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◇ ◆ ◇
夏休みの間、恋と離れ離れになってしばらく―――選抜予選当日まで残り一週間となった頃のこと。各々が選抜に向けて様々な努力と準備を進めている中、薙切えりなは見るに堪えない姿へと変わっていた。
自室のベッドの上で体育座りをしている彼女。以前の凛とした高貴さなど消え失せたかのように枯れ果て、しおしおになっている姿がそこにあった。傍に控えている緋沙子は正直、どうしたものかと心底困ったような顔をしている。
無論、人前に出る際はいつも通りキリッとした姿を見せている彼女だが、夏休みも中盤を越えた頃から、部屋に戻り人目が無くなるといつもこんな調子になっていた。
「あ……あ……」
「(某カオナシみたいになってる)」
しゅんと縮こまったえりなから度々漏れる掠れた声は、まるでどこかの温泉郷にいる仮面さんのようだった。緋沙子としては、毎日毎日こんな状態のえりなの世話をするのは、中々に一苦労である。
そもそも恋がいた頃は会えない時間があってもこうはならなかったし、いなくなってからは毎日のように恋と連絡を取り合っているというのに、どうしてこうなるのか理解出来ない。何が彼女をこんな状態にしているというのだろうか。
緋沙子は最早慣れた手付きでえりなの制服を脱がせ、部屋着へと着替えさせていく。幸い着替えには素直に協力してくれるので、着替えにさほど労力はいらない。ただし着替え終わると再度体育座りでしおしおになる。まるでデフォルメされたように二頭身の萎れたえりなを幻視するが、現実逃避に違いなかった。
「えりな様……どうしてそんなに枯れ果ててるんですか? 恋とは頻繁に連絡を取っているのですよね? 昨日だって夜遅くまで電話していたじゃないですか」
「…………そんなの分かってるわよ……でも、遠いのよ」
えりなは合宿が終わってからというもの、恋との間に途方もない距離を感じていた。彼が自分に掛けてくれた時間と、人生を費やすほどの覚悟を受けて、何も返せない自分に気が付いてしまったから。
恋はあれほどまでに自分に近づいてきてくれているというのに、えりなはどこまでも恋が遠いと思う。恋の隣にいられるだけの覚悟も勇気も持ち合わせていないから、その距離が途方もなく遠い。
そんな胸中を抱えている最中で、えりなは恋が退学になったあの日、恋から告白された。
恋に好きだと言われた時、えりなの心に浮かんだのは幸福と悲しみ。ただ自分も好きだと言うだけで恋の隣に居させてもらえると思う反面で、恋の気持ちに何も返すことの出来ない自分が隣にいる資格などないという罪悪感を抱いてしまったのだ。だからあの時、えりなは自分の気持ちを言葉にすることが出来なかった。
そうして退学になり、学園から姿を消した恋。
結果、えりなの心には色々な後悔ばかりが残ってしまったのである。
ただでさえ遠いと思っていた恋との距離。それが物理的にも大きく開いてしまった今、えりなの心は後悔と寂しさで押し潰れてしまいそうだった。
「電話で恋君の声を聞く度に実感するの……ああ、私は幸せ者なんだなと」
「良いじゃないですか。それだけ想われているということでしょう?」
「でもだからこそ、恋君に尽くしてもらうばかりで何一つ返さないでいる私って……凄く嫌な女じゃない……?」
「……」
「何か言ってよ」
緋沙子はえりなの言葉を聞いて、確かに、と思ってしまったので、何もフォロー出来なかった。今までのことを思い返しても、恋がえりなに対してストレートに気持ちをぶつけていたことはあれど、えりなの方が恋に何かしているところは見たことがなかったからだ。
恋が他の女子生徒から人気を得た時も、部屋で嫉妬心を募らせるばかりで、緋沙子が連れださなければ会いに行くことも出来ない主人。
確かに尽くしてもらってばかりで何も返せていない。
緋沙子はえりなの気持ちを知っているから可愛らしいものだと思えるが、何も知らない他人から見たら、単に好意を持ってくれている恋をキープしているだけの女に見えなくもない。言葉にするととても聞こえの悪い悪女である。
「ま、まぁ……最近はえりな様も恋の復帰の為に色々行動しているじゃないですか!」
「恋君が考えたことですけどね」
「で、でも恋からの連絡はなにより優先しているじゃないですか!」
「恋君が時間帯を考えて連絡をしてくれてるだけよ。実際いつも同じ時間帯にメールがくるもの」
「ぐ……で、でも恋と連絡を取り合ってるのはえりな様だけで!」
「他の人とも頻繁に連絡を取っていたら、叡山先輩やその裏にいる人に勘付かれるから私に絞っているだけでしょう? やろうと思えば私以外とも連絡は取れるわ」
萎れているくせに無駄に頭の回る主人に言葉が出なくなる緋沙子。
