目を閉じてから、恋は少しだけ考えた。
一人一人、料理人として研鑽を積み、より良いものを作ろうと日々励んでいる遠月学園。
研鑽を積む中で、新たな発見があったり、新たな知識を得たり、新しい料理の創造に励んだり、失敗したり、そうやって全員が今日より明日、明日より明後日と成長しようとしている。
けれど、恋はそうすることが出来ない。
味覚障害というハンデを背負った彼は、多くの知識を広げたり、珍しい食材や各国の料理のレシピを頭に入れても、そこから先に新たな進化を遂げられないのだ。
だから彼は積んだ―――一つを、毎日毎日積んできた。誰もが最初に倣う様な基礎中の基礎と呼ばれる術を、丁寧に丁寧に、何度も何度も積んできた。
それしか彼には出来なかったから。
味が分からないことは、彼にとって辛く苦しい現実である。
今までがそうだったように、彼は自分の舌を呪わずにはいられなかった。けれど諦めきれない夢の為に、彼はただひたすら積むしかなかった。
そうして手に入れたのが、純粋かつ武器足りえる唯一無二の技術。
しかし分かっていた。
レシピを作り出すことの出来ない自分に、
「幸平の奴、テール肉を焼いてやがるぞ……?」
「ビーフシチューならバラ肉が定石だが……」
手を止めた恋とは対照的に、創真の調理は進んでいく。
ビーフシチューに使う肉に、様々な部位の肉を用意した創真。初めに彼は、
テールは牛肉の中でも、最もゼラチン質が多い部位。ゼラチン質によるとろみをデミグラスソースや出汁とも絡み合わせてコクを作り出そうというのだ。そうすることで、白味噌の風味を壊すことなくコクだけを深めることが出来る。
そして香辛料にクローブとブラックペッパーを使うことで、よりビーフシチューの味に深みを持たせる工夫を凝らしていく。
「(ああ、凄いな幸平……それがお前の料理か)」
更に創真は牛タン、ヒレ肉、ハチノス、ハラミと次々別の部位の肉を違った調理法で調理し、ビーフシチューに纏め上げられるのか疑問に思うほど大量の肉を使っていく。
オリーブオイルやバターを使って鮮やかな焼き色を付けたり、鍋ごとオーブンで煮込んだり、その調理法は多岐に渡る。
観客も騒然となっているが、恋はそれを見て理解した。
「(この瞬間にも、お前は今自分の作るべき品を構築してるのか……)」
創真は本気だ。
本気でこれだけの喧嘩しそうな肉の数々を、一皿に纏め上げようとしている。そしてそれこそが自分らしい一皿になると信じて。
恋はゆっくり視線を上に向けた。
観客席よりも上、特別席でこちらを見ている薙切えりなが其処に居る。心配そうな顔で、恋のことを見ていた。思わず苦笑する。
「(……そう、俺が欲しいのはたった一つだけ……)」
神の舌を持つ彼女に、料理で笑顔を。
恋の心が決まった。
止まっていた恋の手が動き出す。
用意していた三種類の部位肉を下処理していく。その動きはやはり無駄がなく、恋が下処理を終えた肉はまるでそのままでもかぶりつけそうなほど、鮮やかな下拵えがされていた。間違いなく、最高の状態に仕上がっている。
そしてフライパンに油を引き、最初にベーコンを焼きだした。
「黒瀬の方も動き出したぞ!」
「赤ワイン煮か……用意した肉は肩ロース、バラ、イチボの三種か」
「イチボって……腰から尻の中にある希少部位じゃねぇか……!」
多少焼き目が付けば取り出して、今度は用意した牛肉を焼いていく。
これも表面に焼き目が付く程度にして一度取り出す。
油を引き、今度は事前に切っておいた人参、玉ねぎ、セロリを炒めに入った。恋の淀みない動きに観客の視線もグッと見入るようにな視線へと変わっていく。まるで簡単そうにやっているその工程の一つ一つが、とても洗練されたものであることが嫌でも伝わってきた。
そうして完成へと向かっていくその品の終着点を、誰もが想像する。
「同時に作ってるあの鍋は……肉を漬け込んだ後のマリネ液か!!」
「すげぇ……アレだけの仕事をしているのに、アク取りも完璧だ……!」
