東方狐答録   作:佐藤秋

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第九十六話 地霊殿後②

 

 霊夢が地霊殿に泊まることが決まって数時間後。俺は一人部屋に戻り、ベッドに倒れこんでいた。

 疲れていた、それはもう全身が。体中がダルかった。

 

 やっぱり、お空の暴走を止めるのに、それほど体力を使ってたのかって? いやいや、疲れとはそういうものじゃない。疲れとは、積み重なって溜まっていくものなのだ。

 

 敢えて今回の疲れの始まりを言うとすれば少し前から……梅雨なのにもかかわらず晴れの天気が続いていたときからだろうか。

 異変が起きたと思い『答えを出す程度の能力』を使って、地震が起きないように変化の術で土地を押さえて。

 その後また『答えを出す程度の能力』を使って地底に向かって、地底に入ったとたん人間に勘違いされて少し困って。

 知り合いが暴走したためそれを何とか食い止めて、今度は迎えに来た知り合いに三度腹を殴られて。

 ……とまぁ、短い期間でいろんなことが続いたために、疲れが溜まっていたというだけの話である。

 

 俺は一人ベッドにうつ伏せになり、疲れとともに肺から大きく息を吐き出した。疲れている体を重力に委ね、全身を柔らかい布団に放り出す。まだ熱を帯びていない布団がひんやりと肌を包むのはなんとも気持ちがいい。

 そして俺は少しだけ覚悟をして、自分の体に掛けていた変化の術を解除する。

 

「……うわ……」

 

 自分の全身の体積が、一パーセントぐらい増加したような気がした。

 モゾモゾと左手を自分の前に持ってきて見てみると、手の甲は一面すべて赤い。ところどころ膨れ上がった場所のあるその赤い線は袖から見える肘まで続いており、ああ、火傷の痕ってこんな感じなんだなと俺は思った。

 

「う……いてて……」

 

 血を流していることに気が付くとその場所が急に痛むように、俺もまた火傷をしたことを実感して途端に体が痛くなってくる。左腕の火傷痕に手を当てようともう一つの手を持ってくると、右手もまた左手と同じようにほとんど真っ赤に染まっていた。火傷とはこれほどまで見事に赤くなるのか、と少しだけ感心してしまうほどに。

 

「…………、……こりゃあ、霊夢たちには見せられないな」

 

 そう小さく呟いて、手の甲にある火傷の痕に、ふう、と数回息を吹きかける。感覚が少々麻痺しているのか、風が肌を撫でているのがいまいちよく分からない。

 両腕がこんな状態なら、他のところはどうなっているのだろう。俺は自分の体の状態を理解すべく、ベッドから軽く起き上がると、着物の帯に手をあててそのままシュルリと結びをほどいた。

 

 

 

 

 --ひと通り自分の体を調べてみたが、どうやら一番ひどかったのは最初に調べた両腕だったようだ。着物に覆われていなかったためだろう、特に肘から手の甲にかけてが一番火傷が多かった。

 顔も着物には覆われてはいないのだが、腕を出して守っていたためかそこまでひどい状態にはなっていなかった。あまりかっこいい顔ではないことは自覚しているので元からひどいじゃないかとは言わないでほしい。いやむしろ頬に一筋走る赤い線のおかげで少しは様になったのではないだろうか。

 

 着物の下には火傷の痕は、ところどころにしか見当たらなかった。特に背中なんかはきれいなもので、普段からも日に当たっていない俺の背中は見事なまでに真っ白である。すべて爆発を正面から受け止めたおかげだろう、俺には剣士の素質があると思う。

 その代わりと言ってはなんだが、お腹側はそれなりに傷が多かった。おそらく爆発の影響だろう、火傷の痕とはまた違った意味で、お腹全体は赤く腫れている。

 変に凹凸のついたお腹はなんとも不恰好だ。バストのサイズを測れば、もしかして妹紅とかよりかは大きくなってるかもしれない……なんて。

 

 着崩してした着物を元に戻して、再び帯を固く締める。さてこの無数の傷痕たち、いったいこれからどうしようか。火傷の痕をそのままにしておくと人に見られてしまう恐れがあるが、だからといって変化でごまかし続けていたら、いつまでも火傷が治らないままだ。

