Fate/reminiscence-第三次聖杯戦争黙示録- 作:出張L
極東の島国、日本の冬木市に聖杯を巡る闘争がある。
アインツベルン、遠坂、間桐の始まりの御三家が手を組み作り上げ、遂には降臨させた〝聖杯〟はしかし、各地の伝承で語られる聖人の血を受けた杯ではない。敢えて明言するならば贋作である。
しかしそのようなことは些末なことだろう。元より参加者たる魔術師は神に仕える者に非ず、聖杯の真贋などは大した問題ではない。重要なのは聖杯のあらゆる願いを叶えるという『万能の願望器』としての機能であり、冬木の聖杯が実際に願いを叶える力をもっている以上、それが偽物であるということなど問題になりはしないのだ。
そして聖杯に選ばれた魔術師はマスターとして〝令呪〟と呼ばれる聖痕を刻まれ、聖杯を巡る戦いに挑む機会と義務が課せられるという。
以上のことをダーニック・プレストーン・ユグドミレニアは丁寧に説明し終えた。
「なるほど。君の話は中々に興味深い内容だった。……聖杯戦争か。各地の聖遺物を集める中で噂には聞いていたのだが、君の口振りだと真実のようだ。にしても聖杯……聖杯とはねぇ」
話を聞き終わった後、ロディウス・ファーレンブルクは落ち着いた仕草で、テーブルに置かれた紅茶を口に運んだ。
「日本にて行われる聖杯を巡る戦い、か。そういえば私が時計塔にいた頃だかにそんな話を聞いたような覚えがあったかな。いけないね。私があそこに居られたのは五年も前のことだ。記憶がはっきりしない」
ダーニックが話をしているロディウスはダーニックと同じく『根源』と呼ばれる真理を探究する者、魔術師である。
だがロディウスは魔術師の中でも変わり種中の変わり種といえるだろう。
イギリスに本拠地を置く魔術の最高学府たる時計塔。ロディウス・ファーレンブルクは、元々時計塔で名を馳せた一流の魔術師だった男だ。特に実体のない『霊体』の扱いに関しては右に出る者のいないプロフェッショナルで、五年前の事件がなければ今頃は最高位の『王冠』を取得していたのは間違いとまで噂される怪物だ。
そして五年前の事件を切っ掛けに封印指定――――表社会でいう指名手配のようなものになり、追手の封印指定の執行者を返り討ちにして時計塔から逃亡。
ここまではいい。いや、よくはないが、ここまでなら似たような事例は他に幾らでもある。驚くには値しない。
ロディウスが他の『封印指定』の魔術師と違うのはそこからである。
封印指定された魔術師は大抵が協会の追っ手から逃れるためどこかに隠れ潜むか、または領地へ引きこもり更なる高みを目指そうとするものなのだが、ロディウスはここで時計塔にとってまったく想定外の、同時に最悪の行動に出たのだ。
「…………」
ダーニックは視線をロディウスの腕へと向ける。そこには彼の所属を示す
祖国ドイツにあるファーレンブルク家に戻ったロディウスは、ナチスドイツと総統アドルフ・ヒトラーに接近。そこでどんな口八丁で丸め込めたのか、まんまと親衛隊大佐の地位に収まってしまったのだ。
当時から世界各地の聖遺物の収拾など、オカルト的な分野にも手を伸ばしていたナチスだったが、それは金持ちのオカルト傾倒の延長線を出ない、所謂『本物』の神秘を知る魔術協会にとっては、失笑物の行為でしかなかった。だがロディウスという『本物』の魔術師を迎え入れたことで、ナチスは急速に魔術方面にも影響力を増大させた。それからというものの時計塔に反感をもつ少なくない数の魔術師がナチスへと集まり、今や表の権力も合わせて時計塔にも匹敵しうる一大勢力となっている。ナチスを第二の時計塔と呼べるほどに勢力を拡大させた立役者たるロディウスは、ドイツ古代遺産協会アーネンエルベの裏の責任者にまで登り詰めていた
ダーニックがロディウスと面会している広大な屋敷もロディウスの個人的なものである。屋敷の規模を見ればロディウスがナチス内部においてどれほどの地位にいるか窺い知れるというものだ。
