カリカリカリカリ
約50人いる巨大な教室。
その数多い椅子は全て埋まっているのに、生徒は皆静かだった。
≫リーズアリア大戦だな
一切の空きも無く埋まって行く解答欄。それと同時に、脳内に響く男の声。
エルの頭脳でユグドラシル精霊学校の試験に受かることができた理由は、まさにここにあった。
≫水精霊の治める地域で、今のリーズアリア王国の北に位置するぞ。
ヒントじゃなくて答えをくれよ、と呼びかけるエル。
エルはテストの時間が嫌いだ。後にやってくる点数が怖いわけではない。
真面目に勉学に励む気のないエルにとって、テストとはただヒューズに問答をするだけのつまらない時間となっていた。
エルにとって自分という存在は、人間のための『駒』程度の存在でしかない。何よりまず人間という『種族』を最優先にする彼は、そのために簡単に自分を捨てることができるほどの覚悟を持っていて、それに必要のないものはどんなものでも切り捨てる強い意思がある。
だが、学問となるとそうはいかない。
エル自身、こと戦いにおいて敵に負ける気はさらさらない。
どんな敵にも勝てる自信があるし、頭脳戦でも遅れは取らない。
しかし、単純な知恵比べだけは、エルは誰にも敵わないだろうと思っている。
エルの人生は、その大半を体内に魔力回路を作り出すことに費やしている。そのため自由な教養の時間も与えられず、言語もつい最近まではよく喋れなかったのだ。そんな人間が同年代の、ましてや精霊の学生について行くなど到底無理な話。
そして、それに、と言ってはなんだが、エルはその内容も気に食わなかった。
やれ浮遊呪文の術式を描けだ、やれリーズアリア王国の歴史を解けだ、人間には科学という素晴らしい学問があるが、精霊の言っていることはさっぱり分からない。
エルは魔法を使えるが、だからといって、精霊の言っていることが完全に理解できる訳ではない。
そもそも、術式を人間が完全に理解するのは不可能で、精霊の使う言葉は人間のそれとは違うし、それ以前に、術式を創ること自体満足に行うことができないのだ。
人間からして見てみれば、宙に浮かび上がる術式は唯の『光る知らない文字が書かれた円』にしか見えない。この位置にこの文字を書く、ということが理解できても、人間には魔力がないし、感知することもできない。故に、魔法陣の形を知っていても描けないし、それを利用して魔法を打ち出すなんてできるはずもなく、人間は対抗策なく駆逐されてしまったのだ。
しかしそれでもあの頃の人類を滅ぼし尽くすには、それだけ有利な点があっても無理のある話だと彼は思う。
如何に魔法が強かろうが、科学の力も侮れないし、生息数も人間の方が圧倒的だ。それだけの物量差で精霊が人類に勝つには、途轍もない攻撃範囲を誇る魔法で人間を薙ぎ払うか、人類間で何かが起こるか、それ程の力が動かなくてはならない。
しかしそもそも、そんな巨大な攻撃範囲を誇る魔法は確認されていないし、人類間で何かが起こっていたとしても、敵は世界樹から現れているのだ。それを見過ごして何処かの国が戦争を仕掛けてきた、なんて勘違いをするとも思えない。
では何がこの世界を変えたのか。それは別の何か…精霊の力か、人間の自滅か、それとも__
__≫エル。もうテスト終わったぞ。
…あ…すまん、ヒューズ。
いつの間にか考え事に熱中していたのか、音響魔法のチャイムの音がなった。
エルのプリントは風精霊の教師に奪われ、椅子に体重を任せて天井を見た。
光る植物の花弁を眺め、そこにゆっくり手を伸ばす。
ガタガタと立ち上がって行く生徒達。もうグループができているのか、風精霊の集まりと、水精霊の集まりが出来上がっていた。
獣精霊は特定の精霊の傍に無言で立っている。獣精霊は生まれた時から使える主人が存在するので、このような光景も当然だろう。よく格差が出来上がっている。
獣精霊は世界樹の中で一番多い種族だが、地位は最も低かった。
何を感知したのか、エルの目は細まった。
鋭く天井の光を睨み、彼のどす黒い魔力が教室を駆け巡った。
瞬間、2リットル程の水がエルの頭上に出現し、重力に引っ張られる様にエルを襲った。すかさず迎え撃つように式を構築するエル。直径30cm程の闇の魔法陣が完成し、空間がゆらいだ。
そこに水が触れ、無重力になった空間に浮かび上がる球体。
水は宇宙を漂う地球のような形となり、エルは掌を窄め蒸発させてそれを消した。
簡単な炎魔法の応用であったが、魔力の消費も少ない上に、それで十分であった。
静かに息を吐いたエルは、廊下からこちらを伺っている数人の少年を睨みつける。
すると彼等はそそくさと撤退し、彼等がいなくなった廊下には微弱な笑い声と、『誰かさん』を見下すような明確な敵意だけが残って行った。
魔法と言うものは上手く扱えば武器となり道具となり、下手に扱えば途轍もない災いを引き起こす簡易的な爆発物だ。
齢十五歳になったばかりの彼等が持つにはとても危うい危険物であり、半端者に与えるとすぐによからぬ方向へ使い始める。
下衆な種族だ。
と、エルは悪態をつく。
先程の水魔法が良い例だ。命に関わる程の悪戯ではなかったが、何事も失敗というものはついてくるものだ。
それは式の構築の失敗と、魔力の逆流などが原因となり起こる現象であったが、魔法は時に大爆発を引き起こす可能性がある。
魔力回路が成熟したばかりの彼等では魔力の制御も慣れていないし、式の構築も指導を受けてはいないだろう。例えここがどれだけの名門学校と言えど、絶対に失敗を起こさないという道理はない。
しかしそれに反し、特定の年齢未満が魔法を使ってはいけない、や、街中で魔法を使ってはいけないという法律は特に見受けられない。
それは魔法の使用が日常の当たり前の風景となっており、誰もその危険性に目を向けようとしないところにある。
このまま放っておいても勝手に滅びるかもしれない、というのは彼の弁だ。
しかし、その姿が科学を得た人間と酷似しているということに、まだ彼は気づいていない。
≫さて、エル。魔法を使ったな、何があったんだ?
