やはりこの世界にオリキャラの居場所が無いのはまちがっていない。 作:バリ茶
12月24日。毎年のように繰り返される聖夜を楽しむ街の喧騒から離れた、静かな住宅街の夜道を、緩慢な足取りで私は一人歩いていた。
何処からともなく吹いた冷たい夜風が首筋を撫で、思わず身震いをして両手をコートのポケットに突っ込む。大して温かくはないが、突き放すような冷たさの風に肌を晒すよりは幾分かマシだった。
まさかここまで冷え込む時間帯に帰路に着く事になるとは思ってもみなかった。友人達と中学生最後のクリスマスを楽しんだはいいが、遊び呆けて気づけば夜。流石に深夜ではないが、それでも普段なら自宅にいて然るべき時刻なのは間違いない。
それ故、妙に足取りが重い。家に着いたらきっと、両親にはこっぴどく言われるのだろう。親の叱責が怖いというのは、一体何年振りだろうか。
夜間に点灯する見慣れた玄関の光が目に入った。もう家に着いてしまった。
まぁ、自己責任だ。叱責は大人しく受け入れよう。
なんとも情けない覚悟を決めて、私は家の中へ踏み込んでいった。靴を脱いでリビングの方を見ると、中は薄暗かった。既に眠ってしまったのだろうか。
リビングに足を踏み入れて目に入ったのは、ソファで倒れこむように眠っている母と、テーブルで酒をチビチビ飲んでいる父だった。
父は私に気づき、人差し指を立てて自分の口の前に添えた。静かに、という意図をくみ取り、音を立てない様テーブルに近づき父の向かい側の席に座った。
「おかえり」
「うん、ただいま。……ごめんなさい、帰りが遅くなっちゃって」
両手を合わせてなるべく申し訳なさそうに謝る。直ぐ近くに眠っている人がいるし、大声で怒られることは無いだろう。でもやはり少し怖い。
然し身構えている私をよそに、父は怒りでも呆れでもなく、微笑を浮かべていた。
「楽しかった? クリスマスは」
「う、うん。まぁ…」
「そっか」
そう言って、父は黙った。父の表情は一切変わらない。まるで、何かを諦めてしまったような眼をしている。酔っているからだろうか? 想像していた叱責の矢が飛んでこないことに、少し違和感を覚えた。
「あの……えっと、怒らないの?」
「楽しかったんだろう。怒る理由はないよ」
父はビール缶を口元に傾けて、その中身を切らした。新しい物を冷蔵庫から持ってくるべきだろうか。そう思って椅子から立ち上がろうとした瞬間「なぁ、美加」と父が口を開いた。美加、というのは私の名前だ。
名前を呼んだはいいが、父は私と目を合わせようとはせず、ビール缶をテーブルに置き、俯いたまま言葉を紡いだ。
「こんな遅い時間に……帰るってことは、よっぽど、ッ、楽しいクリスマス……だったんだね? 美加は、良い子だな」
「……お父さん、どうしたの?」
様子がおかしい。私は立ち上がって、俯いている父の近くに寄った。
そこに来て見えたのは――涙。余りに急な事態に私が狼狽えて後ずさると、嗚咽を漏らしながら、父は震える手で私の手を握った。
急に手を握られて少し吃驚したが、ここで一つ、大事な事を思い出した。
泣いている父を、私は以前にも見たことがある。それは二ヶ月前の―――つい最近の出来事だ。
「お兄ちゃんの、大悟の…ッ、分まで、楽しんでく……くれたん、だよなッ」
「……お父さ――」
「もう意識は戻らないかもしれないって、お医者さんに言われたんだよッ。だから、もう大悟のことで気に病む必要はないから、せめて、アイツの分まで……」
段々と父の声は小さくなっていく。掠れた声音で絞り出すように「もう、部屋に戻りなさい」と呟き、父は掴んでいた私の手を離した。
私が後ずさると、父はテーブルに突っ伏した。声を殺しながら泣いている。そんな父の姿を見ていられなくなった私は、逃げるようにリビングから出ていった。
部屋に戻り、コートを脱ぎ散らかしてそのままベッドに倒れこんだ。暖房を入れていない部屋のベッドは幾分か冷たかったが、今はそんなこと気にならなかった。それよりも先ほどの父を見て、胸中を掻き立てる謎の焦燥感を私は気にしていた。
