「それでは、学園祭の成功を祝って。みんな、乾杯!」
「「「「「かんぱーい!」」」」」
クラブハウスの食堂にジェニス王立学園の全校児童が集結し、後夜祭の打ち上げを行う。
実行委員の生徒の音頭の元、手近の学友と缶ジュースを合わせるとヨシュアが造りおきした大量のお寿司が振舞われる。
「うめえ、これが鮨かよ?」
「おおおー! 大トロの脂が口の中一杯に染み渡っていくー」
「こんなに美味しければ、帝国の奴らが目の色変えるのも納得だぜ」
「聞いたところじゃ、奴らか支払った適正価格は一万ミラぐらいなんだろ、これ? そんな高級料理がロハで食べられるなんて、本当に遊撃士兄妹さまさまだよな」
学生らからも当然のように大盛況。トロやイクラなど人気のあるネタから次々と手に取られ、寿司樽の半分以上が瞬く間に消費される。
打ち上げに参加しているのはほとんどが学生と教職員だが、一部、部外者が混じっていたりする。
「ダニエル君、お目目がクリクリっとしていて可愛いよね」
「クラム君、その帽子の下はどうなっているのかな? お姉さんに見せてちょうだい」
孤児院の男の子二人は、一部の女子生徒の玩具にされる。ダニエルはぷにぷにのほっぺたを撫でられ、クラムはトレードマークの帽子を死守しながら、興味本位で大人用のワサビ入りの鮪に手を出し口から火を吹く。
「ポーリィちゃん、マリィちゃん、君たちとってもプリティだね」
「本当、フィギアみたいだ。そのツヤツヤの髪の毛に触わさせてくれないかな?」
幼女二名は鼻息の荒いとある趣味の男子生徒の集団に取り囲まれている。ポーリィは例によって何も判らずに微睡んでいるが、マリィの方は思いっきり引いており、「助けて、クローゼお兄ちゃん。このままじゃ、マリィ、穢されちゃうよ」と未来の旦那様にSOSの念を発したが、なぜかクローゼ他主要面子は場におらず。また、彼ら程度を手玉に取れないようでは、少女が志す嬢王への道程は果てし無く遠い。
「まあまあ、みんな。大きなお姉さん、お兄さんに可愛がってもらえて良かったわね」
基本世の悪意に無頓着なテレサ院長が、呑気な感想を漏らしながら学生たちとの交流を微笑ましそうに見守るが、男児はともかく女児二名はハッキリ言ってピンチです、先生。
「お嬢様、保護者の女性の方は今一つ現状認識されていないようなのでご忠告された方が宜しいのでは?」
「うーん、今わたくし達が脚光を浴びるのはあまり得策ではありませんわね。無礼講の席ですから多少羽目を外すのは仕方がありませんし、もう少し様子を見てみましょう」
子供たちの惨状を見兼ねたリラが主君に喚起を促してみたが、メイベルは競争率が高いイクラの奪い合いに夢中で真面目に取り合ってくれない。
主賓として招待されたマーシア孤児院一堂はともかく、なぜボース市長とメイドさんがこの場にいるかといえば、学園のOGとしてお招きを受けたとかではなく、騎馬戦で消耗したカロリーを補充すべく鮨目当てに勝手に紛れ込んだだけ。
違和感なく学生間に溶け込めるように敢えて私服に着替えずに体操服を着込んだままにしていたのだが、メイベルの学内での知名度を考えると周囲は全て判った上で生暖かい目で放置している可能性が高い。また窓の外から擬態を看破したとある人物が指を銜えてその様子を羨ましそうに眺めている。
「ああー、若い人たちが食している姿を見たら、わたくしもまた小腹が空いてきてしまいました。あのブルマとかいうのを着用すれば、ボース市長さんのように内部に招いていただけるのでしょうか?」
「ブルブル、御婦人の歳でそれは犯罪だから、流石に止めた方がいいな」
五十路過ぎて水着写真集を出版して、多くの帝国男子にトラウマを植えつけた某女性議員に匹敵する暴挙を敢行しようとした教授を、オリビエは薄ら寒そうな表情で引き止める。
「確かオリビエさんでしたっけ?」