国家に所属し、頭脳を費やす魔術師という意味においては、アーサー王伝説におけるマーリンなどといった宮廷魔術師と共通するかもしれない。
「始まりの御三家のうち二つ。遠坂家の遠坂冥馬と間桐家の間桐狩麻は時計塔に所属していました。それに六十年前の第二回聖杯戦争には、時計塔からも魔術師が参加していました。恐らくその縁で聞いたのでは?」
「ん、あぁ! 遠坂の方は知らないが間桐は知っているよ。あれだ、あのKIMONOとかいう服を着ているフロイラインだろう! うちのスパイの寄越した写真に写っていた扇情的な姿は良く覚えているとも!!」
「!?」
いきなりのロディウスの豹変に、ダーニックは冷静さを取り繕う事すら忘れて驚愕する。
これまでの紳士らしい柔和な笑みが消し飛び、下心全開で捲し立てるロディウスは、魔術師というより単なるセクハラオヤジだった。
「私はあのKIMONOが最高に好きでねぇ。劣情を刺激されるというのか、桃色が脳内を満たすというか……。特にこうやって帯をくるくると回すやつがたまらなかった。よく死んでしまった妻に着物を着て貰うことをせがんだものだ。あはははははは! いや実に懐かしい。ま、愛しい
「…………は、はぁ。私にはその趣味は分かりかねますが」
封印指定を受けるほどの魔術師とはつまり奇跡と称されるほどに魔術を高めた魔術師ということだ。
この中には純然たる能力以外にも『神秘は隠蔽するもの』という禁を破り、魔術を衆目に晒し過ぎた者もいるが、ロディウス・ファーレンブルクという魔術師は前者にあたる。
そして飛び抜けた魔術師というのは、えてして常人には理解しがたい精神性の持ち主なのだが、ロディウスのそれはベクトルが明後日の方向に曲がり過ぎていた。しかも大分俗物な方向へ。ダーニックから見れば時計塔でロードと呼ばれた連中も外面だけ取り繕った俗物ばかりだが、このロディウスに至っては取り繕うことすらせずオープンに俗物だった。
(だからこそナチスドイツ……世界の表側に属する組織に売り込むなんていう発想が出てくるのかもしれないが)
俗物だからといってダーニックは決してロディウスを過小評価しない。ダーニックが人間を評価する上で一番重要視するのは能力だ。ロディウスの人間性が俗だろうと、その能力が魔術師として敬意を払うに値するのであれば、ダーニックにとってもロディウス・ファーレンブルクは敬意を払う対象である。
「君にもKIMONOの良さが分からないのか? 残念だなぁ。君も私の愛しい妻の着物姿でも見れば、一瞬で心奪われると思うのだが。おっと、KIMONOに心奪われてもいいが妻に心奪われたら去勢するから注意してくれたまえよ」
「御安心を。私は他人の奥方を掠め取るような下種ではないつもりです。……それより奥方を亡くされたのですか?」
何気なしにダーニックが尋ねると、ロディウスは茶目っ気のある顔を解き、どこか過去を馳せるように遠い目をした。
「六年前に事故で、ね」
ロディウスの悲嘆は本物だった。
ダーニックの目が曇っているか、それともロディウスが稀代の大嘘吐きでもなければ、愛してもいない相手を想ってこんな顔はできない。
魔術師というのは個人ではなく〝家〟という群体だからか、他人には冷酷な一方で懐に入れてしまった者――――身内には寛容なところがある。
自らの魔術実験で幾人かを殺めたロディウスも、身内である妻には愛情をもっていたのだろう。
「そういう君は、妻はいるのかい、ダーニック」
「――――いえ」
妻というフレーズに胸に突き刺さるものがあったが、ダーニックは億尾にも出さなかった。
「生憎と縁に恵まれず、未だ独り身のままです」
「例の噂が尾を引いているのかな?」
「……どうやら、その口振りだと知っておられるようで」
「私のもとにまた魔術師が尋ねてきたと思ったら聖杯などと言い出したのだ。私とて君の身元調査くらいはさせるとも。私も他人に無能と後ろ指刺されたくはないからね。