二ヶ月前、修学旅行へ行った兄が交通事故にあった。トラックに撥ねられたらしく、生きているのが奇跡だと医者は言っていた。ギプスや包帯に包まれて眠っている兄を病院で見たとき、母は膝から崩れ落ち、父は涙を流しながら歯噛みして真下の床を睨んでいた。
病院に搬送されてから二ヶ月、未だ兄の意識は戻っていない。
心配、などと言う言葉で片付けては駄目な筈なのに、先ほどの父の「大悟は意識が戻らないかもしれない」と言う知らせで、兄の回復はもはや絶望的なのだろうと思うどこか冷静な自分がいる。家族が目覚めないかもしれないと言うのに、一体なぜ、私はこんなに薄情なのだろう。
ふと、携帯電話を開き、今までに撮った写真を見返してみた。機種は何度か変えたが、SDカードには数年前に撮影したものがいくつか残っている。
兄と私の写真。その様なモノがないかと、フォルダを漁っていく。しかし掘り出されていく物は友人や綺麗な風景の写真ばかりだ。
探し始めてから暫くして、ついに兄の写真が無いのかと焦り始めた頃、一つの動画を見つけた。僅か一分足らずの、数年前まで兄が通っていた中学校の校庭が映っている、そんな動画。
イヤホンを接続し、再生ボタンを押す。一瞬ロードをした後、止まっていた記録が動き始めた。
画面にはユニフォームに身を包んだ兄が映っていた。内容は中学時代に兄が所属していたサッカー部の試合らしい。
画面の中の兄は仲間からボールを受け取り、敵陣へ切り込んでいった。
『お兄ちゃん、がんばれ―!』
途中、当時の私の声が響いた。それが聞こえたのか定かではないが、兄は周囲の仲間にパスを出さずに進んで行った。進行を妨げようとする敵チームをギリギリで躱し、そのままシュート。
放たれたボールを相手キーパーは捉えることが出来ず、攻撃はゴールネットに突き刺さった。
鮮やかなシュートで点数が増えたことに喜び駆け寄ってくるチームメイトを兄は軽く受け流し、撮影している私の方を向いた。
兄は満面の笑顔で此方にピースをしてきた。そして私も兄にピースサインを返したところで、動画は終わった。
動画の再生を終えた画面を、私はまだ見つめていた。そうか、そうだった。今更思い出した。
兄は以前、サッカー部のエースだった。試合では何回か活躍していたし、自宅ではよく私の遊び相手になってくれていた記憶がある。自慢の兄、と言う程でもないが、少なくとも中学を卒業するまでの兄のことを、私は好きだったと思う。
兄が進学してもサッカーを続けると言った時も、きっと今後も良好な関係の兄妹でいられると、あの時の私は信じて疑わなかった。
でも兄は総武高校に上がってから、人が変わったように大人しくなった。
妙に私に気を使うようになり、遠慮がちな態度を取るようになった。生き生きとしていた瞳は、日を追うごとに常に疲れているような――まるで死んだ魚のような眼に変わっていった。
加えて今迄あまり興味を示していなかった文庫本を読み耽っていたり、一人で小さくぶつぶつ呟いていたりする兄に少し距離感を感じて、軽口を言い合ったり同じ部屋でゲームをすることも無くなった。
昔の兄の面影は見えなくなり、まるで誰かの真似をしているように感じるようになった。
丁度その頃中学校の新しい友人たちと親しくなり、一緒に遊ぶようになったこともあってか、一方で孤独な印象を受けるようになった兄への関心は薄れていった。
兄なんて別にどうでもいい。
そう思い始めた時からだろうか、彼と会話をしなくなったのは。
携帯電話を手放し、仰向けになって部屋の天井を見つめた。思い返してみれば、一番最近兄と会話をしたのは兄が修学旅行に行くよりも前だ。
町内清掃があった休日の朝。母は眠っていたので兄の分も含めて私が簡単な朝食を作った。私が先に食べている途中で兄もリビングに降りてきたが、以前のように「おはよ」とは言ってくれなかった。
その後の会話も、兄はなんだか余所余所しかった。話している相手は自分の妹だというのに。
無論、私の態度に非が無かった訳では無い。距離感を感じてつんけんした態度を取ってしまった自覚はある。
そんな時だったからこそ、食べ終えた兄が笑顔で「ごっつぉーさんでした」と言った時は、凄く嬉しかった。一瞬だけでも元気な頃の兄が見えた気がして、思わず返事を返してしまったくらいだ。あの時少々表情が緩んでしまったが、バレなかったか心配だ。
