ハーケン門を出たエステル達一行は、ボース市を目指してアイゼンロードを下っていく。
途中、何度か検問に足を止められたが、ヨシュアが通行許可証を見せると、ほとんど顔パスレベルで通してくれた。水戸黄門の印籠よろしく効果を発揮する一品も、メイベル市長から借り受けたらしく、軍とモルガン将軍への個人的な影響力の高さが目に取れた。
最後の検問を抜け、東ボース街道に足を踏み入れたエステルは、ようやく周囲から王国軍兵士の目が途切れたのを確認すると、昨日からの不満をぶつける。
「ヨシュア、お前、一人でトンズラかましておいて、よくもまあノコノコと俺の前に顔を出せたもんだな?」
「あら、あの場で二人仲良く逮捕される事に、一体どんなメリットがあったのかしら?」
義弟を心配する殊勝なお義姉さんの仮面を外して、しれっと答える。
「私が市長さんに掛け合わなければ、エステルはしばらく牢獄暮らしが続いていただろうし、薄寒い地下牢の中では私のお肌も荒れるしで、一つも良いことがないじゃない」
前後の主張の落差が大きすぎるが、ヨシュアの選択に誤りがなかったのは、檻の外に出られた現在のエステルの立ち位置が物語っているとはいえ。
「駄目だよ、お義兄ちゃんを置いて、一人で逃げるなんてできないよ」
「お前一人なら、ここから脱出できる。俺のことは構わず行くんだ、ヨシュア」
「ひっく、ひっく。絶対、絶対、助けに来るからね。約束だよ、お義兄ちゃん」
というような兄妹間の心温まるエピソードがあれば気持ちよく送り出せたのだが。合理主義の塊の義妹は何の説明も無しにいきなりドロンしやがり、兄の権威に懐疑的にならざるを得ない。
「まあ、その件はひとまず置いておくとして。お前、どんな魔法を使って、あいつを牢屋の外に出したんだ?」
チラリと後ろを振り返る。ご機嫌のオリビエの様子を眺めながら、もう一つの疑惑を提示する。
「魔法も何も、このカードで和解金を支払って、店側に訴訟を取り止めさせただけよ。おかげで私の口座はスッカラカンになってしまったけどね」
「和解金って、まさか五十万ミラをか?」
田舎町のロレントでは馴染みの薄い、
物欲に素直で宵越しのミラを持たない主義の貧乏な義兄と異なり、義妹はついさっきまでは、ちょっとした小金持ちだったみたい。なぜ、ヨシュアがそんな大金を所持しているのか不思議に思ったが、この銀行口座はブライト家の養女になってからの五年間でコツコツと貯めた全財産らしい。
「父さんから貰った月々の
小遣いは実子のエステルの三倍強の手取だが、親父の依怙贔屓分を差し引いても、ヨシュアはブライト家の家事を一手に引き受けているので、まあ妥当な額だ。
実際レナが亡くなってからの五年間とヨシュアが養女になってからの同年月を較べれば、食生活を含めた生活水準は一変したので、ハウスキーパーを雇う手間賃を考えれば遥かに安上がりだ。
「預金を定期にして寝かせておくと、一年で5%ぐらい利息もつくことだしね。常に大金を持ち歩くのも物騒だし、エステルもカードを作るのをお薦めするわよ」
十年前の戦争で色々あったので、ロレントの市民レベルで帝国資本の銀行を利用する者は少ないが。今、エレボニアは鉄血宰相オズボーンが主導する帝国全土の鉄道網化と周辺自治州の併合による空前のバブル景気。口座残高の20%は五年分の定期の利息分というのだから、たまげたもの。
最後にヨシュア曰く、居酒屋アーベントでの一年間の荒稼ぎが特に効いたらしい。エリッサの父デッセルとの契約で、黒猫メイドの歌唱デビュー中は歩合制で稼ぎを折半していたので、一夜で一万ミラを超える高収入を得た日もあった。
「まあ、一晩で百万ミラ稼いだオリビエさんに比べたら、可愛いものだけどね」
