ただ一言、”美味しい”と   作:こいし

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二話

 私には幼馴染が居る。

 といっても、もう簡単に会えるような場所にはいないし、私としても彼に会えるとは思っていない。私と彼とは、もうお互いに手の届かない程に、立っている場所が変わってしまったからだ。

 

 ――いや違う、私が彼に会えなくなったのは……私のせいね

 

 彼に出会ったのは、私が小学生の時。偶然に屋敷に迷い込んだ彼と出会い、そして友達になった。思えば彼が私の初めての友達で、初めて話す男の子で、初めて料理を教えた人になる。

 あれから数年。中学校を卒業する今日この時も、私は彼のことを鮮明に覚えている。

 多分緋紗子も彼のことは覚えているだろう。私が彼に料理を教えているとき、彼女も一緒になって彼に世話を焼いていたから。

 そういえば彼に料理を教え始めてからかしら。緋紗子も段々と私に歩み寄ってくれるようになったのは。まぁ、それでも秘書としての意識は変わらないみたいで、まだ友人と呼べるほど心置きなく過ごせるような仲ではないのだけれど。

 

 あの日、彼――黒瀬恋君に料理を作って貰ったあの日、私は彼に料理の才能が全くないことを理解した。

 初めは一緒に作っていて、初心者らしい手際の悪さがあるのは仕方がないと思った。それでも一生懸命に作ろうと頑張っている姿には好感が持てたから、今はこれでも良いとも思った。これから上達すればいいのだから。

 数ヵ月間、そう思いながら少しずつ手馴れていく彼に料理を教え続けた。

 

 でも、彼が作り上げたのは私の味覚でなくとも酷いと感じられる料理。

 

 焼き加減や調味料の量、種類、下拵えの質、調理の過程で簡単なミスをすることは多々あること。まして初心者ならばミスをして当然だと言える。

 けれど、私や緋紗子が見ている前で彼はその簡単なミスを盛大なミスへと変えたのだ。

 幸い彼は器用な方で、教えれば食材を切ったり焼いたりといった作業は比較的上手にやり遂げることが出来た。だから失敗したのは味付けの工程。

 

 彼は味付けで使う調味料やソース、出汁といったものを、おおよそ考えられない量で使用したのだ。

 味覚障害によって感じる味の刺激が希薄な彼は、凄まじく濃い味付けによる強烈な刺激でないと、まともに味を感じられない。だからこそ起こったミスだと思う。

 彼は料理人として最悪のハンデを抱えて生まれてきてしまったのだ。

 

 しかし、それだけならまだ良かった。私と彼が疎遠になってしまったのは、彼に料理の才能がなかったからではない。

 

 ――私が彼に、()を吐いてしまったからだ。

 

 一生懸命に作る姿から分かっていた。私に美味しいと言って欲しいと、彼が本気で思っていることは。

 だからだろう。当時多くの料理人達が自分の腕を試す、もしくは腕を上げるといった理由で多くの料理を私に披露してきた。でも、私の為だけに料理を作ってくれるというのは、あの頃の私にとって新鮮でとても嬉しいことだったのだ。

 

 彼は本気で、心の底から私が幸せになれる料理を目指していた。神の舌を持っていると言っても、その意志が変わらなかったことからその本気度が分かる。

 到底無理な話だということは、きっと彼も分かっていただろう。何せ、数多くの料理人達の中で私に美味しいと言わせた者の数は、両手で数えるだけで事足りる程なのだから。

 初心者の彼が作る料理で、私が美味しいと思えるはずがなかった。

 

 でも、私は彼の料理を食べて無理矢理に笑顔を作った。そして言ってしまったのだ。

 

『うん……美味しい、よ……?』

 

 あの時の彼の表情は今でも忘れられない。数々の料理人は、私が不味いと言えば絶望したような表情を見せた。その顔は見慣れたもので、最初は不味いと言うことを躊躇っていたけれど、当時の私の時点で不味いと評することに躊躇うことはなくなっていた。

 なのに、あの時の彼の絶望したような表情はひどかった。金色の瞳を見開いて、生気の抜けた様な表情。死んでしまったのではないかと一瞬思ってしまったくらいだった。

 

 あの時彼は最初から分かっていたのだ――私が不味いと思うことを。

 

 それでも数ヶ月程週に何度か私から料理を習い、必死に努力してきた彼に対して私は嘘を吐いた。吐いてはいけない嘘を吐いた。

 不味いことが分かっていてもそれを私に出してきた彼の気持ちは、どんな気持ちだっただろう。自分の抱えたハンデと向き合って懸命に努力し続けた彼は、それでも私から美味しいというたった一言を本気で引き出そうとしていた。