……あ、いや、何かの悪戯だろう。俺がそんなに気に食わないのか。
適当なことを頭の中で唱えながら、自分も魔法を使ってるじゃないか、と、エルは一人で頭を抱えた。
ふと時計を見上げてみると、時刻は既に十二時を回り、少し長めの休憩時間がやってくる。
すると端からドタドタと足音が聞こえてきて、それが最近見知った精霊であることは、その大きな喋り声で容易に想像がついた。
「エルさん。テストどうでしたか?」
「……あぁ?」
「サラ様!」
もう名前で呼んで良い仲になったのかと、明後日を向いて適当に返事をするエル。
好奇心旺盛なサラ王女と、常に警戒心を垂れ流すその従者。その二人は何故か彼に構って、何かと声をかけていた。
「さすがユグドラシル精霊学校は違いますね!とても難しい問題ばかりでした!」
「サラ様!あ、あまりそういうことは大声で言わない方が…!」
なんでも、術式の科目が苦手な彼女は、回答用紙の余白を計算で全部使ってしまったらしい。やむなく問題用紙の裏を使って解き、間に合ったそうだが…
「いやぁ、水魔法は構造が歪で難しいですね。炎精霊は攻撃魔法しか使えないので、回復魔法はどうも素人で…」
そこにあったのは、膨大な量の文字と数字の羅列。
素人目に見ても異次元のレベルだと分かる計算式に、エルは冷や汗を流し耳に手を当てた。
おい、俺、術式のテスト計算式碌に書いてないぞ。
エルの懸念するのは、計算式を書かなかったら減点扱いになるのではないかということ。
他の生徒もこのようにしていたのならどうにもならない、と、エルは始めて自分のテストの心配をしていた。
そして、それについてのヒューズの回答は…
≫サラ王女が異常なんだよ。
なるほど、と、一人で納得するエル。
サラの数式に押されながらも、なんとか彼女を理解することが出来た。
どんな英才教育をされてきたかは知らないが、式を見るにどうやら『新しい』式を開発していたようだ。
はて、これは単に公式を覚えていなかったからできた所業なのか、それとも力を見せつけるためのイベントか。
一国の王女を馬鹿にしてもらっては困る、とでも言いたいのだろうか。
「ところでエルさん。あの時は申し訳ありません」
瞬間、エルは大きく目を開く。
突然謝られたかと思ったら、サラが自分に頭を下げている。
彼の中の時間は停止し、先程まで流れていた冷や汗が冷気を携え凍りつく。
「まさか、ヒューリというのが人間さんの蔑称だとは夢にも思わず…って、エルさん?」
サラが不思議そうに見上げる先には、何を考えているかも分からない無表情……それでいてとても真剣な表情でサラを見つめる人間の魔法使いがいた。
その姿にサラは少しだけ目を逸らして、自分の従者であるヒイロを見やる。
どうしよう、怒らせちゃったかなぁ。
心配そうな目を潤ませるサラ。
ヒイロには確かに、そのアイコンタクトは伝わっていた。
ヒイロがふつふつと怒りを募らせている間、エルは全く違うことを考えていた。
サラ王女には驚かされてばかりだ、とエルは思う。
先の異次元の計算式、今の謝罪。
とても一国の王女がする行為ではない、彼女の理解不能な是等の行動。これをするならばヒューズのような奇才か、はたまたアリスの様な絶世の天才か。
エルは頭の中での彼女の順位を引き上げる。彼女はエルの中で一国の王女という位から、世間知らずの天然娘という位にランクアップした。
大幅なランク"アップ"である。
態とやっているのか、唯の馬鹿なだけなのか__
しかし結果がなんであって、彼女は警戒しなければならない…間違いなく曲者であることが感じ取れた。
頭の中でくつくつと笑うヒューズの声。
彼は何を考えているのだろう。
エルは答えが欲しかった。