「ああ、漂白の詩人にして、ヨシュア君の未来の花婿さ。まあ、そんな話は別にして、我々は既に未来の花嫁の懇意で安価で心ゆくまで食べさせてもらった。メイベル市長のような小食ならともかく、僕らのような健啖家が乱入して寿司初体験の学生の上前を撥ねるのは感心しないだろう?」
ゴーイングマイウェイを地で行くオリビエとは思えぬ他者を思いやる発言で窘めながらリュートを一曲献上する。教授は渋々ながら折れて、二人はクラブハウスを後にする。
「王子様を二人も誑かすなんて、本当にヨシュアさんは罪な人ですね」
去り際に教授は意味深な独り言を囁いていたが、ご自慢のリュートの演奏に打ち消されて、その呟きはオリビエの耳には入らなかった。
◇
学生と一部のアウトローがクラブハウスで寿司に夢中になっていた頃、ジル達生徒会の面々と『生徒会臨時役員』の肩書を持つエステルら三者は第二生徒会室で様々な事後処理をしていた。
「通常の寄付額が百四十万ミラ、デュナン公爵個人の喜捨金が百万ミラ。ヨシュアさんの寿司屋台の収益が五十万ミラで、その他の屋台収入が十万ミラ。公爵様からの献金分の百万ミラは、既にテレサ婦人にお渡ししてあるので、約二百万ミラが今回の学園祭のトータル収益です」
寄付金の勘定とクエストの謝礼金の査定もその中の一つ。会計役の生徒が報告書を読み上げ、例年の六倍強という異常な稼ぎに生徒の間から感嘆の溜息が漏れる。ここまで成功すると、逆にエステルは謝礼金の高さが気になった。
「えっと、確かマーシア孤児院の建設費用分(百万ミラ)を除いた半分を報酬として設定した訳だから、二百万ミラの1/2は、ひゃー、百万ミラぁー!?」
ここまで単純な四則演算だといつぞやのレイヴンのケースと異なり、エステルでも計算違いすることなく正解を捻り出し、その異常な報奨額に大声を張り上げる。
「なあ、ヨシュア。流石にこれはちょっと不味いんじゃないか?」
普段はヨシュアから良識を諭される側のエステルが逆に倫理的な問題点を謳いあげる。
ジルの事前の半値交渉の成果で、ヨシュアのピンハネ分を差し引いても去年までの倍以上の義援金を福祉団体に寄贈できる訳だが、貧困地帯に差し伸べる援助の手は多すぎて困るということはない。
ましてや百万ミラという大金なら、どれだけ多くの人間が飢餓や病から救われるか切実さを訴えたが、そういう感情論をヨシュアは一顧だにしない。
「エステル、前にも忠告したと思うけど、ビジネスとプライベートのミラはきちんと峻別しないと駄目よ。私は当初の契約通りの報礼を受け取るだけ。もし、この件で道徳的な責任を負う人物がいるとすれば、それは私でなく、この商談を持ち掛けたジルの方でしょ?」
「ヨシュアの言う通りよ、お兄ちゃん」
中央の会長席で兄妹間の遣り取りを静観していた生徒会長が初めて口を挟み、ヨシュアの見解を全面肯定する。
「判っていると思うけど、ヨシュアがいなければここまでの大盛況はまず望めなかったし、何よりも自分が負けた時に備えて耳をそろえて五十万ミラの現金を用意してきたそうじゃない。ヨシュアはちゃんとリスクを負担したのだから、こちら側も筋を通さないとね」
「お誉めに預かってどうも。けど、一つだけ訂正させてもらうけど、学園祭が成功したのはエステルやクローゼをはじめ桜役の生徒や騎馬戦や屋台を手伝ってくれた女子とか、参加した生徒一人一人がしっかりと自分の役割を果たしたからよ」
ヨシュアの働きなくして成り立たなかったのは事実だが、ヨシュア一人でも成就しない。
集団で何かを成す以上、個人間に仕事量の差が出るのは当然。それがリーダーでありエースだったりするだけで、役割分担の違いはあってもそこに優劣は存在しない。
それが一つの目標に向かって力を併せる仲間という名の運命共同体。以前のような自分一人が特別だという自意識過剰は今のヨシュアとは無縁だ。