二ヶ月前の記憶に浸かっている途中、ハッとした。どうやらずっと天井を見つめたままだったらしい。
そそくさと下着と寝間着を用意し、部屋を出て一階の風呂場へ向かった。そして衣服を脱いで洗濯機に入れている途中に、休日に見た兄の笑顔をまた思い出した。
兄は確かに人が変わった。人は成長するにつれて変わっていくものだ。勿論兄とて例外ではない。だが、それを言い訳にして、兄妹間の仲を離したのは自分だ。
このままでいたくない。兄には目覚めてほしいし、今までのことを謝ってもう一度仲の良い兄妹に戻りたい。
「明日、お見舞い……行こうかな」
そう呟き、私はバスルームの戸を引いた。
☆
翌日、昼まで家で過ごしてから、支度をして徒歩で病院へ向かった。家から兄の眠っている病院まで、そう距離は無い。住宅街を抜けて、賑やかな街を少し横切ればすぐだ。
途中、コンビニに寄り道をする。ここで少し待機する理由があるのだ。
飲み物を二本買い、コンビニの外で壁に背を預けつつ遠くを見据える。時間的にはそろそろだろうか。
「おーい、美加ちゃーん!」
遠くに見える人影が私の名前を呼んで手を振りながら近づいてくる。ここで待っていたのはあの彼女だ。
頭の天辺にある跳ねたアホ毛と時折見える八重歯が特徴的な女の子が、息を切らしながら私の前にやってきた。
「小町、大丈夫? はい飲み物」
「はぁ、はぁ……あ、ありがと!」
「そんなに急いでこなくても。大して時間には遅れてないし」
「んっ、ぷはっ! えっと、実は昨日夜更かしして……起きるの遅くなっちゃったから急がないと間に合わないかなって。ごめんね…!」
そう言って両手を合わせて頭を下げてきたのは、同級生でクラスメイトの比企谷小町だ。昨日の夜にメールで兄の見舞いの話をしたとき、自分も行く、と言ってくれた。
見舞いはあまり騒がしくしてはいけないので一人で行くべきだと思ったが、兄のことを気にかけてくれるのが素直に嬉しかった私は、小町を連れて兄の容体を見に行くことにしたのだ。
「気にしてないよ。それより、いこ」
「あ、うん、そうだね……」
なんだか小町の様子が変だ。チラチラと頻りに視線を近くの書店へ向けている。
「小町? 何か買いたい物でもあるの?」
「え、えーっとぉ、その、なんと言いますか……」
小町はモゴモゴして歯切れが悪い。見舞いに付き合わせている私が言うのもなんだが、買い物はまた後ではいけないのだろうか、と思った。それとも見舞いの品に本でも買ってくれるのだろうか。
私が妙な様子の小町を訝しんでいると、彼女は意を決したように私と目を合わせた。
「美加ちゃん、あの、お見舞いの件なんだけど」
「うん」
「もう一人だけ、一緒に連れて行ってもらえないかな?」
小町はどこかぎこちなく、申し訳なさそうに頼んできた。うるさい人でなければ、兄の見舞いに来てくれるのは嬉しいので、もちろん私は構わない。しかし何故、小町はこんなにも申し訳なさそうに頼み込んでくるのだろうか。
私が了承すると彼女は私の手を取り、コンビニの向かい側にある書店へ引きずるように連れて行った。
この地域に昔からある、少し古ぼけた印象を受ける小さな書店だ。書店の中に客は見当たらず、がらんどうとしていた。
しかし奥に一人だけ、文庫本を数冊手に取り、注目作の表紙を見て回っている男性がいた。見た限りでは中高生のような印象を受ける。
小町は私に「あの人なんだけど」と小声で呟き、その男性に声をかけた。
「おーい、お兄ちゃーん」
えぇっ、と私は思わず間抜けな声を漏らしてしまった。呼びかけで小町に気づいた男性は此方の方を向いた。
「おぅ、小町か。珍しいな、こんな所に来るなんて」
「別に本を買いに来たわけじゃなくてね。……あー、えっと、ちょっと話があるんだけど」
呼び方からして小町の兄であろう人物は、怪訝な表情をした。何と言うか、如何にも面倒くさそうな顔だ。しかし彼は話を一蹴せず、持っていた本を一旦棚に戻してから私たちの方へ歩いてきた。
「なんだ、友達も一緒だったのか」