不愉快だと君は感じるかもしれないが、私も時計塔を追い出された魔術師として同情しよう。あんな根も葉もない噂をロードまでが信じ込むとは、時計塔も思った以上に駄目駄目だ」
「それは同意します」
ダーニックにとっても忘れられるはずがない屈辱的な記憶。忌々しい過去は、目を瞑れば今でも鮮明に思い返すことができた。
丁度ロディウスが時計塔から逃げ出したのと入れ違いあたりだろう。ダーニックは新進気鋭の天才として時計塔に華々しいデビューを飾った。
あの頃のダーニックは正に絶頂期であり、時計塔の多くの貴族たちに縁談を持ち込まれるほどだった。いずれは新たなるロードの一人になる事すら予感させる程に。
しかし一人の魔術師の零したたった一つのデマが全てを狂わせた。
『ユグドミレニアの血は濁っている。五代先まで保つことがなく、後は零落するだけだ』
根拠などなにもないダーニックの才能を妬んだものが流した噂話。本来であれば飛び交う数多の噂話に埋もれるだけでしかない誹謗中傷。
だがダーニックにとっては不幸なことに、その噂は時計塔中に広まってしまった。
時計塔の魔術師は名を重んじる存在である。そしてそれ以上に〝血〟を重んじる。
魔術という本来人間にない機能を極めるには、代を重ね魔術師としての血を濃くすることで、後継者をより魔術を使うに適した人間としなければならない。魔術師の貴族の縁談というのは自らの権威を高める以外に、純粋に魔道の探究という事柄においても有効なのだ。
だからこそこの噂の蔓延はダーニックにとって致命的だったといえる。
どれだけ事実無根だ、とダーニックが叫ぼうと意味などなかった。
周囲は掌を返し彼を冷遇するようになり、彼と彼に続くユグドミレニアの魔術師達の未来は閉ざされたも同然だった。
「ですがファーレンブルク大佐、私に付き纏う噂を知りながらもこうして我が話を聞いて下さったこと。感謝のしようもありません」
心底からの喜びを顔に現して、ダーニックは会釈する。
ロディウスは肩を竦めながら苦笑する。
「なに。同じ時計塔に嫌な思い出をもつ者同士、シンパシーが芽生えただけだ。大体どれだけ君に対して良くない噂が飛び交おうと君という魔術師の才が変わるわけではないだろう。
我々ナチスが求めているのは優れた才能で、私が求めているのは君という魔術師だ。噂など関係はない」
さて、とロディウスが話を切り替える。
「――――君から説明された儀礼、聖杯戦争が面白いのは勝利者を決める方法だ。英霊の座から選ばれた七人の英霊を招き、七つのクラスに振り分けサーヴァントとして使役するなど。降霊を嗜んだ一介の魔術師として言わせて貰うが正気の沙汰ではないね」
「狂気の沙汰を正気にするのが聖杯です。信じられないのも無理はないことですが、過去二度に渡る戦いで実際に七人の英霊は召喚されています」
人の身で人に余るほど偉業を成し遂げた人間。彼等は死後、常人とは違い〝英霊の座〟というこの世の摂理の外にある場所に招かれる。
聖杯戦争が最も目につくところがこれだ。
死後〝英霊〟となった彼等は本来、この世に現存する四人の魔法使いですら御することの叶わぬ神秘の塊である。そんな高次の存在をサーヴァントとして召喚させ、現界させるという奇跡こそ『聖杯』の力が本物であるという何にも勝る証明といえた。
「ほほう。で、君の手に刻まれているのがサーヴァントを御する令呪だと?」
ダーニックは鷹揚に首を縦に振るった。
「サーヴァントに通常の魔術師が使役する使い魔の常識は当て嵌まらない。英霊となるほどのサーヴァントは等しく我等魔術師より強大な存在です。
そんな彼等を使役するための楔こそがマスター全員に三画与えられた令呪。三度のみの絶対命令権。私が掴んだ情報によれば、最初の聖杯戦争は令呪のシステムがなかったために、サーヴァントを御することができず有耶無耶のうちに終わったとか」
