ただ一言、”美味しい”と   作:こいし

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三十話

 恋愛漫画というものは、古今東西万人に好まれる最もポピュラーな娯楽品の一つだ。

 いかなる国、いかなる人種であっても、こと恋愛話に花を咲かせることは万国共通であり、その中で理想のパートナーや理想的なシチュエーションなどに想いを馳せることも多々あるだろう。

 恋愛漫画はその理想を形にした、いわば現実を踏襲しながらも現実的ではない素敵な恋愛を描いた物語。そこには普通はそうならないだろうといったシチュエーションや展開があったり、こんな環境は空想でしか存在しない場所が舞台だったり、自由に描けるからこそファンタジックかつドラマチックな恋愛に胸をときめかせる空想が広がっている。

 

 そんな中で、昨今のラブコメ漫画にはこういう展開がよく見られる。

 

 ・主人公が体勢を崩してヒロインを巻き込んで転倒、倒れた際にヒロインの胸を揉んでいた。

 ・雨の日に傘を忘れたヒロインの服が濡れて、下着が透けて見えてしまった。

 ・ヒロインとぶつかって転倒した際、尻餅を付いたヒロインのスカートの中が見えてしまった。

 

 いわゆるラッキースケベと呼称される一種のハプニングエロ。ヒロインと主人公との距離感を縮める切っ掛けにもなり、読者を喜ばせることができる王道展開である。

 薙切えりなもそんな王道展開を読んで、こんなことは現実にあるはずがないだろうと高を括っていたし、異性に裸を見られる展開なんてそうそうありはしないと思っていた。

 

 だが、

 

「え、あっ……~~~~!!?!?」

「れ、恋! 見るな!!」

 

 見られてしまった。

 他ならぬ恋に見られてしまった。一糸纏わぬ自分の身体を見られてしまった。しかも髪をタオルで纏めている今、本当の本当に身体を隠すものがない状態で見られてしまった。脱衣所なので湯気もなく、漫画の様に局部を隠すような不思議な光も、テロップも、オノマトペも台詞の吹き出しもない。正真正銘、生まれたままの姿を恋に見られてしまった。

 唖然とした恋の目をいち早く我に返った緋沙子がその両手で覆ったものの、それで恋の記憶までもが覆い隠されるわけではない。今の数秒間で恋の記憶の中に、えりなの美しい身体が完全に刻み込まれてしまった。

 

 一瞬何が何だか分からなかったえりなも、状況に気が付くとしゃがみこんで背を向け、バッと胸や股間をその手で隠したものの、見られたという羞恥心が頭をパンクさせている。

 

「わ、悪かった。緋沙子が部屋に来て風呂に案内してくれるって言うから、てっきりもう上がったのかと……ごめんなさい」

 

 そして最後に我を取り戻した恋が、緋沙子に両目を覆われて何も見えない状態で謝罪する。えりなはパンクして思考停止、恋は目を覆われていて動けず、緋沙子もパニックになって必死に恋の目を覆うことだけを考えている。

 

 誰も動けない均衡状態が誕生した。

 

「……」

「……」

「……」

 

 沈黙が生まれる。

 いや、緋沙子が早いところ恋を誘導して退出させるなり、えりながさっさと着替えるなり、状況を打破するための手段は幾らでもあるだろうに、女性二人はパニックになってこの先の思考が停止していた。

 恋はそれを察したのかどうかは分からないが、緋沙子の手の中で目を閉じ、ゆっくりと手を使って後ろを確認しながら退出していく。そしてどうにか脱衣所の扉を閉めた時、ようやくえりなと緋沙子はハッと正気に戻った。

 

 しゃがみこんだ状態で尚も身体を隠すえりなと、立ち尽くす緋沙子。

 

「……えと……申し訳ありません、えりな様……えりな様が入浴中とは知らず」

「……いえ、まぁ、間違いは幾らでもあるわ……今回のは少し、行き過ぎてるけれど」

「本当に申し訳ありませんでした……如何様にも罰をお与えください……!」

 

 そこまできてようやく自分の行いを理解したのだろう。緋沙子がとてもスムーズな動きで土下座の姿勢を取り謝罪すると、えりなは許すけどショックはショックだと自分の心を隠せなかった。