「うん。ていうか、お兄ちゃんは一人? 雪乃さんとか結衣さんは?」
「何で真っ先にそいつ等が……。昨日コミュニティセンターでクリスマス会やったばっかだし、暫く奉仕部の活動は無いから、あの二人とは当分会う機会ねーよ」
彼は面倒くさそうな表情で自分の頭をかいた。一応小町の隣には私がいるのだが、目の前の彼は気だるげな態度を隠そうとはしていない。外出先で妹と鉢合わせたから不機嫌なのだろうか? まぁ、分からなくもない。私も友達と遊んでいるときに家族に声をかけられたら少し鬱陶しく思うかもしれない。
小町にお兄さんがいたなんて聞いてなかったなー、なんて考えながら二人の話をぼーっと眺めていると、私が会話に入っていないことに気づいた小町は「それはそうと」と兄妹での会話を切り上げた。
「紹介するね。この人が兄の八幡」
「兄です。小町がいつもお世話になっております」
「お兄ちゃんうっさい。あ、でね、この子が――」
「あ、待って小町、自分で言うから」
小町の声を遮り、兄の比企谷八幡の方を向く。自己紹介くらいは、自分でした方が良いだろう。
「は、初めまして、霜月美加です。いつも小町ちゃんとは仲良くさせてもらってます」
何だか改まった挨拶と言うか、硬い感じになってしまった。聞かされたお兄さんも固まってしまっている。もう少し馴れ馴れしい方が良かったのだろうか。
と、考えている間にもお兄さんは呆けたような表情のままだ。先程の挨拶はそこまで引かれる様なものだったのか。心配になったのであの、と声をかけると、お兄さんは我に返った。
「あ、あぁ、すまん。えっと、美加ちゃん、だったか?」
「はい、そうですけど…」
「もしかして……その、なんつーか」
お兄さんの歯切れが悪い。私が首を傾げると、お兄さんは小さく息を吐き、意を決したように私と目を合わせた。
「君、もしかして兄貴とか居たり、しないか?」
「え? はい、一応ひとり…。高2です」
「兄貴の名前、大悟…だったりするか?」
「そうですけど……も、もしかして兄のお知り合いですか?」
お兄さんは頷いた。
まさか、こんなところで兄の知り合いと出会えるとは思わなかった。それも友達のお兄さん。なんという巡り合わせだろうか。
私はお兄さんの前にずいっと乗り出した。もしかしたら兄の話が聞けるかもしれない。
「あの、兄とは! その、お友達なんですよね?」
「あ、あぁ。そう、だな。友達……だな」
「修学旅行の時なんですけど、兄はどうでしたかッ? えっと、車に轢かれそうになっても気づかないくらい舞い上がってたとか、死にたくなるくらい何かを思いつめてたとか、誰かにフラれたとか!」
言い終わった後に気づいたが、お兄さんが若干引く程度には、捲し立ててしまった。隣の小町も吃驚した表情だ。
恥ずかしくなった私は数歩後ろに下がり、すいませんと頭を下げた。別に気にしてないとお兄さんは言ってくれたが、初対面でこれは流石に失礼だ。恥ずかしい。あと恥ずかしい。更に言うと自分の顔は林檎のように赤くなっている。
私の大声が聞こえてしまったのか、奥の店主が訝しんだ面持ちで此方を見つめている。それに気づいた小町に促され、私達三人は書店を後にした。
結局のところ、お兄さん――比企谷先輩もお見舞いに来てくれることになった。
最初に誘った時は約束があって行けないと渋っていたが、小町も一緒になって懇願してくれたおかげで先輩は折れてくれた。
書店を出て暫くしてから病院に到着した私は、先輩と話しつつ兄の病室へ向かっている。
「比企谷先輩、一年の時から兄とお知り合いだったんですね」
「まぁな。そう頻繁に会ってた訳じゃねーけど」
先輩は頬をかいて苦笑いした。話によると、兄とは一年生の頃の学園祭で知り合ったらしい。先輩が財布を無くして、同じクラスの
そんな話をする隣の先輩を見ていると、ふと兄の面影が重なった。やつれた瞳、歩くときの猫背。特に眼に至っては、兄とは違って腐り具合に年季が入っているように感じた。……大分失礼な事を考えてしまった。
心の中で謝罪しつつ、階段を登り終えたので病室がもう直ぐな事に気が付いた。
「すいません、一応言わせてください。まだ意識は戻っていないので――」