「好き好んで自分より格下の生命にかしずく英雄はいないだろうからね。うん、聞けば聞くほどに良く考え抜かれたシステムだ」
「マキリはロシア方面で活躍した使い魔の使役・契約を得意とする古い名家。遠坂は彼の第二魔法の使い手を大師父に頂く名門。アインツベルンに至っては十世紀の歴史をもつ錬金の大家です。
彼等が考案し構築した聖杯戦争――――いえ聖杯というシステムは神代の儀礼にすら匹敵する。聖杯を手に入れることができれば必ずやナチスと偉大なる総統閣下に千年の繁栄が約束されることでしょう」
「気になるじゃないか」
「なにがです?」
「聖杯戦争、サーヴァント、令呪。全て承知した。なるほど聖杯を手に入れれば大英帝国も、ソ連も、合衆国も敵じゃない。第三帝国の繁栄は約束されたも同然。君の言うことは至極正しい。
だがそれほどの代物をどうして君は自分で手に入れようとしないのかな? 我々に協力を持ち掛け我々に聖杯を捧げる必要などない。
令呪を宿ったのは我々ナチスではなく、ダーニック・プレストーン・ユグドミレニアだろう」
ロディウスの鋭い指摘を浴びてもダーニックは自然体を崩さなかった。
こういった腹の探り合いは権威主義の時計塔で慣れ親しんだものであるし、ロディウスがこのような質問をしてくるのも想定済みだ。
「仰ることは尤もです、大佐。ですが私は分の悪い賭けに自分の命というチップを上乗せするほど蛮勇の徒ではありません。万能の願望器、聖杯を手に入れることができたのならば貴方達ナチスの協力を仰ぐまでもなく、我がユグドミレニアの繁栄が約束されるでしょう。
だがそれは結局のところ手に入れることができたら、という過程のもとに成り立つ絵空事に過ぎない」
「つまり独力で聖杯を手に入れる自信はないというのかね? 君ほどの魔術師が」
「私は自分の魔術師としての実力にはそれなりの自信と誇りをもっていますが、だからといって自分を最強の魔術師であるなどと盲信してはおりません。恥ずかしながら私以上の魔術師など探せばいるでしょう。現に私の目の前に私以上に降霊術や霊媒に秀でた魔術師が座っています」
「人をおだてるのが上手いじゃないか」
「おだてなどではありません。私とて魔術師、下らぬ噂で人を判断する愚昧には嫌悪を示しますが、優れた魔術師には敬意を表します」
これはダーニックの本心である。
最後にどうするか、はさておくにしてもロディウス・ファーレンブルクの魔術師としての実力はダーニックも尊敬していた。
「聖杯戦争は七人の魔術師による闘争。勝利の末に手に入るのが『万能の願望器』となれば参加する魔術師も本気で挑むでしょう。
召喚するサーヴァントにもよりますが、どれだけ高く見積もっても勝率は七分の一。命を懸けて挑むには勝算が低すぎるとは思いませんか? 聖杯が手に入れば良し、だが手に入らず死ぬことがあれば単なる無駄死に。逃げ延びても無駄骨です」
「戦争とはそういうものだろう?」
「ええ、その通りです。だからこそ事前に勝率を上げるよう努力するのが戦争でしょう? 勝率が低いならば上げる努力をすればいい。だからこそ私は貴方達に協力を求めた。私の勝率のために。
勿論私とて魔術師です。等価交換の原則通り、私も貴方達に等価を求めるからこそこうして話をしている」
「ほほう。では君が我々に臨む等価とは、報酬とはなにかな」
「私が望むのは一つのみ。ユグドミレニアの繁栄です」
ダーニックは下らぬ噂のせいで――――否、彼だけではない。彼と彼に続くユグドミレニアの魔術師達全員の未来は閉ざされた。
諦めざるを得なかった、放棄せざるをえない状況にまで追い込まれた『根源』への到達という悲願。
それを叶える為にダーニックは一族の繁栄こそを望む。
派閥抗争と権力闘争において才幹を発揮し、弁舌・演技力・政治手腕によって信じる者、信じない者問わず思うが儘に操ることから〝八枚舌〟という渾名を頂戴したダーニックだが、これは嘘偽りない純粋な本心だった。