 ここはやはり、初めて藍に会ったときと同じ方法を取ろうと思う。一部のところだけ変化の術を掛けてごまかしておき、残りの部分はそのままで回復するのを待つという方法だ。もっとも、藍のときは傷を見せないようにごまかすのではなくて、単に藍の体に負担をかけない目的だったが。

 

 着物の中に隠れて見えない部分はそのままに、俺は左腕のみに変化の術を掛け無傷を装った。赤かった左腕は健康的な肌色を取り戻し、左手をグーパーしても腕にはなんの痛みも無い。あとは右腕が完治するまで、この左手一本で生活すればいいわけだ。

 右腕のほうは火傷の痕が見られないよう、普段は袖の中に隠して生活しよう。右腕が完全に治ったら今度は左右を逆にして、左腕を袖の中に隠し右腕一本で生活する。我ながら完璧な計画である。

 

「さてと……じゃあさとりに言われた通り、今日は安静にしてようかな」

 

 そう言って、俺はもう一度ベッドに寝転がる。今はうつ伏せだと腹が痛いし、仰向けも尻尾が邪魔だからやりづらい。なんとなく左腕が無傷だからか、身体の左側を下にして、俺はベッドに横たわった。

 

「……ふぅ」

 

 ベッドに倒れこんだときと同じように、俺はもう一度大きく息を吐く。いつも布団で寝ているため、こういった柔らかいベッドに寝転がるのは気持ちがいい。

 ベッドなんて変化の術でいつでも作れるのだけど、それは少し違うと思った。本物のベッドだからこそ価値があるというものである。

 

 本物のベッドに寝転がり、掛け布団を肩まで被せ、鼻から息を軽く吸い込む。ベッド本体と掛け布団、その両方から、微かにさとりとこいしの香りがした。今朝まで二人がこのベッドに眠っていたためだ。

 地霊殿の温泉に置いてある石鹸の香り。俺も同じ物を使っているはずなのに、女性が使うとどうしていい香りに変わるのだろうか。この世界に存在する多数の謎の一つである。

 

「……ん」

 

 世界の謎に思いを馳せていると、コンコン、と、不意に部屋の扉がノックされる。ノックなんてほとんどが不意にされるものなのだが、それはともかくとして来客である。

 誰だろう、と頭の中で来客候補を思い浮かべるが、すぐにそれは無意味なことだと打ち消した。誰であろうと俺は居留守なんか使わないし、結局は対応するからだ。

 俺は扉を叩く主が名乗ってくる前に、扉に背を向けたまま、「あい、どうぞ」と返事をした。

 

「……失礼します」

 

 扉を開ける音のあと、聞こえてきたのはさとりの声。首だけ声がしたほうに向けると、確かにさとりの姿が目に入った。 

 さとりはベッドに寝ている俺を見て、安静にしているようですねと一言呟く。寝転んだ状態で来客を迎えるのはどうかと思うが、この場合は()への来客ではなく()()への来客だ。ならば少しくらいだらしない格好を見られても許容範囲内というものだろう。

 

「ええ、どうぞそのままで。楽な格好をしててください」

 

 そう言うとさとりは俺の近くまでやってきて、ベッドの横の椅子にちょこんと座る。だらしない格好を見られてもいいと思ったが、背中を向けたままというのはいかがなものか。そう俺は思い直し、寝返りを打って体をさとりのほうへ向き直った。

 また、寝返りを打ったついでに右腕を身体の下に敷いて火傷の痕を見られないようにする。尻尾を出した状態だと寝返りを打つのも難しい。

 

「それで、お体のほうはどうですか?」

「……あー、まぁさとりが読んだそのまんまだと思う」

「……そうですか。じゃあちょっと失礼しますね」

 

 さとりに押され、横向きになっていた俺の体が少し転がって仰向けになる。更に、布団がめくられることで、見られないようにしていた右腕が(あらわ)になった。

 そのままさとりは手を伸ばし、俺の右手をそっと握る。

 

