1942年11月15日 午前1時20分
南太平洋 ソロモン諸島 ガダルカナル島沖
通称 『鉄底海峡』
どす黒い曇天の下。ブゥウン、と蝿群の羽音のような耳障りなそれが響き渡った瞬間、満身創痍の艦娘たちの顔が蒼白に染まった。一斉にして音の方向を見上げれば、墨汁の飛沫を散らしたような無数の黒い染みが曇天にまだら模様を描いている。幾塊もの暗雲を成して迫り来るそれらは、深海棲艦の放った艦上爆撃機の密集編隊だった。その数およそ40機以上。邪悪な憎悪を隠さない敵艦爆の大編隊が、制空権を奪われて無防備を晒す艦娘たちに狙いを定めていた。
「霧島、逃げてぇッ!」
後方を振り返った榛名の悲鳴は爆音によって無情に掻き消された。格好の獲物を見つけた敵艦爆が、損傷のために一人艦隊から遅れていた霧島にとどめを刺さんと雪崩を打って急降下を始めたのだ。ギクリと反射的に首を振り仰いだ霧島の直上、艦爆胴体底部の爆弾投下扉が顎を開き、有効搭載量限界まで詰め込まれていた対艦用500ポンド徹甲爆弾が姿を現す。触発信管を内蔵し、弾殻を特殊甲鈑で被覆された爆弾は、対空機銃弾を悉く跳ね返して確実に戦艦の装甲を抉る。そして、元より大破寸前の霧島はそれらに対する術を持たない。急降下によって倍加される重力が最大に達した刹那、艦爆が次々と爆弾を投下する。回避する隙間を一切与えない、容赦の無い高密度絨毯爆撃の雨。そう、まるで豪雨だ。黒い雲から降り注ぐ黒い雨。私は雨に打たれて倒れるのか。避けられない己の終焉を受け入れ、弛緩した腕がだらりと下がる。己の失態に大切な姉妹が巻き込まれなかったことだけがせめてもの救いだった。ふっと口端を歪めた霧島を目にして、榛名は妹の絶望と諦観を悟った。
「霧島ぁッ!!」
妹の元に駆けつけんと踏み出すが、その動きに先んじた金剛が両腕を広げて立ち塞がった。思わず殺気立って睨んだ榛名に、金剛もまた強い眼差しのみを押し返して諭す。間に合わない、と。流血に濁る金剛の瞳は、これ以上の犠牲を看過できない責任と妹を見殺しにする呵責で今にも張り裂けそうで、榛名は己の未熟と無力に総身を戦慄かせた。
ヒュウゥ。炸薬を満載した鉄塊の風切り音が姉妹の胸を悲痛に切り裂く。霧島の白い衣に爆雷の影が暗く落ちる。もはや間に合わない。間に合ったとしても、圧倒的な物量の前には自慢の主砲も高角砲も意味を成さない。この状況を覆して霧島を助け出す奇跡など、どう手繰り寄せようとも得られない。
否、これは最初から決まっていた結末だ。誰もが目を背けてきた現実が突き付けられたのだ。
しょせん艦娘は、かつての史実のレールを走る過去の異物に過ぎない。レールの先には何もない。どんなに死力を尽くしても、どんなに奇跡を願っても、私たちでは運命には抗えない―――。
――――しかし、未来で生まれた彼女になら、出来る。
霧が立ち籠めたのは、まさにその時だった。
巨人が半身をもたげるように突如足元から湧き上がってきた膨大な濃霧は、周辺一帯を瞬く間に白く満たした。渦を巻く霧は触れれば掴めそうなほどに濃ゆく、自分の鼻先すらボヤけるほどだ。立ち尽くす霧島の影が、見る見るうちにせり上がる靄の壁に隠される。艦娘たちが装備する貧弱な電探では電波を屈折させる重厚な霧を見透せない。霧島を見失った榛名が噛みあわせた奥歯を強く軋ませる。
最期すら見せないつもりか。私の、ただ一人の妹の死に様を。冷酷な運命を呪う榛名の耳に、聞こえるはずのない囁きが届く。
『さようなら、姉さんたち。お先に逝きます』
ハッと霧の向こうに霧島の寂しげな横顔を幻視して、胸が切なさに締め付けられる。見開いた瞳に涙が浮かび、昔日の姉妹の思い出が脳裏を風のように冷たく駆け抜けていく。楽しかったあの日々が、もう二度と還らぬものになろうとしている。戦うために艦娘になった。後悔はしていないし、いつか訪れる結末のことも理解していた。それでも、心が抗わずにはいられなかった。
爆雷の飛来音が雷鳴のように鳴り響く。500ポンド爆弾の衝撃波は並大抵のものではない。巻き込まれまいと必死の形相の金剛が榛名を力づくに引き離しにかかる。直撃が近い。惜別が、近い。