クルリと一回転すると、お茶目な仕種で軽く舌を出す。この謙遜は単なる嫌味か、それとも本気? 楽観主義者のエステルをして現実味の欠片も感じられないオリビエの妄言を、まさか徹底した合理主義者のヨシュアが真に受けるとも思えないが。
「けど、お前、ミラ遣いは俺より荒い方じゃなかったのかよ? クローゼット一杯に飾ってあるブランド服や装飾品は、どうやって手に入れ……」
そこまで言い掛けて、言葉を飲み込む。
プロ級の料理と裁縫技術を兼備するヨシュアは、安価な材料を元手に男達に美味しい手料理を振る舞ったり、市販品よりも上質の手編みの服や小物を繕ってプレゼントしたりしていたのを思い出した。
それらが後々にヨシュアが欲していたブランドギフトに化けるのだから、等価交換の法則を無視した大した錬金術だ。
更にデート費用は男が全額受け持つのが、『殿方を立てる女性の甲斐性』だと本気で信じきっている。店での飲食で一切身銭を切らないのは、彼女の別人格のカリンの行動が立証済み。これなら手持ちのミラを温存したまま、リッチな生活を満喫するのも可能。
とはいえヨシュアは無償での金銭自体の受け取りは頑なに拒むポリシーだし、貢がせた品々の転売も行わないので、口座のミラは彼女が自力で稼いだのだろう。
エステルとしても、別段、義妹の紐になるつもりはない。故にロレントのクエスト中、赤貧ポーズで大金を隠し持っていた事実を咎める気はないが、尚更、大切に温めていた預金を目の前の変人の救済に全額注ぎ込む気になったのか不思議で仕方がない。
「お前、まさかとは思うけど、百万稼いだとかいうオリビエの与太話を本気にしているわけじゃないだろうな?」
「さて、どうかしら。強いて今回のボランティアの動機あげるなら勘かしらね」
「勘だと? そりゃ、一体どういう風の吹き回しだ?」
それは思考と演算を尊ぶヨシュアが、最も毛嫌いしていた曖昧要素そのもの。
「エステルやあのキールって女性を見て、私も少し考えを改めることにしたの。元々女は勘の鋭い生き物なんだし、それを生かさなくちゃ損でしょ?」
「どんな天のお告げで、全財産をオリビエに寄付する塩梅になったんだよ?」
「私にも判らないわよ。ただ何となく、今この場でこの人に恩を売っておいた方が良い気がした。本当にそれだけよ」
◇
「なあ、ヨシュア。ここって?」
まずはギルドに連絡を入れるものと思いこんでいたが、ボース市に辿り着いたヨシュアは、なぜか以前のバイト先の前で足を止める。
「おおっ、僕たちの愛を育んだ麗しのアンテローゼではないか?」
先の事件にまるで反省の色を見せないオリビエが寝言をほざいていたが、「ちょっと忘れ物を取りに行くだけよ」とヨシュアが入店したので、エステルとオリビエも続いた。
◇
「ヨシュアさん、こちらです」
奥の方にあるVIPルームから、黄土色の髪をポニーテイルに束ねた若い女性がエステル達を手招きする。
内部は一般テーブルから隔離されたプライベート空間になっており、上座に腰掛けた女性の側には、水色の髪の仏頂面した若いメイドさんが佇んでいる。
「エステル、こちらがボース市長のメイベルさん。彼が私の義弟のエステル・ブライトです、メイベル市長」
両者と面識のあるヨシュアが手早く双方向で紹介を済ませる。まだ二十歳前後と思わしきボース市長の若さにエステルは面食らう。特に我が町のクラウス市長が結構なご老体なだけに、カルチャーショックも一押しだろう。
「エステル、何を置いても謝辞の方が先でしょう? 市長さんが裏口を合わせて、クエストの依頼書を添えたモルガン将軍宛の手紙を認めてくれなかったら、強行手段に訴えなければいけない所だったのよ」
強行手段とは、まさかハーケン門を襲撃しエステルを脱獄させるという意味だろうか? あまり深くは考えたくなかったので、催促通り市長に感謝の意を捧げる。