「……隠しているのは知ってましたけど、実際見てみるとかなりひどいですね」

「……だろ。恥ずかしいからあまりまじまじと見ないでくれ」

 

 さとりが、俺の傷のことに気付いているのは知っていた。だからこそ、今のようにさとりと二人きりのときは、隠しても仕方が無いとは思っていた。

 だが、それでも自分の火傷の痕を見られることは恥ずかしい。見えるところに包帯を巻いて、誰かに見せ付けることで喜んでいられる年齢は、とっくの昔に過ぎているのだ。だからこそ、手を引き抜こうとまでは思わないが、俺は言葉でさとりに『見ないでくれ』とそう告げた。

 するとさとりは微笑んで、

 

「……嫌です。これは今朝、私の寝起きの顔を見たことのお返しですね」

「ちょっ……」

 

 さらに俺の手を引き寄せて、自分の胸の前まで持っていく。まさか正面から断られるとは思わなかった。

 寝起きの顔なら俺もさとりに見られているので、お返しになっていないのだが。もっと言えば、寝起きのさとりの顔なんてかわいいものであり、俺のみっともない火傷の痕とはどう考えても釣り合っていない。

 

「……どこがみっともないんですか? これは真さんが私たちを守ってくれた証でしょう? ……とても、かっこいいですよ」

 

 さとりが、愛おしいものを見るような目で、俺の手を見てそう口にする。そう言ってもらえるのはとてもありがたい……のだが、腕の傷はどちらかと言うと、自分を守るためについたものだ。さとりたちを守ったのは俺の尻尾の功績である。

 

「む…… 無粋なことを考えますね。素直に喜んだらどうですか?」

 

 今度は半ば閉じた眼になり、こちらを見つめてくるさとり。

 

「……悪いね。年を取ると、どんどん考え方がひねくれていくんだ」

 

 そんなさとりから、俺は目を逸らしつつそう答える。

 昔から、正面からお礼を言われたり褒められたりするのは苦手だった。当然嬉しいとは思うのだが、なんだか体がムズ痒くなってしまうのだ。

 こればっかりは体質なためどうにもできないものなのだが、おそらくは大多数の人間もそうだと思う。さとりのほうも、そんなことを言って恥ずかしくないのだろうか。

 

「……そりゃあ、少しは恥ずかしいですけど……」

「……だよな」

「……ですが、本当のことですから。守ってくれてありがとうございます」

 

 さとりが、少しだけ頬を赤くして、未だに俺の手を軽く握りながらそう口にする。恥ずかしいなら言わなくていいのに。

 火傷を負ってないはずのさとりの顔が赤くなってるというのが少し面白い。無論火傷を負っている俺の顔も、さとりと同じように赤くなっているとは思うのだが。

 

 俺もさとりに、無事でいてくれてありがとう、と返事をしようと思ったが、やっぱりこれも恥ずかしくなったので、口に出すのはやめにした。

 

「……さて。ところで霊夢はどうしたんだ?」

 

 俺は上半身だけベッドから身を起こし、話を変えて、霊夢のことをさとりに尋ねてみる。こいつ露骨に話を逸らしにきたな、といった表情をさとりにされた気もするが気にしない。先ほどの状態が続くというのは、俺にとっては精神的拷問に近いものなのだ。

 

「霊夢さんですか? 部屋に案内したあとは、温泉の場所を聞かれましたね。今ごろは温泉でゆっくりしてると思います」

 

 さとりは俺の手を放さずに質問に答える。ああ、そういえば霊夢のヤツ、温泉があるということにかなり興味を示していたっけな。心が読めない俺から見ても、それはもう見事な惹かれっぷりだった。

 おそらくは、霊夢は温泉に浸かったことが無いのだろう。紅魔館の広い風呂とはまた違った温泉の魅力を霊夢にも是非とも感じてほしい。そう思った。

 

「…………。……真さんは、霊夢さんのことを大切に思っているんですね」

 