 

 ならば私は彼に、軽々しく美味しいなんて言ってはいけなかった。

 素直に不味いと言ってあげればよかったのだ。いつも通り、多くの料理人達と同じように、不味いと素直に判断してあげればよかったのだ。

 私自身、知っていたはずだ。無理矢理作った笑顔で、自分でも不味いと分かっている料理を美味しいと言われる悔しさは。そんな気遣いが、料理人にとって最も屈辱であることを。

 

 "美味しい"と言うことで、私は彼から料理を奪い取ってしまった。

 

 あの瞬間、彼は部屋を飛び出していき、以降私の前に姿を現すことはなかった。私から会いに行っても、会えることは終ぞ一度もなかった。

 きっと、彼はもう二度と料理をすることはないだろう。私が料理をすることの楽しさを粉々に壊してしまったから。

 

「――卒業生代表、薙切えりな」

「はい」

 

 あれから数年、遠月学園に入ってエスカレーター式のこの学園で過ごした。中等部では主席で卒業することが出来、今日も代表として挨拶をする。

 壇上に上がり、代表挨拶として定型文を読み上げながら私は思う。彼は一体どうしているだろうか。

 

 私の初めての友人――黒瀬恋君。

 

 彼が初めての友人で、そして唯一の友人。彼以外に、私と友達になった人間はいない。やはり早々友人の出来るような環境ではなかったらしい。あの偶然は、本当に運命的な出会いだったのだと、今更ながら思ってしまう。

 まぁ、もう彼は私のことを友人とは思っていないかもしれないけど。そう思うと泣きそうになるから希望は捨てないでおこうと思う。

 

 いつか彼と再会したら、まずは謝ろうと思っている。そして、今度こそ教えてあげたい。料理は楽しいものなんだということを。今度は私の料理で、彼に美味しいという感覚を感じさせてあげたい。

 

「――以上、卒業生代表薙切えりな」

 

 挨拶を終えて壇上から降りる。この後も仕事が入っている。味見役の仕事だけれど、今日は遠月学園に高等部から入る編入試験の日だ。私はその審査員を任されている。ちょっと面倒だと思っているのは内緒だ。

 式を終え、歩く私の後ろから緋紗子が近づいてくる。今日のスケジュール確認だろうけど、朝にも言われたから大体覚えているのよね。だから伝達というよりも再確認の意味が強い。

 

「この後は編入試験の審査員役として高等部校舎へお願いします」

 

 予定通り、この後は編入試験。面倒ね。でも仕事は仕事、私は薙切えりなとして相応しい態度でもって臨まないといけない。とはいえ、捨石になるような凡人は必要ないけどね。

 今年の編入生は何人になるかしら――ひょっとしたら、ゼロもあり得るかもね。何せ私が担当なんだから。

 

「そう、それじゃあ行きましょうか」

 

 周囲の視線を受け止めながら、私は高等部の校舎へと向かう。

 

 そして、その会場で私は――運命の出会いをやり直すことになる。

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 遠月学園高等部校舎内、その調理場の一室に多くの編入試験受験者達がちらほらと集まってきていた。

 審査員である薙切えりなの到着はまだだが、時間的にもまだ余裕がある。こんな時間に此処にいる人間は、余程自信があるのか、それとも真面目なのかのどちらかだろう。

 この編入試験を受ける人間は皆、有名料理店のサラブレッド。所謂血筋的にエリートな人間が多い。つまり、この学園についてもある程度の知識がある。腕に自信がある者ばかりだろうが、それでも遠月学園の敷居が低くないことはしっかりと理解しているだろう。

 ピリッと張りつめた空気は、空間内に特有の緊張感を齎していた。

 

 その中で、艶のある黒髪に金色の瞳を持った少年が一人。自分の調理道具の入ったケースを手に、壁に寄り掛かりながら集中していた。実の所、一番最初にやってきた受験生が彼である。

 彼の名前は黒瀬恋――薙切えりなの、唯一の友人である。

 

「(……なんというか、今日は調子が良いな。何か良いことでもあるかもしれないな)」

 

 フ、と笑いながらそんなことを考える。

 思い浮かべるのは、幼い頃の記憶。忘れもしない、薙切えりなとの思い出だ。

 不味いとすら言ってもらえなかったあの日。彼は料理から逃げたのではない――薙切えりなに気を遣われた屈辱と自分への怒りに堪え切れなかっただけだ。

 

