普段とは違う部屋というのは落ち着かないものだ。シャルとお母さんの家は非常にこぢんまりとしていたが、この高級ソファと巨木を切って作ったような机しか置かれていない妙に広い部屋は全く落ち着かない。
ましてや、一緒にいる相手が俺をいたぶってやろうという目でいるのならば、落ち着かないを通し越して、さっさとこの場を離れたいと思うのが当然であろう。先ほど愛していると言った実の夫すら平然と脅していた本妻を思い出し、鳥肌が立った。
…なら、恨んでいる俺たちにはどういう対応をする?…今デュノア社の管理している病院にいるお母さんには?
社長は少なくとも俺たちを社の利益になるように扱うよう言ったが、この女は何をするか分からない……
すっと部屋の温度が下がっていく気がした。
「契約って何だよ…あんたの言うことを聞くとでも?子どもだからって、メリットも何にもないのに、「はい、そうですか」って素直に従うほど馬鹿じゃないし、あんたらだけで勝手に話進められてるのも気にくわねぇ。さっさと帰らせてもらう」
「汚い言葉遣いねぇ」
嘲笑を含んだ言葉を無視して、勢いよくソファから立ち上がって扉に向かう。
汚い言葉は、ただの虚勢だ。俺はある可能性に気づいて、猛烈に焦っていた。
「あなた、『メリットも何にもない』って言ったけど、本当にそう思っているの?」
思わず本妻の顔を見て…こいつはもう気づいていたんだ、と思った。
「あなたのお母さん…今、我が社の病院にいるのよね?そして私は彼女の対応を任された。
ねぇ、そりゃ私だってこんなこと言いたくないけど、お母さんの治療薬をちょっと変えることだって、カルテを改ざんすることだって、無菌室に菌を入れることだって出来るの」
「……!お母さんが本当に病気って決まったわけじゃないし、そんな脅し…」
病気かもしれないと嘘をついて、適性検査を受けさせた社長のことだ。お母さんだって本当の病気じゃない可能性はある。だから、そんな脅しには屈しないと言おうとしたところで本妻はさらに言葉を続けた。
「ああ、もっとはっきり言わなければ分からないのかしら?あなたのお母さんが病気だろうが何だろうが、今は関係ない。お母さんは私の手の内、お母さんの生死は私が握っているのよ。
言うことを聞かないと、人質のお母さんが危ないわよって言っているの」
幼子に言い聞かせるように、声色だけならば優しく気遣うような声で本妻は言った。続けて「だから、まず席につきなさいな」と言われ、俺はあの立ち上がるのに苦労するふかふかソファに向かって重い足を動かす。
シャルがあのISの「シャルロット」、お母さんがその「母さん」と分かって、俺は二人にこれから降りかかる運命を知っているのに、…このままだとどうなる?
お母さんにシャルを幸せにすると誓った。
お母さんと家族になると誓った。
二人の為に何が出来る?
考えろ!何か思いつけ!
俺はソファに体を深く沈めながら、少しでも突破口を開こうと口を開いた。
「それであんたは何の契約をしたいんだ?」
「まず、あなたがデュノア社専属のISテストパイロットとなる契約。次に、シャルロット・アズナヴールもIS適性があると分かれば、同様の契約をする。今テストパイロットが不足しているの。その代わりに、あなたたちの為に、あなたのお母さんを病院でお世話してあげる。どう?悪い話じゃないでしょう?」
どうもこうも、完全にお母さんは人質として預かると宣言されているようなものだ。しかも、俺に加えてシャルまで、テストパイロットとして働かなければお母さんが危ないという脅しの対象にしてやがる。それに、専属パイロットになれば、将来織斑一夏がISを動かせる男性と分かったとき、シャルは男装させられるかもしれない。シャルロットがアニメで男装がバレて「よくて牢屋行きかな…」と言ったときの悲しそうな諦めたような笑みを、シャルにさせてしまうかもしれない。世界を騙すような大嘘をつく危険を冒させてなるものか!しかし、いい考えは浮かばず、俺は何とか話をそらそうとした。
「………俺達の為じゃないだろ。デュノア社の繁栄と利益の為に、優秀な社の研究員を世話して俺というIS操縦者の確保をしているだけ…」
「違うわよ!!」
突然本妻が叫んだ。俺は思わず口をつぐむ。本妻自身も自分の声に驚いたように身を固くした。
「……違うって?」
「デュノア社の繁栄と利益の為じゃないってことよ…私は夫を愛しているから、夫の言ったことをちゃんと守るの…夫の為なの…そうじゃなければ私、あなたたちを社会的に消しているわ…!」