左右の手が別々の仕事をしていると思えるほどに、作業と作業のスイッチがスムーズ。食材に軽く熱を通しながらも、事前に牛肉を漬け込んでおいた赤ワインと香味野菜のマリネ液を濾している。
そして炒めている野菜の中に先程の肉も投入し、更に熱しだした。薄力粉を加えながら炒める。
会場に肉を焼く良い音が響き渡り、創真の調理音と合わさって急激な食欲をそそった。
創真の方も、それぞれ調理を済ませた肉をいよいよ一つにまとめに入った。
少し目を離した内に既にその姿はビーフシチューらしい姿へと変わっており、その中にゴロゴロと様々な部位の肉がふんだんに使われている。
「幸平の奴……あんなに大量の肉を使って大丈夫なのか……!?」
観客がその光景に幾ばくかの心配の声を漏らすが、それを見ていたえりなは創真の意図に予想を立てていた。
「まさか……あれらの肉は全て
ガルニチュール。
意味としては付け合わせという意味だが、メインとなる料理を引き立たせるための品として存在するものだ。あくまで創真のメインはビーフシチューであり、その中に存在する各部位の肉がそのシチューを引き立たせる付け合わせであると、えりなは予想していた。
そんな突飛な発想をすること自体がおかしな話だが、それでも創真はそれをやろうとしている。
方法としては考えつきもしないような暴挙ではあるが、もしもそれを一つの皿に纏め上げることが出来たのなら―――とんでもない威力のビーフシチューが誕生する!
「恋君―――っ! アレは……!」
これでは恋の料理が如何に完成度が高かろうと、そのインパクトだけで勝利をもぎ取りかねない。そう思って恋の方へと目を向けたえりなが、また別のものに気が付いた。
恋がまた別の鍋で作っているものがあるのである。
その中にあるのは、白い液体のようなもの。
「ホワイトソース……? けれど、少し色味が違う……もしかして……」
そうこうしている間に恋の料理も、次第に完成形へと姿を変えつつあった。
マリネ液を少しずつ入れながら煮込み出した牛肉が、赤い色が少しずつその姿を変えていく。水、コンソメを入れつつ煮込んでいき、恋も創真同様ガルニチュールを投下した。既に入れられた肉を邪魔しては意味がないので、投下されたのはブーケガルニ……パセリ、タイム、セロリ、ローリエなどだ。これもマリネ液の中で付け込まれていたもので、赤ワイン煮の味にじんわりと溶け込んでいく。
更にトマトペースト、塩コショウを加えながら味を調整していった。無論味など分からないので、恋の感覚を分子ガストロノミー施設を使ったすり合わせ成果が此処で活かされている。
そしてマッシュルームを切って入れつつ、更に此処に赤ワインを入れた。ブルゴーニュの郷土料理であることもあり、銘柄はブルゴーニュ産のワイン。その相性は抜群である。
「―――……完成だ」
「さぁ、おあがりよ!」
そして仕上げにホワイトソースを一回して、完成。
創真も同時に完成したらしく、恋が完成を告げたのと同時に盛り付けを終えていた。
「……どっちから行く?」
「……じゃ、俺から行くぜ」
同時に出来上がったこともあって、順番をどうするか聞く恋に、創真はそれならと先にサーブする。
各部位の肉が大量に入ったビーフシチュー。一見すれば肉同士が喧嘩して纏まらない一皿になりそうな見た目だが、その完成度は如何に。
そして堂島達が静かにそれを口にした瞬間……口の中でジェットコースターの様に目まぐるしく変化する旨味の爆発が起こった。
「う、美味い―――!!!」
「次から次へと、旨味が展開されていく……ほろりと解ける頬肉かと思えば、コリコリと弾力のある牛タンとハチノスが現れる……!」
「このハラミは炭火で焼いてるのか……シチューと絡めても良いアクセントになってやがる……一見バラバラな品に見えるが、その実精密に組み立てられている……!」
一口、また一口とシチューを頬張る堂島達が、創真の品にある緻密な旨味の連鎖を語っていく。その目まぐるしい旨味の変化は、まさしくアトラクションの様に完璧な構成を成立させていた。