「日本では既に帝国陸軍が聖杯を御三家より奪うべく動き始めた、と聞き及んでいます。どうかお早い決断を」
「うむ。では挑もうか聖杯戦争に」
「――――ほう」
急かしたのは自分だが、余りにもあっさりと自らの望んだ解答を得た事にダーニックも流石に驚いた。
だが悪い驚きではないため、ダーニックは微笑みを浮かべながら手を差し出した。ロディウスも立ち上がって差し出された手を握る。
「我々は全力で君を援助しよう。英霊を召喚するための聖遺物、材料、戦うための兵士、武器。出来る限りのあらゆるものを用意しようじゃないか」
「ありがとうございます。貴方達の協力があれば、必ずや聖杯を手にすることができるでしょう」
「ふふふ。ところで帝国陸軍まで動いているとは我々も初耳だ。君はどこでその情報を得たのかな?」
「彼の国にもユグドミレニアの協力者はいるということです」
「恐いね。〝八枚舌〟と呼ばれるだけある。ともすれば私も君の舌先三寸に踊らされている道化かもしれないが、君の話を聞いた以上は踊るしかない。強かなものじゃないか」
ダーニックは微笑みをほんの少し薄くしながら、目を細める。外では既に日が落ちようとしている所だった。
「ところでファーレンブルク大佐。
「――――、――――――」
時が、止まる。
話も一段落し、取り敢えず『ナチスの聖杯戦争参戦』について言質をとったところで、ダーニックがぶつけてきた最大の爆弾に、ロディウス・ファーレンブルクの柔和な笑みが完全に凍てついた。
「なんのことだい?」
ロディウスは眉一つ動かさずにポーカーフェイスを保つが、ダーニックは部屋の重力が倍になったかのような錯覚を覚えた。
彼という魔術師が飼いならしている死霊達。それらがダーニックに〝怨念〟を吐いているのが、こうして座りながらでも分かる。
下手な発言は出来ない。迂闊な事を喋ればその瞬間、ダーニックの生涯は終わりを迎えることになるだろう。しかしかといってここまでくれば逃げ出すという選択も論外だった。
「ヒムラー長官の設立したアーネンエルベの表側が大衆へのフェイクであるように、貴方が長を務めるアーネンエルベの影も魔術協会へのフェイクに過ぎない。ナチスドイツの『神秘』を真に担っているのは、アドルフ・ヒトラー総統が国家元首となる以前から共にあったという人物であり、彼が長を務める『結社』なのでしょう?」
ユグドミレニアの手の者が潜んでいるのは魔術協会や帝国陸軍だけではない。ナチスのアーネンエルベの表と裏双方にユグドミレニアの協力者は潜んでいる。
務めて平然としているが、ダーニックは内心冷や汗が止まらなかった。なにせここはロディウス・ファーレンブルクの屋敷なのである。魔術師にとって己の屋敷とは即ち自身の肉体も同じ。謂わばダーニックはロディウスの胃袋の中にいるようなものなのだ。もしもロディウスがその気になれば、次の瞬間には数百の死霊の群れが襲い掛かってくるかもしれない。
「君の二つ名は八枚舌とのことだったが、八枚なのは舌だけじゃなかったようだねぇ。はははは、君の評価を大幅に上方修正しなければならないようだ。参った参った、最初からそこまで辿り着けていたのは君で二人目だ! 私も含めれば三人目かな? 勘の良い魔術師でも局に入ってから一週間はかかる」
「……それは遅れた情報です。私の調べでは将軍《ジェネラル》エルメロイあたりは『結社』の存在に感付いていますよ。警戒した方が宜しいかと」
「君は情報部が天職かもしれないな。カナリス長官かハイドリヒ長官の所へ連れて行ったら、片腕が出来たと喜ばれそうだ」
(…………どちらも御免蒙るが、なにはともあれ認めた、か)
ロディウス・ファーレンブルクが認めた。結社の存在を、結社の頂点に君臨する男の実在を。これで話を次の段階へ進めることができる。