 再度強く謝罪する緋沙子は、己への罰を求める。

 だが、えりなは何の心の準備もない状態で恋に自分の裸を見られたショックで、それどころではない。自分の身体は変に思われなかったかとか、恋にどう思われたかということばかり気にして、少し不安にも思う。

 

「こうなったらえりな様だけに恥ずかしい思いは……私も恋にこの素肌を晒して……!」

「いやいやいやいやいやいや、そうはならないでしょ!? 結婚前の女子が無暗に異性に肌を見せるのはおやめなさい!」

「ですがえりな様にその肌を晒させた罪は罰を以て処すべきです!!」

「私の肌は別にいいのよ! 恋君が相手なのだし! こら、ちょ、無駄に力強い!?」

「ううううううう~~!!!」

 

 そんなことを考えて黙っていると、とんでもなく怒っていると勘違いした緋沙子が、自分も恋に素肌を晒してくると暴走し始めた。えりなは脱衣所の棚にあったバスタオルを巻くと、出ていこうとする緋沙子を羽交い絞めにして止める。

 どうにかして阻止しようとするが、自分を責める気持ちが止まらない緋沙子はえりなを振り払って出ていこうと必死だった。テンパって妙なことを口走ってしまった気がするえりなだが、暴れる緋沙子を押さえつけるのに必死である。

 目が『><』のような感じになって目尻に涙を浮かべている緋沙子を幻視したえりなは、恋愛漫画でも此処まで拗れることは早々ないと思った。

 

 事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものである。

 結局、えりなを振りほどけなかった緋沙子はへたり込んでずーんと落ち込んでしまっていた。

 

「はぁ……はぁ……全く、入浴を済ませたのに結局また汗を掻いちゃったじゃない……」

「ハイ……私はゴミです……」

「ひ、緋沙子、貴方もう休みなさい……選抜予選で疲れているから落ち込むのよ……私のことは良いから」

「ハイ……失礼します……」

 

 えりなの言葉にすごすごと退出していく緋沙子。扉が開いて閉まるのを見送ってから、一人になってえりなは大きく溜息を吐いた。

 そして一人になると恋に見られたことを思い出して、改めて恥ずかしくなってしまう。お風呂上りということを差し引いても顔を赤くするえりなだが、心臓の鼓動が耳まで響くほどに大きかった。

 

 だがそれでも、別に恋のことを軽蔑するとか、嫌いになるといった感情は一切湧いてこない。寧ろ見られたことで恋が自分の身体をどう思ったのかが気になって仕方がない。

 そう考えると、恋に見られたこと自体は別段嫌でもなかったらしい。

 

「……というか、私だけ見られたのはちょっと不公平じゃない?」

 

 そういうことに気付きだすと、冷静にえりなの思考が暴走し始めていく。自分が見られたことは別に嫌ではなかったが、自分だけ恥ずかしい思いをするのはそれはそれで不服に思いだした。

 緋沙子が冷静でこの場にいたなら、それ以上は行ってはいけないと止めた筈だろうが、こと恋愛に関してはポンコツなえりなお嬢様は止まらない。自分も見られたのだから、向こうも見せるべきではないかと考えだした。

 

「……いつか見せてもらいましょう、いつかね」

 

 とはいえ異性の裸を直視するのは心の準備が出来ていないので、いつか見せてもらうことにして即行動には移さないことにするえりな。そのいつかがいつ来るのかは分からないが、えりなのヘタレ具合からするとそんな一足飛びの行動は年単位で厳しいかもしれない。

 

 結局、再度軽くシャワーを浴びて、頭を冷やすことにしたのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

「あ、お風呂いただいた……ありがとうな」

「え、ええ……」

 

 それから少しして、えりなの入浴後に恋も入浴を終えた。

 恋が貸し与えた部屋に戻ってくると、中には寝間着姿のえりなが待っている。少し驚いたものの、恋はえりなにお礼を言って火照った身体から出た汗を拭って入室した。えりなはベッドに腰掛けており、それを見て恋も部屋にあった椅子を持ってきて腰掛ける。

 

 正直、お風呂上がりの女子がこれから自分が寝るベッドに腰掛けている状況に、恋も内心何の試練だと思ってしまうものの、先程の見ちゃった事件の負い目もあって幾らか冷静さを保っていた。

