東方狐答録   作:佐藤秋

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第六十一話 迷い家にて

 

 必要は発明の母という言葉があるように、何かを必要だと思うから人は新しいものを作り出す。それは何も道具に限った話ではない。技や術も同様に、必要に応じて生み出されるのだ。

 例えば俺の変化の術。今でこそこの術は物の持ち運びに使ったり応急処置に使ったりと様々な使い方をしているが、覚えた当初は人間を驚かすことにしか使えないと思っていた。旅をするに当たってそういった必要性を感じたから、今のような使い方を思い付いたのである。

 

 そして今の俺には最近になって必要性を感じた技能があった。それはズバリ、式神を操る能力である。式神といっても紫にとっての藍や橙のような存在ではない。他の誰かと軽い連絡さえ取れれば十分の、使い魔みたいな存在だ。

 なぜそんな技能が必要だと思ったかというと、それは前回の異変がきっかけである。明けることのない長い夜の間、俺は慧音に一人ずっと人里の見張りをさせてしまった。本人は気にするなと言っていたが、いつ終わるか分からないものを待つほど苦痛なものは無い。あのとき逐一慧音へ連絡する方法があれば、慧音もある程度の心構えができたのではないかと思ったのだ。

 

 

 

 

「へぇ、幻想郷にこんなところがあったのか。初めて来た」

 

 いま俺は藍に連れられて、とある屋敷に訪れていた。周囲が霧に覆われており、隠れ家みたいな雰囲気のする屋敷である。

 

「ああ、ここに人が訪れることは滅多に無い。夢と現実の境界に存在する"迷い家"だからな」

 

 俺の独り言とも呼べる感想に、藍が律儀にも反応する。どうやらこの屋敷に藍や紫は住んでいるらしく、来るのは疎か存在を知ったのも初めてだ。

 

 ここに来たのは言わずもがな、式神を操る能力を身に付けるためである。博麗神社に来た藍に何気なく式神の操り方を聞いてみたところ、詳しく教えるためにここまで連れてこられたというわけだ。藍は『式を操る程度の能力』を持つ、式神使いのスペシャリストだからである。

 

「丁度いま橙が式神を操る修業をしているはずだ。ついて来てくれ」

「ああ」

 

 藍の後ろをついていき、屋敷の裏の庭に向かう。今回は橙の修業を見るついでに、俺にも式神の操り方を教えてくれるつもりのようだ。庭につくと橙が一人立っていて、手には何も書かれていないお札のような紙を持っていた。

「……はっ!」

「……おー」

 

 橙が集中して力を込めたと思ったら紙には沢山の謎の文字が浮かび上がり、次の瞬間その紙が烏の形へと変身した。どうやら成功したようだ、橙はゆっくりと息を吐き出す。その後俺たちの存在に気付いたようで、ひょこひょことこちらまで歩いてきた。

 

「わぁ、藍さま見ていらしてたんですか? それに真さままで……」

「ああ、きちんと身に付いてるようだな。偉いぞ橙」

 

 そう言って藍は橙の頭を撫でる。橙の手に止まっている烏を見てみると今にも飛び立ちそうにしており、断じて動かない人形などではない。

 

「へー、これが橙の式神か?」

「はい、そうです!」

 

 橙が元気よく返事する。式神には主に二種類あって、一つは藍や橙のように意思のある存在を式神にする方法。もう一つは今の橙がしたように自分で式神を作り出す方法だ。

 今の橙は紙を変化させて烏を作り出したのであり、紙を媒体にして烏を召喚したわけではない。俺が会得したいと思っているのも、後者の式神を作り出す方法だ。

 

「……ところで真さまはどうしてこちらに? 紫さまや藍さまにご用ですか?」

「ああ、俺も藍に式神の使い方を教えてもらおうと思ってな。橙も凄いな、もうこんなことができるのか」

「そうなんですか。えへへ……まだまだ藍さまの足元にも及びませんが……」

「どうやったんだ今の? こうか?」

「わぁっ」

 

 俺は懐にあった適当な木の葉を手にとって、先ほどの橙の見よう見まねで術をかけてみる。俺の手元には木の葉が変化した小さな烏が現れた。

 