せめて散り際だけでも看取らねばと榛名は金剛の手を無理やりに振りほどいて身を乗り出し、
次の瞬間、視界の隅を銀色の影が走り抜けるのを見た。
それは艦娘のようだった。痩せた身体に角張った艤装を纏った黒髪の少女だ。腕に携えた砲塔はか細く、僅かに一本のみ。背負う艤装は少女の体躯には不釣り合いな大きな“箱”。戦艦の威容には遠く及ばぬ、薄鈍色の奇妙な駆逐艦だ。
だが、その速力は恐ろしく速い。榛名たちの横合いをすり抜けて驀進する駆逐艦は、聞いたこともない機関の唸りを上げ、二人の耳朶を真横から劈いた。煙突からの排煙が見えない。蒸気タービンエンジンではない。艦娘とも深海棲艦とも明らかに異なる桁違いの高出力と加速力は、まるでジェット機のそれを連想させる。
「とまれ! どこの所属―――」
気付いた金剛が見覚えのない駆逐艦に向けて鋭く制止するも、その背中は瞬く間に立ち籠める霞の内に猪突して姿を消した。まるで霧の向こうを完全に見通せているような迷いのなさだった。無色の排煙は微かも視認できず、海波と機関音すら遠ざかればもはや現実だったのかすら怪しい。あれは世界が垣間見せた何かの前兆なのか、はたまた飽和した思考から染み出した幻想か。榛名と金剛はただただ忘我して未知の駆逐艦の姿を霧の中に追うしかなかった。数秒足らずの交錯と激しい波飛沫の中、榛名が僅かに視認できたのは、駆逐艦の艦首装甲に刻まれた『174』という謎の数字のみだった。
霧の中、影法師のごとく立ち尽くしていた霧島がガクリと膝を折る。焼け落ちた艤装には昔日の勇壮な面影は微塵もない。姉たちには毅然とした最期を見せていたかったが、もう立っていることすら限界だった。気を抜けば今にもバッタリと仰臥してしまうだろう。醜態を隠してくれるこの霧には感謝している。
「霧島、霧の中に沈む……なんて、神秘的で気に効いた演出。何より、四肢が散り散りに吹き飛ぶ醜い様を姉さまたちに見られずに済むことが一番素敵ね」
そう、冷笑気味に独り言ちた霧島の耳に、ヒュウゥと死神の声が忍び寄る。途端、腹をくくったはずの覚悟があっさりと叩き折られた。恐怖で息がくっと詰まり、唇がザラザラに乾き、糸をきつく張ったような耳鳴りに思考が寸断される。ああ、情けない。艦隊の頭脳を自称しているのなら、名高い金剛姉妹の末席に連なる自覚があるのなら、最期まで誇り高く振る舞えないでどうする。
絶叫しそうになる己を叱咤し、震える指先を拳の中に握り締め、グッと顎を引いて来たる死神を待ち構える。
「さようなら、姉さんたち。お先に逝きます」
せめて最後まで目を背けることはしまいと瞼に矜持の力を込めて歯を食い縛る。白い霧の障子に昏い輪郭がじわりと浮かぶ。もう一度、今度は強く覚悟を決めてカッと見開いた目の前で、無数の鉄槌の切っ先が靄の膜を突き破った。鉄塊から直接削り出したような鋭い弾頭が目と鼻の先まで高速で迫る。今からこれに貫かれるのか。きっと痛いだろうな。堪え切れなかった雫が一粒、頬を伝って海面に波紋を打つ。漆黒の死がついに霧島に届く、その刹那。
銀色の背中が、両者の間に敢然と躍り出た。
「位相配列レーダー始動、イージスシステムデータリンク完了、目標指示装置脅威評価策定完了、目標識別番号1から90までセット、艦対空ミサイル発射準備良し、Mk41ミサイル垂直発射装90セル全門開放」
流れるような台詞に弾かれ、少女の艤装が内奥から火を噴いた。側面の発射炎退避路から噴出した余剰熱波が海面を赤銅色に染め上げる。艤装表面、碁盤の目のような発射口が同時に勢い良く開き、目も眩むような閃光を輝かせた。運命に『否』を突きつける希望の力。絶望を阻む勇気の光。爆炎の翼を背に纏い、銀の艦娘が力強く謳う。
「全弾発射」
瞬間。轟音と衝撃波を置き去りに、90本の炎の剣が天高く屹立した。屹立する剣の束は、遥か彼方から見れば天に突き立つ巨大な剣山の如く見えたに違いない。灼熱する刃の先端に細長い飛翔体が覗き見えたのは一瞬で、それらはあっという間に音速を突破して視界から飛び去った。弾頭先端部に内蔵された自発式電波誘導装置が迷うこと無く己を爆弾と敵艦爆に体当たりさせる。90基全て、狙いを外すことはなかった。
