─パチリと目を覚ますと、腕の中に就寝する前まではあった温もりが無かった。時計を見れば午前九時、ざっと六時間寝たことになる。部屋を出てリビングに行けば、沸騰している音と肉の焼ける匂いを感じた。キッチンに入ってそれを行なっている人物を確認すると、後ろから抱きつく。特に驚くこともなく呆れたように息を吐かれて、振り向かれてジト目で見られた。
「料理中にやめろって言っただろ。明日加」
「ん〜?そうだっけか?」
再度、溜息をつかれた。それでも振り払おうとしないのは慣れているからか、それとも無駄だと思ったのか。どちらにしろ、そんな彼女が愛おしい。
「おはよ、佳奈」
「おはよ、明日加」
甘えるように言えば、先程まで呆れてたとは思えない声で返してくれる。本当ならキスをしたい所ではあるが、流石にそれはしない。何故なら─
「二人とも終わったかい?」
「明日にぃじゃまー。ていうかお腹空いてるんだから手伝ってよ」
─
名残惜しいが、佳奈の背中から離れて朝食の手伝いをする。今日の朝食はトーストに味噌汁、トマト等の生野菜のようだ。味噌汁はもうほとんど出来ているようなので、まだ切り終わっていなかったトマトを手際よく切っていく。食器は浩一郎と直葉が持って行ってくれたようなので、後は料理を持って行くだけだ。
食事をしながら今日の予定を話し合う。
「今日はどうするの?」
「僕はこれから和葉のお見舞いに行こうと思ってるよ」
「まぁ午後三時までメンテ入ってるし、なんにしろログインするのはその後になるけど」
三人が病院に行こうと言っている中、佳奈は牛乳を飲み込んで「俺は行かないぞ」と言った。直葉が何故かと問いかけると、やることがあると言う。明日加は何か納得したように頷いた。浩一郎と直葉には分からないが、追求はしない。恐らく、和葉奪還の為だろうと当たりをつけたからだ。しかし─
(─お父さんとお母さんにはもう事情を話してたけど、他にも?)
まぁ、姉はこういう時に無駄なことはしない。故に直葉は考えるのをやめた。自分達に話さないということは、まだその段階ではないのだろう。
浩一郎がご馳走さまと言って食器を流し台に持って行った。
「あ、食器は水に浸けとくだけでいいぞ。洗うのは俺達がやるから」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな。直葉ちゃんは一緒に来る?」
「行く!」
急いでトーストをかっこむ直葉に「ゆっくりで良いよ」と浩一郎は言った。確かに今すぐにでも和葉の所に行きたいが、一緒に行くと言った人を置いて行くつもりは毛頭ない。それでも、そんな自分の気持ちを汲み取ってくれるのはやはり嬉しい。
ゆっくりで良いと言ったが待たせるのは悪いと思ったらしく、結局は口に含んだ物を牛乳で流し込んで顔を洗いに行った。食器はそのままになっているので、佳奈が自分のついでに流し台まで持っていく。
「昼飯どうするつもりだ?」
佳奈の問いに浩一郎は少し悩んでから答える。
「うーん…出来ればギリギリまで和葉のそばに居たいから、直葉ちゃんさえ良ければ外で食べてこようかな」
洗面所にいても浩一郎の言葉が聞こえたのか、「良いほー」と直葉の声がした。歯を磨いているのだろう。
佳奈は頷き、お互いに何かあったら連絡することを約束した。
『アルン』。そこはALOの中心部にある都市であり、 多種族が均等に入り混じっている場所でもある。巨大な戦斧を背負ったノーム、銀色の竪琴を携えたプーカ、黒いエナメルの革装備を纏ったインプ、ベンチで仲睦まじく寄り添うサラマンダーとウンディーネ、巨大な狼を従えたケットシー。そこに種族間の
午後三時過ぎではあるが、ログインしているプレーヤーは多かった。かくいうコウ達も既にログインしているのだが。今は四人で世界樹の根元、アルンの中央市街に向かっているところだ。混成パーティーを縫うように数分歩けば、前方に大きな石段と、その上に口を開ける門が見えてきた。ここまで来ると、世界樹がただの巨大な壁にしか見えなくなってくる。
石段を登り、門を潜ろうとした─その時、突如ユイがキリトのポケットから顔を出し、世界樹の上の方を睨みつけるように見上げた。
「ねぇねが、この上にいます」
困惑していた四人はしかし、ユイのその言葉に顔を強張らせた。
「本当かい?ユイちゃん」
「間違いありません!このプレーヤーIDはねぇねのものです。場所はちょうどこの真上です!」
聞き終わるやいなやコウは翅を広げ、空気が破裂したかのような音が響いたと思った時にはコウの姿が地上から消えていた。
「ちょ、コウにぃ!?」
リーファが慌てて叫ぶが、コウが急上昇を止める気配は無い。ここで立ち止まってる訳にもいかないので、三人は翅を広げコウを追う。
スプリガンは飛翔を得意とする種族では無いはずなのだが、コウに追いつける気配が全く無い。
「リーファ、全力でコウさんを止めてこい!!」
キリトの指示でリーファは自分の出せる最高速度でコウを追う。それは先程の比ではなかった。流石、飛翔速度では誰にも負けないと言っていただけのことはある。
塔のテラスで寛いでいたプレーヤー達が何事かと視線を向けてくるが、それらに構ってる暇は無い。コウから遅れること数秒、リーファも分厚い雲海に突入した。聞いた話では確か、雲を抜けてすぐが侵入不可能エリアに設定されていたはずだ。
雲を突き抜ければ、そこはシミひとつ無いコバルトブルーの空が無限に続いていた。少し視線をずらせば、世界樹の葉が四方に広がっている。コウはそれらの枝の一本を目指して─突然、何かにぶつかったように彼の体が弾かれた。