「……うーん違うな、これじゃあただの人形だ。どうやったら動くんだろ?」

「……ああ、真さまはまだ式神作りは初めてなのですね。動かすのはこうですよ、こう!」

 

 橙は新たに紙を取り出すと、先ほどと同じ動作をする。紙が同じような烏へと変化し、パタパタと羽ばたいてそのまま空を飛び始めた。

 

「こう、と言われてもなぁ…… どう?」

「頭の中で動いている様子を想像するんです! そしてその意識を指先へと伝えていく感覚で……」

「……うーん? 近いことはやっていると思うんだがなぁ」

 

 橙が一生懸命説明してくれるが、いまいち俺には伝わらない。そもそも俺は見よう見まねでやっただけで、木の葉に変化の術をかけたに過ぎないのだ。変化の術で生物を作り出すのは不可能であり、何だか根本的に違う気がする。俺は作り出した烏を元の形の木の葉に戻した。

 

「……橙は感覚派だからな、真に教えるのは難しいだろう。 ……どれ、真。この紙を使ってさっきと同じようにやってみてくれ」

「? ああ、やってみる」

 

 藍が袖の中から紙を一枚取り出し俺に手渡す。先ほどから橙が使っているものと同じ紙のようだが、なにやら文字が書かれているようだ。さっきと同じようにって、変化の術をかけるだけなんだが大丈夫だろうか。

 

「……よっ」

「……どうだ?」

「……さっきと変わらないようだが……おおっ!?」

「わっ! 真さま凄いです!」

 

 藍から渡された紙を変化させ烏に変える。先ほどと同じように俺の手の上で止まっている様子だったが、いきなり羽を広げるとそのまま空を飛び始めた。

 

「……わ、どうなってんだ?」

「……ふむ、うまくいったな。では説明しよう。橙も感覚だけでなく理論も理解できるように今一度聞いておくように」

「はい藍さま!」

「……式神を作る方法には段階が二つある。まずは形を決める段階で、次が動きを決める段階だ」

 

 藍が右手を出して人差し指と中指をそれぞれ立てる。形と動き? 動くものを形作るのとは違うんだろうか。

 

「真の場合は既に形を決めるのはできている。変化の術に長けているせいだろうな」

「ほうほう…… じゃあ何で二回目では烏が動き出したんだ? やっぱりあの紙に何か細工が……」

「そうだ。橙が式神を作り出したときのことを思い出してみてほしい。烏に変化する前に紙に文字が浮かび上がるのが見えたはずだ」

「確かに。変な文字が浮かんでた」

 

 俺は、最初に見た橙が式神を作っていたときの様子を思い出す。遠くから見ても分かるようにはっきりと、白かった紙に文字というかもはや模様みたいなのが浮かび上がっていた。

 

「言ってしまえば、あれが動きを決める段階なんだ。あの文字には、紙が変化した後どのように動くかを決める作用がある。私が真に渡した紙には、変化したらとりあえず羽ばたくように命令してあった」

「……ふーん、なるほど? あれは烏に変化させたから飛んだのであって、別の、例えば猫とかに変化させても飛ばなかったってことか?」

「そうなるな。この方法は生物を作り出すものではなく、物体を作り出して決まった動きを付加させるものなんだ。今回は羽ばたくという動きだけだったが、様々な動きを付加することで複雑な動きも可能になる」

「……あー、なんとなくだけど理解できたぞ? 式神ってそういう仕組みだったんだな」

 

 藍の説明に、ある程度のことを納得する。作り出した烏が勝手に飛ぶのではなく、あらかじめ飛ぶ動作をするように設定して烏を作り出すのか。烏はただ決められた動きをしているだけだ。俺の感覚では、そうプログラムされていると言った感じか。

 

「えっ、真さまは今の説明が全部分かったんですか?」

「全部じゃないけど大体な。で、動きを付加させるのってどうやるんだ?」

「うむ、それが今回最も重要なところだ。橙の言っているように動いているところをイメージするというのが一番近いんだが、それだけでは不十分でもっと細かくイメージをする必要があって……」