本当にそうするだろうなと思った。俺たちのことを恨む感情を夫の為に抑えている本妻の姿は、檻の中にいる動物に似ていた。きっと夫という檻がなくなれば間違いなく、外にいる俺達を食い殺してしまう猛獣だった。
だがこれまでずっと優位にたっていたように思えていた本妻の取り乱した姿と「夫の為」という言葉を聞いて、俺に一つの案が浮かんだ。
「本当にあんたは社長のことが好きなんだな」
この案は、お母さんとシャルを守るためのものだ。
本来使ってはいけない。お母さんとシャルには知られたくないことだ。
「今は女尊男卑の時代だ。デュノア社社長が昔、女性を抱いて私生児も作って、養育費も払わず会いに行ったこともないっていうのは一大スキャンダルだろうな。世間からの糾弾、多額の慰謝料、不埒で女性を敵に回した男…
なぁ、あんたは社長のことが好きなんだよな?」
ばらされては困るだろう?と小さく付け足して、精一杯の笑顔を浮かべてみた。出来る限り本妻が夫を脅した時に似せて。
愛を利用して脅すなんてやっちゃダメだ。
愛っていうのはもっときれいで、貴くて、お母さんとシャルがくれるキラキラしたものなんだ。
でも、俺は二人の為ならどんな汚い手でも使ってみせる。
「もちろんよ」
そう即答して、本妻は言った。
「何がお望み?」
「…シャルとお母さんを傷つける言動の禁止、シャルを無理やりISに乗せないこと。代わりに俺がテストパイロットとして働くから、お母さんの治療費と、俺とシャルの生活費をもらいたい」
「……意外ね。もっと無茶な望みをするのかと思ったわ」
俺だって無茶なことを言ってやろうと思ったが、どうしても二人に渡すお金を法外で外道な方法ではとりたくなかった。お母さんが重い病気なら長期入院になるだろうし、うちにたくさんのお金があるとは思えない。それに、思いつく望みなんてこれくらいしかなかった。
本妻はしばし口をつぐむ。
ただ、様子が変だ。脅されているというのに、落ち着いているというか…?
「ちょっと考えたのだけど、別にあなたが世間にバラしたっていいのよ?あの人は確かに女性に不埒なことをしたのだからデュノア社社長としては、おしまいでしょう。一大スキャンダルの的になった彼をかばう者なんていないわ。でも、他に頼れる人がいなくなった彼を私だけが救ってあげられるじゃない!不倫をした夫を許した妻として!唯一、この世で私が!それって…とっても素敵なことじゃない?」
俺の脅しが効いていないことに気づいて愕然としてしまった。本妻は今や落ち着きやら余裕やらを通り越して、恍惚とした笑みを浮かべている。
「……俺の希望は通らないってことかよ…」
「ふふ…それに世間に公開してどうするの?あなたも、シャルロット・アズナヴールも、不倫の末の子と知られるし、お母さんの肩身も狭くなるわね。社会復帰も…少なくともデュノア社には戻れないでしょうね」
熱に浮かされたように頬を赤く染めながら、本妻は笑いながら言った。
ぞっとした。
そこまで考えていなかった。
俺の考えなしの行動が二人の未来を暗いものにしようとしていたことに気づかされて、自分自身に恐怖が募る。
唇を血がにじむくらい噛みしめていると、本妻は夢見ているような口調で衝撃的な言葉を言った。
「でも、あなたの意見を汲み取ってあげてもいいわぁ」
「…は?」
今なんて?
「あなたの言う『シャルとお母さんを傷つける言動』ってなぁに?」
「…泥棒猫だとか…叩いたりだとか……無理矢理ISの操縦者にさせようとか適性検査させようとしたり…騙したりすることだ!」
「では、シャルロット・アズナヴールとその母のセリーヌ・アズナヴールに対して、私及びその関係者は、誹謗中傷、暴力、恐喝、虚偽の発言、強制的行為の類いはしない。セリーヌには、デュノア社経営の病院で適切な治療をしてもらう。その代わりにあなたにはデュノア社のテストパイロットになってもらい、私の命令には必ず従ってもらう。ただし、人の身体を害する傷害行為の命令は出さない。どう?」
お母さんが人質であることには代わりないが、治療をきちんと約束しているし、彼女を脅す材料も無いのに、俺に人を傷つけるような無茶な命令はしないし、シャルの身の保障もしているなんて…
「…何をたくらんでいる?」
「ふふふ、何も」
「断ったら?」
「そのときは、始めと一緒よ。あなたのお母さんを人質にして、あなたとシャルロット・アズナヴールに強制的に命令に従ってもらうだけよ」
……俺には、この提案に乗る以外の良案が浮かばなかった。
この日、俺は俺のことを心底憎んでいる女と契約した。