どうもこの状態になった主人には、どんなポジティブな言葉もネガティブに変換できるらしい。これ以上は何を言っても倍になって打ち返される未来しか想像できなかった。
すると、今度は萎れたえりなの方から追撃がくる。
「それに……よくよく思い返したら、緋沙子も私より先に恋君のこと下の名前で呼んでいたし……アリスなんて恋君と下の名前で呼び合ってるじゃない……べたべたくっ付いているし」
「う……そ、それはアリス嬢が恋と名前で呼び合おうと言い出したので、私もそうすることでえりな様も名前で呼び合える切っ掛けになればと思って……」
「その割に緋沙子の方からは切り出してくれなかったわね」
「ぐぐぐ……」
スルーしていたから気付いてない、もしくは気になっていないのかと思っていたのだが、今更になってねちねち攻撃してくるえりなに緋沙子は冷や汗を流しながら言い訳する。だが半ば八つ当たり状態のえりなには一切通用しなかった。
原因が何かと言われれば、単にえりながヘタレていただけのことなのだが、面倒でも主人には違いない。緋沙子は甘んじてその詰りを受け入れた。
「そういえば……この前の連休では恋君の姿を見かけなかったけれど」
「あ、ああ……確かアリス嬢と一緒に薙切インターナショナルに……あ」
「…………アリスと、二人きりで?」
「……はい、学園にいた黒木場に聞いたので……おそらく」
「アリスと二人で……海外旅行……しかもアリスの実家があるデンマーク……二人きりで……私を置いて……二人きり……」
「い、いや、ですが薙切インターナショナルの分子ガストロノミーに関する設備を使用させて貰うためにアリス嬢に同行を頼んだだけで、きっと恋に他意はないかと!」
「……けれど連休中はずっと一緒に生活していたのは確かでしょう?」
「そ、それは……」
体育座りから不意に立ち上がったえりなは、おもむろにスマホを操作してどこかに電話を掛ける。三回ほどのコール音の後に、その電話は目的の相手に繋がった。
画面に表示されているのは、薙切アリスの名前である。恋に退学を言い渡したあの日、極星寮で大騒ぎした際に強引に交換させられたのだ。あの時は何を勝手にと思ったものだが、こうなると交換しておいて良かったとすら思う。
『はーい♪ こちら薙切アリスですけど? えりなの方から電話なんて珍しいこともあるものね』
「アリス……前の連休中に恋君と一緒にデンマークに行っていたって本当かしら?」
『なぁに? 確かに恋君と一緒にデンマークに行ったけど、それがどうかしたの?』
「……」
『あっ! もしかして焼きもち? いやねぇ、確かに恋君と一緒にデンマークに行ったけれど、あくまで分子ガストロノミー研究の設備を使いたいからってだけで、何もなかったわよ?』
「……そう」
『まぁ恋君は私の実家に泊まったし、お母様にも気に入られたり、夜遅くまで私といっぱいお話したり、空いた時間ではデンマークをデートしたりしたけれど、あくまで友達の範疇だし、ぜーんぜん、何もなかったわよ♪』
「……」
『あれー? えりな? どうしt―――』
プツッと電話を切った。
そしてアリスの連絡先を迷いなく消去する。
電話をポイッと投げ捨ててうつ伏せに枕に顔を埋めるえりな。反対にそのすらりと長い足をベッドにバタバタと叩きつけている。かなりイライラしているらしく、時折声にならない荒い呼吸音が枕の端から漏れ出していた。
「フ゛ーーー!! フ゛ーーー!!!」
「え、えりな様! 落ち着いてください!」
枕に顔を埋めた後頭部に怒りマークがでかでかと浮かんでいるのが分かる。足先がベッドを叩いては、あまりの力に大きなベッドがギシギシと音を立て、そのスプリングを軋ませていた。
電話の向こうにいたアリスは普段通り、特にこれと言って何も考えずにえりなを煽ったのだろうが、タイミングが最悪だったらしい。そのコミュニケーション能力の高さから、電話の向こうにいるえりなの感情を正確に汲み取って的確に地雷を踏み抜く手腕は見事。しかしこの時ばかりはアリスの空気を読まない性格を恨む緋沙子。
尻ぬぐいはいつだって苦労人である緋沙子の役割なのである。
「このっ!! このっ!!」
「やめてくださいえりな様! 枕をスマホに叩きつけるのは!!」
「ぐぎぎぎぎ!!」
「枕を破こうとしないでください! 散らかった羽毛の処理は面倒です!」
「ん゛ーーー!!」
あまりのストレスに色々と暴挙に出るえりなを、緋沙子は必死に止める。そんな状態でも緋沙子の注意に素直にその行動を止めるのは、えりなの素直な一面だろうか。
そうやって緋沙子に注意された結果、何も思いつかないのか四つん這いになって拳をベッドに叩きつけるしか出来なくなったえりな。唸り声を上げてぽすぽすと弱々しい拳をベッドに叩きつけるも、全くストレスは解消されない。
「なんなのよ!! 緋沙子もアリスも私の知らない所で皆恋君と仲良くして!! 私の恋君よ!!」