「……まぁもう一回やってみるか。藍、何も書かれてない紙をちょっと貸してくれ」

「ああ。今は一度やってみるのがいいかもな」

 

 俺は藍から新しく紙を受け取って、その紙に動きを付加するイメージを思い浮かべる。先ほどと同じように羽ばたくイメージだ。妖力が紙に流れ込んでいくのが分かり、紙に文字が浮かんでくる。そして俺はすかさずその紙を烏へと変化させた。

 

「……どうだ!? ……ありゃ?」

 

 紙は先ほどと寸分の狂いもない同じ烏へと変化した。そしてイメージ通り俺の烏は羽を上下に動かしだす……のはいいのだが、なぜかうまく飛び立たない。やっと飛んだと思ったら、あらぬ方向にふらふら飛んでそのまま地面へと落ちていった。

 

「……そう、羽ばたく動作だけでも最初は難しいんだ。飛び立つときと飛び立った後でも微妙に違うし、風の強さによっても動きを変える必要がある。とはいえ最初からここまでできるのは凄いんだぞ、後は経験を積むだけだ」

「……なるほどなー。でもこれ難しいけど楽しいな、やることやったら後は見守るみたいな感じ」

「やっぱり真さまは凄いです! 最初からここまで動かせるなんて! 私も負けてられません!」

「……はは、ありがとな」

 

 何がやっぱりなのかは分からないが、橙が凄いと言ってくれているのでひとまず喜んでおく。元々変化の術はよく使うから、今回はその経験が吉となったんだろう。

 式神を動かすことに慣れるために、何度も練習をする必要がある。藍もいる今、できるだけここで経験を積んでおこうと思った。

 

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 

 

「……なぁ真、ところで今日はどうするんだ? 泊まっていくならそれでもいいが」

「……え? もうそんな時間かぁ…… じゃあもう今日のところは……」

「ああちなみになんだが、この迷い家は日によってたまにその家の形や地形が変わるんだ。今日は珍しく温泉が湧いたみたいだな。泊まるならよかったら入っていくか?」

「……温泉? そうだなぁ……じゃあ折角だし入るか。霊夢に連絡しないとな」

 

 修業に夢中になっていると、気がついたらもう日が落ちようとしていた。夏が少し過ぎた時期なので日が落ちる時間は早まってはいるが、それでももう遅い時間だ。今の迷い家には温泉が湧いているということなので、藍の厚意に甘えて今日はここに泊まることにしようかな。

 

 そうだ、折角なので霊夢に連絡する手段として早速式神を使ってみよう。霊夢とは通信ができる御札を持っているが、新しく覚えたことは使ってみたくなるのが人情だ。

 

「……よっと」

 

 式神を作り出して霊夢のところまで向かわせる。どうやらここ迷い家は、入るのは難しいが出るのは簡単に出来るらしい。そのまま適当な方向に飛べば、幻想郷のどこかに出る。

 

「真さま凄いです! ここまで式神を使いこなせるとは!」

「……連絡用に使いたいと思って始めたからな。そこだけに特化はしてると思う」

「それにしても美味しそ……面白い形の式神ですね!」

「まぁな」

 

 俺の作り出した式神は、鯉のような魚の形の式神だ。烏を空に羽ばたかせるよりも鯉に宙を泳がせるほうが俺にとってイメージしやすかったためである。

 今回式神に与えた命令は主に三つ。高いところまで泳いでいく、そこから見える赤い鳥居まで泳いでいく、その近くにいる人間に伝言を伝える、だ。おそらくこれで霊夢に伝言が伝わるはず。まだ複雑な命令はできないため、できるだけ簡略化した命令を与えたつもりだ。

 

「真さまずっと練習してましたね。すごい量の妖力です!」

「うーん、まぁ長生きしてるからな。それでも少し疲れたけど」

「少しですか……私はもうへとへとです」

「お疲れ。今日はもう風呂に入ってご飯食べてゆっくりするといい」

「そうですね…… それなら真さま、真さまも一緒に温泉に入りましょう! ここの温泉は広いですからゆっくりできますよ!」

「えっ…… そうだな。藍、入ってきていいか?」

 