「大佐。不躾な頼みで恐縮なのですが、私を『結社』の長と会わせては頂けないでしょうか?」
これはダーニック・ブレストーン・ユグドミレニアにとって賭けだった。ダーニックには『結社』の存在を敢えて知らないふりをして、ナチスを利用しているつもりが利用されている道化を演じるという選択肢もあるにはあった。
だがアーネンエルベの影ですら第二の時計塔とすら噂されているというのに、更にその裏に潜むという『結社』を相手に、それは余りにも悪手である。
底の知れない相手ほど恐いものはない。底なし沼とて場所や深さが分かっていれば、幾らでも安全対策をとることは可能だろう。しかし場所も深さもまるで分からない底なし沼には、対処などとりようがないのだから。
であれば獅子身中の虫として利用するのでも、敵対するのでもなく、敢えて味方になってしまったほうがリスクは少ない。もしも万が一ナチスが敗れ去ったとしても、ダーニックの政治力があれば時計塔に戻ることも難しくはないのだから。
「『結社』は我々ナチスにとっても非常にデリケートな部分だ。秘中の秘、トップシークレットと言って良い。なにせ『結社』を隠し通すためにヒムラー長官は道化を演じておられるのだからね。いやヒムラー長官のあれはご自分の『趣味』が半分以上なのだが。
ともかく。我々ナチス内部においても極一部の人間しか知らぬ『結社』の長に会い、その一員となるには相応の試練を潜り抜けなくてはならない。それは分かるかい?」
「覚悟の上です」
ナチスの重鎮たるヒムラーが道化を演じてまで隠し通そうとする結社。
ナチスの始まりから既にそこにあったという結社。
真の名は総統と結社の長しか知らず、そこに所属するものも存在を知る者も隠語である『結社』としか知られぬナチスの闇。この闇に踏み込まずしてダーニックの野心は叶えられない。
ロディウスはダーニックの顔を見つめながら、悪童のように口角を釣り上げると口を開く。
「おめでとう、合格だ」
「…………今なんと?」
「だから合格だよ。君は見事に試練を潜り抜けた。ようこそ、ダーニック・ブレストーン・ユグドミレニア。結社は君を歓迎しようじゃないか」
「潜り抜けたどころか、まだ試練の内容すら教えて頂いていませんが?」
「おっと、そうだった。ぶっちゃけてしまうと結社に入るための条件というのは『結社の存在を知ること』なのだよ。どうだい? 実に簡単だろう?」
どこが簡単なものか、と反論したいのをダーニックはぎりぎりのところで堪える。
生まれる時代が違えば稀代の謀略家として『英霊の座』に招かれたとしても不思議ではないダーニックをもってしても、結社について知ることが出来たのは偶然によるところも大きかった。それだけ『結社』の隠匿性は高い。結社の存在に気付いたとしても、結社の具体的組織構造や長の存在にまで辿り着いている人間はいないだろう。
「では大佐。私を認められたのであれば、結社の長に会わせて頂けるのですね?」
「はは。これは直感ではなく経験則からくる勘だがね。〝閣下〟ならたぶんもう来ているんじゃないかな」
「――――正解だよ」
「ッ!!」
世界が、止まった。そう錯覚せざるをえないほどに、浮世離れした声。
感情と表情を完全に切り離しているはずのダーニック・ブレストーン・ユグドミレニアが、隠しようもない驚愕を貌に浮かべる。
振り返れば話の始めからいたかの如く、当然のように『その男』はダーニックの後ろにある椅子に腰かけていた。
色素を拒絶した白髪に、血のように真っ赤な双眸はアルビノの身体的特徴である。漆黒の軍服とハーケンクロイツの腕章はロディウスと同様、ただその階級章は『上級大将』を示すものだった。上級大将とは言うまでもなく将校の最高位であり、この上には親衛隊長官たるハインリヒ・ヒムラーがいるのみである。十代後半から二十代前半といった容姿には不相応な階級であるが、この男にとっては上級大将という階級すら不足しているだろう。それだけの存在感をダーニックは目の前の男から感じていた。