 料理は好きだ。あれから彼は、一度だって料理を嫌いになったことなどない。無論、味覚障害は多少マシにはなったものの、未だに治ってはいない。かの薙切えりなをして大きなハンデだと判断されたその欠点は、未だに彼の腕を鈍らせるのだろうか。

 だが、今彼がこうしてここにいるということは――彼がそのハンデを抱えてまで料理がしたいと思ったということだ。

 

 ならば彼は障害を抱えようが料理人として、この場にいる者たちと対等。実力を発揮して、出来れば合格を勝ち取るだけだ。

 

「そろそろ……時間か」

 

 重心を移動させて寄り掛かっていた壁から背中を離す。自分の足で立ち、軽く身体を解した。

 身長はそこそこ高くなっており、黒髪もある程度整えられている。元の顔立ちは良かったから美形に成長しているが、雰囲気からイケメンを気取ったようには見えない。どちらかといえばあまり目立たない落ち着いた雰囲気を纏っていた。

 

 すると、彼が首をコキッと鳴らした瞬間部屋の扉が開いた。そこから現れたのは、この編入審査の審査員。全員が騒然となる中で、どこか納得のいったように笑みを浮かべる恋がいた。

 

「……成程、確かに良いことあったな」

 

 薙切えりな。成長し、小学生だった頃とは見違えたように美人になっている彼女を見て、恋の金色の瞳に力が漲って来た。

 お互い成長して何処か大人びた空気を纏うようになった。でも、根底は全く変わっていない。

 

 二人は未だに過去の思い出で繋がっていて、今もなお――友達だ。

 

 恋の視線はずっとえりなに向いている。審査員として皆の前に立ち、卵を手に何か言っているが、恋には何も聞こえていなかった。ただ、あの日にあったことを思い出しながら、あの日の後に抱いた決意を思い出す。

 編入受験者達が慌てて逃げていくのを尻目に、恋はスッと閉じていた瞳を開いた。黒髪が揺れ、金色の瞳は星の様に煌めいている。

 

 残った受験生は二人――恋と、赤い髪で左目の眉に傷がある少年。

 

 えりなと緋紗子の視線が、赤い髪の少年に向いて、次に恋へと向けられた。

 瞬間、驚いたようにえりなの目が見開かれる。緋紗子も持っていたファイルを落として両手で自分の口を抑えた。

 その信じられないといって表情をしているのが可笑しくて、恋は軽く笑ってしまう。だが今は一受験者と一審査員――世間話をしに来たわけじゃない。

 

「食材は、卵だったな」

「え? え、ええ……ってそうじゃなくて、貴方まさか……!」

「まぁ積もる話は後でしよう。今の俺達は受験者と、審査員だろ?」

 

 自分とえりなを交互に指差しながら、恋は言う。それだけで、えりなは目の前にいるのが自分の知っている黒瀬恋であることを理解した。

 しかし、恋は話は後でしようと言って調理の準備を始める。完全に話し掛けるタイミングを失ってしまったえりなは、仕方なくまずは審査に集中することにした。

 

 あの日の反省から、彼女は料理に関して嘘は言わない。妥協もしない。もしも恋が合格ラインを超えた品を出してこなければ、即座に不合格にするだろう。

 ソレで良い、ソレが良い。恋だって、友達贔屓で入学したいと思うほど落ちてはいない。

 

「じゃ、調理をはじめよう。俺の知る限り最高の審査員だ、全力を尽くすよ」

「そいじゃ俺も! 少々お待ちを、薙切審査員殿!」

 

 恋と赤い髪の少年は調理に入る。

 卵はあらゆる料理で使われるポピュラーな食材。言ってしまえば前菜からデザートまで、どの分野においても使える食材だ。それはつまり、その卵をメインに使う料理は料理人としての腕が最も分かりやすいテーマとも言える。

 

 その中で、味覚障害を抱えた恋がどうするつもりなのか。えりなは一転して不安げな表情を浮かべて見守る。腕を組んだ手に自然と力が入った。

 

 だが、

 

「(はは、何不安そうな顔で見てるんだ君は。相変わらず分かりやすいなぁ)」

 

 それを見た恋の顔に、更に活力が漲る。

 あの日以来彼はずっと料理を勉強し続けてきた。ただ一つ、薙切えりなに美味しいと言って貰うために。彼の料理は全て、薙切えりなの為に作られた料理なのである。

 

 その彼の料理を審査するのが薙切えりな――燃えない訳がない。

 