 橙の誘いを了承していいか、一応藍に確認を取る。部外者の俺が一番に風呂に入ってもいいものか。俺としては橙と入るのは全然構わないし、入るならはご飯の前のほうがいいと思う。

 

「……ああ、橙がそう言うならいいんじゃないか? 私は構わないよ」

「そうか。じゃあ……」

「行きましょう真さま! こっちです!」

 

 橙に手を引かれて俺は屋敷の中に入っていった。温泉に入るのは久しぶりだな、できるだけ長く入っていたいものだと思った。

 

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 

 

「橙はシャンプー嫌いなのか?」

「はい……というか顔が濡れてしまうのが苦手で……」

「そうか。うーん、そうだな…… まぁおいで」

 

 橙の言う通り、ここの温泉はかなり広かった。温泉は屋敷の外に存在する露天風呂なのだが、ちゃんと水道も通っておりシャワーもある。まさに至れり尽くせりだ。

 浴槽に浸かる前にさっさと体を洗ってしまおう。俺は橙を呼んで自分の前に座らせた。

 

「……ほいっ」

「……?」

「じゃあ頭にお湯かけるぞー」

「ひぅ……」

 

 橙が自分の目をギュっと閉じる。顔が濡れるのが苦手という気持ちは分からないが、そんなに怖いものなのだろうか。まぁ今は顔が濡れないようにしているけど。

 

「…………」

「……あれ? ……何ですこれ?」

「顔が濡れないようにするやつだ。これなら大丈夫だろ?」

 

 橙が自分の頭についているものに手を伸ばす。橙の頭にお湯をかける前に、あらかじめシャンプーハットを被せておいた。勿論そんなもの常備しているはずもなく、変化の術で作ったものだ。

 

「……痛くないかー?」

「はい! 気持ちいいです!」

「おっとあんまり動くなよー」

 

 橙の髪を手につけたシャンプーで洗っていく。自分以外の髪を洗うなんてあまり無いし、橙は猫耳がついているのでどう洗ったらいいか分からない。とりあえず俺は狐耳を触られるとくすぐったいので、あまり橙の猫耳には触らないようにしよう。

 

「……泡流すぞー」

「……は、はい!」

 

 桶にいれておいたお湯を少しずつ、目を閉じている橙の頭にかける。シャワーで流すよりもこうやって流すほうが俺は好きだ。

 

「……うっし、終わり。もう目を開けて大丈夫だ」

「……?」

「あとは……ほいっ」

 

 髪についている泡を全部流し終えると、俺は橙の頭につけたシャンプーハットをタオルに変化させる。ある程度髪を拭いたら、そのままタオルを橙の頭にターバンのように巻き付けた。

 

「……うん。かわいいかわいい」

「わぁっ、ありがとうございます。 ……あ!」

 

 橙は俺にお礼を言うと、そのままペタペタとどこかに歩いて行ってしまった。先に湯船に浸かりに行ったのだろうか。まぁいい、次は自分の頭を洗っていこう。俺は水道からお湯を出して桶にため、自分の頭にザバァとかける。

 

「藍さま!」

「おお橙。その頭、真にやってもらったのか?」

「はい! 真さまに髪を洗っていただきました!」

「うん、可愛らしいぞ。真はもう自分の体を洗ってしまっただろうか」

「いえ、私を先に洗っていただいたのでまだのはずです」

「そうか……よし」

 

 自分の頭に二度お湯をかけ、いい感じに髪が濡れてきた。俺は髪を洗おうとシャンプーの容器に手を伸ばす。

 

「真、良かったら私が背中を流そうか」

「え? そうだな……じゃあお願いしようかな」

「分かった」

「それでは私が藍さまのお背中をお流しします!」

「……ん?」

 

 後ろから声がしたので反射的に返事をしてしまったが何かおかしい。俺はシャンプーを自分の手に出したあと、なんとなく後ろを振り返ってみた。

 

「……な!? 藍!?」

「? そうだが?」

「わ、悪い!」

 

 後ろを見るとボディタオルに石鹸をつける藍の姿を発見した。いつもの中華風の青いロングスカートや帽子は身に着けておらず、その身にはタオルが巻かれているだけだ。俺は慌てて前を向く。