次いで霧島に降り注ぐ、激しい光、音、風圧。間近に太陽が出現したのではと疑うほどの強烈な閃光と熱波に思わず手で視界を覆う。
だが、それだけだった。空気の塊以上の衝撃が霧島に届くことはなかった。火球が急激に収縮する。爆光が少しずつ光度を落とす。奇妙な静けさが雪のようにゆっくりと降り積もっていく。爆弾の落下音も敵機の飛来音も聞こえない。
「―――お母さん」
不意に、幼子のような声がした。親愛の情を隠さない甘えるような声は、なぜだか霧島に似ているような気がした。聞き覚えのないはずなのに、誰よりも近しい血の繋がりを感じさせる。情愛、感動、悔恨、悲哀。膨大な感情を内包した声が、嬉しそうに、悲しそうに、震える喉からぽつぽつと絞り出される。
「助けに来たよ。本当は会えないはずだけど、奇跡が起きたの。クルーのみんなが力を貸してくれたの。貴女を護れてよかった。建造されてよかった。この力を手に入れられてよかった。……どうか、元気でいてね、私のお母さん」
「貴女は、一体―――」
視界の明滅が回復する。目の前を覆っていた手を翻し、霧島は少女に問う。
しかし、そこにはすでに何者の影もなかった。いつの間に夜が明けていたのだろう。目に映る光景いっぱいに、世界を縁取るような地平線が青々と輝いている。爆風は濃霧どころか遥か上空の曇天すら吹き飛ばして、眩い青空と暖かな朝日の陽光が霧島を労るように降り注いでいた。空を埋め尽くすほどだった爆弾や敵艦載機の機影など、存在すらしなかったかのように跡形もなくなっていた。
「霧島っ!!」
夢から醒めたような面持ちで呆然とする霧島の横腹に、突然ドスンと強い衝撃が走った。
「……痛いですよ、榛名姉さん」
海面に押し倒された格好のまま、霧島は自身の胸に顔を埋めて離れようとしない榛名の震える背中にそっと手を置いた。頭を傾ければ、金剛を先頭にして他の仲間も目に涙を浮かべて駆けつけてくる。ここに来て、霧島はようやく自分が生き残ったことを―――名も知らぬ、けれども誰よりも絆の深い何者かに護られたことを実感したのだった。
戦艦霧島は、その後深海棲艦との戦争を四姉妹と共に最後まで生き抜き、戦後は後人の育成と組織の安定に立派に務めたという。
謎の艦娘の正体は、結局謎のままであった。
2015年11月15日。
海上自衛隊史上、前代未聞の事件が起きた。英国訪問を終えてソロモン諸島沖を航行していたイージス護衛艦『きりしま』のミサイル格納庫から90基ものスタンダード艦対空ミサイルが突如消失したというのだ。盗難された形跡もなく、乗員による手違いも、ましてや謀反の可能性もなかった。警務隊及び情報保全隊による秘密裏の捜査が進むにつれて、その日の午前1時20分、乗員全員が一時的な記憶喪失に陥っていたことが判明した。それはちょうど、海底に眠る旧海軍の戦艦『霧島』を追悼する館内放送が流れた時刻でもあった。取り調べを受けた乗員は皆一様に「霧島を助けたいと思っただけ」という曖昧な証言を繰り返すだけだった。そのあまりの突飛さ故にこの不祥事は厳重に秘されることとなり、非常時用にダミー会社を通じてプールされていた機密防衛費をゴッソリと消費して、事態は有耶無耶とされた。消失の原因は今なお不明のままである。
護衛艦『きりしま』。
21世紀の日本国海上自衛隊が保有する、高性能防空システムを備えたこんごう級ミサイル搭載護衛艦弐番艦である。旧石川島播磨重工業製COGAG方式ガスタービンエンジンを4基搭載し、前後両甲板に合わせて90門ものミサイル垂直発射装置セルを持つ重武装の本艦は、最大500kmという驚異的な索敵範囲を誇り、その半径内に存在する200以上の目標の同時探知・追撃を可能とし、20以上の目標を同時に迎撃する能力を保有する、洋上対空防衛に特化した最新鋭護衛艦である。
なお、艦番号は174が当てられている。