「そう言ってもらえると会長冥利に尽きるけど、今回の一件は明らかに私の戦略ミスだったわ。つまらない小細工で保険をかけたりしないで、最初からヨシュアに一任しておけば良かった」
腹黒完璧超人の企画能力を大きく読み違えたのがジルの誤算。彼女に金銭負担リスクを背負わせなければ、ヘソを曲げられて歩合云々に話が進展することなく、遊撃士らしい薄給で寄付金を掻き集めてくれただろう。
その場合、根が怠け者のヨシュアが今ほど精力的に働いてくれたかについて疑問符がつくが、いずれにしてもジルにも生徒会長としての立場があり、数万ミラの端数ならともかく、百万ミラもの纏まった大金を寄付金の中から他者に譲渡出来ない内情を聡いヨシュアは察していた。
「さて、筋を通してくれるそうだけど、実際にはどうするの? 幸いお互いに言質を与えた訳でも物理的な証文があるでなし、それを口実に口約束を反故にする?」
敢えて挑発的な態度で、ジルに選択を迫る。元々銭金に大して執着があるわけでなく、悪友との知恵比べで始めたマネーゲームなので、意表をつくような切り返しを期待しているからだ。ジルの方も今後も末永くヨシュアとの友情を維持する為、暗黙の取り決めといえど信用を損ねるつもりはなく、ミラの代わりに一枚の書状を差し出した。
「ジル、これは何かしら?」
そう尋ねてはみたものの内容は自体は把握している。所謂、借用書という奴だ。文面には『
「見ての通りの借金の証文よ。今の私は文無しだけど、何れはルーアン市長の座について私腹を肥し…………いえ、市を更に潤わしてジャンジャン稼ぐつもりだから、出世払いということでどうかな?」
代々伝統的に旧貴族のダルモア家が独占してきた世襲に近いルーアンの市長制度に将来、割って入る構えのようだ。あまりの見切り発車というか、世間的には紙屑同然の空手形で手打ちを持ち掛けたジルの厚顔さに思わず吹き出してしまった。
「あっはっはっはっはっ。ジルって本当に面白い。エステルだって、こんな紙切れ一枚で借金を棒引きしようとはしなかったわよ」
先のゴタゴタで溜まった鬱憤を晴らすべく、琥珀色の目に涙を溜めゲラゲラと大笑いしながらバンバンと机を叩くと、急に真顔になって正面からジルを見つめる。
「いいわよ、こう見えても私は青田買いって大好きなのよ。五年前に購入した不良債権は未だに芽が出ないままだけど、生徒会長様の将来性を買わせてもらうとするわ」
そう宣言して、ヨシュアは完全に矛を納める。隣の席に座るエステルは軽く胸を撫で下ろしたが、「ところでヨシュアの言う不良債権って誰のことだ?」と呟いて、「お前のことだよ、朴念仁」と全員から心中で突っ込みを食らう。
前回の一件で少しは情緒が芽生えたかと思ったら、一歩進んで二歩下がるのがいかにもエステルらしく、ヨシュアは天を仰ぐ。
「ふーう、話が纏まったのはいいけど、これでクローゼ君を笑えないぐらいの借金嬢王になってしまったわね。市長の座を伺うといっても早くて十年先の話だろうし、こんな負債塗れの穢れた身体じゃ嫁ぎ先を探すのすら一苦労だわ」
チラリと隣の席の副会長に流し目を送った後、口ほどにはまるで悲壮感を感じさせずに両肩を竦める。
嫁の貰い手はともかく、市長選に関しては意外と早くチャンスが巡ってくるかもしれないのを予見していたが、ヨシュアはその事には触れずに視線でジルに人払いを促す。
阿吽の呼吸でヨシュアの思惑を悟ったジルは、「事後処理はほとんど完了したから、クラブハウスの方で寿司を食べに行っていいわよ」と自分とハンス以外の生徒会の面々を退出させた。
「これで良かったのかな、ヨシュア?」
「ええ、ここから先はマーシア孤児院絡みの込み入った話になるからね」
「そんな大事な案件に、俺やジルがいてもいいのかよ?」
守秘義務が伴うクエストの内情に自分らのような部外者が首を突っ込んでも良いのかハンスは首を傾げたが、ここから先は二人の協力も必要なので敢えて会長副会長のペアに居残ってもらった次第。