「礼には及びません。あなた達二人は見習いの身分で、正規の遊撃士が束になっても発見できなかったリンデ号に独力で辿り着いたそうじゃないですか」
メイベル市長の正遊撃士への発言には若干棘があったが、色んな制約を受けた準遊撃士に出し抜かれたとあっては言い訳出来まい。
「人質が戻らなかったのは残念ですが、これだけでも事件は新たな展望を迎えたと言えます。流石はカシウスさんのって、これは禁則事項でしたね、ヨシュアさん」
何やら思わせぶりな発言を途中で引っ込め、エステルは小首を傾げる。メイベル市長が二人に肩入れする理由は、事件の手掛かりを見つけたのと同比率でエステルの血筋に期待感を抱いたことらしい。
「メイベル市長。クエストの件は後ほどギルドに場所を移してから話し合うとして、例の後始末を済ませたいのですが」
「そうでしたわね」
ヨシュアの催告に応じて、チリリンとテーブルに置かれた鈴を鳴らす。支配人のレクター直々にハンカチでくるんだワインの瓶を大切そうに抱えてきた。
「あっ、オリビエ? 貴様、どの面下げて、ここに」
「おお、レクター支配人ではないか? やっと僕に反応してくれる人がいて嬉しいよ」
レクターは親の仇のような目で窃盗犯を睨んだが、ヨシュアの紹介から溢れたオリビエは十年来の知己と出会ったかのように諸手をあげて歓迎する。
「レクター、あの件は示談が成立したのは判っている筈です。お下がりなさい」
メイベルが一喝すると、レクターは一級の雇われ人らしく不満を表情に出さないよう気を遣いながら、ワインをテーブルの上に置いて退出する。この遣り取りから明確な主従関係が見て取れる。メイベル市長はボースマーケットやデパートだけでなく、このアンテローゼのオーナーでもある。
「あなたが、ここの専属ピアニストだったオリビエさんですね? レクターはあなたの演奏とヨシュアさんの歌唱を絶賛していましたし、わたくし個人もあなたのような自由奔放な方は嫌いではないので、こんな形になってしまい残念です」
社交辞令でなくオリビエの才能とキャラクターを惜しんだが、当の本人は全く悪びれた様子がない。得意の美辞麗句で市長の若さと女傑振りを絶賛し、ついでにメイドのリラにまで粉をかけ始めたがシカトされる。
「いやはや、リラ君は実に手強い。ところでメイベル市長。さっきから気になっていたのだが、もしやそれは」
「ええ、あなたが二口ほど賞味したグラン=シャリネ1183年物です。示談が成立した地点で所有権はヨシュアさんに移ったのでお渡しします」
「ってことは、これが噂の五十万ミラもするワインかよ?」
オリビエが指差した古いラベルの貼られたボトルを、エステルはマジマジと眺める。確かに良く観察すると、一度コルクを抜かれた跡がある。
「エステル、このグラン=シャリネに五十万ミラの価値があったのは昨日まで。一端封を切られた高級ワインは死んだも同然で、今は二束三文の値打ちしかないわよ」
「何でだよ? そりゃ量は少し減っちまったし、風味は多少衰えたかもしれねえが、一日や二日で、そこまで品質に違いは出ねえだろ?」
未だに飲酒経験のない素人から、実に健全な意見が飛び出すが、上流階級の住人であるメイベルは、心苦しそうにフォローを入れる。
「エステルさん、残念ながらヨシュアさんの言うことは真実です。わたくしはソムリエではないので詳細は省きますが、通常十年と持たずに風味が劣化するヴィンテージの中でも、数十年という長いスパンの熟成に耐えたワインに途方もない値がつけられことがあります。いわゆる貴族の好事家は、そんな奇跡のワインの最初の一口となることを求めて、莫大なミラを落としてくれるのです。実際、グラン=シャリネも、いずれ百万ミラでの買い手が現れるのを見越しオークションで競り落としたのですから」