 ちなみに極星寮に入ってすぐの頃、創真も田所恵が入浴中に全裸突撃したという事件があったのだが、その時はこんな空気にはならなかったらしい。

 

「さっきは、その……悪かった」

「いえ……恋君は悪くないもの」

「そうか……そう言ってくれると助かる」

「ええ……今度恋君のも見せてもらえれば、それで」

「……ん?」

 

 なにやら小さい声でよく聞き取れなかったが、不穏なワードが聴こえてきた。だが恋は、えりながそんなことを言うイメージが全くなかったので、気のせいだろうと判断する。頭を冷やしても暴走列車はもう手を離れて走り続けているらしい。

 とはいえ、お風呂上がりの男女が寝室に二人きりという状況は中々によろしくない。恋としては緋沙子にいて貰いたい所だが、既に休んでいるらしいのでソレも期待できなかった。

 

 いや、よろしくないと考えるのは恋がそういう感情を抱いてしまっているからであって、しっかり自分を律していればこの状況も別にやましい状況ではない筈。

 そう考えて、恋は一旦大きく深呼吸して冷静さを取り戻す。

 

「そういえば、選抜までの二週間は授業とかどうなるんだ?」

「え? ああ、本選終了までは基本的に授業は自由参加制なのよ。本戦出場者は本戦での課題を受けて品を考えたり、それ以外の生徒は行われている授業に参加したり、別の研究に打ち込んだり……まぁ授業単位の問題もあるから、授業に参加しない生徒は研究成果などの提出が必須だけれど」

「なるほど……特別期間って感じなのか」

「ええ、私も選抜運営の為の仕事をすることで単位を貰うことになっているのよ」

「最初から思っていたけど、本当に料理人としての研鑽に自由な校風だよな」

「料理人が伸び伸び成長出来る場を整えることで、次代を背負う料理人を生み出すのが遠月学園のやり方だもの。けれど、その環境を整えているからこそ、腕のない料理人は躊躇なく切り捨てる遠月のやり方が受け入れられているのよ」

 

 何気ない話題を振ることで色っぽい空気を払拭する恋。えりなも恋から振られた話題に乗ることで、変な思考に陥っていた状態から脱することに成功した。

 恋もえりなも、お互いに対して並々ならぬ思いを抱いているけれど、大前提として料理人として遠月の頂点を獲りたいという夢がある。だからこそそういう話題になれば、すぐに料理人モードに切り替わることが出来るのである。

 

「色々連絡は取っていたから少しは聞いているけれど、恋君はこの一月半何をしていたの?」

「城一郎さんと一緒に色々飛び回ってたよ。何処にいるとか、何処で料理しているとかは電話とかで伝えたけど、城一郎さんから色々学ぶことも多かったから、大分充実した時間を過ごせたかな」

「そう……才波様の作る料理は幼い頃に食べたことがあって、今でも覚えているわ。まさしく完璧な美食だと思うような料理ばかりで、憧れた」

「……そうだな。俺も一緒に料理していてそう思ったよ……一つ一つの仕事の質が高いし、いつだって新しい発想で世界観を広げていく力は本当に凄かった」

 

 そうして話はどんどん料理人としての話題へと変わっていき、お互いに知っている城一郎の話題になっていく。

 えりなの憧れた料理人であり、恋も師として尊敬する料理人だ。その話題に関して話せることは多い。恋はかつての城一郎についての話を聞いたし、えりなも今の城一郎の話を聞きたがった。

 

「それで……」

「あの時……」

「こういう技術が……」

「繊細な味の層を……」

 

 そうやって話していれば、最初の色っぽい空気はすっかり消えていた。

 楽しく話す時間はあっという間に過ぎていき、電話でなくとも会話が止まらない。

 

 結局、襲い来る眠気に負けて二人が寝落ちするまで、楽しい会話は続いた。

 

 翌朝同じベッドで寝ている二人を見て、緋沙子がドッと冷や汗を掻いたのは別の話だ。

 

 




今回は行くところまで行きそうでいかなかった付き合っていない二人の話でした。
次回は選抜戦の話。

感想お待ちしております✨



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