「紫姐さん、起きてたんだ」
「あら、起こしてしまったかしら」
月明かりが差し込む縁側で、扇を仰ぎながら月見酒をしていた紫を、用を足しに行こうとしたトオルが偶然発見する。
「一人でなんて珍しいね、藍さんは?」
「もう寝てるわ。今日はなんだか寝付きが悪いから、久方ぶりに月を見ながら一人酒に興じているところよ」
「月は好きなの?」
「ふふ、好きといえば好きだし、嫌いといえば大嫌いよ」
「変なの」
紫の回答に、特に興味を持たなかったトオルは、寝ぼけたまま紫の隣に座る。
「風邪を引くわよ。布団で寝なさい」
「いや、せっかくだし起きてるよ。綺麗なものは皆で見る方が良いらしいよ」
「それは何故かしら」
「仲良くなるからって、本に書いてあった」
「あら、私とトオルは十分に仲良しじゃない」
「いいでしょ、もっと仲良くなっても」
頭がコクン、コクンと揺れ、今にも縁側から転げ落ちそうになるトオル。
その姿を見て、紫は赤面になっている顔を隠すように扇で顔を隠しつつ、そっとトオルを倒し、自身の膝に頭を乗せさせる。
「これなら楽に見ることができるでしょう」
「ん……ありがと」
数年後には恥ずかしがって受け入れないであろう膝枕を、まだまだ幼いトオルは素直に受け入れる事ができる。
そんな純粋な彼の姿を見て、紫は柔らかな笑みで微笑む。
「そういえば、眠れないとか言ってたけど。怖い夢でも見たの?」
「怖い、ね。夢ではないのだけれど______悍しい想像をしてしまって眠れなくなっているのは確かよ」
妖怪の賢者である紫が、夜も眠れなくなるほどの悍しい想像。
一体どれほどの、人の脳では到底考えられないような酷たらしい想像なのだろうと、トオルと同じく厠に行こうとした藍が廊下の角で密かに考えていると、
「貴方達が此処に来るまで、考えることもなかったことよ」
紫の口から、そんな声が響いてくる。
「(ああ、そういうことか)」
藍は紫の今の発言のみで察することができた。
これまでに、傍から見なくても親バカだと分かる 霊夢とトオルに対する紫の溺愛っぷり。そんな彼女が怖れているもの。
それは________________
「霊夢とトオルにもしもの事が起きたらと、最悪の事態を考えてしまうの」
「もしもの事?」
「ええ、特に霊夢は妖怪退治を生業とする手前、常に危険を伴うの。その万が一を起こさない為に、修行を施させているのだけれど……」
トオルの頭を撫で、盃に入った酒を一呑みする。
紫自身、酒には相当強いため、今ある酒瓶程度の量では到底酔うことはないのだが、それでも呑まずにはいられない事なのであろう。
「大丈夫だよ」
「……何が大丈夫なのかしら?」
「紫姐さんや霊夢が安心出来るように、悪い妖怪は僕が全部やっつけるから」
「えっ____________」
突拍子もない事を言い放つトオルに、紫は撫でる手を止め、彼に目をやる。
「すぅ……すぅ……」
しかしトオルは既に夢の中へと誘われていた。
「戯言よね……?」
トオルの発言に、引っ掛かりを覚える紫。
だがしかし、そんな引っ掛かりもすぐに打ち消すように、紫は首を横に振る。
「まさか、ね。トオルは臆病だから、そんな事するわけないものね」
そう呟き、紫はトオルを抱え寝室へと向かった。
____________その翌日に、トオルが花の妖怪に戦いを挑みに行くとも知らずに。
________________________________________________
そうだ、あの後僕は幽香さんに喧嘩を売って、先程のような特大妖弾を撃たれたときと同様に、紫姐さんに止められたんだ。
その時に僕は、紫姐さんに封印を施された。
その封印は、僕の記憶だけでない。
僕自身の
「嘘、でしょ?」
自分の身体が半透明に透け、掌の先にある地面が薄っすらと目視できる。
「迷子かしらね」
「普通の人間ではないのは確かだけど」
「この人間、何処かで見たような……」
能力の暴走____________紫姐さんが危惧していた事態。
今僕の身に起きているのは、今まさにこの状態の事なのだろう。
記憶が戻り、本来解かれることのなかった十数年分の蓄積された有り余った能力の詳細が脳内だけでなく身体全体へと送り込まれてくる。
『ありとあらゆるものを避ける』程度の能力。
紫姐さんが名付けたその能力は、その名の通りありとあらゆるものを避ける事ができる。
己の存在を、全ての生物の記憶から避ける事も可能だ。
____________例え自分すらも。
自身が自身の存在を認知せず、誰からも認知されることもないとしたらどうなるのか。
答えは単純、自分が気付かないうちに、息絶える。
当たり前だ。
自分は生きていると認知することもできず、それを教えてくれる人もいない。
本当の孤独死だ。
僕の身体が今透けてしまっているのも、存在が朧気になっているため、それが視覚化されているからだろう。
恐らく、僕の身体が誰からも見ることが出来なくなったとき、その時が僕の命日になる。