「まあ、後は寄付金で孤児院を建て直すだけだからな。今更機密保持も何も……」
「このまま何事もなく、事が推移すればいいけどね」
学園祭を無事にやり遂げた達成感から、やや気持ちを弛緩させて楽観論を口走ったエステルに意味深な警告をして、再度緊張感を漲らせる。よく『遠足は家に辿り着くまでが遠足』と云われるようにヨシュアの中では事件は何一つ解決しておらず、むしろ、これからが本当の始まりだ。
「このクエストを手掛けた時からずっと疑問に思っていたけど、犯人は何を目的に孤児院を焼き払ったのか? 普通に考えれば院長個人への私怨か、あるいは孤児院そのものが目的の二つよね」
「ヨシュアさん、前にも言いましたけど、テレサ先生のような希有な善人が人から恨みを買うことは絶対に……」
「それは判らないわよ、クローゼ。善人であればあるほど、その真っ直ぐな生きざまを妬んで逆恨みされるという理不尽なケースも有り得るから」
「狂おしいほどに他者を憎悪した経験のない、真っ当な人間には理解できないだろうけど」
かつて太陽のような少年の眩しい光に目を焼かれた闇の眷属は自虐するように嘯く。
ヨシュアもクローゼも先の蟠りが完全に解消された訳ではないが、今は私情を持ち込める場ではないので私心を抑えている。
「とはいえ、可燃燐まで持ち出したプロのエージェントにしては続報がないのは不自然だから、個人を対象にした怨嗟説は一時保留にしても良さそうね」
となると、必然的に孤児院の消失そのものが目的だと推測されるが、問題は
私怨説は先程却下され、一時愉快犯と目されたレイヴン説には色々と無理な点が目につく。消去法的に残されたのは、最もあり触れたミラ絡みの犯罪。ヨシュアはここではじめて秘密主義を貫いてきたダルモア市長の名前をあげて、一堂を驚愕させる。
「全ては状況証拠に過ぎないけど、そう考えれば辻褄が合うのよ」
寄付金の件でテレサ院長と話した際に孤児院に買収の話が持ちあがってないか尋ねてみたら、案の定、半年程前に秘書のギルハートが地上げの相談に密かに訪ねていた。
相場の倍値で買い上げる上に別地に孤児院を用意する至れり尽くせりの美味い商談だが、この土地に亡き夫との大切な思い出を残す院長は丁重にお断りした。
世の中にはミラでは買えない物や大金にも心動かされない人物などは確かに存在するもので、仮に相場の十倍値だったとしてもテレサは首を縦には振らなかっただろう。
「うーん、そりゃ、あのあたりは一等地だし、デュナン公爵みたいな金に糸目をつけない成金相手に別荘地を分譲すれば数千万ミラの収益も見込めるだろうけど、現職の市長が犯罪に手を染める動機付けとしては弱くないかな?」
ジルが軽く頭を捻りながらも、ヨシュアの名推理に待ったを掛ける。
言う迄もなく放火は凶悪犯罪。もし、事が露見したら失うのは市長職だけでは済まされず、いくら莫大なミラが転がり込むとはいえリスクが高すぎる。ダルモアのような裕福家がそんな危ない橋を渡るのか疑問を呈してみたが、これも心当たりがある。
「実は今ナイアルさんが、ダルモア市長の個人資産を洗い出している最中よ。もし、私の勘が正しければ、ジルとは比べ物にならない額の負債を市長さんは抱えている」
メイベル市長の騎馬戦参入などあれだけ記者心を擽るイベントが満載ながら、途中からナイアルの姿を見掛けなのを不思議に思っていたが、既にヨシュアの手引きで別の行動を起こしていた。
蛇の道は蛇というか、あの情報通のナイアルのことだから、近日中に市長の財政状況を丸裸にするのは疑いなく、真偽は追って判明する。
「だとしても、やはり僕には納得しかねます。仮にダルモア市長が一億ミラの借金をしていたとしても、あの豪邸を売り払えばそのぐらいのミラは調達できた筈です。それなのに……」
「クローゼ、あなたは本当に良い人ね」