 しみじみとした様子でさとりが言う。そりゃあ一緒に住んでいるからな、多少なりとも情は湧くだろう。

 誰かを大切に思っているという話なら、俺はさとりだって霊夢と同じように大切に思っている。一緒にいた期間はさとりのほうが長いのだが、そこに順番は存在しないのだ。霊夢だってさとりだって紫だって妹紅だって、どれも大切であることに変わりは無いのだから。いなり寿司ときつねうどん、どちらが美味しいかを決められないのと同じである。

 

「……まぁ、約束したのを忘れてて霊夢を怒らせちゃったけどな」

「……ああ、そうでした。ふふ、確かにあれはよくなかったですね」

 

 自嘲ぎみに呟く俺に、さとりは思い出し笑いをしながら同意する。俺にとっては笑いごとでは無いんだけどな。

 あのあとも無駄に霊夢を怒らせてしまったし。さとりの機転で収められたけど、よく考えたらそっちのほうは霊夢に謝ることをしていない。もう気にしていなければいいのだが、霊夢は俺を許してくれているだろうか。

 

「……それでしたら、霊夢さんが温泉から上がってから話してみればどうですか? 多分霊夢さんは温泉から出た後は真さんの部屋に来るはずです。髪でも拭いて、霊夢さんのご機嫌を取ってあげるといいですよ」

「……本当に? そんなんで機嫌が直るかな」

「直りますよ、絶対に」

 

 『絶対』とはこれまた大きく出たものだ。だがさとりがそう言うならば、やるだけやってみよう、と俺は思う。霊夢の髪を拭くなんて、むしろ俺のほうにメリットがあるような気もするが。

 

「……さて。では私は、霊夢さんが来る前にいったん退散しようと思います。お空の様子も気になりますし」

「ん、そうか」

「ええ。真さんは、霊夢さんが来るまで安静にしていてくださいね」

 

 立ち上がりながらそう言うさとりに、分かった分かったと返事する。この俺に安静にしておけなんて台詞が言えるのは、俺が怪我をした事実を知っているさとりだけだ。

 過度に心配されても困るのだが、こうして心配されるのはいいものだと思った。

 

「……あ、そうだ。真さんは温泉に入るのは当分禁止ですからね。熱いお湯は火傷によくないと思うんです」

「……え?」

「それでは、失礼します」

「ちょ、ちょっとさとり!?」

 

 バタン、と、無慈悲にも部屋の扉が閉められる。立ち去るときについでのように言って帰るのはズルいと思った。

 

 先ほど心配されるのはいいものだと言ったが訂正しよう、あまりいいものではなかったようだ。まさか温泉に入ることを禁止されるとは。完全に予想外のことである。

 

「……マジか」

 

 一人になった部屋の中で、俺はそう呟いて息を吐く。ここで温泉に入れないんだったら、俺は何のために地底に残るんだろう。いやまぁお空のためなんだけど、温泉に入れるという下心がほんの少し……四割九分ほどあったのだが。

 ……いや、まだ希望を捨ててはいけない。温泉に入る方法はきっとどこかにあるはずだ。こっそり入ってもさとりには心を読まれてバレてしまうから、なんとか正攻法で入る方法を……

 

「……あ、一応言っておきますけど、変化の術をかけて身体を元に戻して入るのは無しですからね」

「!?」

 

 去ったはずのさとりが、扉を数センチ開いてそう言い残し、扉を閉めることなくまた去っていく。遠ざかっていくさとりの足音が聞こえてきて、今度こそお空のところへ向かったようだ。

 

 いったいいつからさとりは、心だけでなく未来も読めるようになったのだろう。変化の術を自分に掛けるというのは近い未来に絶対考えていた自信がある。霊夢が俺の部屋に来るというのも考えてみれば予言であるし、そんなことをされたらさとりには一生敵わない気さえしてくる。

 

 さとりの足音が完全に聞こえなくなってから俺は、扉くらいちゃんと閉めていけよな、と毒づいた。

 

 

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

 

 

「……はぁ。まさかさとりから、温泉に入るのを禁止されるとはなぁ……」

 

 ベッドに横になりながら、俺は嘆きの言葉を口にする。考え事をする際には独り言の多い俺であるが、今回は独り言ではない。俺の目の前には一匹の黒猫が存在している。

 

