「シャロ、これ、なに?」
「それは『りんご』だよ、シャル」
シャルの小さな手がキッチンにある林檎を指した。俺は出来るだけゆっくりはっきりと発音してやる。
「りぃ、りんぅごー?」
俺の口元を見て、必死に真似ようとする姿は愛らしい。
「り・ん・ご」
「るぃー・ん・ごっ!」
あれから、2か月経った。今俺はシャルとお母さんの家でシャロン・アズナヴールとして暮らしている。…お母さんはセリーヌさんといい、始めは名前で呼んでいたのだが、「家族だから」と言われ、それでも戸惑っていると「シャロンは『お母さん』って呼んでくれるのに、レイくんに呼ばれないのは寂しいわ…」と悲しげな表情をされたのでそう呼んでいる。シャロンさんを引き合いに出すのはずるいと思うが、お母さんなりの配慮なのだろう。こうやって、気軽にシャロンさんのことに触れることで、俺ともう一人の家族がいるように扱うことで、どこにも居場所のない俺に罪悪感を極力持たせず、居場所を作ってくれているのだと思う。
そう。お母さんに「篠崎玲」とパソコンで検索をかけてもらったが、ヒットしなかったのだそうだ。エレベーター落下事故なんて確実にネットに記事として上がりそうなものなのに。
ということは、ここは俺のいた時代とか世界軸みたいなのが微妙に違うのかもしれない。だとすれば、本当に天涯孤独だ。お母さんは、検索ワードに引っかからなかったと告げた後、黙って俺が寝るまで頭をなで続けていてくれた。
大学生にもなった男だっていうのに、ちょっと泣いてしまったのは、俺とお母さんだけの秘密だ。
「…ロ!シャロ!!」
「うわぁ?!」
こ、鼓膜が破れるかと思った。
シャルが思いっきり耳元で叫んだせいだ。
『びっくりした』
『ぼーっとしすぎ!もしかしてフランス語思い出した?』
『もう一回言って』
『フランス語、思い出した?』
『ううん、まだ、分からない』
もう何度この『分かりません』という言葉を繰り返しただろう。
病院で、お母さんは「いきなりレイくんが登場したなんて言ってもお医者様に信じてもらえないだろうから」と言い、一つの魔法の言葉を教えた。
それが「分かりません」(ジュ ヌ コンプラン)だ。
検査時にはそれを言い続け、お医者様から「頭部外傷による全生活史健忘」という診断を得た。要は記憶喪失だな。
シャルには、「シャロンはフランス語を忘れている。ただ、日本語は話せる」と説明したそうだ。…それで疑問を持たず、信じたシャルは本当に純粋無垢、清廉潔白だ。将来騙されないか「お姉ちゃん」は、心配だよ。
だが、「忘れている」という表現は正しい気がする。
学校を怪我の関係で休んでいたこの二か月間、起き上がれるようになってからフランス語を学習し始めたが、覚えるという感覚はなく、昔記憶したことを思い出していくという感覚だった。この分なら、中学校に入るまでにはフランス人同様に話せるようになると思う。
俺がフランス語を「覚え直している」間、シャルは学校に通い、放課後には健気にも日本語を学習し始めた。やっぱり俺がフランス語を思い出すのではないかと期待してしまうようで、こうしてたまに聞いてくるのだが。
『そっかー…』
今回も分からないと言ってしまったから、残念そうだ。
『ごめん…わたしがフランス語、話せないから、シャル、日本語話す。たいへん』
そう言うと、シャルはすぐフランス語で返してくれたが、分からなかった。
『シャル、ごめん。分からない』
『うーん、…ちょっと待って』
シャルは、ぱたぱたと軽い音を立ててリビングを出て行った。
本当情けないな。シャルを幸せにする為にここにいるはずなのに、迷惑かけているだなんて……
自己嫌悪に襲われていると、シャルが重そうに辞書を抱えて戻ってきた。少し難しい顔をしている。
その場で辞書をめくっているので、しばらく待つ。5分ほどしてシャルはようやく口を開いた。
「にぃほんご、みんぬぁ、わからない。にーほんご、シャロとの、ひみちゅの、あぅ、あんごーみたい。まなびゅ、たのしぃよ?」
と言って、一息つき、太陽のように笑った。
日本語は他のフランス人の友だちや近所の人には分からないけど、俺とは「秘密の暗号」みたいに通じるから、学ぶことが楽しいって!!
俺の妹がこんなにかわいい!!俺はしっかりさっきのシャルを脳内保存した。閲覧は俺だけの特権だ。
『シャル!ありがとう!!!』
よし、俄然勉強にやる気が出てきたぞ!
『シャル、この本読む。読めない、あれば、教えるいい?お願い』
『うん!』
「それで、シャルが「ひみちゅの、あぅ、あんごーみたい」って!この噛み方までかわいいだなんて…私、本当にシャルのお姉さんになれて良かった!」
夜遅くお母さんは帰ってきた。シャルは俺の勉強の面倒を見すぎたからだろう、疲れて今夜は先に寝ている。
お母さんの書斎を訪ねると仕事の書類が机に散らばっており、パソコンの電源も点いていた。初めは遠慮しようと思ったが、俺の姿を見ると、お母さんは「休憩!」と言って話を聞いてくれた。まぁ、俺の話は9割方今日のシャルのことなのだが。
お母さんは、嬉しいような、呆れたような顔で話を聞いている。大体話が終わると、ふと気付いたように言った。
「そういえば、一人称が私になっているけどどうしたの?」
「…えーと、シャルが日本語学び始めたんですけど、俺の真似して自分のこと「俺」って言うんです。だから…」
「女の子らしい一人称に変えたと」
「…はい」
そりゃ、俺っ娘なシャルもかわいいから脳内ほz(略)だけど、やっぱり女の子らしいシャルには「私」が一番似合う。「俺」と言えないのは女の子の体にいると感じさせられるが、シャルの為ならば致し方ない。
「じゃあ、女の子らしい恰好も」
「ああ!お母さん!!そ、そういえば…えーと」
女の子の恰好だけは勘弁してほしいがな!
何か違う話題を探そうとした俺の目は、机の書類の上で止まった。俺はフランス語がいまいち分からないが、その書類は日本語で書いてあり、横には図まで乗っていた。
「打鉄…」
無意識にその書類の題名を読む。お母さんは俺の目線にあった書類をつまみ、そっと裏返した。
「ごめんね、これ見せちゃダメなの…レイくんはISって知ってる?」
知っているも何も。
だが、まさか。
黙っている俺に知らないと思ったのか、お母さんは続けて言った。
「ISはね、宇宙空間での活動を想定して開発されたマルチフォーム・スーツなの」
「…そう、なんですか」
なんでなんで
「篠ノ之束博士っていう日本人のお嬢さんが開発したの。今の書類はそのISの中でも日本で主に量産されている打鉄を日本人科学者が分析したものなの。…詳しくは言っていなかったけど、私はISを作る会社に勤めていてさっきのような書類を読んだり発表する機会があるから、日本語が話せるのよ」
ISが実在しているんだ?!
「…お母さんが勤めている会社って、デュノア社ですか」
「知っていたのね。……そうよ」
お母さんは何だか不安そうに答えたが、俺には気遣う余裕なんてなかった。
自分がIS[インフィニット・ストラトス]の世界にいることに気付いた直後だったのだから。