嫌味ではなく、ヨシュアはクローゼの潔麗性を素直に評価する。
クローゼやアリシア女王個人に留まらず、アウスレーゼの一族は自らの犠牲を厭わない者も多い。中には王家に代々伝えられる
本来なら王族、政治屋、企業家など人の上に立つ人物は有事の際により大きな責任を果すべく数々の特権を授けられている筈なのだが、残念ながらリベール王家は例外的存在。ほとんどの場合は今回のダルモア市長のように土壇場で我が身の保身を優先し、そのツケを無力な下々に押し付けようとする人間の方が多数派なのだ。
「まあ、どうのこうの謳っても、今まで私が述べた推理は単なる憶測に過ぎないから、『遊撃士協会は内政不干渉の原則』もあるし、今すぐダルモア市長をどうすることもできないわね。けど、色々と策を施したお陰で向うの方から勝手にボロを出してくれる可能性も僅かながらにでてきたわ」
チラリと窓の外を眺める。劇前にどこぞに出掛けていたギルハートが王立学園の鉄門を再度潜る姿が目に映った。ルーアン市長秘書は小脇に鞄を抱えて大きく息を切らせながら、無人のグラウンドを突っ切ってクラブハウスの方角へと歩を進めていた。
◇
「テレサ院長。この度はお祝いと同時に謝罪を申しあげる。やはりエイドスは正しい者に微笑まれたが、本来なら児童福祉施設の再建は市の行政で取り扱うべき事業である。だが、市の財政も厳しくてついつい後回しにしてしまい、ジョセフの愛したマーシア孤児院を見捨てるような形となってしまい……」
「そ、そんな頭をあげてください、ダルモア市長」
周囲の学生らがザワザワと騒めく衆人環視の前。秘書共々深々と頭を下げるダルモアをテレサは困惑しながら必死で窘める。市長は一礼すると秘書に命じて鞄から一枚の小紙を取りださせた。
「せめてもの罪滅ぼしという訳ではないが、孤児院の再建を市の方で執り行わせてもらえないだろうか? 幸い私は建設業者にも顔が利くので、所定の金額よりも安く仕上げることも可能だ。先程ギルハート君が一走りして契約書を作らせたので私の顔を立ててくれると有り難いのだが」
平身低頭に見せかけて、その実、実に押しつけがましい態度でダルモアはテレサ婦人に契約を迫る。彼女としても元々降って湧いた望外の話なので、現職の市長にここまで御足労させてその願いを無下にできよう筈もない。そのまま書類を手にしたが、その悪魔の契約に歯止めをかける者達がいた。
「お待ちください、テレサ院長。その契約書の文面を拝見させては頂けないでしょうか?」
いつの間にやら、遊撃士兄妹がクラブハウスに侵入している。錯覚でなくダルモア市長が強く舌打ちしたのをエステルは驚異的な動体視力で確認した。
「ヨシュアさん?」
「ぶしつけながら、私はリベールではあまり馴染みがない大陸の建築法ほかエレボニア憲法にも些か精通しております。僣越ながら契約者に不利な特記事項が書面に盛り込まれていないか確認できますが?」
もはや、ダルモア一派への不信感を包み隠そうともしないヨシュアの慇懃無礼な態度に市長と秘書は息をのみ、次の瞬間ギルハートは沸騰する。
「ご無礼な、ルーアンの市長が用意された契約が信用に値しないとでも……」
「これはこれは、ギルハート先輩とは思えない不見識ですね」
「メイベル?」
先程は子供たちのイザコザをスルーしたメイベル市長も目の前の無法は見過ごせなかったので、メイドと連れ立ってヨシュアの側に加担する。
ライバル都市の最高責任者同士が対峙し、一堂は沸き返る。メイベルとリラは例のブルマ姿なので格好つけて仁王立ちしても今一つ締まらなかったが。
「子供のお遣いじゃあるまいし、百万ミラの商談なら法知識に長けた第三者の立ち会いの元、契約書に不備がないかを確認するのは当然の話。そんなことは市長の信頼以前の問題でしょう? まさかルーアン市では海外との商取引でも、そんないい加減な口約束に終始しているのですか?」