「な。かわいそうだと思うだろお燐?」

 

 にゃーん? と首をかしげながら鳴き声で返事するこの黒猫、正体は人化の術を解除したお燐である。先ほどまではお空のそばについていたのだろうが、さとりが来たため入れ替わったのだろう。

 開け放しにされた扉からさとりと入れ替わるように現れたお燐は、これまたさとりと入れ替わるように目の前の椅子に佇んでいた。

 

「なに、どうして禁止されたのかって? ……それはまぁどうでもいいじゃないか」

「にゃー」

「どうでもよくない? そりゃそうか。いやなんか、火傷に熱いお湯は駄目なんだと。そんなに火傷も無いのにな」

 

 そう言いながら、俺は左腕をお燐の前に持っていく。当然変化の術で無傷を装った状態だ。火傷で赤い右手は見られないよう、布団の中に隠しておく。

 

「……にゃー」

「……なー、大丈夫なのになー。それに普通は温泉って、火傷とかに効果があるもんだよなー」

 

 俺の完全な偏見である。だが温泉とは何かしら効能があるものだろう。美肌効果があったりとか、肩こり腰痛に効いたりとか。だから俺の偏見も仕方が無いものではないだろうか。

 とりあえずは毎日入っているであろうさとりがあんな姿なので、地霊殿の温泉に成長効果が無いことだけは確かである。むしろ若返りの効果があるかもしれない。

 

「……ところで、お空の様子はどんな感じだ? もう結構元気そう?」

「にゃーん」

「そうかそうか。明日になったら能力を制御できる練習を一緒にしようなって伝えておいてくれ」

「にゃーん」

 

 鳴くことしかしないお燐相手に、一方的に話をする。向こうから話題を振ってこない今の状態のお燐は、こう見えて話し相手にはちょうどいい。

 動物相手に話す悲しいヤツだと思うなかれ。動物は動物でも、俺はお燐だからこそ、こうして話をしているのだ。それに俺は言葉が伝わらないからという理由で動物があまり好きではない。

 

「……にゃー」

「おっ?」

 

 不意に、お燐が椅子からベッドに飛び移ってくる。猫は暖かいところが好きだというが、もしかして目の前にある俺の布団が本能を刺激してしまっただろうか。

 お燐はベッドに飛び乗ると、布団の中に頭を入れて俺のすぐそこに()り寄ってきた。布団に隠れてお燐の姿がここからだと見えない。俺は少しだけ布団をめくりお燐の姿を確認する。

 

「どうしたー?」

「にゃー」

「……そうかー。お燐は優しいなー」

 

 お燐が何を言っているのか分からないけど、とりあえずそう言いながら左手で頭を撫でる。まぁ多分、温泉に入れなくて悲しんでいる俺を慰めてくれているんだろう。なんて優しい猫なんだ。お燐のことがますます好きになっていく。

 

「はは、くすぐったいよお燐」

「にゃー」

 

 モゾモゾと、お燐が俺の身体に身を寄せてくる。着物が肌に(こす)れてこそばゆい。

 俺はまとわりつくお燐を左腕で抱き寄せると、そのままゴロンと仰向けになる。目の前にあるのは猫状態になっても赤いままのお燐の目。仰向けになったことで九本の尻尾が押しつぶされてほんの少しだけ寝苦しい。

 手を放してしばしお燐と見つめ合っていると、お燐は胸の少し下らへん、お腹の上で自らの身体を丸めて寝転がった。程よい圧迫感がお腹に広がり、そしてほんのりと温かくなる。

 

「……うおー重いー。中身が出るー」

「にゃーにゃーにゃー」

 

 そんなに重くないでしょ、とでも言いたげにお燐が鳴く。当然嘘であり、俺としてはもっと重くてもいいくらいだ。

 ははは冗談だ、と笑いながら、俺はお燐の背中を撫でた。撫でていた左手をお燐の顔のそばでピタリと止め、俺は更にお燐に話しかける。

 