「ほんとに、僕のこと覚えてないの?」
「生憎だけれど、私の記憶に貴方のような人間は見たことないわ」
何故か自然と視界が霞んでいく。
紫姐さん、ごめん。
紫姐さんはこの事を危惧して僕の記憶を封印していたんだ。
こんな事になるなら、下手な詮索なんてしなければよかった。
今になってそんな後悔をしたところで何もならないのに。僕の頭はそればかりで埋め尽くされていく。
僕に残された時間は少ない。
もって2、3日ぐらいだろうか。
そんな短期間で、この能力を扱いこなせる気が微塵もしない。
「そ、そうだ紫姐さん! また封印を施してよ! 能力を封じ込めるやつできるでしょ!」
「? ……何故それを知ってるの」
「それは僕に封印をかければ思い出すから!」
そうだ、封印が解けたのなら、またかけ直してもらえれば良い。
これが上手くいけば、いつもの生活に戻ることができる。
「封印、ねぇ。得体のしれないこいつに、手の内を見せてもいいの? さっさと始末したほうがいいんじゃない」
「……」
ちょっと待ってよ。なんでこの場面で萃香がでしゃばってくるんだよ。お願いだから何も言わないで、僕にとってとてつもなく重要な場面なんだから。そして紫姐さんも考え込まないで、その姿を見るだけでも泣きそうになる。
「……萃香の言うことも一理あるわね」
「なら__________」
「けれども、幻想郷は全てを受け入れるよ。得体のしれなくとも、封印を自ら所望してくれるのなら、それに越した事はないわ」
「紫姐さん……!!」
正直、そのまま襲われるのではないかと思ってたけど、流石は紫姐さん。
懐の広さは世界一だ。
これで一先ず安心できるだろう。
封印さえしてしまえば、後はこっちのものだ。
時間を掛けてこの能力を解明する。時間と紫姐さんの力さえあれば実現は可能だろう。
「さあ、そこの貴方。此方へ来なさい。お望み通り封印を掛けてあげる」
「う、うん」
言われるがまま前まで来ると、紫姐さんは閉じた扇子を此方に向け、何かしら詠唱を始める。
すると僕の周りが淡い光とともに結界が姿を現しだす。
これは僕の記憶にも残っている。この数秒後、一際大きい光を放てば封印完了だ。
これで一先ずは安泰だろう。
能力を抑え込めば、今の僕でも扱いこなすことができるはず。
いやぁ、本当に一時はどうなるかと思ったよ。
こんな簡単なことに気付かず、慌てふためいてしまうなんて、恥ずかしい限りだ。
そういえば、僕のことを忘れていた事を、紫姐さんは覚えてるのだろうか。それはそれで紫姐さん落ち込みそう……いや、それよりもまず太陽の畑に入った事について咎められるだろうな。
とりあえずまあ、一難去ったって事で__________________あれ、おかしいぞ。
なんで、紫姐さんは能力と一緒に、『記憶』も封印したんだ?
「____________えっ」
パリンと割れ、散り散りとなっていく結界を見て、紫姐さんは驚愕の表情のまま素頓狂な声を上げる。
いや、『なんで』じゃないだろ。昔の僕は既に
だからこそ、幽香さんとも渡り合えたんだ。
紫姐さんは記憶、というよりも______僕の頭にこびりついて取れない、あの
「私の力でも封印ができないなんて……貴方、本当に何者なの?」
「僕は、僕だよ。他の誰でもない……博麗通だ」
「博麗?」
「がははは! 面白いこと言うねぇ、この人間。嘘でもそんな馬鹿な姓を言わない方がいいよ」
紫姐さんでも抑えきれないほど暴走している能力を、僕が抑えられるわけないじゃないか。
どうしよう、どうすれば、どんな事をすれば能力を抑えられる。
このままじゃ本当に____________
考えるだけでも悪寒が走る。
「僕は……僕は……」
紫姐さん、僕はどうすればいいの?
そんな事、今の状態で言っても煙に巻かれるか、考えてくれている間に能力の暴走が進行してまた忘れられてしまう。
「____________紫姐さん、ごめん!!」
「! 何処に___________あれ」
何をどうすれば、この能力の暴走を止めることできるのかは分からない。
でも、このまま此処にいても何も解決せず悪戯に時間を過ごしてしまう気がする。
……いや、必ずあるはずだ。
紫姐さんですら制御出来なくなるまで暴走した僕の能力を、止める手掛かりが。
そうだ、霊夢ならまだ僕を覚えているかもしれない。僕の人生の中で、一番長く過ごしてきた家族だ。可能性は0じゃない。
そう考えながら、僕は紫姐さん達のいる太陽の畑を後にした。
急に飛び出したから、萃香辺りは止めにかかるかもとは思ったが、どうやら杞憂だったようだ。
紫姐さんは何か言おうとしたようだけど、今はそれを気にしている暇はない。
今はただ、霊夢のいる博麗神社に急がなければ。
このときの僕はまだ知らない。
この幻想郷には、とうに僕を知る人物などいなくなっていた事に。
知り合った者に遭えば遭う程に、絶望を味わう事になるなんて、知りたくもなかった。