 

「……どうして藍がここに……」

「どうしてって……橙は水が苦手なんだ、濡れたら式神が剥がれてしまう。ちゃんと私が見てやらないと」

「……聞いてないぞ、そんなこと」

「そうだったっけ? まぁいいじゃないか」

「…………」

 

 藍が俺の背中をボディタオルで擦り始める。自分でやるのとは違い楽だし心地よいのだが、今のこの状況は全く予想していなかった。俺は半ば放心状態で自分の髪にシャンプーをつける。

 

「(……え? どうして藍が俺の背中を洗ってるんだ? そんな前兆あったっけ? ……いま後ろにいる藍はタオル一枚……いかんいかんそうじゃない、落ち着け落ち着け……)」

「真、手をいいか?」

「あ、うん……」

 

 藍が俺の右手をとって、今度は腕をボディタオルで洗い始める。先ほどよりも更に藍との距離が近くなり、俺の心臓はバクバクと強く鳴り出した。

 もはや何も考える余裕はなく、気を静めることにのみ意識を集中させる。俺はされるがままに藍に両腕を洗われていった。

 

「……それじゃあ髪と一緒に流すぞ」

「…………」

 

 俺の両腕を洗い終わると藍は立ち上がり、シャワーのお湯を俺の頭にかけていく。俺は自分の髪をこすって、シャンプーの泡を落としていった。

 

「……よし、綺麗になった」

「あ、ああ…… ありがとうな藍。じゃ、じゃあ俺は先に温泉に……」

「あ、待ってくれ真」

 

 身体も洗い終わったのでそそくさと湯船まで行こうとしたら、その場で藍に呼び止められる。くそう一体何だというんだ、お返しに俺も藍の背中をなんて今は無理だぞ。橙が自分の身体を洗い終わってから、橙に背中を流してもらえ。

 

「行く前に私に変化の術をかけて、尻尾を隠してくれないか? ……ほら、真も狐ならわかるだろ? いつもは最後に入っているんだが……」

「……ああ、なるほどな」

 

 藍に言われてピンとくる。俺も前に似たようなことを思って、風呂に入るときは尻尾を消しておこうと決めたんだ。

 尻尾を出したまま風呂に入ると、毛がものすごく浮いてくる。ましてや藍は立派な尻尾が九本もあるのだ、今このときにおいて尻尾は邪魔な存在だろう。

 

「…………」

「どうした? 難しいだろうか」

「……いや、できる」

 

 尻尾は妖力の塊であるため自力で隠すのは結構難しい。俺は昔に練習してできるようになったが、藍は自分で消すことはできないようだ。だからこうして俺に頼んでいるのだろうが、ここでひとつ問題がある。

 変化の術をかける際は、対象を見るか触るかしないとうまく変化できないのだ。今の状態で藍を見るのは、正直とても恥ずかしい。

 しかしそんなことを言ってはいられない、藍が後ろで待っている。意を決して俺は藍のほうに顔を向け、肩に軽く手を触れた。

 

「……じゃあいくぞ」

「ああ頼む」

「……はっ」

「……おお。 ……うわっ」

 

 藍に変化の術をかけ、出ている尻尾九本全て消す。なんとか成功したものの、尻尾を消したことで藍はバランスを崩し前に倒れそうになった。

 

「……っと危ない」

「あ、ああ助かったありがとう」

「……!!」

 

 なんとか抱き着くような形でうまく藍を支えたものの、何やら二つの柔らかい感触が…… それにここまで密着されると、藍の匂いが鼻腔をくすぐってくる。

 

「そ、そ、それじゃあ俺は先に温泉に入ってくるから!」

 

 このままではいろいろマズいと思い、藍から離れて湯船に向かう。

 温泉の広さに感心する暇もなく、俺はさっさと湯船に浸かることにした。

 

 

 

「…………」

 

 腰に巻いていたタオルを頭に乗せ、湯船に顔の半分まで浸かり息を吐く。落ち着け落ち着け落ち着け、さっきのことは忘れるんだ。顔が近かったとかいい匂いがしたとか考えるな。変化させるときに触れた肩が、白くてスベスベしてたとか思うんじゃない。背中や腕を洗ってもらったことも普通のことなんだ。