「コウにぃ!!」
力無く漂いかけたコウの体をリーファは支える。しかしすぐに意識を取り戻したコウはリーファを振りほどき、再び上昇を開始したがまたしても障壁に阻まれた。
「コウにぃ!コウにぃ!!無理だって!ここから上には行けないの知ってるでしょ!?」
腕を掴んで引き止めようとするが、その顔を見て離しそうになる。普段は優しい彼の顔が、憤怒に染まっていた。確かにこのVR世界で表情を偽るのは難しい。それでも、彼がここまで怒りをあらわにするのは中々見ない。
正直に言えば一度だけ、
遅れて来たキリトとアスカも、その光景を見ていた。
(浩一さんが一番落ち着いてると思ってたんだけどなぁ)
どうやら、この中で一番あの男に対して怒りを抱いていたようだ。それだけ、彼は姉を愛していると言うことか。とりあえず落ち着かせなければ。
アスカが二人の所まで飛んでいき、コウに呼びかける。
「兄さん落ち着いて。そこから先は俺達じゃ行けない。ユイちゃん」
「はい」
アスカの声に、ユイがキリトのポケットから出てきて上へ飛んで行こうとする。システムそのものと言えるユイなら障壁を超えられるとアスカは思ったのだが、無慈悲にも見えない障壁は冷酷に拒んだ。
駄目か…と思ったが、ユイは必死な面持ちで障壁に手を着いた。
「警告モード音声なら届くかもしれません…!ねぇね!わたしです、ユイです!ねぇね!!」
─必死に自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
晶彦との会話を打ち切り、キリハは辺りを見渡す。しかし当然ながら、周囲には誰もいない。気のせいか、と思いながら晶彦に向き直る。
「どうしたのかね?」
「いえ、誰かに呼ばれているような気がしたので…」
言いかけたその時、今度はハッキリと聞こえた。『ねぇね』と。自分の事をそのように呼ぶのは一人しか知らない。
「ユイ…?」
疑問に思いながらキリハはその場から立ち上がり、格子の壁に歩み寄った。金属の棒を掴み、周囲を見渡す。その声は直接頭に響いてくるように聞こえ、どこから聞こえてくるかは分からなかった。それでも、何故だろう。この声は下から聞こえてくると分かるのだ。
(ユイ…MHCP試作一号…、佳奈君と明日加君の娘になったAI…か。にわかに信じ難い事だったが。全く、君達は私の想像を超えてくる)
晶彦がそう思っていると知る由もなく、キリハは考える。
ここから大声を出した所で向こうには聞こえないだろう。何か落とせるものは無いかと当たりを見渡すが、ここにあるものは全て位置情報がロックされており、動かすことが出来ないのは確認済みだ。ならばどうするか。簡単だ、ここになかったものを落とせばいい。
キリハは懐からカードを取り出した。その手で格子の隙間から手を出し、躊躇なくカードを手放す。それは陽の光を反射させながら、雲海へ一直線に落下していった。
「これで気づいてくれるといいんですが…」
「心配ないだろう。彼らはそこまで鈍くない」
コウは何かに取り憑かれたかのように、見えない障壁を叩き続ける。無駄だとは理解していても、何か行動していないとどうにかなってしまいそうだ。
(あと少し、あと少しで届くのにっ…!)
ただでさえ、彼女が
「これは…カード?」
落ちてきたそれは、黒いカード。コウはこんなものを見たことがなかった。全員が覗き込む中、ユイがカードを見て口を開く。
「それは…システム管理者のアクセス・コードです!」
「「「「っ!」」」」
ユイの言葉に全員が息を呑んだ。それはつまり、GM権限が行使出来るということか。
「でも今のわたしでは、対応するコンソールが無いとアクセス出来ません…」
しかし、ユイは首をふって四人の考えを否定する。ゲーム内からではシステムにアクセス出来ないのだと。だが、こんなものが理由もなく落ちてくるわけがない。おそらくは、ユイの声を聞いた和葉がこのカードを落としてくれたのだ。
コウはカードを握りしめた。和葉もまた、この世界から脱出しようと抗っている。ならば、自分も出来ることをやるだけだ。コウは四人に「ごめん」と一言だけ言って世界樹の根元に向かって行く。後ろから呼び止める声が聞こえるが、コウはそれらを全て無視した。一度、この胸に溜まった思いを発散しないと発狂でもしてしまいそうだから。
周囲の雑音全てを無視したコウは、故にポケットに何かが入り込んだ事には気付かなかった。
巨大な石像を左右に携えた大扉を目にしたコウは体制を変え急制動をかけたが、それでも勢いを殺しきれずかなりの衝撃音が周囲に響き渡った。翅をしまい、コウは扉の前に立つ。途端、右側の像が動き出し、両眼に青白い光を灯してこちらを見下ろし、口を開いた。
『未だ天の高みを知らぬ者よ。王の城へと至らんと欲するか』
コウの目の前にグランドクエストに挑戦するか否かのメニューが表示された。迷わずに『YES』を押す。すると今度は、左の石像が大音声を発した。
『さすればそなたが背の双翼の、天翔に足ることを示すがよい』
大扉の中央がぴしりと割れた。地響きのような音を立てて、扉が左右に開いていく。一度目を閉じた。大きく息を吐き、拳を握りしめ、目を開ける。
(待っててくれ和葉。今助けに行く)
コウは扉の内部へと、足を踏み入れた。
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