ただ一言、”美味しい”と   作:こいし

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七十三話

 かつて恋とえりなが出会い、そして共に料理をしていた幼い頃。

 えりなはよく笑う、純粋無垢で、少し素直になれないいじっぱりな普通の少女だった。神の舌をもって生まれたことで、料理においては幼い頃から凄まじい才能を発揮していた彼女であったが、それでも今ほど料理というものに美食性を追求するような性格はしていなかった。

 

 ―――料理は、人を想って作るもの。

 

 幼き日に恋にそう教えるくらいには、彼女の中の料理は自由で、人の想いに溢れているものだった。美味しくあることは勿論大事だが、それ以上に料理にもその一皿に込められた人の想いがあることを、彼女は分かっていたのである。 

 では何故そんな彼女が美食を追求し、今や不味い料理や大衆料理を認めないような人間性になってしまったのか。

 

 それは、恋がえりなの嘘に傷つき、飛び出していった後のことであった。 

 

「………緋沙子、恋くんは?」

「ええと……今日も、来ていません」

「そう……やっぱり、嫌われちゃったかな」

「そんなことは、ないと思います」

 

 恋がえりなの嘘に飛び出していってから、恋はえりなの所へ遊びに来なくなった。少なくとも、幼いながらえりなの付き人をやっていた緋沙子が知らないと言う程度には、彼との接触はなくなっていた。

 一日、一週間、半月と経って、えりなと恋が再び料理することはなかった。

 嫌われたか、と不安になるえりなを緋沙子は必死に励ますも、同じように幼い緋沙子には、恋の気持ちを推し図ることなど出来ず、これが喧嘩なのか、仲違いなのか、お互いを想い合ってのことなのか、判断出来ない。

 

 えりなは意地っ張りな少女だ。

 だからいつも恋の方から来てくれていたことで、自分から恋の下へと訪れるのは気恥ずかしかったのだろう。待つだけで、何もできない時間だけが過ぎていった。

 

「えりな」

「! お父様」

 

 すると、恋とえりなが出会わなくなってから一月が経った頃。

 不意に薙切薊がえりなを呼んだ。

 その頃のえりなは父に対して恐怖心は持っていなかったし、料理人としても高い実力を持つ薊に尊敬の心だった持っていた。

 

「どこへ行くのですか?」

「えりなは、良い料理人になりたいかい?」

「はい!」

「ならば付いておいで……君に、料理を教えてあげよう」

 

 えりなが連れられて行ったのは、薄暗い部屋だった。蝋燭に灯った火が唯一テーブルの上を照らしているような、そんな薄暗い部屋。

 父のただならぬ雰囲気と薄暗い部屋に不気味さを感じなかったわけではないが、それでも幼いえりなは父を疑うことはなかった。

 言われるままに椅子に座らされ、目の前に置かれた二つの同じ料理を前に父の言葉を待つ。

 

 薊はえりなに対し、ゆっくりとしたトーンで淡々と言葉を投げかける。

 

「食べてごらん……どちらが正しい味付けかな?」

「ん……左です。右は動物性油脂が主張しすぎていて、調和していません」

 

 神の舌を持つえりなは、その問いかけに対して即座に応えを出す。

 幼い頃より数々の料理を食し、その評価を的確に言うことが出来たえりなにとっては、このような問いは造作もない。食した瞬間舌の上に広がる無数の情報を正確に理解し、神の舌は微かな粗さをも暴き出す。

 

 だが、その返答に対して薊が告げた言葉は―――

 

 

「よろしい、では右の皿の料理をその屑かごにいれなさい」

 

 

 ――おおよそ、えりなが想定していたものとは大きく違っていた。

 

 驚き、えりなは薊の顔を見上げる。

 そこには表情のない薊の顔があり、子供ながらにゾッとした。父のこれほどまでに冷たい表情を見るのは、えりなとしても初めてだったのだろう。

 

 とはいえ、えりなも料理人の端くれ。食材を無駄にすることは料理人としてやってはいけないことだと、薊の言葉に躊躇を見せる。

 

「で、でも……料理を粗末にするのは……っ!?」

 

 しかしその躊躇を許さぬとばかりに、薊はえりなの左手首を掴むと、強い力で無理矢理それをやらせようとした。

 ギリギリと締め上げる様な力が、幼いえりなの細い手首に悲鳴を上げさせる。折れてしまうのではないかと思うほどの痛みに、えりなの目尻に涙が浮かんだ。

 

「痛っ……お父様……痛いっ……痛い、です……!!」

「やるんだ」

「ひっ……!」

 

 あまりの痛みと父のプレッシャーに、えりなは涙を浮かべながらおそるおそる右の皿の料理をビチャビチャと屑カゴに捨てた。神の舌にとっては不完全な料理であっても、料理を、食材を粗末にしたことに強い罪悪感を抱くえりな。

