なかった、ってことは、今は好きなのかと聞かれると、好きとは言えないだろう。だけど、嫌いではなくなった
その理由なんて、他人からしたらひどくちっぽけなものかもしれない。そんなことか、と嘲笑されるかもしれない。だけど、俺にとってはそれ程大きなことだった
あれは、高校一年の夏。まだ蝉の鳴いている時期だった
「お先に失礼します」
「おーう、今日もお疲れちゃん」
「気を付けて帰ってね〜」
今日のバイトは終わった。いつもお世話になっている店長や先輩方へ挨拶を済ませる
いやぁ、今日も頑張った。高校生になってバイトを始めて早数ヶ月…………学校でできた友達の家であると言うこの喫茶店『バース』に雇ってもらったのだが、最初は不安で仕方なかった。今ではそんなこともないがな
「あ、そうだ。総一君」
「……?はい、なんでしょう」
店を出ようと思ったら店長の奥さん、さくらさんに呼び止められた
「実は今週の土曜日、私と明さんにちょっと用事ができちゃって」
頬に手を当てながら少し困った顔を作って言うさくらさん。一児、しかも俺と同い年の息子を持っているというのにお若い限りです。全く、最近の母親はどうなってるんだ?友穂さんと言い、さくらさんと言い、うちの母親も見習って欲しい
………いや、まあ若い部類には入るんだがな。見た目は
しかし、土曜日に明さんとさくらさんがいないのか。確か土曜日は………8月3日だったな。シフトも入っていないし、入って欲しいと言うお願いだろうか?
「その日、孝太郎と二人だけでお店番頼めないかしら?」
……………は?
「孝太郎と二人だけ………?」
ジャストモーメントですさくらさん。二人だけってなんの冗談ですか?ここ喫茶店って言っても、二人で回せるようなもんじゃないですよね?丁度孝太郎はホールで、俺は厨房ですけど、明らかにバイト始めて数ヶ月の人間に任せて良いもんじゃないですよね?
「他の先輩方は………」
俺は助けを求める為に先輩方の方へ目を向ける
「俺もその日用事があるから無理だわ。頑張りたまへ、ソウ君」
「ソウ君はやめてください関根先輩。………山田先輩」
「私も用事があるから無理なんだよね。ごめんね?」
そ、そんな…………!
「このこと、孝太郎は?」
「ダーイジョブタイジョブ、そんな心配すんなってソウちゃん」
「ソウちゃんもやめてください、店長」
軽快な男性の声が厨房から響いて、その後に店長が姿を現す。いや店長、ダイジョブ言いますけどダイジョブじゃないですよ
「ソウちゃんも頑張って、早くこれだけ稼げるようになんなきゃな!その為の練習だと思いな」
店長は人差し指を立てて俺に笑顔を見せてくる。そんなイケメンな笑顔を見せて貰っても納得出来ませんよ。それに一億も稼ぐ気なんてありませんからね?俺は
いや、でも欲しいかと言われれば欲しいかな
「…………わかりました。どうせもう決定事項なんですよね?」
「ありがとね。総一君は嫌な顔一つしないから嬉しいわ」
「いや、嫌な顔が出ないだけです」
…………そうだ。生まれてこのかた、俺の顔には感情が出にくい。出たと思えばただ目を見開いて驚いただけの顔だったり、精一杯変わっても、眉を寄せるぐらいだ
それこそ、笑ったことなんて記憶にない
「いっつも無表情だよなー、ソウちゃん」
「………それについては触れないでください」
俺だって気にしてるんだ
「あぁー…….悪い」
やべ、少し語気を強くしてしまった
「いえ、こちらこそすみません。それじゃ」
俺は逃げるように店から飛び出した。あそこにいても、気不味くなるだけだっただろうから
「…………甘いもん、買いに行くか」
そうだ、和菓子が良い。和菓子が食べたい。『穂むら』の饅頭が、食べたい
ブー………ブー
「…………?」
携帯が鳴った。こんな時に、一体誰だろうか?と言っても、掛けてくる人なんて少ないのだけれども
『もしもし、総一?』
『…………もしもし』
母さんからだった。またくだらない用事だろう、そう当たりをつけて応答すると母さんの変わらぬ声が聞こえてくる
今はあまり気分が優れない。出来ることなら早々にこの電話を切ってしまいたいのだが
『今週の土曜日ね、実は穂乃果ちゃんの誕生日なのよ?知ってた?』
「へぇ、そうなのか」
『と言うわけだから土曜日、予定開けときなさいね。穂乃果ちゃん楽しみにしてたわよ〜♪』
「………………」
何が、と言うわけだから、なのか非常に理解が出来ない
『穂むら』へ向かう途中、母さんから着信が来たと思えばこれだ。大体の概要は理解出来た。ただ、どうしても納得がいかないし、既にこちらはバイトのシフトが入ってしまったから無理だ
「高坂さんの誕生日を祝うのはいい。なんでもっと早くに連絡して来なかったんだ」
『あぁ、ごめん。後から連絡入れようと思って』
…………まあいい
「遅い。もうシフトが入ってる。昼からキッカリ」
『ズラしてもらえば?』
「無理」
『えぇ!?じゃあどうすんの!?』
俺が知るか。大体、本人に確認も取らずに話を進める母さんが悪いんじゃないのか?