 そうだよ、俺だって初めて藍に会ったときから何度も背中を拭いてやったことあるじゃないか。あのときは藍が怪我して動けなかったからな。 ……いやまぁあれは一種の医療行為だし、それでも内心ドキドキしてた。あれは覚悟してたから平静を装えたものの、今回は全部唐突すぎる。

 

 くそう藍のヤツめ……バスタオル一枚とかでお前の体の凹凸が隠せるとでも思っているのか。変化で尻尾を隠すときに後ろを向いてもらおうと思ったけど、お前の尻尾のせいで後ろはバスタオルめくれ上がってただろ。

 

「……ぷはっ」

 

 俺は湯船から顔を出して、そのまま上半身も空気に晒した。俺は風呂に入るときはいつもこんな感じに、まず全身浸かったあと半身浴の形をとる。そうじゃなくても、今は全身が熱いので自然とこの体勢になってたかもしれない。

 

 

「真、どうだ湯加減は」

「真さま、お隣失礼します!」

 

 程なくして、藍と橙が湯船に浸かりにやってくる。湯船にタオルをつけるのはマナー違反だが、二人も俺と同じようにしっかりとタオルを頭に乗せて湯船に浸かった。幸いにしてお湯は濁っているので、藍が近くに来ても少しドキドキするだけで済む。

 

「……ああ。少し熱いけど丁度いい」

「そうか、それはよかった。真は風呂が好きだと紫様から聞いていたからな」

「そうなんですか? 私はあまり好きではありませんが……お二人と一緒なら楽しいです!」

 

 そう言って橙は俺たちに笑顔を向ける。かわいい……今の俺にとって橙の存在は完全な癒しだ、このまま家に持って帰りたい。

 

「お、それは良いことだ橙。今日は真が来て良かったな」

「……それなんだが藍よ。お前……あれだ、そんな無防備に男と風呂に入るもんじゃない。橙が心配だったのは分かるが……」

「……何言ってるんだ真。信頼しているお前だから今こうしているだけだ。真以外の男にこんなことするわけがないだろう」

「…………う」

「……わあ! 真さまお顔が真っ赤ですよ! のぼせてしまったんですか!?」

 

 橙が心配そうに俺の顔を下から覗き込んでくる。熱い熱い、藍のヤツ何を言ってるんだ、嬉しいけどそういう話じゃないんだよ。

 ええいあまり俺の顔を見てくるな、濡れた髪が色っぽいんだよバカやろう。忘れようとしていたのにさっきのことを思い出してきたじゃないか。

 

 ……そうか、確かここは迷い家だったな。迷い家に迷い込んだ者は、無欲なら無事に出られるが煩悩に塗れるとひどい目に遭うと聞く。これは俺の煩悩を刺激する罠なんだ、俺は引っかからないからな。

 

 いつもなら結構長い時間風呂に入っている俺であるが、今回は熱いせいで少し早く出ることになりそうだと思った。

 

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 

 

 風呂から上がり屋敷の中に戻っていく。結局藍たちよりも先に上がってきてしまった。大体誰かと風呂に入るときは俺のほうが残って一人の時間を楽しむのだが、今回はいろいろと事情が違う。いい湯だったが熱すぎた。

 

 俺はこの屋敷にきたのは初めてなので、中がどうなっているのかよく知らない。居間のような部屋を見つけたのでそこに適当に座っていると、紫が部屋に入ってきた。

 

「藍ーご飯まだー…… あら、真? 来てたの?」

「……ああ、藍に式神の使い方を教えてもらいにな」

「ふーん…… 髪濡れてるわね、温泉に入ってきたの? そういえば今日は温泉ができてたわね」

「ま、まぁな」

 

 紫も部屋に腰を下ろす。藍からは居間で待っててくれと言われていたが、どうやらこの部屋で合っていたみたいだ。

 

「……で、藍はどこにいるのかしら。私お腹空いたんだけ……」

「戻りましたー!」

「こら橙あまり大声を……あ、紫様。少々遅れました、今からお夕食の準備を始めますね」

 