金持ちの世界のシステムは良く判らないが、五十万ミラの元手の発酵飲料が百万ミラに化けるとすれば、汗水垂らして働くのが馬鹿馬鹿しくなるようなヨシュアも真っ青な錬金術。その目論見も、帝国からの風来人の暴挙で御破算にされてしまったが。
「納得いかねえ」
法外な値付けもだが、そうまで求めた逸品を中古になった途端に無下にする好事家の感性が理解できない。
「殿方の中には、意中の女性が処女か否かに病的に拘るタイプが結構いるみたいだけど、それと似たようなものだと思えばいいわ、エステル」
「中々に豪快な譬えだけど、意外と的を射ているかもしれませんね」
メイベルは照れ笑いし、リラはポーカーフェイスを維持しながら、僅かに頬に赤みが射している。「僕はどちらも美味しく頂ける口だけどね」とのオリビエの発言は全員から無視された。
「けど、エステルの言う通り、このグラン=シャリネが、コルクを抜かれる以前の風味を維持していることに変わりはないわ。だから、今ここにいる全員で飲んでしまいましょう」
ハーケン門に続いて、また大胆な提案がなされ、この場にいる全員を驚嘆させる。
「ヨシュアさん、本当にそれで、よろしいのですか?」
「はい、メイベル市長にはエステルを助けてもらった恩がありますし、この機会に商人である市長自身の舌で、グラン=シャリネの適正価格を割り出すのも面白いかと」
「賛成だ、流石は僕のヨシュア君は、人間としての器が違うね。けど、このグラン=シャリネを飲むとなると、それに見合うディナーが欲しい所だ。昨晩から何も食べさせてもらっていないから、お腹も空いたことだしね」
最も自重しなければいけない立場の人間から何とも図々しい要求が飛び出したが、この場にいる者はオリビエのキャラを把握しているので誰も咎めようとはしない。
「彼の言うことも一理ありますね」と、メイベルは苦笑しながらも帝国人の見解を是とし、再び鈴を鳴らして支配人を呼び込んだ。
それからメイベル市長の奢りで、アンテローゼの最高級の料理が次々と運ばれてきて、未成年のエステルとメイドのリラまでもが、この晩餐会の相伴に与かることになった。
「これが五十万ミラのワインの味かよ? 何か思ったより苦いものなんだな」
軽犯罪(※本当はヨシュアもだが)は一夜の夢ということで、食前酒としてはじめてエステルはアルコールを口にしたが、大して執着を持たずに血のソースの滴る鴨肉のソテーの方に意識を移す。エステルに掛かればグラン=シャリネも形無しだが、舌が未熟なアルコール初心者の感想としては無理はない。
「くっくっくっ」
「どうした、ヨシュア?」
ソテーをペロリと一呑みしたエステルは、口元を抑えながら、くぐもった笑い声を漏らす義妹の姿を薄気味悪そうに見つめる。
「いえね、エステル。シェラさんは、グラン=シャリネを奢ってくれる殿方がいたら一夜を共にしてもいいと狂おしい程にこのワインを羨望していたのに、まさかエステルのアルコールデビューで飲まれたと知ったら、地団駄踏んで悔しがるだろうなと思って」
その有り様を想像するだけで、まるで五十万ミラの元が取れたが如くの幸福の余韻に浸っている姿を見るにつけ、ヨシュアとシェラザードが心から分かり合える日は多分永遠に訪れることはないのだろうなと達観した。
やがて、実質五十二万ミラの会計を数えた贅の限りを尽くした晩餐会は終了する。グラン=シャリネは瓶底に辛うじてグラス一杯分を残すのみとなる。
ちなみに、この超高級ワインを賞味した各々の感想は。
「苦かった」
「確かに美味いけど、私なら百ミラの安価なワインを一年分購入するわね」
「別次元の味でしたが、適正価格は二万ミラといったところかしら」
「…………夢のように、とても……美味しかった……です」
「ああっ、なんとも麗しい。これぞまさしく、天上の……………………(※原稿用紙十枚分の賛辞が並んだ為、面倒なので省略)」