自然とイライラが募る。足元にあった小石を蹴飛ばした。幸いこの通りは誰も人が通っておらず、猫一匹いやしない。苛立ちのままにもう一度近くにあった石を蹴り、舌打ちをする
「どうするもこうするも…………なんで先に俺に連絡入れなかったんだ」
『だから、後で入れようと………』
「俺がバイトしてることぐらい知ってるだろう!!土曜日にシフトが入ることくらい、予想出来るんじゃないのか!」
『…………ごめん』
「……………」
小さくなった母さんの声を聞いて、沸騰した頭がゆっくりと冷静さを取り戻していく
久しぶりに声を荒げた。普段あまり大声は出さない方だと自覚はしている。少し、怖がらせてしまったかもしれない
「取り敢えず、高坂さんの誕生日には何かプレゼント用意するから、それを持って行って納得してもらってくれ。後から俺からも謝っとくから」
それだけ言って、返事も聞かずに通話を終了させ、ゆっくりと耳元から携帯を下ろす
右手に握る携帯の、黒くなった画面に視線を向けると、いつもの無表情がそこにあった。画面に映る自分に目が合う。きっと、さっき声を荒げた時もこの顔だったんだろう。そう思うと途端にこの顔が憎らしくなり、なんならもういっそのこと笑顔の形でも作って、何かで固めてしまえば良いんじゃないかと思った
…………どうやら俺は、この顔が嫌いみたいだ
「ふぅ………」
溜息を吐いて、『穂むら』へ向けて歩き出す。この角を曲がればすぐだ
ゆっくりとした足取りで角を曲がると、すぐ側に『穂むら』の看板が見える。その下を通り、入り口の戸を開けて中へ入るとここ数ヶ月、何回か通って見慣れてしまった店の風景があった。カウンターでは友穂さんがお団子を摘み食いしている
「ん、あら………いらっしゃい、総一君じゃない。お団子食べる?」
「いえ」
友穂さん、それ売り物なんじゃないですか?
「そう………今日はどうしたの?お買い物?安くしとくわよ〜♪」
「ありがとうございます。それじゃあ、穂むら饅頭を一箱」
「はい、毎度あり♪穂乃果や雪穂なら家にいるわよ。上がってく?」
ぐ………今一番会いづらい人の名前を………!
どうする。このまま言っておくべきか、それとも当日に母さんから伝えてもらうべきか。高坂さん楽しみにしてるって言ってたしな、祝ってもらうのが嬉しいんだろう。それを壊すのは………いや、後で言っても同じだよな。どうしよう
「いえ、良いです。今日は和菓子を買いに来ただけなので」
よし、ここはヘタレになり切ろう
「そっか。はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
会計を済ませて帰路につく。結局問題を先送りにしたわけだが………
「あぁ、憂鬱だ」
もう一度溜息を吐いて、ゆっくりと俺は歩き出すのだった
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カランカラン♪
「おっす、来たか総一」
「あぁ」
8月3日、とうとうこの日が来てしまった。結局あれから高坂さんには伝えていない。今頃母さんから話を聞いて、落胆しているのだろうか。………いや、まあプレゼントは母さんに持たせたし、大丈夫だ
大丈夫………だよな?
「はぁ……」
「おう、どした。無表情で溜息とかなんか恐えぞ」
「刻むぞ」
「ゴメス。…………んで、どうしたよ?」
「別に」
特に言うことでもないので濁しておく。聞いたところで酒の肴にもならんだろう。酒を飲むわけじゃないがな
「ふーん、まあ良いや。そろそろお客さん来るぞ、準備しとけよ」
「わかってる」
……………さて、今日も頑張るか
日、跨いじゃった………しかも前編ていう