「静かに、でしょ? 美加ちゃんは心配性だなー」
「一番騒がしそうなヤツはお前だけどな、小町」
確かにー、と小町はおどけた。これでも親友なので、小町が大事なところで弁えることは知っているし、先輩は元から大人しい部類の人だと分かっている。余計な心配をした自分が恥ずかしい。
そうこうしている内に、病室の扉の前についた。
入る前に少し緊張してきた私は、おもわず隣の小町に話しかけた。
「眠っている人には、なんて言葉をかけたらいいのかな」
「うーん、私がどうこう言うのはちょっと違うような気がする。美加ちゃんが思ったことを言えばいいと思うよ?」
それに、と続けた小町は私の耳元で囁くように言った。
「お兄さんは美加ちゃんのこと大好きだし、美加ちゃんがお見舞いに来たから嬉しくて目が覚めるかも――」
なんてね。と小町はウィンクした。そんなことで目覚めてくれるなら、お医者様も苦労しないだろうに。
しかしその言葉は嬉しかったし、緊張もほぐれた。流石は親友の小町だ。空気が読める点とあざとかわいさなら世界一だろう。
すっかり心が楽になった私は、少し重い病室のドアを横に引いた。
「来てやったぞー、兄貴――」
病室に入って目に入ってきたのは、数ヶ月前とあまり変わらない状態の兄―――
――ではなく。
「何だこれ、ゴム硬いし全然外れねぇ……」
ベッドの上で上半身を起こし、無理矢理自分で人工呼吸器を外そうとしている兄の姿だった。
えっ? と小町が言った。
はッ? と先輩が驚いた。
しかし私は声すら出なかった。
おかしい。どうなっている。
脳の理解が追いついていない。
兄は意識不明だったはずだ。もう意識は戻らないかもしれないと医者は言い、母は寝込み父が泣き散らすほど回復は絶望的だったはずだ。少し前まではベッドに横たわって、包帯で巻かれて、その
そんな兄が今、目の前で口元の機器と格闘をしている。鬱陶しそうに頬辺りにあるゴムを引っ張っている。
混乱する頭を必死に整理しながら、震える手を抑えながら、ゆっくりと一歩、また一歩と兄に近づいていく。
「―――あ、あに、き……?」
「やっぱナースコールでも――え?」
此方に気が付いた兄は口元の機器からゆっくりと手が離れていく。その手は自分の膝に置いた。
それと反対に私の両手は自然と前に上がっていった。
兄貴が、起きている。目の前で、瞼を開いて、近づく私を見ている。顔がやつれている。髪は伸びたし、髭も生えている。
しかし、瞳には生気が宿っているように感じた。その眼で私を捉え、兄は口を開いた。
「み、美加?」
「――ッ!」
名前を呼ばれた瞬間、私の中で、何かが破裂した。
兄に駆け寄り、背中に手を回し、胸に顔を
兄が少し狼狽えたような声を出したが、気にしない。気にしていられるほど、今は余裕が無い。
腕で温かみを感じる。私の頭上から静かな兄の息が分かる。どくんどくん、と兄の胸から心臓の鼓動が聞こえてくる。生きている。生きて、起きている。
間近で感じるこの人は、決して意識不明の状態ではない。
少しも動かずにそのままでいると、何も言わず、兄はそっと私を抱きしめた。そしてゆっくり私の頭を撫でた。
何回も。まるで赤子をあやす様に撫で続けた。
兄の服に、湿っている部分があることを頬で感じて分かった。これはきっと、私の涙で出来たものだ。
背中に回した手で、兄の服をギュッと掴む。そして更に顔を胸に押し付ける。
「―――美加」
「…ッ! ……、っがぃ」
上手く言葉が出せない。大声で泣き叫ばないよう自制し、なんとか小さい声を絞り出すだけで精一杯だった。
「ぉっ、ねが、い……」
「美加?」
「いまは、な゛にも、いわな、ぃ……でっ」
しわがれた声音で懇願した。
比企谷先輩はどう思っているだろうか。
小町はなんと言葉をかけてくるのだろうか。
兄はいつ、私に離れろと言うのだろうか。
考えても分からず、私はただ、そのまま兄の胸の中で嗚咽し続けた。
次回は主人公視点に戻ります。
感想とお気に入り登録頂きました、ありがとうございます。
また投稿期間が空いてしまいました。次回こそなるべく早く投稿しますので堪忍してください……。