「……あー、お燐はかわいいなぁ…… 地上に戻るときに一緒につれて帰ろうかな……」

「……にゃー」

「地上はいいぞー、太陽の光を浴びるのは気持ちがいいし……橙っていう猫がいるんだけど、お燐とも仲良くなれるかもな。 ……あ、そうだ。橙にあげた海の魚がまだ残ってるから、あとでお燐にも分けてやるか」

「にゃーん」

「ふふ……お燐からお空にも分けてやるといい。けんかせずに仲良く食べるん……」

「……なに一人で猫と話してるの?」

 

 突然、人の言葉で話しかけられる。お燐は猫の状態では人語は話せず、それに聞こえた方向もお燐がいる位置とは別の場所だ。

 そちらに顔を向けてみると、いつの間に部屋に入ってきたのか霊夢が近くに立っていた。

 

「おお霊夢、温泉から上がったみたいだな」

 

 お腹の上にいるお燐を左手で押さえながら、浴衣姿に変わっている霊夢に向かってそう口にする。すごいなさとり、霊夢が俺の部屋に来るという読みはズバリ的中だ。

 浴衣はさとりが準備していたのだろうか、黒髪の霊夢によく似合っている。肩に掛けられたタオルと体からかすかに立ち上る湯気は、まさに温泉から出たばかりといったところか。 

 

「扉が開けっ放しだったから、真の声廊下まで聞こえてたわよ」

 

 後ろの扉を指差しながら霊夢が言う。ああ、道理で扉を開く音が聞こえなかったはずだ。思えばお燐も扉の隙間からスルリと部屋に入ってきたんだし、霊夢も同じように開いている扉から入ってきたのだろう。以前霊夢を見て猫みたいだと思ったことがあるが、今回もまた猫みたいな一面を見つけてしまった。

 

「……マジか、それは恥ずかしいな……っと」

 

 声が廊下に響いていたことに対し、俺は霊夢にそう返事しながら起き上がる。腹に乗っていたお燐はズラして膝の上へ。

 変わらず左手でお燐を撫でていたら、霊夢の視線がお燐に向けて注がれている。

 

「………………」

 

 俺の膝の上で気持ちよさそうに丸まるお燐を、気になるようにチラチラと目を向ける霊夢。なんとなくだが、羨ましがっているようなそんな気がした。これで霊夢の機嫌が良くなるならと俺は霊夢に提案してみる。

 

「……霊夢もやるか?」

「……ふぇっ?」 

 

 そんなに予想外のことを言われたのか、霊夢の声が裏返る。風呂上がりの肌がさらに赤みを増し、あたふたという表現が今の霊夢にピッタリだ。

 

「え、ええと……」

「猫。撫でてやると喜ぶぞ」

「……あ、ああそっち……」

 

 霊夢が呼吸を整えて、落ち着いたいつもの様子に戻る。気のせいかもしれないが、霊夢が落胆したようにも見えた。

 

「? そっちって、他に何が……」

「……別に。撫でてあげるからその猫寄越(よこ)しなさい」

「ああ。じゃあ霊夢、こっちに」

 

 まぁ細かいことは気にしないことにして、俺は霊夢にベッドの適当な場所に座るよう誘導する。

 霊夢は四つんばいでベッドの上に乗り、俺と向かい合うようにして正座を崩した。普段は布団で寝ていてベッドに馴染みが無いせいか、ベッドの横に腰掛けるという考えは無いみたいだ。 

 

「ほらお燐、霊夢のほうに行ってやれ」

 

 膝の上で寝そべっている黒猫に命令する。お燐の名前を呼んだことに霊夢が少し反応したので、台車を押していた猫耳少女と同一人物ということを説明しておいた。霊夢はさとりから俺が地底に残る理由の説明を受ける際に、人型のお燐の姿を見ているのだ。

 

「……にゃー」

 

 お燐は俺の膝の上から飛び降りて、目の前の霊夢のほうに移動する。そのまま霊夢のところにたどり着くと、お燐は自らの身体を霊夢の足に擦り付けた。

 

「う…… なによ、結構人懐っこいのね」 

「ははは、気に入られたみたいだな。撫でるときはな、毛並みに逆らわないようにするといい」

「……こ、こうかしら」

 