「では用件もすんだので、ギルドに戻って、今後の対策を練ることにしましょう」
その宣言に至福の時を過ごした一同は席を立って、VIPルームを後にする。
好奇心旺盛なオリビエは、部外者の分際でさも当然のように続こうとしたが、ヨシュアが引き止める。
「オリビエさん、あなたはここまでよ。これからのあなたには私達と同行する暇はないと思うから」
「ヨシュア君、それは一体どういう意味なんだい?」
「つまりは、こういうことですよ、オリビエさん」
ニコニコと微笑んで懐から一枚の紙切れを差し出す。ハーケン門でオリビエが内容も確認せずにサインした書類。軍が発行した保釈同意書ではなく、民事で用いられる私的な契約書だ。
内容を要約すると
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となっていて、文面を読み込んだオリビエの表情がみるみると青ざめる。
「ヨシュア君、君は僕のことを騙していたのかい?」
「謀ったなんて、人聞きの悪い。署名と引き換えに、きちんと牢から出してあげたし、嘘は言ってない筈よ」
あくまで和解金を建て替えに過ぎず、返済義務から逃れられた訳ではない。文面にも確かにそう記されていて、碌に内容を吟味せずに署印したオリビエの落ち度だ。
まあ、今更、オリビエに常識云々を解くのもアレではあるが、万が一彼が本当に借金を返済してしまったら、グラン=シャリネの所有権が面倒なことになるので、後腐れがないようにこの場で全員に奮発した。
「あのー、借入金が五十万ミラでなく、なぜか百万ミラに増えているんですけど?」
「天才演奏家のオリビエさんなら、一晩で楽勝で稼げる額なのでしょ? あなたが世間に溢れる口先だけの凡百な殿方とは一線を違えていると信じているわよ」
ほんの一瞬、琥珀色の瞳を真っ赤に光り輝かせると、オリビエから距離を取って、5アージュをキープする。
「ふっ、甘いな、ヨシュア君。僕は何者にも縛られない漂白の旅人、オリビエ・レンハイム。この僕の君への熱いリビドーを、こんな紙切れ一枚で封じることなど。あれっ?」
意味不明な屁理屈を並べ立てながら距離を詰めようとしたが、途端にヨシュアの姿をロストする。
「ヨシュア君、一体どこへ行ってしまったんだい?」
「何をおっしゃっているのですか、オリビエさん? 彼女なら、わたくしの隣にいるではないですか」
不思議そうな表情で、メイベル市長がヨシュアの所在を指さしたが、オリビエの眼には空白地帯しか反映せず、ヨシュアの声を聞き取ることも出来ない。
「つまりは、こういうことですよ、オリビエさん」
突然、何もない空間からヨシュアが出現するが、エステル達に驚いた様子はない。普通に彼女の姿を認識している模様。今現在のヨシュアの立ち位置はオリビエからちょうど5アージュ離れている。
「ヨシュア君、もしかしてこの現象は?」
「意外と飲み込みが早いみたいですね。原理を省略して結論だけ述べると、あなたは私の半円5アージュに進入したら、私の姿を認識できなくなる暗示にかけられているんですよ」
「そんな馬鹿な」
反復横跳びのように5アージュの境界線を行ったり来たりする度、ヨシュアの姿が現失を繰り返すので、非現実的な声明は嘘でない。ただ、事情を知らない周りのメイベル達には、奇人が新たな奇行に走ったようにしか映らない。
言うまでもなく、これも他者の認識に干渉するヨシュアの魔眼の能力。この力が働くに辺りヨシュアへの好意は本物のようであるが、オリビエの場合、ヨシュアと同程度の愛情を不特定多数の異性(※下手すれば同性にも)にばら蒔いていると思われるので、彼のラブコールを額面通りに受け止めていいのか判断は保留中。
また5アージュとは、ストーカー規制としては心許ない距離だが、「これでは彼女を抱き締めることも、キスすることも出来ない」とオリビエは頭を搔きむしっていて、十分堪えている。