肉の部位ごとに食感も変わり、シチューの味に対してけして飽きさせないほどのバラエティ豊かな楽しさを与えてくれるこの品は、まさしく食の遊園地。
堂島達はまるで遊園地を全力で遊び尽くす自分達の姿を幻視した。若き日の青春時代、友人と共にあれもこれもと我武者羅に楽しんだことを思い出させてくれるような、そんな料理だと思った。
「素晴らしい……! これほど無茶苦茶な発想を良くここまで纏め上げたものだ……!!」
総評して、堂島達の評価はとても高いものであった。
会場がその評価に歓声を上げ、コレは幸平の勝利かと思わされる。調理中の音や香りで食欲をそそられたこともあり、今会場の観客達の注目は創真の品へと向けられていた。
だがそれでも、未だ恋のサーブが終わっていない。
「今度は……俺の品をどうぞ」
恋の料理が審査員の前に並んだ瞬間、会場内が一気に静まり返る。
確かに創真の料理はとんでもない品だった。それでも、歓声を上げていた客が強制的に恋の料理に意識を向けさせられたのである。
それは黒瀬恋の放つ闘志が、未だに――どころか今まで以上に熱く燃え上がったからだ。彼から放たれる異様な雰囲気に、観客達は固唾をのんで押し黙る。
そして創真も同じだった。
恋の放つ異様な雰囲気―――今までの恋とは何かが違うと、肌にひりつく闘志で分かる。
一体、どんな品を作ったというのか。
「では……黒瀬の品をいただこう」
そして遂に、その品が堂島達の口に入る。
メインである牛肉を掬って口に入れた堂島達だったが、創真の時とは正反対に静かにその一口を咀嚼していた。
リアクションの少なさに、観客達は黒瀬恋の品は幸平創真の品に劣っていたのか? そう思う。現に、堂島達がその一口を静かに飲み込んだ時……彼らは一人残らず、二口目を口にすることをしなかった。
スプーンを持って空中に置いていた手を、そのままテーブルに落とす。そして口を開くことをせず、天井を仰ぐようにして鼻から大きく息を吸い込んでいた。
あまりにも静かで、けれど何かを噛み締めているような反応に会場の誰もが口を開くことが出来ずにいる。
「―――……沈黙を作ってしまい、すまない。口を開くことが勿体なかったのだ」
そうしてたっぷり十数秒、口を閉ざしたままだった審査員達が天井を仰いでいた顔を戻し、堂島が静かにそう言った。
口を開くことが勿体なかった……その意味を、観客に説明しなければならない。審査員とはそういう役割を持っているのだから。それでも、その説明に入るまでの数秒間、彼らは口を開くのが惜しそうにしていた。
口火を切ったのは、四宮だ。
「ブフ・ブルギニョン……フランス料理では王道のメイン料理だが……赤ワイン煮というだけあって、牛肉のボリューム以上に香りで楽しむことも出来る料理だ。だが煮込んでいけばアルコールは飛ぶし、牛肉のインパクトでワイン本来の香りなんてほとんど残らない……だが、こいつにはほのかなブドウの香りが残っていた」
「食した瞬間、強烈な旨味を与える牛肉が舌の上で解け、越されたマリネ液と調和して重厚感のある牛肉本来の旨味を脳へとダイレクトに伝えた……しかしその後に訪れたブドウの風味が、その旨味を優しい後味へと落とし込んでいる」
「黒瀬、お前"グレープシードオイル"を使ったな?」
四宮達がまず注目したのは、赤ワイン煮と言えどほぼ香りなど残らないワインの風味を残した恋の工夫。
恋は完成したそれに対し、ホワイトソースと共に少量のグレープシードオイルを掛けていたのだ。葡萄油とも呼べるそれはそれ単体ではそれほど香りも味もしないけれど、だからこそほんの僅かなブドウの香りだけが引き立たされる。しかも赤ワイン煮という料理と同時に食すことで、まるでワインの風味を感じるような錯覚すら覚えてしまうのだ。
先程四宮達が口を閉ざして鼻から空気を取り込んだのは、ワインを飲む際に口の中で空気と香りを混ぜて楽しむのと同じこと。恋の赤ワイン煮そのものが、ほんの僅かな残り香まで楽しみたいという、四宮達の欲求を刺激してみせたのだ。
「それに、このホワイトソース……チーズを混ぜてありますね。赤ワイン煮にピッタリのアクセントになっています」