 霊夢がお燐に手を伸ばし、背中の部分にそっと触れる。妹紅と旅をしているときに初めててゐに会ったときのことを思い出した。あのときの妹紅も兎を撫でるときに恐る恐る手を出してたと思う。

 初めて触るときはドキドキするものだろうが、一度触れてしまえばもうなんてことない。うれしそうに目を細めるお燐を見て、霊夢はほっと安心したように再び撫で始める。

 

「……どうだ、なかなかかわいいだろ」

「……そうね、尻尾が二本ある妖怪だけど」

 

 霊夢が素直じゃない反応を返しつつも、今度は両手を使ってお燐を抱き上げる。楽しそうにしている霊夢が見れて俺も嬉しく思うのだが、この状態がずっと続くとなると、なんとなく霊夢にお燐を取られた気分だ。お燐に霊夢を取られた気分と言い換えてもいい。

 

 手持ち無沙汰になった俺は、目の前にある霊夢の肩に掛けられたタオルをこっそり奪う。そして軽く皺を伸ばした後、タオルを介して霊夢の頭にそっと左手を乗せてみた。

 

「……へぁっ?」

 

 霊夢が間の抜けた声を出す。予想外のことが起きたときの人間のリアクションはいつ見ても面白い。目の前でやっていることなのでそんなに予想外のことでもないはずだが。

 

「髪。まだ濡れてるみたいだし拭いてやるよ。いや、拭かせてくれ」

「あ……うん」

 

 肯定。霊夢の許可ももらえたことだしと、本格的に霊夢の髪を拭いていく。さとりの言った通りこれで霊夢の機嫌を取れればいいなと俺は思った。お燐を撫でていた時点で霊夢は、結構な上機嫌だったような気もするが。

 火傷の痕がある右手は霊夢に見せられないため、なんとか左手一本で霊夢の髪を拭いていく。片手だけだとなんともやりづらい。もう数十センチ近くに行けば、少しはましになると思う。

 

「む……霊夢、もうちょっと俺のほうに……」

「え?」 

「ああ、やっぱいいや、こうしよう」

「わっ」

 

 俺が霊夢に近付くのではなく、霊夢に近付いてもらうのでもない。俺が霊夢を引き寄せればいいと俺は思った。

 俺は尻尾を一本霊夢に巻きつけると、百八十度回転させ霊夢を自分の膝の上に持ってくる。俺が酔っ払ったときについついやってしまう体勢。これならば先ほどよりも少しやりやすい。

 尻尾で霊夢の身体を固定しつつ、左手一本で霊夢の頭を拭いていく。

 

「……うん、やっぱりこのほうがやりやすいな」

「……にゃー」

「あ、お燐ごめん。霊夢も、俺のことは気にせずお燐と遊んでていいから」

 

 いきなり霊夢を引き寄せたことで撫でる動きが止まったか、お燐から鳴き声という名のクレームが入った。撫でるのを止めたのは霊夢であるが、原因となったのは俺である。お燐に一言謝りつつ、霊夢にも声をかけておいた。返事は無いが、霊夢はお燐を愛でる作業に戻ったようだ。

 もうお燐を撫でる霊夢の邪魔にならないようにと、俺はできるだけ丁寧に左手を動かし始めた。右腕は袖の中に傷を隠しつつ、尻尾と共に霊夢を抱き寄せ固定することに使う。やはり髪を拭くという作業は俺にとってのメリットのほうが大きいと俺は思った。霊夢がお燐を愛でているように、俺も霊夢を愛でているのだ。

「……はい、終わり」

 

 霊夢の髪量はそれほど多くなく、また一度は霊夢自身も髪を拭いているため、すぐに霊夢の髪は拭き終わる。もう少し早く拭き始めればよかったと、なんとなく損した気分になった。それにやっぱり片手だと拭きづらい。

 次は火傷を完治させた状態で霊夢の髪を拭かせてもらおう。そう決意を固めつつ、俺は霊夢にしていた尻尾の拘束をそっと解く。

 

「あ……」

「ん、どした?」

「……もう終わり?」

 