商業都市の市長が、これ以上ない正論を突き付ける。ギルハートにニガトマトのように顔を真っ赤にし、ダルモアも明らかに苦虫を噛み潰している。
不安そうに彼女の手を握る子供達を挟んで、二つの陣営の間柄が険悪になる。テレサは軽く嘆息すると、文面を読まずにスラスラと手書きでサインし書類をギルハートに手渡した。
「テレサ院長?」
あまりに想定外の事態に度肝を突かれたヨシュアはキョトンとする。契約書に埋め込まれたであろう不正を暴き動かぬ証拠として抑え、あわよくばそれを橋頭堡に市長の犯罪を立証していく目論見が全て御破算となる。
「ヨシュアさん、お気持ちは大変有り難いのですが、私のことで諍いを起こさないで下さい」
決して事勿れ主義ではなく、両者の対立を潔しとしなかったテレサは下駄をダルモア市長に預けることにした。
「多くの人達の善意に支えられて、孤児院の再建が叶ったのです。なのに、どうして市長さんの善意を疑うことができましょうか? ダルモア市長、あなたを信じますので、どうぞ良しなにして下さい」
善人ここに極まり。ギルハート秘書は良心の呵責に耐えかねる表情をしていたが、「確かに任された」とダルモアは満足そうに頷いた。
「なるほど、確かにクローゼが言うようにテレサ院長は本当に良い人だけど、判子社会の恐ろしさを今一つ判っていらっしゃらないようね」
帝国では連帯保証人というサイン一つで他人の借金を全面的に背負わなければならない意味不明な制度もある。毎年多くの人間が自分だけでなく家族さえも路頭に迷わせ、実はカプア一家もその悪法の被害者だったりする。
軽蔑した訳でもないだろうが、諦観の表情を浮かべたヨシュアは彼女を見限ることにしたのか、「余計なお節介を失礼しました」とテレサにお辞儀するとクルリと踵を返した。
「おい、どうするんだよ、ヨシュア?」
「どうやら市長さんのツテで無事に孤児院も再建されメデタシメデタシの結末を迎えるようだし、私たちは当初の予定通りツァイスに向かうことにしましょう」
そう一方的に言い捨てると、クローゼ達に別れも告げずに慌ただしくジェニス王立学園の敷地を後にする。エステルもマーシア孤児院を見捨てるような義妹の言動をなぜか追求せずに大人しく従う。
尚、ヨシュアが懐柔された所為で振りあげた拳のおろし所を失ってしまい大層バツが悪くなったメイベル&リラのボースペアは忽然とクラブハウスから姿を消していた。
◇
こうして、クローゼから託されて二週間の長きに渡った『学園祭の手伝い』のクエストは完了。翌日、ジャンから推薦状を授かった二人は定期船でツァイスへと旅立った。
「よし、あの遊撃士兄妹がルーアンから消えたのは確かだな?」
「はい、市長。乗客名簿にも二人の名前が乗っていましたし、わたくしも姿を見られる訳にいかなかったので遠目からでしたが、あの二人がツァイス行きの便に乗り込んだのを視認しました」
「ふーむ、何か勘づいたような雰囲気だったが、単なる杞憂だったか。ブレイサーと背伸びしても所詮は世間知らずのガキに過ぎぬな。でも、用心に越したことはない。定期船が出航した以上、一日二日でルーアンに戻れる筈もないし、今夜中に例の計画を実行するとしよう」
「……了解しました」
◇
その夜、マノリア村の風車小屋でテレサ院長から預かった寄付金の寝ずの番をしていた二人の遊撃士が、賊の一団に襲われて重傷を負い再建資金を強奪される事件が発生。
多勢に無勢とはいえ正遊撃士がみすみす不覚を取ったのも意外だが、それ以上に人々を驚かせたのは襲撃犯の正体はいつも倉庫にたむろしているチンピラグループ『レイヴン』だったという。
とうとう一連の黒幕の正体が露見。事件は急展開を迎えたが、主役となるブライト兄妹は空の遥か彼方で、ルーアンの地にはいない。
長く続いた学園編が幕を閉じて、風雲急を告げるルーアン完結編に続く。