「おお……えりな様がついに独占欲にお目覚めに……」
「恋君も恋君よ、私のことが好きなら私だけ見てくれたら良いじゃない! 分子ガストロノミーについての知識くらい私だって教えられるもの! 不用意に誰にでも優しくして!」
「知識ではなく設備を使いたかったのでは……」
「うるさいわよ緋沙子!」
そしてピークに達したストレスにいよいよ耐えらえなくなったのか、語気を荒くして文句を言いだすえりな。萎れていたのが嘘の様に元気になったえりなに、緋沙子の精神は悟りの域に達したらしい。夏休み中盤から毎日毎日萎れたえりなの世話をしていたのだ、いい加減悟りたくもなる。
嫉妬心と独占欲を剥き出しにしたえりなが、恋の周りに女子がいる状況や、誰にでも優しい恋に対して文句を言い、その度にぽすぽすとベッドを叩く。埃が舞うが、最早緋沙子にはその程度で動じぬ精神力が身に付いていた。
「はぁ……はぁ……!」
「……えりな様、そこまで恋のことを想っているならうだうだ考えずにそう伝えればいいじゃないですか」
「それは……そう、ですけど……」
「恋が他の女子生徒と仲良くしていると嫌だと仰るなら、きちんと恋人関係になって嫌だと主張すればいいのです。誰にでも優しいことが面白くないのであれば、えりな様にはもっと優しくしてくれと主張すればいいのです。それくらいの我儘なら、恋は受け入れてくれるでしょう」
「……緋沙子、貴女まるで恋愛経験豊富な人の言い分ですけど……恋人がいたことがあるのかしら?」
「……………いたことありませんけど?」
「説得力がないじゃない」
しかし、そんな動じぬ精神力で悟りの境地に至った緋沙子が優しく諭すも、悟った所で恋愛経験のない人間の言葉はやはり説得力が障子紙レベルだった。えりなの心には一切響かない。
すると、不意に枕の攻撃を受けていたスマホが着信を告げた。
誰だと思いながら画面を見てみると、そこには黒瀬恋の名前が表示されている。
イライラしていたのが嘘の様に表情が明るくなったえりなは、すぐに通話ボタンをタップして電話に出た。
「も、もしもし薙切です」
『ああ、黒瀬だけど……今電話大丈夫だった?』
「ええ! 部屋で休んでいたところだったので……どうかしたのかしら?」
恋の声を聞いて、自分の髪をくるくると指で弄りながら嬉しそうな顔を押し隠すえりな。目の前に緋沙子がいるからだろう、辛うじて取り繕った表情と溢れ出る喜びのオーラが見事に拮抗していた。
先程えりなが言っていたように、普段は決まった時間に連絡を寄越す恋だったのだが、何故か今日は唐突の連絡だったらしい。えりなも心の準備が出来ていなかったのか少し声が上ずっていた。
『いや、そっちは多分夕方くらいの時間帯だと思うんだけど……今ニューヨークに居てさ、時差の関係でこっちは深夜なんだよ。それで……』
「それで……なに?」
『…………いや、少し声が聞きたくなっただけだ。特に用はなくて』
「! ……そ、そう……そうなの……ふーん……」
電話の向こうで恋はニューヨークにいるらしく、どうやら時刻は深夜らしい。だからだろう、夜にえりなの声が聞きたくなったという理由で電話を掛けてきたようだ。夕方であることを考慮したようだが、それでも突然の電話に恋も少々迷惑かどうか気にしていたらしい。
だが、えりなからすればそんなことは些末な問題だった。
寧ろどこまでもネガティブだった心が一気に絶好調になるほどの幸福を感じている。緋沙子が前にいるというのに頭上に花が咲いたような笑顔を浮かべていた。
「じゃ、じゃあ……仕方ないですねっ……少しお話、してあげましょうか?」
『ああ、ありがとう』
「いえ、私もその……ごにょごにょ」
『え? ごめん、ちょっと声が遠くて聞こえなかった』
「なんでもありませんっ!」
先程緋沙子に言われたことを考慮して、多少素直になろうとしたものの、一度で伝わらなかった場合、二度目を言う勇気はなかった。結局、素直になれないままの自分を出してしまう。
『ははっ、そっか』
だが、それでも恋は笑ってえりなのツンとした態度を受け入れてくれた。
それが嬉しくて、えりなは無意識に頬を緩ませる。幸せそうに頬を紅潮させた表情に、緋沙子も不思議と嬉しくなった。
えりながどんなに距離が遠いと感じているとしても、緋沙子からすればこの二人は深い所で繋がっている。何も心配する必要はなかった。
『じゃあ、今日あったことでも話そうか』
「ええ……あ、恋君」
『ん?』
「前の連休でアリスとデンマークに行ってた件について、詳しく訊かせて貰ってもいいかしら?」
それはそれ、これはこれであった。
ツンデレの嫉妬で出てくる本音は可愛いと思います。
今回を踏まえた上で、次回本編時間軸へ戻ります。
感想お待ちしております✨
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