 藍と橙が温泉から上がってきたようで部屋に入ってくる。どうやら八雲家では藍が料理を担当しているみたいだな。紫は紫で、むかし俺が教えたから料理はできるはずなんだが……まぁいいだろ。

 

「……二人も今お風呂から上がったの?」

「はい! 真さまに髪を洗ってもらいました!」

「ふーん……」

 

 橙が嬉しそうに紫に報告する。それはいいんだが、その話をされるとまた温泉での光景が頭によみがえってくるじゃないか。

 

「また次も真さまと入りたいです! ね、藍さま!」

「ふふ、そうだな」

「いや……さすがに次もとなると恥ずかしいんだが……」

「では私は夕食の準備をしてくるから」

 

 俺の気持ちも知らずに、藍は台所へと歩いていく。こんなことが何度もあったら俺の精神が持たないんだが。

 

「……真さまは、私とお風呂に入るのは嫌ですか?」

「いやいやそんなことはない。橙と一緒は楽しいよ」

「そうですか! なら次もまた三人で入りましょう!」

「いや、それはちょっと問題が……」

「(……もしかして真、照れているのかしら。やっぱり真も男だものね)」

 

 橙に悪気がないのは分かっている。というか別に悪いことでもない。しかし問題は橙ではなく藍にあることを分かってもらえないだろうか。

 

「問題って何ですか?」

「……えーとだな……」

「(言い淀んでる、面白いわね)ねぇ真。真はさっき三人で温泉に入ってきたんでしょ?」

「え? あ、ああそうだが」

 

 紫が会話に入ってくる。頼むから変なことは言わないでくれよ。

 

「いいなぁ…… 私も真と入りたかった。次は私と入りましょうよ」

「ん? ああいいぞ」

「……なんで普通に了承してるのよ! 少しは照れなさい!」

「……なんだ?」

 

 なぜか紫が、よく分からないまま怒り出す。今さら紫相手に何を照れろというのだろうか。俺は紫を小さい頃から知っているというのに。

 

「……まぁいいわ。ところで真は今日ここに泊まるのかしら?」

「ああ、そのつもりだ」

「そう……そういえばこの前永遠亭に泊まったときは、結局あの姫と寝たの?」

「ああ。輝夜は今も子どもだな」

 

 永遠亭に泊まったときというと、肝試しをしたあの日のことだ。命令が単純なもので助かったけど、妹紅と挟まれて寝たから寝にくかった。

 

「……ふーん、小さいときに一緒に寝てたって言ってたものね」

「ああ、それは紫と同じだな」

「……そうだったかしら?」

「紫と会ったばかりのときは夜泣きが多かったからなー。それまでの境遇が境遇だったから仕方なかったけど……」

「わああ真!」

 

 紫が慌てて俺の口を塞いでくる。確かに橙の前でする話では無かったかもしれない。ただでさえ紫は昔の話を嫌う上に、今のは情けない話の部類に入る。子どもだったし情けないことは何も無いんだがな。

 

「? 紫さまは小さいときから真さまとお知り合いだったのですか? 私、お二人のお話も聞いてみたいです!」

「ああ、じゃあ何を話そうかな……」

「……何の話だ?」

「お、藍。もうできたのか」

 

 藍が夕食を持って戻ってくる。そうだな、じゃあ夕食を食べながら話をしよう。昔の話をするのは完全に年寄りである気がしないでもない。

 

「……そうだなぁ、場合によっては俺は紫の式になってたかもしれなくてな」

「え、そうなんですか!?」

「ああ。藍がいなかったらそうなってた」

「あ……なんだ。藍さまも真さまも、紫さまの式になっていたということは無いんですね。残念です」

「……今からでも私の式にしてあげましょうか?」

 

 紫が冗談交じりに言ってくる。悪いが遠慮しておこう、今さら式になったところで俺たちの関係は何も変わらない。あえて言うならここに住むことになるかもしれないが、今の俺には霊夢がいるしな。

 

 霊夢はもう夕食を食べただろうか。次ここに来るときは霊夢を連れてくるのもいいかもしれない。とりあえず次回温泉に入る機会があったら一人の時間を取りたい、と思った。

  

 


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