 だが父に対する恐怖心の方が大きく、捨てた後に父の顔を覗き込めば、薊はにっこりと笑って見せた。

 

「よろしい」

「っ……」

「いいかいえりな……情けを持ってはいけない」

「情け……」

 

 薊はすっかり心が消沈してしまっているえりなを揺さぶる様に、蝕む毒を投与するように、えりなの両肩に手を置いて、言葉を頭上から振らせた。

 

 

 ―――不出来な品を決して許すな。この父の認めるもの以外は屑だ。芥だ。塵だ。屑だ。芥だ。塵だ。屑だ。芥だ。塵だ。屑だ。芥だ。塵だ。屑だ。芥だ。塵だ。屑だ。芥だ。塵だ。屑だ。芥だ。塵だ……。

 

 

 淡々と、一定のリズムで繰り返し繰り返し、そう言い聞かせた。

 美食でないものは屑だと、不出来な料理は塵だと、父が認めないものは芥であると、そう言い聞かせた。

 

 何度も、何度も、何度も、来る日も来る日も、えりなの中に刻み込まれるまで、教育という名の洗脳を続けた。

 

「お父様が認めるもの以外は…………ごみ……」

 

 そうして毎日の教育を受けて、憔悴し、虚ろになった瞳でそう呟くようになったえりなに、薊はただ微笑んで頭を撫でた。それが正しいことであると、褒めるように。

 だがそんな中でえりなの心の中に残っていたのは、恋との思い出だった。

 

 人を想って作るのが料理―――そう教えた自分が、心のどこかで父の教えを拒絶していた。

 

「お父様……あの、恋君に会いたいです」

「恋君? ……ああ、以前此処に通っていた黒瀬さんのご子息か……ダメだ」

「ど、どうして、ですか?」

 

 だからだろう、えりなは意地を張る余裕もなく、まるで恋に縋るように父に懇願したことがあった。このままでは自分という料理人の価値観が壊されることを、無意識に理解していたのだろう。恋に会って、どうにか自分を保ちたかったのだ。

 

 しかし、薊はそれを拒否した。

 薊と恋に関わりはなかった。であれば、友人と会うことくらいなら、料理と関係のないことでなら、許してくれると思っていたのに。

 

「えりな、友人を持つことは良いことだ。優秀な人間との関わりは自分の世界を広げるきっかけになり、それは料理人としての成長にも繋がる……けれど、わざわざ下等な人種と関わる必要はない」

「下等だなんて……恋君は、友人です」

「いいかいえりな……父は、ダメだと言ったぞ。なんども言わせるものじゃない」

「ひっ……!」

 

 えりなの目線に合わせるように膝を着いて、真正面からえりなと目を合わせながら、薊はえりなの肩に手を乗せた。痛みはない、けれどほんの少し強く掴まれたことで、えりなは最初の手首を掴まれた時の痛みを思い出す。

 恐怖が心を支配し、父の言うことは絶対なのだと刷り込まれた心が、薊の言葉に首を縦に振らせた。

 

 痛みと言葉と強制した行動によって、えりなの心を破壊し、えりなという料理人を滅茶苦茶にした薊。教育という名の洗脳は、その後えりなが試食の仕事で料理を地面に叩きつけたり、棘のある言葉で料理人の心を穿つようになって初めて、仙左衛門がその事実に気が付くまで続いた。

 

 薊は薙切、遠月を追放され―――えりなは父の洗脳から解放された。

 

 けれど、薊の教育はずっと彼女を縛り続ける。

 仙左衛門は気が付くのが遅すぎた。

 薊の洗脳は、既に取り返しのつかない深さで薙切えりなの心を縛り上げていたのである。

 

「えりな……気が付くのが遅くなってすまぬ……何か、やりたいことや欲しいものはあるか?」

 

 追放を言い渡し、尚も不敵に笑う薊が連れて行かれた後、取り残されたえりなに仙左衛門はそう言った。

 すると、えりなは光のない瞳でその言葉に数秒の沈黙を返す。

 欲しいもの、やりたいこと、そう言われて、えりなは自分が何をしたいのかが分からなかったのだ。父の言葉が強い呪縛となって、彼女の料理人としての本心を押し潰してしまったから。

 

 だがそれでも、えりなは、たった一つだけ、呪縛の中でも手放さなかったものがあった。最後の最後まで、吹き荒れる父の言葉の嵐に晒されながら、洗脳の恐怖に傷つきながら、それでもその小さな身体で縋り付いていた光があった。

 

 

「……恋君に、会いたいっ……」

 

 

 たった一人の友達に、会いたい。

 零れた涙が、えりなに残された唯一の本心。

 仙左衛門は静かに、えりなを抱きしめた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 月饗祭の片付けを終え、極星寮に戻ってきた恋を出迎えたのは、薙切仙左衛門だった。