仮に暗示が解けて再接触が許されても、プレイガールの割に意外と身持ちが堅いヨシュアが、手を握らせる以上の行為を許してくれないであろうことはさて置いて。
「こちらが私の銀行の口座です。きちんと借金を一括返済したら、暗示を解いてさしあげるわ。それじゃ、バイバイ、オリビエさん」
口座番号を記したメモを胸ポケットに差し込むと、ガックリと両手を地面について落ち込んだオリビエを一瞥することもなく退店する。
魔眼の説明が省かれたので、オリビエが律儀に進入禁止令を遵守しているのを周囲は不思議がるも、元々、彼の自業自得から始まったことなので特に同情するでなく、「達者に生きろよ」と憐れな道化に一声かけてヨシュアの跡を追った。
◇
「なあ、ヨシュア。お前、オリビエが借金を返すと本気で思っているのか? 絶対に逃げ出すぞ、あいつ」
アンテローゼからギルドへの短い途上でエステルが口を挟み、ヨシュアは足を止める。
実際の所、逃亡するまでもない。借金は原則、無利子、無期限、無催促となっているので、オリビエがヨシュアに近づくことさえ諦めれば、リベールでの活動に何の支障もない。
そのストーカー対策が狙いだったとしても、そもそもヨシュアが保釈を掛け合わなければオリビエは檻の外に出られなかったので、尚更莫大なミラを投入した意味が判らない。
「多分、ミラは戻ってくると思う。考えてもみて、エステル。もし、あの傍若無人がオリビエさんの素の生態だとしたら、風紀の厳しいエレボニア帝国で三十年間も生活してきて、一度も問題を起こさずに済んでいたと思う?」
そのヨシュアの発言には奇妙な説得力があり、エステルだけでなく、メイベルやリラも考え込んだ。確かに帝国の領土内で、オリビエがあの調子で揉め事を頻出させていたら、今頃は良くて収監の身。下手に大貴族の逆鱗に触れようものなら打ち首になっていても可笑しくなく、呑気に旅行者の身分ではいられなかった筈。
尚、この話をオリビエが立ち聞きしたら道化を疑われたことよりも、勝手に年齢を三十路に引き上げられたことを今年まだ二十六歳の彼は全力で抗議しただろう。
「無銭飲食が素なのか、或いは何か思惑があったのだとしても、いずれにしても牢から出る算段があったのは確かね」
本当に百万ミラを稼げる異才の所有者なのか。実は大企業の御曹司か何かで、その後ろ盾の力で帝国内で起きたトラブルの数々を強引に揉み消してきたのか。
「とはいえ、オリビエさんが今日まで幸運に恵まれてきただけの、見た目通りの単なる
ここまで散々盛り上げておいて、ヨシュアは自ら掲げた梯子を己の手で下ろし、エステル達は盛大にずっこける。
「50%って、お前、そんな半丁博打に全財産を賭けたのかよ? 以前もそんなことがあったが、農園の時とは失うもの大きさが全然違うんだぞ」
それとなく脅しをかけたが、ヨシュアは堪えた様子はない。
元々、今回のギャンブルはヨシュアの不慣れな『勘』が根幹なので、勝算が低いのは当然。今日まで特に預金の使い途があった訳じゃないので、全損しても支障はないとケロリとしている。
「この世界に男という
琥珀色の瞳に蠱惑的な色を称えると、お兄様の逞しい左腕に自分の両腕を絡めてぶら下がる。エステルは薄ら寒そうな表情で左腕をぶん回して、ヨシュアを引き剥がそうとする。
「リラ、なんと言うか、実に逞しい女性ですね、ヨシュアさんは。ブレイサーにしておくのが、惜しいぐらいね」
「全くです、お嬢様」
メイベル市長は、戯れ合うブライト姉弟を眩しそうに見つめる。
ヨシュアは珍しくも、比較的世代の近い同性から高印象を勝ち得るのに成功する。ティオ、エリッサに次いで三人目の知己を得たことは、百万ミラの博打に打ち勝つことよりも意義のあることかもしれなかった。