい、と昨日ユイコさんは言っていた。
しかしこれはもはや、そういう域を飛び越えて、未開の奥地で出会った人間に敵愾心を持つ珍獣と同レベルではあるまいか。
「…………くす」
思わず笑ってしまう。
動物みたいな――などと先ほどは思ってしまったが、今のリンの様子があまりにも可笑しくって、僕は口元が緩んでしまった。
まるで猫みたいだ、と思った。
滅多に人に懐かず、無垢に、自由気ままに生きる存在。
それがリンという名の少女なのだろう。
「驚かせてごめん。……でも、僕はリンと仲良くできればと思って――」
「死ね、バーカ」
罵倒が返ってきた。
「………………」
取り付く島もない。
そういえば、と思い出す。
小さい頃、鈴と始めて出会ったときもこんな感じだったと思い出していた。
あの頃の鈴は、いつも恭介の後ろに隠れて、いつも他人と壁を作っていた。
そんな鈴と、いつの間にか仲良くなっていた。そのきっかけはなんだったろうか?
「………………」
手にはコマリさんから貰ったお菓子があった。
そっと、僕はそれをリンに見せる。
「――――っ!」
ぴん、と耳が立った(イメージだけど)気がした。
どうやら予想以上に覿面だったらしい。
僕はそれを差し出すように鈴に見せた。
「……くれるのか?」
「うん、どうぞ」
「うぅ……」
それでもリンは怖いのか、躊躇うような表情を見せて近づこうとしなかった。
僕はしばらく迷ったが、紙袋に入れたままゆっくりとゼリーを地面に置いた。
そしてゆっくりと後ろ足で後ずさる。
「…………」
僕が距離を取ったのを見て、リンは紙袋に近づいた。
臭いを嗅ぐように袋の中身を確かめて、袋から取り出したゼリーを口にする。
「………………っ!」
顔を綻ばせた。
こうかはばつぐんだった!
「気に入ってくれたみたいだね、良かった」
僕もまた嬉しくって、自然と笑みを浮かべていた。
すると、リンは今頃気付いたようで、恥ずかしさに赤面しつつ、仏頂面で俯いた。
「ふん……、こんなんで勝ったと思うなよ!」
いや、思ってないし。
思いっきり釣られているのはリンの方だし。
「ほら、おまえも食べるか?」
リンはゼリーの一つを足元のアイルーに差し出した。
ニャオ、とアイルーは一鳴きすると、リンから受け取ったゼリーを口にした。
そのアイルーを見て、リンはさらに微笑を浮かべた。
僕はただ、何をするでもなくその一人と一匹の様子を眺めていた。
そうして、一頻り満足したリンは、改めて僕に向き直った。
「ゼリーはうまかった」
しかし、やっぱり僕を睨みつけながら。
「……けど、おまえとなかよくはしないからなっ!」
リンはそう言ったけれど、僕は特別残念には思わなかった。
ほんの僅かでも、彼女の心を開けたことが嬉しかったからだ。
「……いいよ。でも、一つお願いがあるかな」
「なんだ?」
「僕の事は、『おまえ』じゃなくて、名前で呼んで欲しい」
「おまえの名前、なんだっけ……?」
昨日名乗ったじゃないか。
僕は若干呆れつつも、もう一度名乗る事にした。
「理樹だよ。直枝理樹。呼ぶときは、理樹って呼んで欲しい」
「リキ……?」
「ちょっと発音が違うかな。理樹だよ」
鈴とそっくりなせいかもしれない。
彼女には、ちゃんと呼んで欲しかった。
「り――り、り」
名前を呼ぶ事すら人見知りのせいで難しいのか、リンは口をぱくぱく開けていた。
そうして、リンは。
「……りーずなぶる」
――ごまかした。
「リン、もう一回。理樹って」
「うっさい! えーと、り、り、り――り――」
リンは、一生懸命な様子で言おうとしていた。
「……りーまんしょっく」
「何でそんな単語を知っているのさ!」
思わずツッコミを入れてしまった。
「……うぅぅ」
非常に困った様子でリンは唸っていた。
(やっぱり、今のリンには高望みしすぎたかな……?)
僕は諦めて首を横に振った。
「……今日はいいから。でも、いつかは呼んでよ。それじゃ」
リンに別れを言って、その場から立ち去ろうとしたときだった。
「――――理樹」
まるで蚊が鳴くような、消え入りそうなほどにか細い声だったけれど、それは確かに僕の耳に聞こえていた。
僕はリンに振り向いた。
彼女は、トマトのように顔を真っ赤にして俯いていた。
「リン、今の――」
「うっさい! 死ね! 黙れ! ぼけ!」
ふかー、と凶暴な面構えで怒鳴るリン。
「――ふん、いくぞ、レノン」
リンは、レノンと呼ばれたアイルーと一緒に去っていった。
――僕は一人、その場に残される。
名前で呼ばれた。
その事実に、心がぽかぽかするような心地だった。
(うん、まずは一歩だ)
この調子で仲良くしていければいい。彼女が幼馴染である棗鈴かどうかは、そのあとで判ればいいと思っていた。
その時である。
「――理樹、ここにいたか」
「恭介」
ひょっこりと、そこに突然現れたのは恭介だった。どうやら僕を探していたらしい。
「朝飯の仕度ができている。その後で、ユイコが俺たちに話があるらしい」
「うん、わかった。すぐにいくよ」
そうして僕は、その場を後にした。