 あの一連の騒動の後、総帥を追われた彼は恋と話すために彼の帰宅を待っていたのである。

 そして仙左衛門の誘いで、すっかり夜も静まった学園内の道を二人で歩きながら、彼は恋にえりなの過去を話した。薙切薊が行ったこと、えりなが唯一守り抜いた恋との思い出、今にも続いている教育という名の呪縛について、全てを。

 

 恋はその話を聞いて、ただ夜空を見上げた。

 憤りはある。何故その場にいなかったのかという後悔もある。けれどそれは最早手遅れであり、今となっては覆せない過去の話だ。

 

「儂はその後、えりなの要望を聞き入れ君と接触しようと動いた……だが、その時君は日本にいなかった。様々な国を転々とし、今に続く料理人としての研鑽を始めていたのだ……とはいえ、それ以前から薊の奴が君の家へ圧力を掛けていたようだがな」

「そうですね……俺の家も小さい料理店ですが、今思い返せばあの頃父から遠回しに薙切の家に行くことを禁じられました。代わりに色々な国へ勉強に行かせて貰ったわけですが……事情は教えて貰えませんでしたね」

「薊が何故此処まで君を敵視しているのかは分からぬ……だがそれでも君という存在は、えりなにとっても、薊にとっても、そしてこの遠月にとっても今や大きな存在になっておる」

 

 仙左衛門は立ち止まり、数歩進んで振り返った恋に言った。

 

 

「幼い頃、そして今も、えりなにとって救いの光が君なのだ―――黒瀬恋」

 

 

 黒瀬恋という少年が、あの時代にえりなと出会っていなかったのなら。

 黒瀬恋が料理人の道を進んでいなかったなら。

 今この瞬間、えりなはもっと冷たい料理人になっていただろう。彼がいたからこそ、創真の大衆料理や不完全な料理を認めずとも、遠月の一料理人として許容する程度の寛容さは失わずに済んだのだ。

 

「だから、俺をこの遠月に呼んだ(・・・)んですか」

「……そうだ」

 

 黒瀬恋が遠月学園にやってきたのは、最終的には恋の意志ではあったが、実はそこには仙左衛門の手引きがあった。

 元々恋は味覚障害者。

 料理学校に関わらず、入学願書にはそういったセンシティブな事情も記載せざるを得ない。例えば、足を失っているから車椅子生活を強いられている、といった事情を知らないのは学校側としても問題になってしまう。そういった事前情報の伝達は必須だ。

 

 そんな彼が、中でも料理学校に入学願書を出して受け入れられる可能性は非常に少ない。ましてや遠月学園は最高峰の料理学校だ―――入試を受けられずに終わることだって十分あり得た。

 

 それでも彼が遠月に願書を出し、編入試験を受けることが出来たのは、仙左衛門による恋の両親への接触があったからである。

 実力を示す必要はあるが、それでも最高蜂の料理学校へ通えるかもしれない。

 そんな話に恋が乗らないわけがなかった。

 

「都合が良いなとは思いました。遠月に編入出来るかもしれないなんて話が降って湧いたことも、味覚障害を事前に願書に記載して何の連絡もなく通ったことも、神の舌を持っている薙切の血統だからと言って、編入試験に一生徒であるえりなちゃんが試験官としてやってきたことも……何もかもが俺にとって都合が良すぎた」

「……」

「この為に仕組んだことだったわけですか」

「薊が行動を起こすことまでは予想出来なかったがな……だが、えりなとの約束を儂は忘れてはおらなかった。そして、今なお続く薊の呪縛からえりなを解き放てるとしたら、君をおいて他にはいないと思っておる」

「全く、良い大人が揃いも揃って情けないですね……」

「返す言葉もない……」

 

 恋は納得がいったとばかりに溜息を吐いた。

 つくづく、薙切えりなを取り巻く環境は厄介なことが多いと思ったのだろう。とはいえ恋としては、この学園に来られたこともえりなに再会できたことも、それで良かったと思っていた。

 

 確かに許せないこともある――けれど、今はえりなの傍にいるのだ。

 

「えりなを、どうか救ってやって欲しい」

「俺に人を救うなんて高尚な真似は出来ませんよ……ただ」

「?」

 

 深々と頭を下げる仙左衛門に、恋はえりなを想う。

 

 

「今も昔も変わらない―――俺は彼女にただ一言、美味しいと、笑ってほしい」

 

 

 仙左衛門は恋の強い瞳に、一瞬とはいえ安堵してしまった。

 それほどまでに、強い瞳だった。

 それは、神の舌を持つえりなを笑顔にするという意思。えりなを幸せにするという夢。その為に必要ならば、彼女を傷つける全てから全力で彼女を守るという覚悟。

 

 黒瀬恋は初めて出会ったあの日からずっと、薙切えりなを愛している。

 

 

 

 




小さい頃から薊の邪魔をする恋君。
風化することのない。えりなと恋の絆。
感想お待ちしています✨





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