「それに、このマリネ液の味付けが凄い……散りばめられたセロリやパセリ、タイム、ローリエの他にも、幾つかのスパイスが混ざっている。ブドウの残り香と混じって喧嘩していない……完璧な調和」
そして日向子や水原が更に恋の施した工夫に気付く。
香りの強化とそれによって発生する酸味や塩味に対し、チーズを織り交ぜたホワイトソースがそれをまろやかに解きほぐし、より深みのある味を生み出していた。
創真の品が味の遊園地だというのなら、恋の品はまさしく人工物など何もない自然の生み出した絶景を想起させる。
味と香りと食材の調和がそこにはあり、楽しむのではなく、慈しむような心で味わうのが正しいと、一口で理解させられたのだ。
だからこそ、堂島達は何も言わず……静かに恋の料理を慈しんだ。
黙して食べ、全身でその味を感じることこそが――彼らの取ったリアクションだったのである。
「食材の下処理の完成度、香りのバランスを一切崩さない最適の配合、そしてそれらを調和させるための無駄のない構成……まさしく黒瀬の調理技術があっての品だ」
「幸平の品も、黒瀬の品も、それぞれ牛肉を扱った強い品ながらそのアプローチは全くの正反対……どちらも甲乙つけ難い料理だった」
四宮が総評し、堂島が両者の品をそれぞれ食べた感想を述べる。
どちらも素晴らしい品であったことは変わりない。創真の我武者羅に楽しめるビーフシチューも、恋のただ静かに味を慈しむブフ・ブルギニョンも、この選抜準決勝に相応しい品だっただろう。
しかしてその評価、判決は下さねばならない。
「では、結果を言い渡そう」
堂島の言葉を切っ掛けに、審査員達が備え付けの筆で半紙に勝者の名前を書いていく。五名の内、三名以上の票を獲得すれば決勝へと進出することが出来る。
その結果は―――
「票数、四対一……黒瀬恋の勝利だ」
――――恋の勝利だった。
歓声が上がる。
この会場でとても熱い戦いを繰り広げた二人の料理人を讃える拍手が、雨となって二人の上を降り注いだ。鳴り止まない拍手の音が、この戦いの熱量を物語っている。
恋と創真は向かい合った。
此処にいるのは、激しい戦いを終えた二人の料理人。仲間であり、友人であり、好敵手であり、そして勝者と敗者である。
身体をビリビリと叩く様な拍手に包まれながら、全力で料理したからか滲む汗を拭う創真。バンダナを取って、顔を大きく拭った。
「……負けたわ、やっぱすげぇな黒瀬」
何かを堪えるように、それでも悔しそうに笑ってそう言う創真。
後悔はない。それくらい出し切った。自分にしか出せない料理を出した自負もある。その上で恋の料理が上だった―――それを、素直に賞賛出来るくらいに完敗だと思った。
負けたけれど、悔しいけれど、それでも清々しい気持ちだった。
黒瀬恋という料理人と全力で戦えたことが、とても誇らしかった。
「―――俺が勝てたのはお前のおかげだよ、幸平」
「え?」
「お前に出会わなかったら、きっと俺は今日の品は一生作れなかった……だから、またやろう」
「!!」
「お互い始まったばかりだ……これから先、もっと競い合って、今日より熱い勝負をしよう……どうだ? 燃えるだろ?」
勝った奴が何を言ってんだ、そんな風に思うけれど、それでも嫌な気持ちはなかった。
黒瀬恋はこういう男だ。
自分に料理人としての才能がないと分かっているから、どんな料理人にも敬意を払う。何処までも対等で、何処までも人の想いを汲む男なのだ。
だからこそ、この言葉が本気であることもよく分かる。これから先、長い時間を過ごす中で、今日よりもっと、明日よりずっと、熱い勝負をしていくのだ。
「おう……次は負けねぇよ」
「ハハッ、望むところだ」
拳と拳を合わせる二人。
二人の料理人の未来まで祝福するように、再度大きな拍手が鳴り響いた。
次回、葉山対黒木場。
あと第一席がなんかしてきそうです。
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