「我輩からも歓迎しよう。合格おめでとう、親愛なる
まるでこの星ではない、異星の住人が如き気配を放った異端の男は、そう言って薄く微笑む。ダーニックは『結社』に敵対しなかった自身の英断を褒め、同時に『結社』の懐に入り込んでしまった己の迂闊を呪った。
だがもう逃げられない。ダーニック・ブレストーン・ユグドミレニアが決断するより前から、全ては『運命』によって定められていたのだから。
「君は我輩を知らなくても、我輩は君を知り待っていた。だから敢えてこう言おう。君が来ることをずっと待っていたよ」
十年来の友人と再会するような親しみを伴って男は言う。その碧眼はダーニックを見ているというよりかは、この星に立つダーニックを見下ろしているようだった。
「御尊名を伺っても?」
「ジュリアス・カイザー。それが今の我輩の名だ」
自然とダーニックはその男――――ジュリアス・カイザーという男に傅いていた。別に中世の騎士のように、この男に忠誠を誓ったわけではない。ただ自分の運命はこの男の掌の上にあると悟っただけだ。彼が自分などとは比べものにならないほどの高みに立つ魔術師であることを思い知らされたが故の敬服である。
「嗚呼、やっと『黙示録』が訪れた。長い短いなどと、もう感じることのないはずの我が身だというのに。この瞬間に限っては、例え既定路線だとしても変わらずに我輩の心は昂揚を覚える。これも星天の思し召しということならば実に厭なものだがね。フフフフフフ、視ておられるのですかな『英雄王』? 貴方が引導を渡した星に、貴方が殺し損ねた星に――――我輩は抗うぞ」
ここに〝運命の歯車〟は音をたてて回り始めた。
約束された終わりへ向けて、約束の終わりを目指して。天意を砕き、儚くも遠い勝利を得るために。全てを演じてきた男は、剥き出しの素顔を星天へ晒す。
此処に〝第三次聖杯戦争〟は崩れ始めた。
「監督役、ですか」
日本の冬木市で行われるという聖杯戦争について一通りの説明を受けた言峰璃正は、どことなく現実味のない話に呆然とするのを堪えることが出来なかった。
一大宗教の総本山、ヴァチカンにあるとある教会の一室にはカソックを一部の隙もなく着込んだ璃正と、フードを被った顔の見えない男の二人だけがいる。
窓もないため明かりといえるのは青白い火を灯した蝋燭だけだった。
「そうだ。七人の魔術師と七人のサーヴァントによる聖杯争奪戦、魔術師という連中は時にとんでもない茶番を考案する」
魔術師というのは璃正にとっては特段珍しいフレーズではない。
一大宗教の裏側、吸血鬼などといった化物や魔術師という異端の術を操る者を屠る組織こそが聖堂教会であり、璃正と目の前の上司もそれに所属する人間だ。
大衆にこそ秘匿されている魔術も、聖堂教会の人間にとっては有り触れたものに過ぎない。
「教会と魔術協会の間には表向きには一応不可侵の盟約が結ばれている故、本来であれば魔術師同士のいざこざなど知らんぷりを決め込めば良いのだが、奪い合うものが聖杯であるというのならば黙してもいられない。
アインツベルンと魔術協会の要請もあり聖堂教会からは中立の立場、審判兼神秘漏洩を防ぐ者として監督役を派遣することになった。それが」
「私だと?」
上司の男は口元を三日月のように歪めながら言った。
「君は彼の土地に土地勘があるだろう。第八秘蹟会における君の働きぶりも聞き及んでいる。適任は君しかいないと思ってね」
「…………」
璃正が所属している第八秘蹟会は世界各地に散らばった聖遺物の管理、回収を任務とする部門だ。璃正自身、諸国に散った聖遺物の回収を自らの試練・責務と定め世界中を巡り歩いた過去を持っている。
高まりつつある戦争気運もあって海外に出るのが難しい現代。こうして日本人でありながら祖国より遥か遠いヴァチカンにいることが、言峰璃正が自らの義務に生きているという証明でもあった。