 そして彼の手で一つの料理が完成する。どうやら先に赤い髪の少年の料理が出来たらしい。えりながソレを審査している途中の様だ。

 だが、どうやらえりなは赤い髪の少年の料理に打ち震えているらしい。恋は察する。普通に美味かったんだろうなと。悔しいと思わない訳ではない――ただ、薙切えりなに美味しいと思わせられる人間がゴロゴロいる。それがこの遠月学園なのだ。

 

 そういうこともあるだろう。

 

「悪いな少年、次は俺の審査だ」

「おっと、悪い」

「それじゃ……主食も食べたようだし、俺の料理はデザートだ。食べてみてくれ」

 

 赤い髪の少年にどいて貰い、えりなの前に恋は料理を出す。出て来たのはプリンだった。卵料理、というより最早卵そのものを使って作られた正真正銘の卵料理。

 えりなはその料理に驚く。プリンというのは、先も言った通り卵そのものが軸となる卵料理ではあるが、その味付けは全て調味料との配合による。調理の技術もそうだが、砂糖や牛乳、カラメルとの調和によって生まれる程よい甘さがあるのだ。

 

 甘すぎてもダメ、卵の味がし過ぎてもダメ、カラメルの出来がプリン本体と合わないのもダメ。

 故にえりなの知る黒瀬恋という少年には難しすぎる料理だと思った。彼は味覚障害――どんな味を作ればいいのか分からないのだから。

 

「……まぁ思うことはあるだろうけど……食べてみてくれ。俺は、君に食べてほしいんだ」

「……ええ、いいでしょう」

 

 えりなは正直、先ほど赤い髪の少年が出した卵そぼろと手羽先の煮凝りを使った化けるふりかけごはんを美味しいと感じた。意地でも口には出さないが。

 故に、その舌は今不味いものを普段以上に欲していない。かつて彼が作った最悪の料理を思い浮かべれば、当然躊躇もするだろう。

 

 しかし、恋が言うのだ。彼女の信じる唯一の友人が、食べてみてくれと。

 

 ならば、信じて食すのが友人として当然。

 えりなはスプーンでプリンを掬い、そのまま躊躇いなくその舌の上へと乗せた。かつて恋を傷つけた、神の舌の上へと。

 

「!」

 

 そして気付く。神の舌が否応なく気付かせる。

 

「……これは」

 

 そのプリンが、美味であることを。想像以上に、予想外に、彼の作ったプリンは高い完成度を誇っていた。彼女の舌が齎す情報が、彼の調理技術の高さを教えてくれる。

 なんのミスもない、完璧な仕事。味も分からない人間が作ったとは思えない程、洗練された技術が垣間見える料理だった。

 赤い髪の少年は奇抜な発想で見たこともない様な料理を出したが、恋は違う。彼は基本に忠実――徹底的に基礎レシピを守っている。そしてその一つ一つの仕事の質が非常に高いのだ。

 奇抜で予想外な仕掛けは何もない。だがそれを補って余りあるハイクオリティな調理技術で一切ミスなく作り上げられた芸術品の様な料理――それが、黒瀬恋の料理なのである。

 

 えりなは恋に視線を向ける。するとそこには、かつての様にえりなに優しく微笑む恋がいた。どうだと言わんばかりに胸を張る彼を見て、えりなはなんとなく胸の高鳴りを覚える。

 きっと想像も絶するような練習と努力を積んだのだということが理解出来た。それはつまり、あの日以降も彼は料理を続けていたことを証明している。えりなは彼から料理を奪ってなどいなかったのだ。

 

「――あの日からずっと、君のことだけ考えて生きてきた」

 

 恋の言葉で、二人の関係が受験者と審査員ではなく、ただの友人に戻った様な気がした。だからえりなも肩の力を抜いて、恋に向き直る。

 

「君が話してくれた料理の話は今も覚えてる。君に教えてもらった料理の味も覚えてる。君が料理の話をする時の、幸せそうな顔は特に……忘れられなかった」

「黒瀬君……」

「だからあの日から、俺の願いは変わらない」

 

 恋はえりなに歩み寄り、彼女の頭にぽんと、大きくなった、けれど変わらぬ温かい手を乗せた。あの日の様に、えりなと恋が出会った時の様に。

 

 彼はもう一度、えりなに自分の夢を問い掛ける。

 

「君に"美味しい"と言って欲しい――それが俺の料理の全てだ」

 

 まるで愛の告白の様な、そんな言葉が彼の全てを表していた。

 

 


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