 お燐を撫でるのをやめ、霊夢が振り向いてそう口にする。まだ拭き残しでもあったのだろうか。丁寧に拭いたつもりだったのだが、片手では行き届かなかった部分があったかもしれない。

 

「そうだけど……まだ濡れてるとこでも残ってたか?」

「いえ、そうじゃないんだけど……」

 

 霊夢が目を逸らして口をつぐむ。いつもハッキリとした性格をしている霊夢にしては珍しい。慣れない地底まで来たことで体調でも崩してしまったのだろうか。

 

「……ひとつお願いしてもいい?」

 

 捨て猫のような表情で霊夢が俺の顔を見る。俺はいいよと即答した。今後も同じように頼まれたら、何千回でもお願いを聞いてあげるだろうな俺は思った。

 

「やっぱり地上に戻ってからの約束だし…… え、いいの?」

「ああ、いいよ?」

「じゃ、じゃあね!」

 

 返事を聞いて霊夢が瞳を輝かせる。別にこの一回のお願いが、霊夢との約束の一回目だとは思っていない。いつでもどこでも、俺がそのとき可能ならば、霊夢のお願いなんて毎回聞いてあげるつもりである。

 

「さっきの尻尾もう一回貸して!」

「尻尾?」

 

 これでいいのか? と、先ほど霊夢を拘束していた尻尾を一本、霊夢の前に持っていく。許可も取らずに尻尾を借りる(やから)が何人もいる中、お願いという形を取る霊夢はいい子だと思った。そうかしこまってお願いされることでもない、一言告げてくれるのならばどうぞ自由につかってくれ。

 

「そ、そう! それで……ギューっとしてもいい?」

「いいよ、はい」

「わぁっ!」

 

 尻尾の先をくるんと曲げ二つ折りになったところを、すかさず霊夢が抱き締めてくる。霊夢が抱えていたお燐はどうしたのだろうか。そう思っていると霊夢の横から、ヒョコッとお燐は姿を現した。

 お燐は撫でてくれる相手がいなくなったためか、トコトコと俺の右横へと移動してくる。

 

「えへへ……やっぱり柔らかぁい……」

「一本でいいのか? まだあと八本残ってるけど」

「いいのっ!?」

「いいよ」

 

 右手でお燐を避難させつつ、残りの尻尾を全部霊夢のところに持っていく。抱きしめられている尻尾を使って霊夢を持ち上げ、その下に八本の尻尾を乱雑に敷いて霊夢を降ろした。

 カーペットとゆりかごの中間のような形をとった尻尾の上で、霊夢は今日一番の幸せそうな顔をして寝転がる。

 

「~~~っ! 最っ高!」

「そりゃよかった」

 

 尻尾を一本思いっきり抱き締めながら、尻尾の上という狭い範囲を霊夢がゴロゴロと転がりまわる。諏訪子が霊夢に乗り移ったんじゃないかってくらいの喜びようだ。霊夢といい、こいしといい、地霊殿のこの部屋に限り俺の尻尾を触りたくなるような副作用でも出てるんじゃないかと俺は邪推する。

 

「……でも、なんかこの尻尾、ちょっとだけ焦げてるにおいがするわね」

「あー……それはまぁいろいろあってだな……」

 

 おそらく灼熱地獄での一件が原因だろうが、俺は少々言葉を濁す。火傷のことも隠している以上はそれについても隠したいわけで、さてどう誤魔化したものだろうか。なんとなく横を見てみると、

 

「……にゃー」

「げっ、お燐」

 

 お燐が俺の右手の前にちょこんと座り、右手の甲をペロペロと舐めていた。右手は火傷の痕を隠していないほうの手だ。思いがけずお燐に火傷のことがバレてしまい、俺は生唾をゴクリと飲み込む。

 

 チラリと霊夢のほうに視線を戻してみると、霊夢はまだ無邪気に俺の尻尾で遊んでいる。お燐に火傷のことがバレてしまったのは仕方が無い。だが霊夢にバレるのは駄目だ。

 霊夢が地底にいるのは今日までだ。無駄な心配はさせたくなかった。

 

 俺は左手の人差し指を口元に当てるとお燐を見て、これは内緒な、と目配せをした。

 

 


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