故にもしも本当に〝聖杯〟が冬木にあるのだとすれば、この身を賭して監督役の任につくことに何の疑問もない。寧ろ若輩の身でありながら『聖杯』という最高峰の聖遺物を目にする栄誉に歓喜しただろう。
危険であることも理解しているが、己の義務のためならば百の悪魔の軍勢相手でも飛び込めるだけの精神を璃正はもっている。魔術師たちの血塗られた闘争であろうと臆するものではない。
だがそれは聖杯が本物だった場合の話だ。
「二つ三つほど確認したいことがあります」
「なにかね?」
「貴方の仰った話によれば冬木の聖杯とは『万能の願望器』としての力をもつだけの紛い物。真の意味での聖遺物たる聖杯ではないとのことでしたが、ならばどうして我々が監督役などを派遣するのです。
魔術師同士の争いであるのならば、魔術協会の者に監督させれば良いでしょう。態々我々が時間と労力を削ってまで魔術師のために働く必要などありはしない」
万能の万能器とは表向きの話。璃正に伝えられた真の目的は節理の外、あらゆるものの原因があるとされる『根源の渦』へ到達することだという。
聖堂教会は魔術師と魔術師たちの集団たる魔術協会とは敵対する立場にあるが、魔術師の目指す『根源』については一切興味がない。
故に聖堂教会がわざわざ聖杯戦争に介入する必要などないのだ。
「一理ある。だがまぁこれも政治でね。君が考える必要のないことだ」
「――――――」
大方聖堂教会、魔術協会、それにアインツベルンまで巻き込んだ政治ゲームが繰り広げられたのだろう。質問を無愛想に切り捨てられたのは好ましい対応ではなかったが、なるほど政治ゲームなど璃正からしたら全く興味も関わりもないものだ。
「それに聖杯の真の目的がどうであれ『万能の願望器』としての力を聖杯がもっているのは事実だ。『根源』などというものを目指す魔術師が勝利してくれるのならば構わないが、醜悪な望みを持つ者が聖杯を手に入れれば大参事が引き起こされる可能性もある。
璃正。監督役には聖杯戦争による被害を最小限にするだけではなく、聖杯による被害も最小限にして貰わなければならない。
真に聖杯を担うに相応しいマスター。それを選別するのも君の仕事だよ」
「……分かりました。不肖、言峰璃正。微力を尽くしましょう」
「ありがとう。君が引き受けてくれて私も肩の荷が降りたよ」
代わりに言峰璃正の肩には大きな重責が圧し掛かってしまった。紛い物といえど、よもや自分が聖杯探索の列に名を連ねることになろうとは思いもよらなかった。
魔術師一人だけでも節理から外れた存在だというのに、それが更に七人で英霊たるサーヴァントが七騎。これの激突が齎すであろう騒ぎを想像して――――止めた。魔術師の戦いならまだしも、神話や伝説の人物である英雄同士の戦いなど、言峰璃正という一介の信徒に想像できるものではない。想像できないものを、人間の想像できる枠に当て嵌めようとすることなど愚の骨頂である。
「冬木の管理者であり、始まりの御三家の一角。遠坂には既に話を通してある。遠坂は聖杯戦争前からこちら側とも繋がりのある家でね。細かいことは彼より聞いてくれたまえ」
「はっ」
璃正は一礼してその場を辞する。
上司から渡された書類に目を通すと『遠坂』から参加するのは現当主である遠坂冥馬ではなく、先代当主である遠坂静重。老いても衰えぬ独特の迫力をもつ老人だった。
日本へ渡り聖杯戦争のために新たに建設されたという冬木教会で、遠坂静重に話を通すことが、監督役としての言峰璃正の最初の仕事となるだろう。幸い聖杯戦争が行われる冬木市には土地勘があるので、教会までの道を迷うことはなさそうだ。
「励むしかないか」
信仰と対極にある魔術師と慣れ合うのは個人的には好まないが、それでも聖堂教会から与えられた任務であれば、これもまた修練の一つ。
修練であるならば信仰者たる璃正は全身全霊をもって挑むだけだ。